【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第101号
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○新田次郎・藤原正彦合作小説『孤愁(サウダーデ)』の紹介

新田次郎・藤原正彦合作小説『孤愁(サウダーデ)』における新しいモラエス像
総合科学部教授 石川榮作

Ⅰ.新田次郎・藤原正彦合作小説『孤愁(サウダーデ)』の完成

『武田信玄』『八甲田山 死の彷徨』や『アラスカ物語』などで有名な新田次郎は、ポルトガルの文人モラエスを主人公として小説『孤愁(サウダーデ)』を昭和54年8月20日から毎日新聞に連載し始めたが、翌年2月15日に心筋梗塞で急逝したため、その連載は同年4月18日の掲載分で中断してしまった。内容の面で言うと、明治37年(1904年)に日露戦争が勃発したというところでの中断であり、その9年後にはモラエスが神戸から徳島に移り住むことになるはずだっただけに、徳島県民にとってはその連載中断は本当に残念でならなかった。しかし、うれしいことにその小説のあとを新田次郎の息子藤原正彦が書き継いで完成させ、その小説『孤愁(サウダーデ)』は昨年(2012年)11月30日に文藝春秋より刊行された。32年間、待ちに待ったモラエス小説の完成である。しかも世界でも稀なケースの「親子の合作小説」として注目されていることは、周知のとおりである。

その合作小説が出版されてちょうど1週間後の12月7日(金)には、徳島大学と徳島日本ポルトガル協会との主催で藤原正彦講演会が徳島市「あわぎんホール」において開催され、タイムリーなかたちで「モラエス、父、私」と題してその小説をめぐる興味深い話を聞くことができた。そのときの話によると、藤原正彦は父の急逝に際しては、悲しさというよりも、ただ怒りに震えたという。連載小説に精魂込めて取り組んでいたのに、突然父の命を奪い取った自然の摂理に激しい怒りを覚えたのである。その父の無念を晴らそうと誓って、息子藤原正彦はそれ以来、父新田次郎の訪れたところはすべて訪れ、父の読んだ資料はすべてに目を通した。徳島にはもちろん数十回取材に来ているし、ポルトガルには父の遺した9冊の取材ノートを持って3度旅行し、父とまったく同じルートを辿り、同じ人に会い、同じホテルに宿泊し、同じ酒を飲みながら、同じ体験をしたという。新田次郎の徹底した取材には定評があるが、息子藤原正彦の徹底ぶりにも感銘を受けずにはいられない。やはり親子である。小説の表題の「孤愁(サウダーデ)」とは、過ぎ去った日々に思いを馳せたり、昔の恋人を懐かしみ、遠いところに住む親や兄弟を思う、そのような「甘い感傷」が含まれている、日本人には理解しがたいポルトガル人独自の感情であるが、父の小説のあとを書き継ぐのにかなりの時間がかかったのは、モラエスの心に去来するこの「孤愁(サウダーデ)」を父と同じレベルではなかなか理解できなかったし、また膨大な資料を読み解くにもかなりの時間がかかったからであるという。その息子藤原正彦がようやく小説の続きを書き始めたのは、父と同じ年齢の67歳になったときである。しかも父の生誕100年という節目の年でもあり、この機会を逃しては一生書けなくなるという気概で書き始めて、ついに昨年完成させたのである。

父新田次郎は中央気象台(現在の気象庁)に務めるかたわら作家活動をしてきた人で、一方、藤原正彦は数学者でありながら、文筆家でもあり、さらにベストセラーの『国家の品格』や『日本人の誇り』等で著名な「時の人」でもある。この親子はまったく違うようでいて、一方ではまた共通点も多く、今回の合作小説では繋ぎ目がどこか分からないくらい、よく似た文体で書き継がれている。そして何よりもこの合作小説の魅力は、2人の著者とともに主人公モラエスもまた日本の美しい自然をこよなく愛していることが生き生きと描かれていることにあり、そのことの中からこれまで誰によっても描かれてこなかった「新しいモラエス像」が浮き彫りにされていることにある。この合作小説における「新しいモラエス像」がそのうちすぐに普遍的なモラエス像として定着していくのではないだろうか。以下、あらすじの展開を辿りながら、この親子2代による合作小説の魅力・読みどころを指摘するとともに「新しいモラエス像」を探り出すことにしょう。


Ⅱ.合作小説『孤愁(サウダーデ)』のあらすじと魅力・読みどころ

1.初めての日本訪問

ヴェンセスラオ・デ・モラエスは1854年5月30日にポルトガルの首都リスボンで生まれ、1875年21歳で海軍士官となって、アフリカ、インド、アジアの各地を航海したのち、1888年にはマカオに来て、1891年37歳のときにマカオ港務局副司令官に任命された。新田次郎の小説『孤愁(サウダーデ)』はこのマカオ時代に、マカオ政庁とチモール政庁の依頼により日本陸軍から大砲と小銃を購入する下交渉をするために、1893年(明治26年)の夏に日本を初めて訪れたときから始まっている。

モラエスが乗っている貨物船ベルギー号は、荷物の積み下ろしのためにまずは長崎港に入るが、モラエスは船の上から長崎の町を眺めて、その美しい緑の景色に感動してしまう。モラエスが単なる海軍士官ではなく、自然に対して感受性の強い「詩人」でもあることがここですでにほのめかされている。この長崎の町に上陸して、モラエスは2日間ホテルに滞在するが、朝食前にはいつものように散歩に出かけ、諏訪神社の境内に続いている公園の中で茶屋に立ち寄り、そこの2人の娘たちの美しさにも魅せられてしまう。彼女たちの美しさは、緑したたる公園という環境があったからであり、日本の自然が彼女たちを一層美しく仕上げているのである。モラエスはその茶屋の背の高い方の女性に二十六聖人の墓所の近くまで案内してもらうが、別れ際に名前を尋ねると、「およね」という。のちの「徳島のおよね」がここですでに暗示されていて、興味深い。

この長崎での「美しい自然」と「散歩」と「およね」のモチーフは、その後瀬戸内海を経て神戸に到着したときにも用いられている。モラエスは長崎から乗り込んだ一人の日本人(のちに通訳としてよき協力者となる竹村一彦)から、長崎よりも神戸の方が美しいと聞いていたが、そのとおり神戸の背景にある山々の美しさにたちまち魅せられてしまった。神戸の町は背景の山が偉大だから美しいのであり、山に対して町がこじんまりしているので落ち着いて見えたのである。神戸港に着くと、モラエスはフランス領事のフォサリュ氏に出迎えられた。神戸にはまだポルトガル領事館はなく、すべての仕事はフランス領事に委任されていたのである。

