【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第169号
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○巻頭エッセイ(21)

「読める」
総合科学部教授 葭森健介

私たちの研究者仲間では、「あの人はよく読める」という言い方をする。勿論、古典や外国語などは、すぐには意味がわからないので現代日本語に翻訳する必要がある。正確に文法・語彙を把握し、読解するというのが「よく読む」という事の基本ではあるが、それだけではない。

私は京大の人文科学研究所の研究班で発表した時、同門の大先輩から「君の読みは八割方間違っている」と言われた。それは漢文の読みが間違っていたのかと思ったが、それだけではなかった。そもそもその先輩からは私の処女論文に対し、史料の表面しか読んでいないと批判された。その論文自体は中国の研究者からも評価されており、ある程度の自信作ではあったのだが、今から思うとその批判は当を得ているところもある。つまり、史料に隠されている史実に十分迫っているのか、歴史を図式化して、それに合わせて読んでいないかという問いであった。それは彼自身の自己の研究に対する問いでもあった。

今年度の魏晋南北朝史研究大会は初代会長であるその先輩を偲ぶ会で、私にも発表するよう要望された。そこで、報告のテーマを「語る歴史」とした。第二次大戦後の歴史学は論争に明け暮れた。そこで重視されたのが歴史理論である。ある意味で歴史の発展理論に合わせて史料を探すという傾向が見られた。しかし、史料から各時代の世界を描き出し、それをつなぎ合わせて歴史像を練り上げる作業がおろそかにされていた。つまり、現代人の価値観で史料を読むのでなく、なぜその史料を当時の人間が残したのかまで読み込んではいない。先輩は私のそのことを誡めたのである。その先輩の院生時代のエピソードが伝わっている。それは史料を徹底的に読み、その本はぼろぼろになったという話である。本を徹底的に読むという四字熟語に「韋編三絶」という言葉がある。それぐらいに読み込んで、初めて「よく読める」といわれるのである。

歴史、文学、思想の分野を問わずそれぞれの作品には著者を取り巻く歴史的、社会的状況が反映する。そこまで理解してこそ書物を「読む」ことが出来る。日本でも周期的に『三国志』がブームになる。私は当該時代の政治史を専門としているが、どうもブームにはついて行けない。そもそも正史の『三国志』の時代とは日本では邪馬台国の卑弥呼の時、卑弥呼と手紙をやりとりしたのは曹操の孫曹叡である。私たちは少し前の時代の人についても世代の断絶という言葉を使う。ましてや一千八百年も昔の、しかも外国人のことがそんなに簡単にわかるはずがない。それ故、研究者は一行を理解するために周辺の多くの資料を調べ、対象となる人物や事件について史料を丹念に読まねばならないのである。

「読む」というのは言葉はいろんな所で使われる。「風を読む」「相手の手を読む」「心を読む」。それは、表面で判断するのでなく、周囲の動きや相手の考えまで深く理解することを言うのであろう。近年、若者は「空気を読む」ことにたけているそうだ。書物についても「空気」を読むように深く読んで欲しいものである。


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