【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第64号
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○「知的感動ライブラリー」(37)

徳島大学総合科学部教授 石川 榮作

NHK土曜ドラマ『遥かなる絆』(城戸久枝原作,2009年)解説(その2)

前回から2009年に製作・放送されたNHK土曜ドラマ『遥かなる絆』(城戸久枝原作)を紹介しているが,前回のあらすじについては繰り返さないので,先月の本メールマガジンをご覧いただきたい。

なお,今回も人名・地名などの読み方については,原則としてドラマと同様,日本語読みで表示するが,主なものについては(   )に原作を参考にして中国語読みをカタカナで付けておく。

第3回「祖国へ」

1997年,城戸久枝が中国の長春市にある吉林(きつりん)大学に国費留学生としてやって来てから3か月が経った。大きな壁にぶつかっていた言葉の問題は,大学院生劉成(リョウチャン,りゅうせい)さんとの相互学習のおかげでだいぶ解消されていた。中国での生活にもすっかり慣れたばかりか,さらにはその劉さんのお世話で帰国を控えた中国残留孤児やその家族のために日本語まで教えることになった。その日本語教室に通っている残留孤児の中に李(りー)さんという人がいた。李さんは現在,長春市で眼科医として働いていて,安定した職業や生活があるのに,それらを投げうってでも日本に帰国したいという話を,久枝はある日の教室からの帰り道で李さん自身から聞いた。李さんは「葉落帰根」(葉は落ちて根に帰る)という言葉を口にして,「他郷をさすらう者も,落ち着く先は故郷なのです」と説明する。李さんはどうしても日本に帰りたいと強調する。久枝は残留孤児の気持ちをこのとき初めて直接に聞いたのである。父がいかに日本に帰りたかったかがよく分かったような気がしたところで,また父の話となる。

1965年,父孫玉福(スンユイーフー,そんぎょくふく)は養母付淑琴(フースーチン)を牡丹江(ムータンジャン,ぼたんこう)に呼び寄せて一緒に暮らし始めてから2年が過ぎた。その間,日本へは手紙を出し続けていたが,返事は来なかった。狭いながらも自分で借りた家で,養母と一緒に生活するということに,玉福は幸せを感じていた。そのようにして暮らしていたある日,やっと日本赤十字社から手紙が届いた。6年間手紙を出し続けて,待ち望んでいた手紙をついに受け取ったのである。その手紙は親探しの手がかりとなる情報を提供してほしいというものであった。しかし,玉福の記憶には自分たちは勃利(ぼつり)という所に住んでいて,父は日本の軍人であったということしかない。そのときふと占い師の寧(ねい)さんが自分を頭道河子村(トゥダオフーズ,とうどうかしむら)に連れて来てくれたことを思い出し,さっそく寧さんを訪ねて行った。ところが,寧さんは昔のことでよく覚えていないという。玉福はガッカリして帰って行く。実は寧さんは重要なことを知ってはいたが,付淑琴は夢が叶って息子と一緒に暮らしているので,その今の幸せを壊すことができないと判断して,何も教えなかったのである。

話はまた久枝の現代に戻って,彼女は夜間の教室で帰国を前にした人たちに日本語を教えている。授業が終わったところへ,池谷美和子(原作では第七章「歴史を生きる者たち」の中に池田澄江という名前で登場する)という年老いた女性が久枝を訪ねて来た。その人はもう30年以上前に牡丹江で久枝の父に会ったことがあるという。その池谷さんの語るところによると,彼女は夫とともに満州に渡ってきたが,夫は戦死し,その後中国人と再婚して,もう50年間も中国で暮らしているという。そして30年以上も前に久枝の父の訪問を受けたことがあるという。久枝の父は牡丹江に住む日本人を探していたようで,彼女に向かって,「日本帰って行きましょう」「祖国を愛し,愛国心を持って生きていきましょう」と言ったとのことである。しかし,そのとき池谷さんは久枝の父が怖かったという。当時としては日本人であることを口にすることは,勇気のいることだったのである。その当時池谷さんは中国で生活する決意をしたところだったので,日本には帰らなかったが,今は是非日本に帰りたい気持ちでいっぱいだという。中国人の夫は2年前に亡くなり,子供たちも独立したので,気持ちも変ったようである。池谷さんの話には「愛国心」とか「祖国」という言葉が出てきたが,久枝には「祖国」という言葉はこれまであまり聞いたことのないものであった。その「祖国」への愛着をますます強くしていく父孫玉福の話が,これからまた展開されていく。