翌朝、モラエスはさっそく布引の滝へ散歩に出かけた。昨夜フォサリュ夫人から美しい場所だと聞いていたからである。その近くに来ると、いきなり町から自然の森林の中に飛び込んだような印象を受けて驚いた。自然森林がそのまま公園のように整備されていたのではなく、自然そのものが公園の景体をなしていたのである。雌滝(めんだき)まで登ったところで、モラエスはそのまだ上方にある雄滝(おんだき)へ行くことはあきらめて、引き返そうとしていると、そこの茶屋の戸の陰から半身だけ出してこちらを見ている娘の姿があった。暗い峡谷の中に咲いた白い花を見たかのような楚々(そそ)とした風情にモラエスは思わず足を止めたが、娘の姿は小屋の中に消えた。数日後、再度そこまで散歩に出かけた折り、その茶屋の3人の娘たちが出迎えてくれて、お茶を飲みながら、話しているうちに「楚々とした風情」の娘の名前は「およね」だと分かった。その名前を聞いて、モラエスは「長崎のおよね」を思い浮かべて、よく似ていると思った。「美しい自然」と「散歩」と「およね」のモチーフで、読者をぐんぐんと小説の中に引き込んでいく。このあたりの新田次郎のすばらしい自然描写は、この小説の魅力の一つであり、特に注目したいところである。

モラエスが神戸にやって来た目的である「大砲・小銃の購入」の下交渉の方は、フランス領事フォサリュ氏の介入で数名の日本軍人とも知り合いになったことから、少しずつ進んでいったが、しかし、日本が清国を相手に戦争を始めようとしている現段階では、下交渉の段階にはまだ至っていないものの、必ずや期待に応えることのできる日がくるので、それまで待ってほしいとのことであった。この回答をもって、モラエスはマカオへ帰って行った。


2.マカオの亜珍

船がマカオに近づいたとき、海の色がいつもよりも赤かったので、モラエスはどこか不安なものを覚えたが、案の定、マカオに上陸するや否や、部下のフェリサーノ・デ・ロザリオから、前日の夜半にマカオ政庁の前に箱と薪が運ばれて、放火事件があったことを聞き知った。その箱の中には密輸品の阿片が入っていて、放火はわざと未遂に終わるように仕向けたあとがあり、阿片密輸取締官等の不正を暴露しようとする何者かによる仕業だということであった。マカオ港務局に戻ると、モラエスはフランシスコ・カストロ総督からこの事件の処理について意見を求められた。そこでモラエスはただちに中国側に使者を送って、この事件をつぶさに報告して、今後このような不祥事が起こらないことを確約することが肝要であるとのアドバイスをした。このあたりではモラエスはカストロ総督からかなり信頼されていることが窺える。

モラエスはマカオ港務局を去って、自宅に向かった。1か月半ぶりの帰宅である。モラエスはマカオに着任してまもなく、デンマーク人と中国人の混血である亜珍(あちゃん)を知り、1888年に彼女を非公式の妻としていた。亜珍が14歳、モラエスが35歳のときで、それから5年が経ち、2人の間にはジョゼとジョアンがいた。モラエスは久し振りに家族3人と一緒に夕食を摂ることができたが、3人がポルトガル語ではなく、広東語ばかり話すことに不満を覚えた。ここですでにのちの別離が見え隠れしていると言ってもよいであろう。

マカオ総督カストロはモラエスの提言に従って、さっそく中国側に今回の事件のことを報告すると、中国側は今後さらに密輸取り締まりを厳重にするようにという要請とともに、阿片取締長官の更迭(こうてつ)をほのめかしてきた。そこでカストロ総督はその長官を更迭して、モラエスにその兼務を頼んだばかりではなく、彼を広東のポルトガル領事にも任命したが、しかし、この人事はモラエスにとっては敵対者を増やす結果となり、翌年にはその2つの新しい職を解かれることとなる。その代りにモラエスはカストロ総督を介してセミナリオ・リゼオ・サン・ジョゼ高等学校で数学を教えることになり、そこで商法史と経済学を教えていたカミーロ・ベサニア博士とも知り合い、モラエスはこの頃より日本の研究をし始めるのである。

こうしてモラエスは日本に対して情熱を燃やしていったが、今住んでいるマカオに対してはどうしても愛着を感じることはできなかった。妻の亜珍ともうまくいっていなかった。モラエスはマカオに着任したばかりの頃、売られようとしていた亜珍を引き取って、のちに妻としたのであったが、長男のジョゼが生まれてしばらくしてから彼女はモラエスに反抗を見せるようになった。モラエスが幼いジョゼにポルトガル語を教えようとすると、亜珍は逆に広東語を教え込もうと必死になり、ときには競争心をむき出しにするのである。原因はどうやら亜珍の母親がデンマーク人に捨てられたことにあるようで、亜珍の心には外国人に対する不信感が積もり積もっていたのである。外国人に対するこの憎悪は、2人目のジョアンが生まれたとき、さらにひどくなって、彼女はやがて母子3人ともモラエスに捨てられるのではないかという恐怖を持つようになり、子供たちの語学教育にこだわるのもそのためだと思われた。いずれにしてもモラエスはマカオには愛着を感じることができず、逆に日本に対してはますますあこがれを強くしていったのであった。


3.日本再訪とおよねとの出会い

その間、日本は1894年(明治27年)8月1日に清国に宣戦布告していたが、翌1895年(明治28年)3月31日に日清両国は休戦条約に調印した。そこでモラエスは神戸のフランス領事フォサリュにあてて手紙を書いて、大砲と銃砲購入の件について問い合わせていたところ、1896年(明治29年)2月になって日本政府から大砲十門についてのみ依頼に応ずるという正式な回答があった。その頃、モラエスのよき理解者であったカストロ総督は退任したが、その後任として着任したロドリゲス総督からモラエスは日本出張命令を受けて、その年の秋に再び神戸を訪れた。

神戸の港は3年前とはまったく違った賑わいを見せていた。モラエスはフランス領事フォサリュと竹村一彦に出迎えられた。竹村一彦は3年前に神戸に来たときに知り合った人で、今回は日本語通訳が必要だろうということで同行することになったのである。モラエスは2日間休養を取ったあと、3日目に大阪の川口にあるフランス領事館へ打ち合わせに行き、4日目に大阪砲兵工廠(こうしょう)へ交渉に行くという日程である。

今度の交渉相手はまだ会ったことのない日本将校たちであり、そのことを考えると、モラエスはその夜、目が冴えて眠れなかった。それでも翌朝になると、すがすがしい気分で、布引の滝へ出かけた。茶屋では2人の娘が出迎えてくれたが、末娘のおよねは嫁に行ったということであった。モラエスは3年の月日の経過をかみしめていた。

神戸に着いてから3日目に、モラエスは通訳の竹村一彦と一緒に船で大阪の川口に向かった。川口に着いて、外国人居留地へ歩き出そうとしたとき、突然2人の前で両手に大きな荷物を提げていた女性が崩れるように膝をついた。そのままにしていたら、前に倒れ込むか、後ろに倒れるかのどちらかであった。モラエスは反射的に後ろからその女性の肩を支えた。女性は気分が悪いようであった。しばらくして女性は気分が落ち着いてきて、顔を上げると、モラエスは一瞬「長崎のおよね」だと思ったが、もちろん人違いであった。しかし、偶然にもその女性は「およね」という名前であった。彼女こそ「徳島のおよね」であり、これがモラエスと徳島のおよねの最初の出会いであった。およねは最初は断っていたものの、モラエスの言葉に甘えて馬車で送ってもらうことにした。行き先は「松島の松鶴楼」ということだったので、竹村は彼女を松島遊郭で働いている芸者だと推察した。2人は彼女を松島の松鶴楼まで送ると、彼女は馬車が立ち去るまで見送っていた。この最初の出会いの場面ですでに、およねは病弱だが、しかし、とても従順で淑やかな日本の美しい女性として描かれている。マカオの亜珍と対比的に描かれていると言ってもよいであろう。

