【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第166号
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○巻頭エッセイ(18)

本の背文字
総合科学部教授 葭森健介

最近は書籍のデジタル化が進み、紙媒体の本の不要論が出ている。確かにデジタル化、データベース化されると文字索引や出典調べに便利であるし、スペースも省ける。徳島大学図書館の3階ホールに洋装本の四庫全書がある。四庫全書は清朝の乾隆帝の命によって当時の中国にあった古典を校訂し、収録したものである。3,503種の本が所収され、冊数は36,000冊余りにのぼり、全部で230万頁、10億字に達する。乾隆帝はその書物を収めるだけのために故宮の中の一角に武英殿という建物を建てた。これが写真版の洋装本(影印版)になると大型書架数本で収まる。それでもこの四庫全書は高額で、これを所蔵していた大学は日本でもほとんどなく、徳島大学は研究者の羨望の的であった。ところがそのデジタル版が出てからはCDで数十枚になり、個人でも所蔵できるようになった。ではデジタル化により紙媒体で出版された本は無用の存在になったのだろうか?

私は上京して大学に入ったばかりの頃、父の従兄に連れられて神田神保町の老舗の古書店一誠堂に行った。彼は大正時代に早稲田大学の文学部で学んでいて、先生の会津八一とこの店に来ていた。その思い出や古書の魅力、古書店の利用法を丁寧に話してくれた。それ以後、暇を見つけよく神田の神保町の古本屋街に行き、時間をかけて一軒一軒回った。本を買うのでなく、ただ本の背文字を見て,手に取って開くだけである。その結果、自分が専攻する分野にはどの様な先学がいてどの様な研究をしているのかを把握した。また、大学では研究室に置かれていた基本となる漢籍の背文字を見ることで中国古典学というもの体系も理解できた。後にいろんな大学の研究所や図書館の書庫に入れてもらえた機会に所蔵されている本の背文字を見ながら各大学の学風について考えた。本の背文字を見ることにより学ぶことは多い。背文字を見るだけで、直接関係がない分野にまで視野を広げることもできる。多くの先学も本の背文字を見ることで学問の蓄積を受け継ぎ、新しい学問を生み出してきた。デジタル資料にはそれがない。

最近どこの大学でも図書館の書庫が手狭になり、本を置くスペースがなくなってきている。いっそデジタル化を進め、紙媒体の書籍は廃棄してはという意見も出ているという。確かに、それはスペースや予算の削減という意味では一理あろう。しかしこれが文系の学問の専門分化、研究の蛸壺化を進める一因になるのではないか という危惧も抱かせる。

中国では清末以降、日中間の戦争、内戦、文革と混乱状態にあった。そのため古典研究は足踏みを続けた。この間日本では中国古典の読解の訓練と、地道な研究を積み重ねてきた。その結果日本の中国研究は20世紀末頃まではずっと世界のトップ水準を維持してきた。このことは欧米や中国の研究者も理解している。私がオーバードクターだった時のことであるが、南京大学から初めて日本に留学したある先生が、毎日私の下宿に来て,私の蔵書のカードを取っていった。なぜかというとその分野の主要な日本の研究が私のもっている本の背文字に詰まっているからだという。近年は日本の大家の蔵書が中国や韓国の大学に寄贈され、その大学の図書館で研究者名を冠した文庫になっている。日本の学問が中国で再生されて行くことは喜ばしい限りだが、一面日本の研究者としてはいささか寂しさも覚える。

紙媒体の書籍は知識が詰まっている。これを不要品扱いした時点で日本の学術文化は日本から消えてゆくのではないかと危惧する。


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