【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第156号
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○巻頭エッセイ(8)

「常三島」と「古安宅」
総合科学部 平井松午

常三島の地名の由来は、天正13年(1585)に阿波国に入部した蜂須賀家政の家臣、武市信昆(のぶよし、のちに常三)が高3,500石を与えられ、助任川北岸に屋敷を構えたところから、「常三島」と呼ばれるようになったとされる(ふるさと徳島編集委員会編1988年ほか)。常三は、徳島城の縄張り(設計)にも携わった。徳島大学附属図書館所蔵「蜂須賀家家臣成立書并系図」の蜂須賀家家臣団家譜史料データベースで検索すると、「太田忠介」家成立書の冒頭に「武市常三信昆」が紹介されていて、「(前略)御居城猪山(城山のこと)縄張之刻御談合之御人数ニ相加り様指出をも申上、猪山北川向之島、則常三在宅可仕由ニ而被下置、家来桑村八蔵印を付置罷帰候様申付(中略)右ニ付今ニ常三嶋与申候」と記されている。

城下町徳島は、標高61.6mの城山を中心に吉野川と新町川とに挟まれたデルタ(三角州)地帯に開かれた城下町で、徳島、寺島、出来島、福島、常三島、藤五郎島(のち住吉島)というように、デルタには「島」地名が付せられた。建設当初の徳島城下町の様子については不明な点も多いが、初期には徳島・寺島・出来島(現在のひょうたん島)を中心とした小規模な城下町であり、徐々に町割が拡充整備されていったとみられる。

寛永8~13(1631~36)年の作成とみられる「(忠英様御代)御山下画図」(国文学研究資料館蔵蜂須賀家文書1227)では、武市常三が居住したとされる常三島は再開発されて「侍屋敷」地区となっているが、その東側に「安宅船置所」(古安宅)が描かれている。「安宅船置所」は藩主専用の湊で、徳島城に近接して設置されていた。しかし、助任川の土砂堆積が進んで船の出入りに支障を来してきたこと、さらには寛永15年(1638)の阿波国内の支城(阿波九城)の破却に伴い家臣団の徳島城下への集住が進んだことから、「安宅船置所」は寛永17~19年(1640~42)頃に福島東の地先(現在の徳島市立城東中学校付近)に移転し(根津2011)、その跡地は武家屋敷地に再編された。享保12年(1727)頃の徳島城下町の様子を描く徳島大学附属図書館蔵「(徳島)御城下絵図」の高精細画像データでは、そうした再編後の町割や家臣屋敷をネット上で拡大・縮小して閲覧することができる。

常三島の武家(家臣)屋敷跡については、徳島大学埋蔵文化財調査室が長年にわたって発掘調査を行っていて、報告書も刊行されている。2005年3月に刊行された報告書『常三島遺跡1 工学部電気電子棟地点』によれば、理工学部正門右手の電気電子棟付近は江戸時代には「民澤作右衛門」宅の敷地で、17世紀中葉以前には「安宅船置所」が置かれていた古安宅にあたる。「民澤作右衛門」宅跡の遺構からは、石組み船入状遺構も発掘されている。近世初頭の常三島、城下町徳島を知る上で貴重な遺構であることから、石組み遺構は電気電子棟において現地保存されている。絵図資料等から判断すると、石組み船入状遺構は西側にも延びていたとみられることから、附属図書館敷地の一部も近世初頭には「安宅船置所」だった可能性がある。

安政6年(1859)頃を描く「御山下島分絵図」(個人蔵)では、附属図書館敷地には三矢国太郎と佐治勝蔵の屋敷地が確認できる。享保12年頃の徳島大学附属図書館蔵「(徳島)御城下絵図」でも三矢源内と佐治九郎衛門の侍氏名が見えることから、おそらく三矢家と佐治家は、常三島が武家屋敷地に再編された当時から居住していたものとみられる。それ以前は、「安宅船置所」が置かれていたのだろうか。

興味は尽きないが、様々な歴史資料を紐解くことで、過去への想像(創造)を楽しむことができる。徳島大学附属図書館所蔵の貴重資料は、そうした謎解きを手助けしてくれる。ぜひ、ご覧いただきたい。


参考文献

根津寿夫(2005): 安宅の移転について、国立大学法人徳島大学埋蔵文化財調査室編『徳島大学埋蔵文化財調査報告書 第1巻』国立大学法人徳島大学、60~71 頁。

ふるさと徳島編集委員会編(1988):『ふるさと徳島』徳島市。 徳島市立徳島城博物館「城下町とくしま歴史散歩」


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