川口のフランス領事館に着くと、モラエスはクレーロー領事からそこに臨時勤務していたペドロ・ヴィンセンテ・ド・コートという、マカオ生まれのポルトガル人を紹介された。翌朝、そのコートを伴ってモラエスと竹村は大阪砲兵工廠に出かけて、交渉を進め、次の会見の日取りはあとで知らせるということで、その日の交渉は終わった。

翌朝からは川口でのホテルでのモラエスの散歩が始まった。ホテルを出て1時間か2時間の朝食前の散歩がまたとない楽しみであった。数日後の朝も散歩に出かけて、モラエスは川口の波止場まで散歩に来たところで、倒れかかったおよねのことを思い出していると、実際に目の前にそのおよねが荷物を持って現れた。モラエスはまぼろしでも見ているような気持でおよねを見つめていたが、今回は人違いではなかった。モラエスは仕事が一段落したら、松鶴楼に彼女を訪ねようと思っていたことを伝えると、彼女はそこを辞めてこれから徳島に帰るところだと答えた。「これでお別れですか」と言いながら、モラエスはおよねを見た。ふくよかな顔に結い上げた黒髪がよく似合っていた。二重瞼の優しい目が何か淋しげだった。これがモラエスと徳島のおよねとの二度目の出会いであった。

やがてモラエスは日本の将校たちから料亭に招待されているうちに、大阪砲兵工廠での打ち合わせも行われ、実際に大砲を目にして、その大砲の種類やそれに必要な消耗品等も決まり、契約書にもサインをすると、あとは試射に立ち合って、それらを受け取って、荷づくりに立ち合えば、彼の任務は終わるのであった。その大砲の試射は年内に琵琶湖北西部の饗庭野(あえばの)演習場で行われたが、翌年の2月半ばまで船便がなく、モラエスはそれまで日本に残ることとなった。その期間にモラエスは竹村一彦とともに京都、奈良の旅に出かけて、旅から戻ると、ポルトガルの出版社から依頼されていた日本紹介の原稿執筆に専念した。

2月になって連絡員としてオリベイラ・リベイロ大尉が神戸にやって来たが、ロドリゲス総督の信書にはスナイドル銃実包50万発のほか、リストに記載されている物品の購入について交渉してほしい旨のことが書かれていた。モラエスはどうしてこれほど多くのスナイドル銃実包が必要なのか不思議に思いながらも、その追加注文品目について日本側と交渉したが、その役目はどうしても果たすことができずに、マカオへ帰って行ったのであった。


4.亜珍との溝

1897年(明治30年)2月、モラエスは半年ぶりにマカオに戻って来た。6歳のジョゼと4歳のジョアンは広東語で「お帰りなさい」の挨拶をしたので、あまりいい気がしなかった。亜珍はポルトガル語のできる女中を勝手に辞めさせたようで、モラエスと亜珍との溝は半年の留守の間にかなり深くなっていたようである。

モラエスとマカオ港務局との関係にもすでに亀裂が入っているようであった。ロドリゲス総督はスナイドル銃実包を調達できなかったことで不満を抱き、何かを隠しているようで、モラエスにはそれが我慢できなかった。総督に信頼されないということは、この地に自分はもう必要でなくなったことを意味している。自分は近いうちに転任になって、この地を離れることになるかもしれないとモラエスは思った。

その夜、そのことを亜珍に話すと、彼女は何があってもこの地を離れないと答えるばかりか、子供たちまでもが「日本へなんか行くものか」と答えた。どうやらモラエスが新聞に書いた原稿から、モラエスは日本の娘といい仲になっているなどといった、よからぬ噂が立っているようで、その噂がいろいろと作りかえられて、それが亜珍の耳に入り、さらには子供たちの耳にも入ったのかと思うと、モラエスはやりきれない気持ちになるのであった。

そうして過ごしているうち6月になってポルトガル海軍輸送船インディアナ号が入港し、今回日本公使として赴任するエドアルド・ガリヤルド将軍を迎えての宴の席で、モラエスはガリヤルド将軍と一緒に随行員として日本へ行くことを命じられた。この任務を果たせるのはモラエス以外にはいないというのである。モラエスには名誉なことであったが、しかし、自分の知らないところでこのようなことが決められていることに不快感を味わったのであった。ロドリゲス総督は明らかに自分を追い出しにかかっている。まず日本に追い出してから、そこで最後の処分を決めるのだろう。亜珍との溝はますます深まる中、モラエスは日本に向けて出発した。船の中でモラエスは日本について知っていることをガリヤルド公使に話して聞かせた。船は神戸港に到着し、そこで歓迎会が行われ、日本の外務省からの連絡を待っているうち、ガリヤルド公使の信任状捧呈式は7月14日に京都御所で行われることになった。モラエスもその厳粛な式典に出席した。この儀式のあと、ガリヤルド公使一行はしばらく京都、奈良を見物してから、汽車で東京に向かった。

東京ではモラエスはポルトガル公使館の開設に尽力し、年明けて1898年(明治31年)3月には横浜に出かけて、そこに住んでいるポルトガル人の実態を調べ、彼らと会って今後の貿易振興に対する意見を聞いたりしていた。そこへ東京のポルトガル公使館を通じて電文が届き、1年後には退職を約束するポルトガル海軍省軍務局公報部付きを命ぜられた。来るべきものが来たという感じであったが、モラエスは東京のガリヤルド公使のもとに帰ると、ガリヤルド公使はモラエスに向かって、ただちにマカオに帰って、荷物をまとめて神戸に移ることを言い渡した。モラエスを神戸領事に推薦したいことは、すでにポルトガル本国あてに打電しているというのである。モラエスはガリヤルド公使に心から感謝し、自分は生涯を日本で暮らしたいことを伝えてから、マカオへ帰って行った。

マカオではモラエスは冷たい顔で迎えられた。モラエスの後釜にはすでにリベイロ大尉がすわっていた。このようになることは、リベイロ大尉が連絡員として神戸に来たときから仕組まれていたのかもしれない。自宅でも亜珍から冷たい態度で出迎えられ、彼女は子供たちを抱きかかえ、どんなことがあってもここから動く気はないことを強調した。彼女はすでに別れることを心に決めているようだった。モラエスはあくまでも冷静に説得しようとしたが、亜珍はモラエス以上に冷静だった。自分は買われた女性だから、モラエスが捨てると言った以上、自分は自分で生きる道を考えねばならないが、子供たちはモラエスの子だから、大人になるまでの養育費と自分たち3人が住む家を用意してもらわないと困ると言い出したのである。もはやどうにもならないところまで来ていたのである。モラエスと亜珍との別離の会見は、セミナリョ・リゼオ・デ・サン・ジョゼ高等学校のベサニヤ博士の立ち合いのもとで行われ、モラエスは契約書にサインした。その契約書の中でモラエスは、ジョゼとジョアンが20歳に達するまでの養育費を負担することを約束したほかに、亜珍と2人の子供たちの住む家を亜珍の名義で一軒買い与えることを約束したのであった。


