【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第167号
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○巻頭エッセイ(19)

「ゆっくり」のススメ
総合科学部教授 依岡隆児

師走はなにかとあわただしい。大学でも卒論の季節で、学生たちは早く済ませようと焦っていることでしょう。すぐに白黒つけ、はっきりさせたがる世の中にあってはゆっくり試行錯誤しながら書くことは難しい。いきおい学生は推敲などせず効率よくマニュアル通りにやってしまおうとします。そうかと思うと、何日徹夜したかを自慢する短期追い込み型の者もいる。それに対して、彼らにブレーキをかけるのが教員の仕事でもあるのです。

私が研究しているドイツの作家ギュンター・グラスは、高校教師の会議に招かれた時に「ゆっくりを学ぶ」授業を導入したらどうかと提案しました。「ゆっくり」やることの意義を説き、無目的性と遊びとともに、自分と向き合うための孤独を擁護しています。現代の効率主義が社会の閉塞状態と細分化された科学の暴走をもたらしたとすれば、今こそそれを相対化する価値が求められているというのです。

たしかに現代ではスピードが求められどこでも素早く効率的にやることが奨励されており、そのノウハウを売り物にするビジネスもあるほどです。産業や経済の領域ではそれはそれでうまくいっているでしょうし、スピードがないと時代に取り残され会社や組織自体の死活問題にもなりかねません。しかし私たちの生きる生活や文化ではどうでしょうか。教育・研究においても効率だけでやっていけるでしょうか。ゆっくり試行錯誤するプロセスをはしょっては創造性は生まれないし、それこそイノベーションも起きないのではないでしょうか。

「Muße」というドイツ語は「無為」とか「余暇」と訳されますが、この「無為(余暇)」の大切さを知っていたのはギリシア人たちでした。彼らにとって、それは何かの目的のためにする「奴隷の労働」とは異なる自由で創造的な活動でした。ピーパーの『余暇と祝祭』(講談社学術文庫)によると、「無為(余暇)」とはただ休むことではなく、世界を観想し自分を取り戻す活動で、そこには学問や芸術を営むことも含まれていたのです。ヨーロッパの人たちにとって「無為(余暇)」とは「余った時間」なのではなくて自分らしい生き方を取り戻すかけがえのないときだったと言えましょう。だから仕事中毒になる日本人をよそ眼に彼らはバカンスを取り、「無為(余暇)」の中に身を置くのです。

読書もこうした「無為」の活動でしょう。グラスも先述の会議で、読書とは情報の洪水の中にあって雑音もなく映像の連続もない「静けさの冒険」に身を投じ、自分と向き合うことであると述べています。こうしたゆっくりと行われる活動は現代の教育においてこそ必要なのではないかと、彼は多忙を極める先生方を前にして説いたのでした。

大学においても効率化とスピードが求められる昨今ですが、研究面ではそれだけでは不十分です。効率化すべきことはたくさんありますが、それと同時にゆっくり時間をかけて自分と向き合いながらやるしかない部分も大切にしなくてはならないのではないでしょうか。

学生たちの中には早く結論を出したい、白黒はっきりしない状態にはいたくないという者もたくさんいるでしょう。彼らの世代はわからなければスマホで検索することに慣れています。そういう若者にとって、卒論における推敲や添削という作業は面倒で効率の悪いものに思われるかもしれません。しかし一方で、大学で取り組むべきなのはスマホで検索しても答えの出てこない課題なのです。

そもそも先生が出す問題に答えるというのが大学の研究ではありません。学生には、研究テーマとして簡単には答えの出ないことを選んでもらいたいものです。また、効率よくマニュアル化しようとしても、私のような教員がいるかぎり、卒論執筆はそういうわけにいきません。教員の行う添削とは、学生にブレーキをかけゆっくり考えさせることで彼らが自分と向き合い新しいアイデアを生み出していく過程に立ち会う助産師のような仕事だからです。


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