【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第115号
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○M課長の図書館俳句散歩道 (夏 葉月の巻)

八月です。旧暦で葉月です。

暑い八月が,なぜ爽やかな緑の葉をイメージする葉月なのか不思議に思っていました。しかし,新暦では九月上旬から十月上旬の秋にあたるため,葉の落ちる月「葉落ち月」が転じて「葉月」になったとする説が有力です。

夏の季語といえば,どんな言葉を思い浮かびますか?次に掲げる言葉は全て夏の季語です。

天道虫・山滴る・雲の峰・浴衣・蟻・踊・髪洗う・解夏・秋めく・西瓜・新涼・南風


夏からイメージする「暑さ」を表す言葉が多いのはもちろんですが,涼しさを求めて秋に向かって季節を感じる季語もたくさんあります。

今回は,「山」「雲」「涼」の俳句を紹介します。


夏山や四十五番は岩屋寺        子規


岩屋寺は,四国霊場45番札所。標高700メートルの山岳霊場で弘法大師や一遍上人も訪れた古刹です。明治31年の作ですが,実際に彼が訪ねたのは,明治14年(13歳)と明治23年(22歳)の時です。

今年は,四国八十八ヶ所霊場がお大師様(弘法大師・空海)弘仁6年(815年)42歳の時にご開創されたと伝えられてから1200年の吉祥の年です。総行程1,400キロ,昔は世捨ての旅として知られた旅でしたが,現在では,ただ信仰心の為だけではなく人生に意味や潤いを求めて老若男女が巡礼しています。「お接待」とはお遍路さんを支援する昔ながらの風習で,宿や食べ物を無償で提供するなど善意による「おもてなし」です。お接待は,疲れたお遍路さんの体だけでなく心の癒しにもなり,険しい道のりだった四国遍路の存続を大きく支えてきました。ちなみに「遍路」は春の季語です。 


分け入っても分け入っても青い山    山頭火


明治15年山口県防府市に大地主の長男として生まれた種田山頭火は,大正15年4月,44歳の時に行乞流転の旅に出ます。山頭火が向かう世界とは,閉ざされた時の流れの中で,風の音,水のせせらぎ,雲の流れ,密かな星の光など,あるがままの自然の中で,心の軌跡を感じながら魂の孤独との葛藤の旅路でした。この句は,行けども行けども手の届かぬ境地(青い山)に向かって彷徨う彼の思いを綴る代表作の一句です。


夏の季語に「山滴る(したたる)」があります。ちなみに夏以外の「山」の季語ですが,春は「山笑う」秋は「山粧う(よそおう)」冬は「山眠る」で,それぞれの季節をこんなに短い言葉で見事に表しています。

中国北宋の画家であった郭熙(かくき)がその著書「臥遊録」で絵画の極意として書いた文章として「春山淡治(たんや)にして笑うが如く,夏山蒼翠(そうすい)にして滴るが如く,秋山明浄(めいじょう)にして粧うが如く,冬山惨淡(さんたん)として眠るが如く」からとり入れられた素晴らしい季語です,


しづかさや湖水の底の雲の峰     一茶


この句は小林一茶が寛政4年(一茶30歳)3月25日に江戸を発って東海道を下り,京阪,四国,九州を巡る旅に出た年の句です。無風の日の琵琶湖の水底に入道雲の峯が見える情景を詠んでいます。「湖水にうつる」を「湖水の底の」と変えて,みごとにむくむくと盛り上がった夏の積乱雲を高くそびえる山に見立てた情景を浮かびあがらせています。


雲の峯幾つ崩て月の山        芭蕉


月山は,出羽山地の鳥海山に次ぐ大峰で,月の神・月読命を祭神として「月の山」とも呼ばれています。「雲の峯幾つ崩て」とは,登拝の途に見た天地の営みの中で,月山を背景にして天空を突く猛々しい雲の湧いては消えてゆく様子,また昼間に大きく起立していた雲の峰はいつしか崩れ,夜の神々しい月の光に照らされて横たえている霊峰「月山」の情景が見えてきます。


もりもりあがる雲へあゆむ 山頭火


昭和15年10月11日早朝,生涯に8万4千句という膨大な数の作品を残し,彼の念願であったコロリ往生を遂げました。享年59歳でした。その最晩年の日記に,「無駄に無駄を重ねたような一生だった,それに酒をたえず注いで,そこから生まれたような一生だった」と書いています。辞世の句といわれるこの句は,「苦痛は抱きしめて始めて融けるものである」と言った彼自らが,夏の空に盛り上がる入道雲,山の上に湧き上がるその白い雲の中へ,溶け込んでいきたかったのかもしれません。

私の好きな彼の句を紹介します。「どうしようもない私が歩いている」「まつすぐな道でさみしい」「笠にとんぼをとまらせてあるく」「こころ疲れて山が海が美しすぎる」「生死の中の雪ふりしきる」「うれしいこともかなしいことも草しげる」「濁れる水の流れつつ澄む」


涼しさや鐘をはなるゝかねの声    蕪村


夏の朝,夜明けの鐘が四方へ広がってゆくさまを「離るる」としたのは,音を目でとらえる趣向とした画家でもあった蕪村らしい句です。「音」ではなく「声」としたことによる清涼感や「鐘」を二度繰り返した調べのよさは,夏の暑さの対比としての涼しさを更に感じさせてくれます。


大の字に寝て涼しさよ淋しさよ    一茶


涼風が吹いてくるような夏の午後,大の字になって寝転がるのは気持ちがいいですね。うたた寝の中でいろいろな事が頭に浮かんできます。遠い昔の子どもの頃の事,父母の事など,そしてそんな時にふと淋しいなあという気持ちになったのですね。


暑い日々,図書館にも「涼」を求めて是非お越しください。


開架室 めくるページの 音涼し


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