5.徳島のおよねとの再会

こうしてモラエスは日本に移住することになり、しばらくは東京のガリヤルド公使のもとでさまざまな仕事をしていたが、その年(1898年、明治31年)の11月22日付けで神戸・大阪ポルトガル領事館に移って、領事館開設の準備に取り掛かった。通訳としてモラエスは東京のポルトガル公使館にいた竹村一彦を呼び寄せて、領事としての仕事を始めたのである。

年明けて1899年(明治32年)2月にモラエスは竹村一彦とともに神戸在留ポルトガル人アントニオ・アルベガリアに誘われて、福原遊郭の料亭に出かけた折り、そこの座敷に飾られていた美人画が徳島のおよねに似ていたので、彼女のことを思い出した。およねのことを思うと、胸が熱くなった。それ以来、コートからその後のおよねのことを聞こうとしたが、なかなか言い出せずにいた。

ところが、コートと一緒に布引の滝へ散歩に出かけた折り、そこの茶屋にいたおよねという娘の話がきっかけで、徳島のおよねの話にも及んで、モラエスはコートからその後のおよねについての情報を聞くことができた。コートは松島遊郭の松鶴楼にいるおまつという芸者からおよねの消息を聞いていたのである。コートが話すところによると、徳島に生まれたおよねは、幼い頃から母に芸ごとを仕込まれて、年頃になると、お師匠さんのところへ行って、一応の芸ごとを身につけた。19歳のとき、同郷の人の紹介で松島遊郭の芸者として出ることになったが、まれにみる美人であったことから、彼女に言い寄る男がいたものの、彼女は身持ちが固くて、浮ついた噂は一つもなかったという。彼女が松鶴楼に勤務して2年目に脚気(かっけ)にかかり、芸者を辞めて徳島に帰ってからは、しばらく休養したあと、芸ごとを女の子に教えながら、昼間は焼餅屋で働いているという。コートがモラエスを誘って徳島に行くことを提案すると、モラエスは是非行きたいと言い出して、さっそく徳島に出かけることになった。

モラエスは徳島の桜を見るという名目でコートと竹村と一緒に船で徳島に渡ったが、連れの2人は船酔いしてしまい、到着した日の午前中は志摩源旅館で休むことにした。モラエスは海軍出身だから船旅には慣れており、休む必要はなかったので、一人で眉山に向かい、三重の塔に通ずる石段を登り始めると、朝食を摂っていなかったこともあって、途中の不動の滝のところで急に空腹を覚えて、そこの焼餅屋に立ち寄ることにした。その店の前に立ったとき、「いらっしゃいませ」と戸を開けたのが、およねであった。これこそ神の引き合わせというものだろうか。2年半ぶりの再会であった。モラエスは一番気になっていた病気のことを尋ねると、おかげですっかりよくなったとのことであった。モラエスはおよねを見て、彼女の中に美しさを認めたが、それは豊かな、やさしい、そして何処かに悲しげな翳(かげ)がある美しさであった。およねはモラエスが三重の塔へ行く途中であることを知ると、自らがそこまで案内することになった。しかし、そこまでの石段はかなりあって、 上まで登りつめたところで、およねは胸が苦しくなって、うずくまってしまった。モラエスはもはや三重の塔はどうでもよく、まずはおよねを無事に石段の下の焼餅屋まで送り届けることだけを考えて、ゆっくりとおよねを支えながら、なんとかそこに辿り着くことができた。何かと気を遣ってくれるモラエスを見て、およねは自分をこれほど心配してくれる人がこれまでにいたであろうかと思ったほどであった。この2人の再会の場面では、モラエスの「やさしさ」とおよねの「何処かに悲しげな翳のある美しさ」が強調されていて、文句なしに読みどころの一つであろう。新しいモラエス像が読み取られる感動の一場面である。

翌朝、モラエスはコートと竹村と一緒に三重の塔に行く途中、焼餅屋に立ち寄ってみると、およねは昨日気分が悪くなってから、今日もまだ家で療養しているということであった。モラエスはおよねの病気を悪くしたのは自分の責任だからと言って、すぐに見舞いに行くことを竹村に申し出たが、竹村は突然外国人が訪ねて行くと相手に迷惑がかかるから、ひとまず日本人である自分が様子を見に行くということでモラエスを説得した。焼餅屋の主人の話によると、およねは3人姉妹の末娘で、姉2人(おとよとユキ)はすでに嫁いでいる。大工だった父は3年前に死に、母は昨年死んだので、彼女は長姉おとよの家の一部屋に住んでいるということであった。竹村がその家を訪ねると、おとよが玄関に取次に出て、「およねは今寝ているが、心配ない」と言って、「上がって見舞ってください」とは言わなかった。竹村は、このようになったのはこちらの責任だから、こちら側の負担で医者に頼んで往診してもらうことにして、旅館のモラエスのもとに帰って行った。

翌日の午前中、モラエスは竹村の案内で眉山の麓の寺や神社を見て回ったが、瑞巌寺(ずいがんじ)の池の前に立ったとき、ここからおよねと一緒に美しい眉山の景色を見たいものだという感慨に耽(ふけ)って、およねのところに見舞いに行くよう、竹村に催促した。竹村が再度その家を訪問すると、今度は昨日とはまったく違う迎え方であった。どうやら昨日、往診の医者からモラエスの身分を聞き知ったためのようであった。竹村は今度はおよねに直接会うことができ、神戸のよい医者に診てもらった方がよいというモラエスの伝言を伝えてから、戻って来た。


6.神戸でのおよねの療養

モラエスは竹村の意見に従って徳島ではおよねを見舞うことなく、神戸に帰って行ったが、神戸の県立病院内科の三浦博士におよねの病気を診てもらうために、6月半ばになって再度竹村を徳島へ遣わせた。

竹村はおよねの長姉おとよに会って、モラエスの伝言を伝えると、おとよは妹も働けるほどに回復したので、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと言って断わったが、およね本人の意見を聞くことになって、竹村は焼餅屋へ出かけた。およね本人は神戸の医者に診てもらうことを望んでいたが、これ以上モラエスに迷惑をかけることもできないので、神戸にどこかよい働き口がないものかと竹村に尋ねた。竹村は領事館にお茶の世話をする女性がほしいと思っていたところなので、働き口を探してあげることを確約した。これを聞いておよねは、すぐに神戸に行きたいことを口にしたが、姉のユキは賛成したものの、長姉およねはそれに猛反対した。およねが神戸の名医に診てもらうということは、モラエスに面倒を見てもらうことを意味し、女が男に面倒を見てもらうことがどういうことなのか、分かっているのかと、おとよは主張するのである。おとよは、要するに、およねが「外国人の囲い者」になることを恐れているのであるが、これに対してユキは身分の高いモラエスとならおよねが結婚してもよいと考えるのである。2人の姉から自分の気持ちを尋ねられたおよねは、これまで多くの男性は自分を濁った目で見つめていたが、モラエスだけは清らかな目で自分に接してくれたことを強調し、しかも神戸では働き口も見つけてくれるということで、それが決め手となっておよねは神戸行きを決意するのである。