1965年の年末のことである。孫玉福が養母とともに大掃除をしているところへ,占い師の寧さんが訪ねて来た。養母は食事の用意をすると言い出したが,寧さんは玉福と二人で話がしたい様子なので,二人で外に食事に出かけた。そこで寧さんは今まで話していなかったことを話してくれた。寧さんは玉福が養母のこれまでの恩を決して忘れるような人間ではないと信じたので,話す決意をしたようである。寧さんの語るところによると,当時玉福は楊(ヤン)という中国人と一緒に寧さんの家に泊まった。その楊という男によれば,玉福の父は軍人で,満州国軍第一師団の少佐だったという。楊という男はその少佐から玉福を託され,列車に乗ったが,途中でソ連の機銃掃射にあって,玉福を連れてトウモロコシ畑に逃げ込んだ。しかし,戦闘機が去って,戻ってみると,すでに列車は出発していたので,楊は仕方なく玉福を連れて,寧さんの村にやって来たのだという。そのとき玉福は軍服のようなものを着ていて,一目で日本人だと分かるので,寧さんの子供の服に着替えさせ,玉福の服は全部焼いた。ただそのとき上着に縫いつけられていた布に名前が書いてあったという。それを知りたくてたまらない玉福に向かって,寧さんはゆっくりと落ち着いて,当時のことを思い出しながら,名前は四文字で,最初は「城市」(チョンシー)の「城」で,中の二文字は思い出せないが,最後は難しい漢字で,確か「西蔵」(シーザン)の「蔵」だった。おそらくこの名前は玉福の父親の名前だろうということであった。

このような手がかりを得て戻って来た玉福は,自分を育ててくれた養母を何よりも大切だと思っていたが,しかし,日本の両親,生みの両親に会いたいという気持ちを抑えることはできずに,必死になって日本赤十字社にあてて手紙を書いた。ところが,10か月後,受け取った返事によると,情報量が少ないので,調査は進められないという。そのような返事を受け取ったとき,運が悪いことに血を吐いて,病院に運ばれた。酒を飲み過ぎての胃潰瘍のようであるが,これまですでに200通以上の手紙を書いてきた玉福は,見舞いに来てくれた親友の鄒徳義(ゾウダーイー,ぞうとくぎ)と呉立政(ウーリージョン,うーりゅうせい)の前でも,「勃利に住んでいて,満州国軍の少佐で,城と蔵の字のつく人は,何人いるのか,一人に絞られるのではないか」と叫んで,病院のベッドの上に横たわりながらも,日本赤十字社に手紙を書き続けるのである。玉福の「祖国」に対する物凄い執念を感じないではいられない場面である。

久枝が父の日記からこのような父の祖国への物凄い執念を知って,劉成さんにそれは今の父からは想像できないことだと語ったとき,久枝は劉さんから「苦労知らずの君にはお父さんの気持ちが分からないのだ」といって,厳しい非難の言葉を浴びた。劉さんはなぜそのように怒るのか。久枝は必死に言い訳をしようとするが,劉さんは怒って帰ってしまった。あとでそのことを日本語教室の李さんに語ると,李さんは劉さんのお父さんが中国の不幸な時代に自殺したことを話して,「彼は逃れられない時代の渦に巻き込まれた苦しさを肌で感じているのです」と説明してくれた。苦しい体験をしてきた劉さんには,久枝の父の祖国に対する気持ちがよく分かるのであろう。父孫玉福は退院してから,祖国からの返事を待ちながら,また働き始めた。

その祖国への物凄い執念が実って,日本の愛媛県八幡浜市では城戸弥三郎が厚生省援護局を介して孫玉福の手紙を受け取った。それを読んだ弥三郎は,息子幹(かん)が中国で生きていることを確信し,妻由紀子とともに喜んだ。さっそく父弥三郎は返事を書いた。やがてその父からの手紙を玉福は受け取り,「城」と「蔵」の二文字のついた名前は,城戸島蔵で,祖父の名前であり,玉福のもともとの日本名は「幹」であることを知った。その手紙を手にして,孫玉福,つまり城戸幹は親友の鄒徳義と呉立政と一緒にその奇跡を喜んだ。この世に神様は必ずいるのだ,と幹は信じた。しかし,日本の両親が見つかったという喜びの一方では,中国の養母のこれからの生活のことが気にかかる。養母との別れの辛さと日本の家族との再会の喜び,懐かしい日々とこれからの生活,幹はどちらかを選ばなければならない。久枝が今読んでいるそのときの城戸幹の日記には「ああ,つらい」と書かれている。

