【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第178号
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○巻頭エッセイ(29)

わたしの本箱(3)
総合科学部准教授 富塚昌輝

いま、わたしの手もとに一冊の本がある。


こんな書き出しで連載してきたエッセイも、今回が最後となる。

今回は、連載の締めくくりとして、〈わたしの本箱〉を持つことの愉しみについて書いてみたい。

2017年、『美女と野獣』の実写版を観て、エマ・ワトソンの溌剌とした演技も相まって、大変おもしろかった。その始まりのところに、「朝の風景」(”Bell“)という挿入歌がある。小さな町の、変わりばえのない毎日の風景、その中で、主人公のベルの愉しみは本を借りて読むことであった。ベルにとって、本を読むこととは、平板な日常に風穴をあけ、いっとき、外のまだ見ぬ世界に想像を馳せる、そんな営みだったのであろう。

そんなベルが野獣から万巻の本のつまった図書室をおくられたとき、感嘆措くあたわざる反応を示したのは当然であったろう。一冊一冊の本が異世界への入口として見えたはずだからである。それと同時に、自分の本を持つことの喜びをそこに見て取ることもできるだろう。これまで、本を借りることで読書の欲望をみたしてきたベルにとって、いつでも手に取ることが出来る自分だけの本を所有したことの喜びは想像に難くない。

しかし、とも思う。あれだけの本をはたして読み切れるのかな、と。読まなくとも、一冊一冊の本を自分の思い出と結びつけ、かけがえのないものとするためには多くの時間が必要となろう。ふと、そんなことを思ったのは、自分の本箱のなかでひときわ光って目に止まる本は、大人になって新しく買い足した本、とはつまり少しは大人買いできるようになってから買い集めた本には限られないからである。

どうしてもこの作家のものは揃えたいと思って、本屋をめぐりインターネットで探しまわり、それでも見つからないかベラボーに高くて手が出なかったかした本が、ふとした機会に手に入ったときの思い出を今も忘れない、あの本。祖父が亡くなる直前にくれた小遣いで、この金をつかうならと決断して買った、この本。決して多くはないが、そうした思い出とともに懐かしいあれこれの本が、一つずつ本箱におさまっていく、そうした過程自体が〈わたしの本箱〉を持つことの愉しみであった。その意味では、立派な図書室をおくられたベルの喜びよりも、小さな町で一冊ずつ本を借りて読み続けたベルの愉しみにより近いように思う。

ロラン・バルトという思想家があった。彼は、再読という行為についておもしろいことを言っている。


再読は、物語が一度消費(《むさぼり読み》)されたら、他の物語に移り、他の本を買うことができ

るよう、その物語を《投げ捨てる》ことを勧める現代社会の商業的イデオロギー的慣習に反した操作

であり、それはある周辺のカテゴリーに属する読者たち(子供、老人、教師)にしか許されていない

が、ここでは、再読はただちに提起されている。なぜなら、それだけがテキストを繰り返しから救う

からであり(再読を軽んずる人は、到る所で、同じ物語を読まざるを得ない)、テキストをその多様

性と複数性の中で増殖させるからである。(『S/Z』沢崎浩平訳、1973、みすず書房)


バルトによると、一度読んだら投げ捨ててしまう読書を商業的・消費的な読書であると述べ、そうした読み方は、一見たくさんの本を読んでいるように見えながら、じつは同じ物語を読んでいるだけであると述べている。なるほどそんなものかもしれない。内容も似たり寄ったりの消費されやすい物語を、読者の方もまた自分が理解しやすい枠組みに従って読もうとするならば、同じ物語を消費していると言える。そうした読書に対して、バルトは、限られた本を繰り返し読むことが、逆に、テキストを繰り返しから救うと言う。これも、なるほどと思う。同じ本を繰り返し読んでいると、登場人物それぞれの生き様が見えてきて、それに即して物語も少し違って見えてきたりする。そして何度も同じ本を繰り返し読むことで、その本が自分にとって忘れがたいものともなる。

本を読むこと、あるいは本を集めることは、本を自分の世界と結びつけることのように思う。そして、自分の思い出がたっぷり塗り込められた一つ一つの本、そしてその集積としての本箱は、それらの本を集めた人のみが作り出す小宇宙である。それは、書店や図書館に比べればよほど小さなもの違いない。それでも、膨大ではあるが愛着の薄い本の集積よりも、その小宇宙は、その人だけの豊かな世界を作り出しているのではないか。


わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます。(森鷗外「杯」

『中央公論』1910・1)


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