暑い夏の日におよねはユキと一緒に神戸にやって来た。およねの元気な姿を見て、モラエスはひとまず胸を撫(な)でおろした。県立病院で診察を受けると、やはり脚気であり、しばらく通院しながら、まんべんなく栄養を摂って、時間をかければ健康になるということであった。ユキは子供たちのこともあるので、数日、神戸にいただけで徳島へ帰って行った。およねは一人で旅館に残ったが、そのうち六甲山の地底から発していると思われる地鳴りが連日続いたので、海岸通りのポルトガル領事館公邸に移った。その頃には県立病院への通院も月に2度でよいことになったので、およねは領事館で働き始めた。来客にお茶やコーヒーを出すだけの仕事であったが、客室に花を活けたりして、来客には好評であった。およねはすっかり領事館の人となり、神戸の人となり、病気もよくなっていったのである。


7.新婚生活

こうしておよねは1899年(明治32年)の暮れを神戸で過ごして、新年を迎えた。そしてその年も7月を過ぎた頃、ある日のこと、モラエスは「今夜から夕食は二人で摂りたい」と申し出た。これは明らかに求愛であり、およねの方も日頃の接し方からモラエスの気持ちを察していて、いつかは何らかのかたちで求愛されるだろうと思っていた。およねは求愛を受け入れた。

モラエスはおよねの姉たちの承諾を得るために、竹村を徳島に遣わせた。長姉おとよは相変わらず猛反対の態度を示したが、竹村は賛同のユキと結婚式や国籍のことなど、今後のことを相談して、一旦神戸に戻って来た。モラエスは県立病院の三浦博士におよねの身体のことを相談すると、結婚生活には差し支えないが、出産となると、今の状態では無理ではないかということであった。

結婚式は11月に挙行されることになった。しかも竹村がその後2度も徳島を訪れ、ユキとの相談の結果、挙式は日本風にして神前結婚、仲人はフランス領事館のフォサリュに頼むこととなった。こうして結婚式は1900年(明治33年)11月の大安吉日に生田神社で挙行され、引き続いて諏訪山の常盤楼(ときわろう)で披露宴が行われた。モラエス46歳、およね25歳であった。徳島からの出席者は、結局のところ、斉藤ユキとその夫寿次郎(としじろう)の2人だけであった。

こうしてモラエスはおよねとの新婚生活を始めた。モラエスはこれまで日本や日本人女性のことについて多くの随筆を書いてきたが、およねはモラエスが求め続けていた日本人女性として最も理想に近い女性であった。そのようなおよねと結婚してから、領事館での仕事にもさらにいっそう打ち込むことができた。洋服姿のモラエスと和服姿のおよねが揃って歩く姿は、似合いの夫婦に見えた。

この幸せな姿を自分の結婚に反対していた親戚の者たちに見せてあげたいと思って、およねは夫モラエスに日本人の習慣としての「里帰り」のことを話すと、モラエスはそのおよねの願いを叶えてやることにした。こうして梅雨にはまだ早い時期に、2人は竹村に同行してもらって、琴平宮経由で徳島に里帰りをしたところ、ユキはもちろん、長姉おとよも以前と違って、今回は比較的温かい迎え方をしてくれた。モラエスにとってもおよねと2人で瑞巌寺から眉山を眺めることができて、有意義な里帰りであった。

1902年(明治35年)に入ってからのモラエスは、領事館でもいっそう精力的に仕事をし、1903年(明治36年)4月1日には大阪勧業博覧会でもポルトガルの生産物を陳列することができたり、その年の8月にはおよねと一緒に舞子浜の海水浴場にも出かけたりして、幸せな日々を送ることができた。

このようなモラエスとおよねの新婚生活は、これまでの文献ではどこにも記されておらず、想像に委ねられていたが、新田次郎の小説においては、フィクションとはいえ、生き生きと描かれており、それが魅力であり、また読みどころでもあると言ってよいであろう。

このあと1904年(明治37年)に入ると、モラエスとおよね夫婦がいろいろな外国人家庭から夕食に招待されたときには、日露戦争が勃発するとの噂が飛び交ったりして、食卓は少し緊張に満ちていたものの、一緒に楽しいひとときを過ごすことができたのである。そしてついにその日露戦争は1904年(明治37年)2月1日に勃発したのであった。

ここで新田次郎の小説は中断していたが、息子藤原正彦がそのあとを書き継いで、「新しいモラエス像」がさらに鮮明に浮き彫りにされるのである。


8.モラエスの散歩

父新田次郎の執筆部分ではモラエスのいわば「散歩」のモチーフがふんだんに用いられていたが、息子藤原正彦の執筆部分でもそれはひんぱんに取り入れられている。日露戦争が始まったというのに、モラエスはいつものとおり朝の散歩に出かけたところから息子藤原正彦による続編となるのである。

モラエスはいつものとおり朝の散歩に出かけたが、彼の目には人の流れも表情も普段と変わりがなかった。その朝の街の静けさは、日露戦争勃発という大変な事態に当面して、人々が高ぶる気持ちを抑え、身の引き締まるような緊張の中にいたからだろうとモラエスは思った。ただ数日後にはポルトガル領事館にポルトガル貿易商や長崎領事がモラエスから新しい情勢下におけるポルトガルの立場などを聞こうとしてやって来た。その後、コートと一緒に布引の滝や諏訪山公園などに何度か散歩に出かけた折りにも、話題はもっぱら日露戦争をめぐってのことであった。11月に日本軍人の西田少佐が訪れて来たときにも諏訪山公園に出かけており、モラエスの「散歩」の中で日露戦争の情勢分析が展開されている。

このようにモラエスは散歩を続ける一方、およねとは4月には生田川の桜を見に出かけたり、5月には須磨に住むドイツ人のデラカンプ邸での夕食に一緒に招待されたり、また晩秋には京都への小旅行に出かけたりしている。およねとのそのような「外出」の際にはもちろん日露戦争の雰囲気が漂う中でありながらも、2人は春の「桜」や秋の「紅葉」を満喫している。ただおよねが「桜は1週間しか咲かないから美しい」とか「紅葉に惹かれるようになった」ということを口にするところには、のちのおよねの「はかない」運命が見え隠れしていて、どこか「あわれ」を催させるような描写になっている。藤原正彦のこのような描写にも注目したいところである。

1905年(明治38年)1月1日、旅順はついに陥落したが、その旅順で恋人を失ったロシアの女性がモラエスを訪ねてくるエピソードが、その後に取り入れられている。そのときモラエスは、1人の女性が1人の男性に命を賭けて惚れ込んだことに感動を覚えたのか、そのロシア女性にいろいろと便宜を図ってやるのである。作者藤原正彦がよく主張される「惻隠」(そくいん)の情がこの場面では読み取られるのではあるまいか。モラエスはもともとやさしい性格の人であり、弱者に同情を示す人物であることがここで強調されていると言えるのではあるまいか。「新しいモラエス像」を読み取ることのできる興味深いエピソードである。