日本の父から返事を受け取って以来,幹と父弥三郎との間では月に1,2回のペースで手紙のやりとりが続き,帰国の手続きも順調に進んでいた。ところが,その頃,中国で進められていた文化大革命の現実が幹とその家族の前に大きく立ちはだかった。幹の周りには監視の目が光り,常に後をつけられていた。幹は親友の鄒徳義と呉立政に迷惑をかけるので,自分に近づくなと言うが,それに対して二人の親友は「友達は友達だ。民族は違っても,心は通じている」と答える。この親友たちとの絆もこのドラマの大きな見どころである。生涯の友の絆は,国境を超えても,切れないほど強固なものである。この親友たちの友情で幹は心を強くするが,しかし,結局のところ,申請の結果は,出国は認められないというものであった。幹の夢は実現の手前でもろくも崩れ去ったのである。

1998年春節の長期休暇が始まって,久枝の周りの者は皆帰って行って,寮では一人きりになっていたところへ,春華(しゅんか)姉さんから電話があって牡丹江へ来ないかとの誘いを受けた。しかし,そのとき久枝は一人きりになりたい気持ちもあって,熱があると仮病を使って,断わってしまった。劉成さんと言い争いをして以来,久枝は父の苦労が理解できるなどと簡単に言えるものではないことを知ったのである。そう考えているうちに久枝は本当に風邪を引いてしまい,嘘が本当になってしまった。少し咳が出て,横になっているところへ,愛媛県伊予市の両親から電話があって,「誕生日おめでとう」と祝いの言葉をもらった。気がついてみれば,その日は久枝が22歳になった誕生日であった。父が中国で養母とともに苦労しているときと同じ年齢になったのである。電話越しに久枝は「お父さんは強い人やねえ」と言いながら,「中国に来て,少しだけお父さんの気持ちが分かるように・・・(なった)」と言いかけたが,途中で「ううん,なんでもない」と最後まで言うのを止めた。父の苦労が確かに少しずつ分かりかけていたが,しかし,父が帰国を果たすには,まだまだ幾多の障害が待ち受けていることを,そのとき久枝はまだ知らなかった。

第4回「牡丹江の別れ」

1998年春節の長期休暇が始まってから久枝は少し風邪気味であったが,翌朝になると,その熱も下がった。そこへまた牡丹江の春華姉さんから電話があり,「春節は家族で祝うものよ」と言って,その家族のもとに来ないかと誘われた。久枝はその「家族」という言葉が心に響いて,さっそく春華姉さんの家を訪ねて牡丹江へ出かけて行った。そこでまた昔の父孫玉福,日本名城戸幹の牡丹江での話が展開される。

1969年,城戸幹が出国を拒否されてから,2年が経過した。その頃,文化大革命の影は中国全土を覆っていた。城戸幹,孫玉福の働いている材木工場では,その親友の鄒徳義が仕事仲間たちと喧嘩をしている。孫玉福を侮辱する者と争っているようである。もう一人の親友呉立政の話すところによると,一部の者が「孫玉福は別の道を歩く人間なのだから,近寄らない方がいい」と言い触らしているので,それでカッとなったのだという。呉立政はそのため「次は鄒徳義が危ない。それが心配だ」と説明する。それを聞いた孫玉福は,親友の気持ちは分かっていながらも,怒りを表わさずにはいられなかった。孫玉福には常に監視者の存在が気になって仕方ない。彼に残された道は,日本への帰国しかない。しかし,日本へは帰れない。どこにも行き場がない状態である。尾行する者の監視の目は,さらに厳しくなって,孫玉福は追い詰められていった。酒に酔ったまま養母のもとに帰る。材木工場でも孤独であり,親友の鄒徳義と呉立政とも言葉を交わさず,その苦しい気持ちを酒でまぎらす毎日であった。そのようにしてひどく酒に酔って帰った夜,養母から平手打ちをくらい,厳しく叱られた。「このままでは死んでしまう。日本の両親にも申し訳が立たない。・・・生きて日本に帰って行きなさい」と,怒りの中にも養母の息子へのやさしい気持ちがひしひしと感ぜられる。しかし,日本へは帰れない。そう言う息子に向かって,養母は「何とかなる」と必死に励ます。時代の渦の中で身動きのとれない息子と養母の苦悩が,このドラマを観る者の心をも切なくさせる場面である。

