【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第116号
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○M課長の図書館俳句散歩道 (秋 長月の巻)

雨にみまわれた八月が過ぎ九月になりました。旧暦で長月です。


九月がなぜ長月と呼ばれるのでしょうか。新暦の十月上旬から十一月の上旬にあたり,夜がだんだん長くなるため「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力です。まさに「秋の夜長」を意味する月ですね。


さて「秋の夜長」にすることといえば,まず思い浮かべるのは「お月見」でしょうか

それから,「読書」でしょうか? 芸術の秋にふさわしい季節になってきました。


名月や池をめぐりて夜もすがら       芭蕉


仲秋の名月を眺めながら池の周りを歩いている芭蕉。こうこうとして輝いた月が池に写っている月の美しさにも見とれて夜が明けてしまった。思わずその感動と情景に思いを抱かせる名句です。この池は其角ら数名の門人と芭蕉庵で月見をした折の作といわれ,芭蕉四十三歳の作です。


よもすがらは,漢字で「夜終」で書き,夜中,夜通しの意味です。昼は「ひねもす」で,漢字で「終日」と書きます。蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」ご存知ですね。


名月をとってくれろと泣く子かな      一茶


背中におんぶした愛しい幼子が,手の届かない十五夜の月を,「とってくれ」としきりにせがんで泣いている。無邪気な「子供ごごろ」と,とまどっている「親ごころ」に名月がやさしく微笑んでいます。


一茶は,この句を詠む数年前結婚し子供が数人次々と生まれますが,年端も行かぬ内に夭折し,長子に至っては生後数週間で亡くなっています。生きていたら,もの心が付いた時,もしかしたら月を取って欲しいと駄々を捏ねただろうと亡くなった我が子を想い詠んだ句でもあります。中秋の満月を見ながら,一茶の心は欠けた望月でした。 

彼の境遇に照らし合わせあらためてこの句に接した時,単にユーモアあふれる句でないこと,そしてかえってその悲しみを感じる句でもあります。


俳句の要素に「季語」「定型(五七五)」は欠かせませんが,他に「切れ字」があります。

「切れ字」とは,句の途中で「切れ目」を作って間をおき,その前の言葉に注意を促すねらいと効果をもたらします。映画の「ズームアップ」にあたり,強調するイメージです。

「や」「かな」「けり」が代表的な「切れ字」で,音調を整える役割もあります。


中秋の名月は,別名「十五夜」,旧暦で八月十五日の夜です。今年の中秋の名月は,九月八日です。


古人は,人の表情のような心の機微を感じる月の満ち欠けに「名前」をつけました。


上弦・下弦・宵待月・望月・十六夜・立待月・居待月・寝待月・更待月・有明月など洒落ていますね。月の名前を知るだけで,月を見る気持ちが変わります。


長き夜や孔明死する三国志       子規


読書好きの子規は,秋の夜長に「三国志」を読んでいます。蜀の軍師諸葛孔明が病没する場面にさしかかり,物語に引き込まれて読み続けていた読み手の微妙な心の変化をあらわしています。


九月十九日は 正岡子規の命日です。

明治三十五年九月十九日,享年三十四歳という若さでこの世を去りました。結核菌が脊髄へ感染し,脊椎カリエスという難病であったことは,教科書で学んだことかと思います。

二十二歳で発病し,晩年の七年にも及ぶ闘病生活,死の前年からは寝たきりで仰向けでの生活に首さえ動かすことが辛かったそうです。


彼の手記「病床六尺」には,「病床六尺,これが我世界 畳一枚の広さほどがいまは自分の生きている範囲なのだ。感じることができる世界なのだ。ここから世を見ている。」とあります。その壮絶な闘病生活の中で,子規が見たのは何であったのでしょうか?


「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで,悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。(明治三十五年六月二日)」

わずか数行のほんの短い文章から彼の人生観の悟りを知ることができます。

死の半日ほど前,紙を貼りつけた画板を妹の律に用意させ,したためた辞世の句。

この三句に彼の俳句の到達点があると思います。


糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 佛かな


糸瓜の花が咲きそろい、痰のつまった佛である私を包んでいます。私の死出の門出を祝ってくれているではないか。どんな時でも平気で生きて居る子規にとって、死ぬことも平気で笑っている子規の大きな人間性をみることができます。


痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず


痰を今までに一斗ほども吐いてきたが、結局糸瓜の水は私の病気には薬として役に立たなかったものだよ。諦めの中にも、痰を一斗という表現に、彼の平気さを感じます。


おとといの へちまの水も 取らざりき


薬として使っていた糸瓜の水も、おとといから飲むことができなくなった。もう私も、そろそろ佛になろうとしている。

「陰暦8月15日の満月の夜に、糸瓜からとった水を飲むと痰が切れる」という言い伝えがありました。子規がこの三句を書いた日の“おととい”がちょうど十五夜でした。


絶筆となったこの三句に,「へちま」が詠まれていることから,彼の命日を「糸瓜忌」といわれています。


死にのぞんでまで自己を対象とし,あまりに突き放したような描写に,人間存在の本質である「生」を俳句に写そうとする,すさまじいばかりの「写生」の精神を感じることができます。

彼にとっての「俳句」とは彼の人生そのものであったことを考えた時,あらためて感慨深いものがあります。


子規逝くや十七日の月明に           虚子


正岡子規が亡くなった未明、その死を他の弟子たちに知らすべく子規庵の門を出た時に月あかりがあったと、高浜虚子が詠んだ弔句です。子規の魂が月あかりに照らされて、天へ昇っていく想いがします。


手向(たむ)くべき線香もなくて暮の秋     漱石


親友であった夏目漱石は,イギリスに留学中でした。病床の子規を慰めるために、ロンドンでの生活の様子を長い手紙に書いて知らせています。子規は、漱石の手紙に感謝しながら、「僕はもう駄目になってしまった。毎日、訳もなく号泣しているような次第だ。西洋へ行ったような気になって愉快でたまらぬ。もし書けるなら、僕の目の明いてる内に、今一便よこしてくれぬか。僕はとても君に再会することは出来ぬと思う」と悲痛な最期の手紙を送っています。

留学中の漱石は、生涯の友の死を、虚子の手紙で知りました。虚子への返事の手紙の最後に、「ロンドンにて子規の訃を聞きて」と題して五句をしるしています。


明治の時代の中に生きた,三人の友情や師弟愛をしみじみと感じる秋です。



これから,整理された学生用図書が,どんどん配架されていきますので秋の夜にじっくりと読書を楽しんでください。そして返却期日をお忘れなくお願いします。


返却本明日が期限の夜長かな


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