その年の5月27日にはバルチック艦隊が日本海海戦で連合艦隊と激突し、この大海戦は2日間で決着して、8月にはポーツマス講和会議が開かれ、9月5日に日露講和条約が結ばれた。こうして日露戦争は終結したのである。


9.モラエスの執筆活動

日露戦争が終わった1905年(明治38年)にはフランス領事のファサリュが帰国したので、モラエスは領事中の最年長者ということで領事団筆頭としての仕事も加わって、多忙を極めていたが、同時に執筆の量も格段に増えていった。それにはもちろんおよねの存在が大きかった。およねと結婚して、モラエスは初めて穏やかな精神を保持することができたのであり、そこから執筆活動はますます活発になっていったのである。

その年、モラエスはポルトガル語で『茶の湯』を書いて神戸で自費出版したほか、秋には『日本通信、戦前(1902-1904)』(1904年)に続く『日本通信第二集、戦争の一年(1904-1905)』が故国のポルトで出版された。『茶の湯』はリスボンにも千部送られ、高価本にもかかわらず人気を博し、今やモラエスの名はポルトガルではよく知られていた。1906年(明治39年)にはリスボンの大衆向け総合雑誌『セロンイス』に2、3か月に1度の割合で執筆することにもなり、それがのちに『日本夜話』というかたちで出版されることになるのである。同年にはまた『中国・日本風物詩』もまた、さらに翌1907年(明治40年)には『日本の生活、日本通信第三集(1905-1906)』も刊行された。モラエスの多才な文筆活動はまさに絶頂期にあった。その年の11月にはモラエスは京都の末慶寺を訪ね、そこの住職から敬愛するラフカディオ・ハーンの2通の手紙を拝借することもでき、執筆活動にますます意欲を燃やした。モラエスはその頃、東京のポルトガル公使フレイタスより在神戸領事から在横浜領事への昇進を打診されていたが、それも断って、「自分は給与増も昇進も望んでいない、望むのは神戸で穏やかに暮らすことだ」と答えている。およねの愛に包まれて静穏な精神の中で、日本の魅力を文学として精力的に表現することが、他の何よりも価値あることだと思っていたのである。


10.およね病没

ところが、年が明けて、1908年(明治41年)、そのおよねの持病の心臓脚気はなかなかよくならず、むしろ急に脈拍や呼吸が速くなったり、血圧が低下しておよねは目眩(めまい)を感じたりする日が多くなってきた。そのような中でもモラエスはおよねをますます愛しく思い、「どんなことがあってもこの人を幸せにする義務がある、永遠に」と思うのであった。

こうしておよねは寝床から起き上がれない日が多くなっていたが、1912年(明治45年)6月20日、梅雨の晴れ間に、およねが以前のような生気を取り戻して、布団から起き上がってきたので、モラエスはおよねと2人で須磨浦に出かけることにした。ここ2年近く、気分の勝れないおよねとモラエスの関係は、父と娘のような、兄と妹のような関係になっていた。須磨浦でのお目当ては敦盛の墓であった。平敦盛は15歳で一ノ谷の合戦に参加し、源氏の猛将熊谷直実(くまがいなおざね)に組み伏せられ、その場で命を落とすことになるが、青葉の笛を携えていて、風雅をたしなむ平家の武将として称えられた人物である。ここでおよねは当時の尋常小学校唱歌『青葉の笛』を歌うが、悲しい曲が思い出されて、およねの命がそれほど長くないことなども重なって、どこかしらあわれみを感じずにはいられない。またモラエスがおよねを慰めようとしていることがよく伝わってきて、このあたりは読みどころであることは間違いあるまい。

およねの体調はこの日を境に急降下した。およねはついに危篤状態に陥った。長姉おとよ、次姉ユキ、姪コハルの3人が徳島から駆けつけた。7月に入っても、およねの容態は一進一退だった。その頃、明治天皇の病気もよからぬ状態で、モラエスが崇拝していた明治天皇は7月30日に崩御された。モラエスは久し振りに筆を執って、ポルト商報に明治天皇崩御の記事を書き送った。

8月中旬、蝉の鳴く昼下がり、およねが目を覚ました。石井の徳蔵寺の藤棚をもう一度見たいなどと言い、また「もっと生きていたい、モラエスさんと一緒にずっといたい」と口にする場面は、あわれでならない。

8月20日の午後、モラエスは苦しそうなおよねのそばにいることができずに、生田神社に出かけた。その境内の木陰を歩きながら、12年前の結婚式のことを思い出していた。家に戻ると、かかりつけの医師カーテ博士とユキ、コハルが沈痛な表情ですわっていた。まもなくしておよねは臨終を迎えたことがカーキ博士により告げられた。モラエスはほとばしる涙をそのままに、すっかり力を失ったおよねの手を握り、胸にかき抱いていた。


11.徳島永住の決意

およねの野辺送りが済んだあと、ユキは一人となったモラエスを心配して、家事手伝いとしてコハルを置いて、徳島に帰った。およねの指輪を形見にもらったコハルは、期待に応えるように懸命に手伝いをしていたが、しばらくした頃、男友達との夜遊びをモラエスから厳しく咎められて、すねて徳島に帰って行った。

コハルに代わってモラエスの面倒を見始めたのが、永原デンという出雲生まれの24歳の女性であった。彼女は出雲の今市で酒屋の娘として生まれたが、15歳にして京都の呉服屋の番頭に誘惑されて、家出した。しばらくして男には捨てられ、一時は布引の滝の茶屋で働いていたが、紆余曲折を経て、神戸の福原遊郭で遊女として働き始めた。そろそろこの仕事から足を洗って、故郷に帰って親孝行でもしたいと考えていたとき、モラエスの手伝いの仕事が入ったのである。

彼女デンはおよねのような美しさや優雅さはないものの、健康溌剌としていて、モラエスのぽっかりと空いた胸の空洞を埋めるには最適の女性であった。モラエスとデンが主人と女中の関係から、寝室を共にするようになるのに1週間とかからなかった。今にも崩壊してしまいそうなモラエスの心身を癒すには、これしかなかったのである。

翌1913年(大正2年)2月にモラエスはコートと一緒に食事をしたときに今後の生活のことについて話し合ったが、そのような折り永原デンが24歳になったので、そろそろ出雲に帰って親孝行したいと申し出るとともに、モラエスも一緒に出雲で暮らさないかとの話を持ちかけてきた。モラエスにとっては敬愛するハーンと同じ出雲に住むことに心躍るところがあり、それを約束した。

ところが、デンが先に出雲に帰った翌週のこと、徳島のユキから手紙をもらい、預かっていたお金でおよねの墓ができたので、見に来て欲しいとのことで、徳島へ出かけところ、モラエスは永住の地を出雲にするか、徳島にするかで悩むこととなった。潮音寺に新しく建てられたおよねの墓の前で読経が始まると、モラエスは心の中で自分も死んだら一緒にここに入りたいと願ったのである。もしおよねの姪コハルが自分の世話をしてくれるなら、およねの墓のそばに住んで、墓を守りつつこの地で余生を送るのも悪くないと思ったのである。

