【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第175号
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○巻頭エッセイ(26)

わたしの本箱(2)
総合科学部准教授 富塚昌輝

いま、わたしの手もとに一冊の本がある。


タイトルは『新しき日』。作者は、徳島出身の悦田喜和雄。1965年に四国文学会から刊行された本である。表紙に描かれた題字とかぼちゃの画は、白樺派の作家として活躍し、のちに「新しき村」を創設したことでも名高い武者小路実篤の手になるものである。飾り気がなく、質素な印象の装幀であるが、武者小路と悦田との結びつきの様がうかがわれて、だれにでも造れる本ではないオーラを放っている。

悦田喜和雄と言っても、あまりぴんとこない読者もあるかと思われるので(かくいうわたしも、日本近代文学を勉強する身でありながら、恥ずかしいことに徳島に来るまでその名を知らなかった)、『四国文学 悦田喜和雄先生追悼号』(1983・11)に掲載された「悦田喜和雄略年譜」に従いながら、簡単に作家の紹介をしてみたい。

悦田喜和雄は、1896年8月21日に、徳島県海部郡由岐町木岐(現在は美波町木岐)で生まれる。1917年ころから、『文章世界』などの投書雑誌に文章を投稿しはじめる。1919年、「木賃宿の朝」が小品部門で入選。一地方の青年の心に、その出来事がどれほど大きな感動をもたらしたか、すこしのぞいてみよう。


あった!思わず声が出た。第一等に木賃宿の朝を見つけた。それだけで目はくらみ、胸はどきどきおどって何も見えなかった。何げなくそれで胸をおおってしまった。そして胸の内でよかった!といった。(悦田喜和雄「百姓は死んだ」『徳島新聞』1971年4月24日~8月16日)


年譜に戻ると、悦田は1919年に武者小路実篤の主宰する「新しき村」に参加し、武者小路に師事して小説を書く。1922年6月、志賀直哉の手引きもあって、「雑炊」を『白樺』に発表。その後、『中央公論』の編集者である滝田樗蔭に「貴下の方で御迷惑でなければ今後しばらくの間貴下の御創作を一手に引き受けたいと思ひます。貴下の描写は僕は好きで好きで堪らないのです。」言われるほどの知遇を得て、『中央公論』等の文壇誌に作品を発表する。1926年、父の死を機に家業である農業に専念し、農業を営みながら小説を書き続ける。1953(昭和28)年、四国文学会の代表者となり、徳島の文学振興に力を尽くす。以後、『徳島新聞』や『四国文学』に作品を発表し続ける。1983年3月21日、由岐町立病院にて死去。享年86歳。

悦田の作品の特徴は、投書家時代から晩年まで、農村の生活を舞台として、作家自身の言葉で言えば「百姓」の世界を描き続けたところにあるかと思う。悦田文学のモチーフを、1971年に刊行された悦田の第二創作集『綾の鼓』の「あとがき」から引いてみよう。


私は、ものを考える時、また小説を書くとき、本当の人間を見ようとして、其私を心の底に沈める。私は浮きうきした、満足しきった、うちょうてんで、ものを考えられないし書くことも出来ないのです。(中略)平凡な日常生活をいとなむうちに、私の心は寂しみの底に沈むことがある。すると私は書きたくなる。その私を表現したくなるのです。


徳島で文学を書き続けた悦田喜和雄。わたしはここに、近代文学史があまり気にかけてこなかった、しかし脈々と営まれてきたある文学の土壌を見る。エルンスト・フィッシャーは『芸術はなぜ必要か』(1967、法政大学出版局)のなかで、資本主義の時代には「芸術もまた商品となり、芸術家すなわち商品生産者となった」と言っているが、ひどい暴論であることを承知で言えば、近代文学というのは「いっぱつ当てたい」という欲を動力源としているのではないか。もちろん悦田文学がそうした欲と無縁であるとは言わないが、そうしたこととは別の小説を書く動機がそこにあるようにも思う。本業の傍らに小説を書き続けること、同人誌に持続的に小説を発表すること、その動機と意義とを探りあてることができたならば、わたしたちはもっと気負わずに、あるいはこれまでの価値基準とは違った気負いをもって小説を書くことができるのではないかと思ったりする。小説を書き、読み、しゃべる営みがもっともっと日々の生活に根づいて欲しいなと願いもするのだが、所詮は文学研究者のエゴに過ぎないであろうか。

わたしの手もとにある本は、誰の手を渡ってきたものであろうか、心なしか土のにおいがする。


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