【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第170号
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○巻頭エッセイ(22)

二十四の童
総合科学部教授 葭森健介

「二十四の童」?「二十四の瞳」の間違いではと思われるかも知れない。ここで書こうとするのは二十四人の幼稚園児とその先生の話である。とはいえ、『二十四の瞳』とも全く無縁でもない。 私は北陸の真宗王国の地にある一学年二十四人のミッション系の幼稚園に通っていた。その園長の聴濤誠夫先生は大正時代に香川の尽誠中学(今の尽誠学園)の英語の先生をしていた。そこで机をならべ、下宿を行き来していた国語の先生が壺井繁治という人だった。彼は上京して、著名な詩人として戦前戦後を通じて活躍する。そして小豆島出身の女性と結婚した。その人が壺井栄さん、『二十四の瞳』の作者である。

一方、聴濤先生は兵役に就き、そこで様々な出会いがあり、教壇に戻らずキリスト教の牧師となった。戦前は名古屋等で布教や福祉活動を行っていたが戦後になり、幼児教育を学んだ妻信子さんと一緒に北陸の教会を利用して幼稚園を開いた。聴濤先生ご夫婦と壺井栄さんとの交流については聞いてはいない。しかし、先生と子供達のつながりには、『二十四の瞳』とそっくりな所がある。幼稚園の創立三十五周年を記念して刊行された文集に誠夫先生は歴史を書き残し、この幼稚園の歴史の一番重要な部分は「行事の記録でもなく,設備が出来た年代記でもない。幼児期の一人一人と教師との間に通った心と心のぬくもりであり、人と人とのつながりである」と結んでいる。その幼稚園ではマニュアルによらず、すべてが手作りで子供一人一人に目を向けた教育が行われていた。その絆は後まで続き、幼稚園には同窓会ができた。私の幼稚園の同級生のお姉さんが大学の近く助任町でブティック兼喫茶店を開いていた。そのお姉さんも幼稚園の先輩で、聴濤信子先生とはずっと手紙のやりとりをしていた。先生の手紙には私への伝言もあり、私も帰省した時幼稚園に立ち寄って、そのお姉さんの様子を伝えていた。

信子先生は百歳になっても、ずっと幼稚園に通い続け、初期の園児の孫を含む子供達に声をかけていた。私が最後にお目にかかったのは、お盆休みの帰省の時だった。その時先生は痛めた足をかばいながら花に水をやっていた。大変じゃないですかと問うと「夏休みが明け子供達が来た時、自分がせっかく植えた花が枯れていたら悲しむじゃない」という返事、やはり昔と同じ、子供の気持ちを思いやっていた。信子先生は名古屋の淑徳学園の創設者の娘で、両親から女性でも何か専門を持つよう言われたらしい。お姉さんたちは英文や国文を専攻した、「でも私は勉強があんまり好きでなかったので、幼児教育なら簡単そうと思って選びました。でも、実際に幼児教育に携わってみると、本当に難しいものだとわかったのですよ」と話して下さった。私は母から先生夫妻が「子供は天からの預かったもの、自分の都合で育ててはいけない」と母達に話していて、感銘を受けたと聞いた。

私も三月で定年退職を迎える。改めて自分が最初に出会った先生の事を思い出した。 「三つ子の魂百までも」ということわざがあるが、幼児教育で学んだことのどれだけを自分の仕事に生かせたのであろうか。教育については経験を積むほど難しさを実感する。大学教育は家庭や高校までの教育を受け継いで学生を預かり、未来の社会へ返す仕事である。振り返って未来の社会に対して責任を持てたのか、学生との間に「心と心のぬくもり」、「人と人とのつながり」が築けたのか、自問する日々である。


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