神戸に戻ってからも、モラエスは悩んだ末に、徳島を永住の地にすることとした。その理由は、まずこれまで何もしてやれなかったおよねのために墓を守り、およねの墓前や霊前で毎日およねと話をしたいということ、第二の理由は、徳島は欧米文化が真っ先に流入された神戸と異なって、庶民の生活が古来から営々と続いてきたところだから、興味深い作品が書けそうな気がするし、また出雲はすでにハーンがさんざんに書いてしまっているので、これまで外国人は誰も書いていない日本の本当の田舎である徳島に住んで、その生活の中からいろいろなことを発見し発信したいということであった。モラエスはポルトガル共和国大統領宛に公職辞任を願い出て、領事の身分も海軍士官の身分も捨て、ポルトガル海軍との縁を切って、徳島に永住することを決意したのである。


12.徳島でのコハルとの生活

こうしてモラエスは1913年(大正2年)7月1日、神戸港を出航してから徳島に移り住んだ。住居は眉山に寄り添うように建てられた、伊賀町の二階建て四軒長屋の南端で、コハルがモラエスの世話をしてくれることになった。一階の六畳をコハルの居室兼食堂とし、二階の八畳をモラエスの居室兼書斎として、コハルとの共同生活が始まった。コハルはおよねの美貌には比べることはできなかったが、きびきびした立ち振る舞いや日焼けした顔はモラエスに明るさと活力を与えた。二人はまもなく男と女の関係を結んだが,深い愛情によるものではなく、母親ユキに言い含められていたコハルが拒まずに受け入れられたというのが事実に近かった。事実、コハルには幼なじみの玉田麻次郎という恋人がいて、ときどきその恋人と忍び会っていたのである。だからモラエスとコハルの関係は、表は主人と女中で、裏ではモラエスがコハルの若く締まった肢体におよねの幻影を追いつつ求め、コハルが麻次郎を思いつつモラエスに身をまかせるというかたちのものであった。

モラエスは市井の人々に混じって生活しているうちに、精神的に安定すると同時に日課も安定してきて、午前と午後にはおよねの墓参りをして、いろいろなところへも足を延ばしたりした。徳島がたいへん気に入り、モラエスはここで生きていく自信を深めて、7月29日には「自分亡きあとには、この徳島で焼いてほしい」という遺書まで書き残している。

8月になると、コートが神戸から訪ねてきたが、モラエスが若返ったように見えたので、安心した。コートはモラエスと一緒に散歩を楽しんでいるうちに、モラエスがこの美しい町で朝夕およねと心を通わせながらサウダーデに生き、サウダーデに死ぬことを決めた彼の心情がよく分かるような気がしたのであった。

まもなく盆がやってきて、モラエスは盆踊りの3日間を堪能したが、11月中旬になると、それまでの順調な生活に波風が立った。健康な身体が取り柄のコハルが体調を崩したのであった。どうやらひどいつわりのせいであったが、12月になってもおさまらなかったので、モラエスはコハルを実家に帰した。コハルは翌1914年(大正3年)4月2日未明、月足らずで男児を出産したが、赤子はその日のうちに短い命を閉じた。モラエスが翌日の朝、連絡を受けて駆けつけたが、赤子はすでに棺に入れられて、その姿は見えなかった。モラエスは「自分の子ではなかったのだ」と思った。

コハルは産後しばらくは実家にそのままとどまったあと、新緑の頃にはまた伊賀町のモラエスの家に戻ってきたが、相変わらず夜半に抜け出して玉田麻次郎のもとに出かけることが続いた。

そうしているうちに1914年(大正3年)7月28日、第一次世界大戦が勃発して、日英同盟により日本もそれに巻き込まれることになった。8月23日には日本はドイツに宣戦布告して、青島(チンタオ)を攻撃した。身分を隠して徳島に暮らしていたモラエスは、この青島戦勃発で、ドイツのスパイではないかと疑われるだけではなく、コハルの周辺までもが「毛唐」とか「独探」といったような嫌がらせを受けて、コハルはその不満の捌(は)け口(ぐち)としてそれまで以上に麻次郎との逢い引きを重ねるようになった。それに気づいたモラエスは、コハルを実家に帰した。

11月7日に青島が陥落して、翌月には青島からドイツ兵捕虜が大勢徳島に収容されたことから、モラエスへの風当たりも弱くなって、モラエスは自由に安心して外出できるようになった。

コハルもモラエスの家に戻って来て、再び平穏な生活が続いたが、その安らぎも半年と続かなかった。コハルがまた身ごもったのである。今度こそはモラエスの子でないことは明らかである。コハルは1915年(大正4年)9月15日に次男朝一を出産したが、母ユキが自分たちの子として引き取った。コハルは産後、授乳のためにモラエスの家と実家を往復する日が続き、無理がたたって22歳のコハルの身体は弱り切っていた。年が明けた頃から顔色があまりよくなく、医者に診てもらったところ、結核の可能性が高いということであった。7月に入ると、高熱が続いたので、コハルは8月12日の午後、藍場浜の古川(こかわ)病院に入院した。この入院からモラエスがコハルの看病する場面などは、詳細に書かれていて、あわれを催させる。このあたりが読みどころであることは、確かである。看病の甲斐もなく、コハルは1916年(大正5年)10月2日の午後、息を引き取った。ちょうどこの日、モラエスがこれまで執筆に取り組んでいた『徳島の盆踊り』がポルトガル国のポルトで出版された。

11月になって、コハルの墓が潮音寺のおよねの墓の隣に建った。1人になったモラエスは、毎日の日課としておよねとコハルの墓参りをさらに丹念にするようになった。この頃からおよねとコハルに関する原稿が多くなり、のちに『おヨネとコハル』としてポルトで出版されるのである。これは告白文学とも呼べるものであり、日本の片田舎に住み、市井(しせい)に身を沈めることで初めて書ききることが可能になったのである。この作品でモラエスは、それまでのどんな外国人作家も到達し得なかった深さで、日本、そして日本人の魂を描くことに成功した。徳島に住み、市井に身を沈めることで、モラエスは作家としての大輪の花を咲かせたのである。


13.晩年のモラエス

1924年(大正13年)、モラエスは70歳になった。身体は着実に衰えていった。およねとコハルに先立たれたことに加えて、亜珍たちが突然玄関にやって来るのではないかという妄想にも取り憑かれて、かなりの神経衰弱に陥っていた。健康のためには書き続けることで、そのためには規則正しい生活が第一だと思って、朝5時起床、夜8時就寝という早寝早起きを実行しながら、この頃書いていたのが『日本精神』である。ポルトガル人こそ日本人の精神的特性が理解できる唯一のヨーロッパ人であると思って、徳島の庶民生活という体験を通して、日本人の家族、生活、年中行事、習慣、そして愛や死を生き生きと描いていき、その『日本精神』はやがてリスボンで出版され、『徳島の盆踊り』と『おヨネとコハル』とともに高い評価を受けて、モラエスの知名度はますます上がっていった。