その頃,日本では孫玉福の父城戸弥三郎が東京の日本赤十字社と厚生省に中国側との交渉をしてくれるように必死に要請していた。母由紀子も,息子の無事の帰国を願って,神社で必死にお参りをしていた。

その城戸幹,孫玉福は翌朝,養母に昨夜のことを詫びて,苦しみを紛らわすための酒はもう飲まないことにすることを約束する。それを聞いた養母は,今夜は餃子を作るからと言って,息子を励ます。このようなやさしい養母がいるのだから,玉福は「このまま出国できなくてもいい。僕には母さんがいる。このままここで一生暮らすよ」という気持ちにもなって,これまでの苦悩からなんとか立ち直ることができた。材木工場での丸太運びの際にも,親友の手助けをして,彼らとも仲直りできた。辛い仕事でも親友がいれば元気が出てくるものである。

久枝が春華姉さん宅を訪問して,大晦日の朝,目を覚ましてみると,春華姉さんの母高淑蘭(ガオスーラン)と弟の家族が来ていた。皆でワイワイ騒ぎながら楽しく食事をする。「中国の春節は家族で祝うものよ」という春華姉さんの言葉がよく分かる。その親戚の人たちと楽しい一日を過ごしたその晩,久枝は布団の中で涙を流した。なぜ涙が出てくるのか,自分でも分からない。日本から遠く離れた土地で自分を家族と言ってくれる人たちと一緒に新年を迎える,そのことが久枝の胸を熱くしたのである。

翌日は父の親友の鄒叔父さん(鄒徳義)宅に招待されて,国慶節以来の再会を果たす。そこへはもう一人の親友呉叔父さん(呉立政)もやって来た。呉叔父さんは奥さんを連れて来ており,奥さんは久枝の父と同じ村に住んでいて,付淑琴が結婚の仲介をしてくれたという。だから呉叔父さんは久枝の父玉福と出会わなかったら,この結婚もできなかったと言いながら,玉福との昔を懐かしむ。「文化大革命のとき,日本人といて怖くなかった?」という問いに,立政は「民族は違っても,心は通じていた」とキッパリと答える。玉福と徳義と立政の3人で撮った写真を見ながら,二人の親友は「玉福に会いたいな」ともらす。そこでまた昔の玉福の話に戻るのである。

1970年1月,玉福が材木工場で徳義と立政らと一緒に働いているところへ公安局から呼び出しがあり,公安局へ出かけると,ついに出国の許可が出たことを聞いた。この3月には日本に帰ることができるとのことである。玉福はうれしく思う一方,養母にどのように話したらよいものか,戸惑いも覚える。その夜,養母のもとに帰って,言い出しにくくしているときに,養母の方から「日本へ帰れるんだね」とやさしい気遣いを見せる。養母はご飯の用意をしながら,喜びながらも複雑な気持ちである。母子の互いに相手のことを思う気遣いが展開されていて,涙を誘うような感動的な場面の一つである。

新年を楽しく過ごしたのち,春華姉さんの母と弟の家族が帰る日となった。久枝は春華姉さんが別れる前に母親とひしと抱き合うさまを目にして,春華姉さんはどうして両親のもとを離れて付淑琴おばあちゃんと過ごすことになったのだろうかと思った。食器洗いの後片付けをしながら春華姉さんの語るところによると,春華姉さんが2歳のとき,弟が生まれたが,当時はたいへん貧しくてとても2人の子供を育てられる状態ではなかったという。そこで3歳になる前に,桂珍(グイジェン)おばあちゃんのもとに預けられたが,その桂珍おばあちゃんが亡くなってから,10歳の時に付淑琴おばあちゃんに引き取られ,昨年亡くなるまで一緒に過ごしたのである。だから春華姉さんは実母とはほとんど一緒に暮らしてはいない。子供の時から苦労しただけに,今は家族を大切にする気持ちが他人よりも強いのであろう。久枝に向かって「あなたは両親と暮らせて幸せよ」と言う言葉が,それだけにジーンとくる場面である。

