【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第161号
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○巻頭エッセイ(13)

仕事と活動について
総合科学部教授 依岡隆児

私が附属図書館を使わせてもらいやっている読書会は、学生や教職員、社会人の方々など、仕事も所属も世代も異なる人たちが集まるコミュニケーションの場となっています。私自身は仕事ではなくただ楽しくてやっているだけなので多少忙しくともやめようとは思いませんが、こうした活動をしていると仕事とはなんだろうと、逆に考えることがあります。

仕事とはなんでしょう。就職活動中の学生たちは就活のことしか考えられなくなりますが、就職したらしたで仕事ばかりの毎日を過ごしていく人も多いでしょう。どんなに仕事をしてもなにか満たされず、生きるためのお金を得るために必要だからと言い聞かせながら働いている人もいるのではないでしょうか。それどころか、そのような人はそれ以上考えることを恐れているようですらあります。

こんな風に考えていると、私は政治哲学者のハンナ・アーレントのことを思い出します。ナチスによるユダヤ人虐殺の推定犠牲者数は600万人、四国からひとっ子一人いなくなるという数です。ところがアーレントはこの想像を絶する虐殺を行った責任者の一人、アイヒマンの裁判を傍聴して「悪の凡庸さ」という言い方をしました。ユダヤ人を絶滅収容所に移送する責任者だった彼は、悪魔のようなサディストではなく、自ら考えることをせず命令に従って自分の仕事をきちんと果たす官僚にすぎなかったと述べ、物議を醸しました。

ユダヤ人社会から厳しいバッシングを受け親しい友人も離れていきましたが、それでもアーレントは屈しません。「悪の無思考性」が表面にはびこるからこそ、全世界は廃墟と化しうるのだと言い続けました。その自分の考えを変えない毅然とした姿は英雄的ですらありました。

しかしここで注意しなければならないのは、「悪の凡庸さ」の「凡庸さ」とはなにかという点です。上からの命令を疑わず機械的に大量殺戮を遂行した愚かな人間がたまたまいたというわけではないのです。実際アイヒマンは「凡庸」どころか、自分に与えられた仕事のために自ら考え工夫した点では有能ですらありました。それでは彼の「凡庸さ」はどこにあったのでしょうか。

アーレントはドイツ系ユダヤ人としてドイツで生まれ、大学でハイデッガー、ヤスパースに師事、実存主義や現象学の影響を受けました。やがてナチス台頭とともにアメリカに亡命します。

彼女は全体主義を分析し、政治が市民相互の共同行為として公的活動によって支えられるためには公共性の復権を図らねばならないとして、全体主義の病理現象は公共空間の没落に原因があると述べました。また個体性、複数性、多様性を擁護しながら、人間の活動力を「労働」「仕事」「活動」に分類したうえで、「労働」「仕事」が「活動」を凌駕する現代の状況を批判しました。ここでいう「活動」とは複数の人々の関係性において成り立つ自発的行為の様式であり、これが政治の原型であると、アーレントは考えたのです。

活動は労働・仕事とは違う主体的・能動的な行動であり、利益第一主義ではなく、ひととのつながりや満足感を優先するものです。現代社会では仕事を始めると仕事ばかりになるというのも致し方ないところがありますが、強いられた仕事には本来の意味での主体性や創造性はあまりないし、一見無関係な他のひとを思いやる余地もないでしょう。彼女がアイヒマンに見たのは、まさにこうした、自分に与えられた仕事以外の世界を想像できず、自ら考え働きかけていく「活動」をなくした現代人の一人だったのではないでしょうか。そして自分の仕事に熱心なあまり他を顧みない多くの現代人の一人であった点で、彼はまさに「凡庸」だったのです。

ひるがえって私の行う読書会はどうでしょう。こうした「活動」になっているでしょうか。主体的で創造的な市民社会を支えるための場というほど大そうなものではなくとも、せめて多様な人々が出会う場であればと願うばかりです。


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