文筆家としての名声が上がる一方で、モラエスの健康は急速に悪化していった。足の痛みがひどくなったので、墓参りの散歩に出かけることもままならず、散歩という唯一の健康法を失ったせいで、ますます身体は弱っていった。この頃、神戸からコート夫妻が見舞いに来て、神戸での療養を勧めたが、そのときモラエスは徳島の地で死ぬことに決めていることを伝えた。モラエスは「希望がなくても人はサウダーデによって生きていける。私は徳島に来てからはずっと追慕で生きている。孤愁の海を泳いでいる」と答えたのである。すべての希望や未来を失った人間にとって、孤愁(サウダーデ)が生きる支えとなり、前へ進む力となり、愉悦ともなり得たのである。これがモラエスの孤愁(サウダーデ)の世界である。

1928年(昭和3年)になると、ますます外出は困難となり、この年の4月には軽い脳梗塞にも襲われた。1929年(昭和4年)6月30日、モラエスは夜8時に就寝したが、夜半になって激しい雨で目を覚ました。眠ることができずに、およねとコハルのことを思い出していた。普段は酒を飲まないモラエスであったが、その夜はブランデーのボトルを半分ほど一気に飲んだ。暑さと熱さで喉の激しい渇きを覚えたモラエスは、水を飲もうと台所へ這って行った。水道の蛇口に口をつけようと立ち上がった瞬間、弱り切った足腰に加え、普段経験したことのない強い酔いでバランスを失い、土間にどうと倒れて、頭部を激しく三和土(たたき)に打ちつけて、死んでしまった。

モラエスの遺体は翌朝、隣の橋本により発見された。朝、いつも冷水摩擦に出て来るはずのモラエスの姿が見えないので、心配した橋本が家主と一緒に覗きに来て、モラエスの遺体を発見したのである。検視の結果、事故死と発表された。神戸からただちにコートが駆けつけた。次いでソーザ領事が到着し、モラエスの遺書が2階の部屋で発見されて、すべてがその遺書のとおりに行われた。モラエスの葬儀は7月3日に安住寺で行われ、遺体は火葬された。遺骨はコハルの墓に入り、モラエスとおよねとコハルを祀った仏壇は、慈雲院の智賢尼により、彼女の死後は東海寺地蔵院で供養されることになった。

亡くなったあと、三十四銀行に預金が2万2千円(現在の2億円ほど)もあることが分かったが、モラエスの質素な生活を知る徳島の人々は驚いたことであった。モラエスがおよねとコハルの墓に行くのを見ていた小さな女の子たちは、モラエス亡きあとも、花を摘んできては供え続けたという文章で、この合作小説は締め括られている。


Ⅲ.孤愁(サウダーデ)に生きるモラエス

以上のように見てくると、新田次郎・藤原正彦の合作小説『孤愁(サウダーデ)』ではマカオ時代から神戸時代を経て徳島での晩年に至るまで、これまで知られていたモラエスのエピソードをできるだけ多く取り入れながら、それぞれのエピソードに新しい息吹を吹き込んで新しいモラエス像が浮かび上がってくるように書かれている。作品全体は「美しい自然」と「散歩」と「およね」のモチーフによって織り成されて、モラエスが美しいものに対して感受性豊かな人物であったことが生き生きと描かれている。とりわけモラエスのおよねに対する「やさしさ」と「あわれみ」、一言で言えば、モラエスの「愛情」が作品の至るところで読み取られ、それが読者の心にさわやかな感動を呼び起こさずにはいない。そこに「新しいモラエス像」を読み取ることができ、それがこの合作小説の魅力である。

またおよねが病没したあとのモラエスについても、孤愁(サウダーデ)に生きる「新しいモラエス像」が展開されている。およねの亡きあと、モラエスの心の中ではおよねが大自然における森羅万象になっていると言えるのではあるまいか。藤原正彦によって書き継がれた最終部分の「森羅万象」は、合作小説全体で最も注目したい箇所である。

その最終部分では、コハルが亡くなった年(1916年)のある夕べのこと、モラエスがおよねとコハルの墓参りを済ませて家に戻って来たとき、家の鍵穴がどうしても見つからないで困っていると、そこに一匹の蛍が飛んで来たエピソードが挿入されている。その蛍はモラエスの周りを飛び回ったあと、家の鍵のところまで下りてきた。そのときモラエスは一瞬、心臓が高鳴って、「およねだろうか・・・コハルだろうか」と呟(つぶや)くのである。印象的で感動的なエピソードである。

また1919年(大正8年)、2年ぶりに神戸からコートが訪ねて来て、墓参りのあと焼き餅屋に立ち寄ったとき、そばの滝の左右に黄色い花が咲いているのを目に留めたエピソードが織り込まれている。それは黄花亜麻という花で、現在神戸ポルトガル領事を務めているアルブケルケが3年前にその種を持ってきてくれたが、その花は小さくて可憐なおよねのようだと思われたので、モラエスはその種を家の裏庭とこのおよねゆかりの場所に蒔いたのだという。モラエスがおよねに注ぐ愛情がひしひしと感じられるエピソードである。モラエスはこの花を見るとき、およねと会っているのである。

その焼餅屋を出て、思い出の三重の塔へ登り始めたとき、モラエスとコートとの間で交わされる会話は、この合作小説で最も重要であると思われる。モラエスはコートに向かって言う。「家族を持たずに生きている孤独な人間にとっては、家族とは人類、いやもっと大きな、大自然における森羅万象だ。生きることとは、何かを愛し感動すること、と私は考えている。孤独であるが故に森羅万象に愛が向かっている私は、社会生活の中で、利害、競争、対立、欲望、野心の渦に翻弄されている人より、もっと強烈に生きているとさえ言えると思うのだ」この合作小説の中で最も重要な言葉であり、とりわけ「生きることとは、何かを愛し感動すること」という言葉は名言である。

モラエスは日本の「美しい自然」を愛し、「従順で淑やかな日本女性」を目にして、心がときめくような感動を覚える。日々の平凡な「散歩」の中に真に「美しいもの」を発見し、それを鑑賞することに喜びを覚えて、感動する。それが人間として「生きる」ということなのだろう。

美しい最愛のおよねを亡くしたあとも、その追慕の中で生きている。休息も終りもない孤愁(サウダーデ)に身を焦がし、苛(さいな)まれ、苦悩し、涙することの中に、心の支えを見出しながら生きていく。モラエスは孤愁(サウダーデ)に生きた人であったと言えよう。上ですでに引用した合作小説の中の言葉をここで再度使って言えば、「すべての希望や未来を失った人間にとって、それが生きる支えとなり、前へ進む力となり、愉悦ともなりうる」のである。

この合作小説で描かれたこのようなモラエスは、これまでモラエスについて書かれた文献ではどこにも見出されない「新しいモラエス像」であり、その「新しいモラエス像」が読み取られるところにこの合作小説の大きな魅力がある。この機会に『孤愁(サウダーデ)』を読み、モラエスとおよねの「甘くも悲しい愛」に涙し、「愛する」ことの尊さを感じ取るとともに、「新しいモラエス像」を読み取っていただきたいものである。


メールマガジン「すだち」第101号本文へ戻る