出国の許可を得た孫玉福は,日本の父にあてて手紙を書きながら,出国の準備を着々と進めた。翌日は,養母を誘って買い物に出かけた。養母のために何かを買ってやろうとしたが,養母は買い物よりも玉福と心ゆくまで話をしたい様子であった。一緒に食事をして,散歩をしながら別れを惜しんだ。川辺にやって来ると,そこに腰を下ろして,二人で「植樹歌」を歌った。「細枝の柳を 川辺に植えよう 風吹き芽が出て 小鳥は歌う 我らは木を植え 川辺は緑」という内容の歌である。歌い終えると,養母は「いつかまた会えるね」と尋ねる。それに玉福は「きっと会えるよ」と優しく答える。次の日,玉福は貯めたお金と退職金を養母に渡す。しかし,養母にとっては玉福の日本の名前と住所を聞くことの方が大切のようである。それに対して玉福は,「それらは徳義に渡してある」と答えて,必ず手紙を書くことを約束する。

とうとう玉福が牡丹江を出発する日がやってきた。牡丹江駅には村の書記も見送りに来てくれ,「日本でも親孝行するのだよ」との励ましの言葉をいただいた。二人の親友徳義と立政もまた見送りに来てくれたが,もちろん命がけの見送りである。玉福はこの二人の親友に「様子を見に行ってくれ」と言いながら,一人きりになってしまう養母のあとのことを託した。まもなく列車がプラットホームに入って来て,玉福が列車に乗り込もうとしたとき,養母は悲しみのあまり倒れたまま,「行かないでおくれ」と泣きすがる。そのさまを見て玉福も,列車に乗るのを止めて,養母に抱きつくようにしてこの地にとどまろうとするが,二人の親友が玉福を養母から力ずくで引き離して,列車に押し込める。ゆっくりと動き始めた列車の踏み台の上で玉福が養母に向かって泣き叫び,養母がホームにひざまずいたまま玉福に呼び掛ける場面は,このドラマ全体のクライマックスであろう。この場面を撮影するには,かなりの苦労を伴ったようであるが,それだけに涙なしでは鑑賞できない感動的なシーンである。列車が牡丹江駅を出て,玉福がこれまでの養母との生活を回想する場面もまた感動的である。

この感動的な場面のあと,久枝の時代に戻る。久枝が牡丹江から長春市に戻って,バスから降りるや否や,劉成さんが迎えに来ていた。劉成さんは春節の休暇中,家族のもとに帰っていたようである。そこで久枝と劉成さんとの間で,彼の家族の事情が語られる。劉成さんのお母さんは以前は教師をしていたが,主人を亡くしてからは故郷に帰って,農業の手伝いをしているという。その際,久枝は劉成さんのお父さんのことを李さんから聞き知ったと言いながら,劉成さんのつらい気持ちを理解する。劉成さんは久枝のお父さんのように,田舎に住む母を都会に呼んで一緒に暮らしたいことを打ち明ける。できれば,東京で一緒に暮らしたいと将来の夢を語る。

東京の話となったところで,久枝の父孫玉福,すなわち,城戸幹が乗った飛行機が羽田に向かう場面に変わる。1970年4月8日のことである。城戸幹は日本に向かっているが,しかし,そこで待っていたのは過酷な現実であった。苦労はまだまだこれから果てしなく続くのである。


以上,第3回と第4回の放送は,それぞれ「祖国」と「家族」がテーマとなっている。主人公孫玉福の「祖国」への物凄い執念が実って,日本に住む「家族」と会えることとなった。しかし,それは玉福にとっては中国の養母との別れを意味する。第3回と第4回を通して見れば,玉福と養母の家族を中心にして,久枝とその家族,春華姉さんの家族,そして劉成さんの家族の話が展開されていることが分かる。それぞれに事情は異なるが,家族の強い絆が描かれている。人間の幸せの根底にあるのは,やはり家族であると言ってもよいであろう。

家族といえば,このテレビドラマの主題歌とも言うべき「植樹歌」を歌っているのは,一江ウタカであり,しかも原作者城戸久枝の実姉だという。すばらしい声でドラマを盛り上げている。『遙かなる絆』はまさに「家族」が作り上げたすばらしいドラマである。是非,この機会にこの「家族の絆」を描いた感動のドラマを鑑賞してください。


(以下,第5回と第6回の放送分については,来月のメールマガジンにつづく)