【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第157号
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○巻頭エッセイ(9)

内山書店の思い出
総合科学部 葭森健介

私が中国語を学び始めたのは1973年、日中の国交が正常化した翌年のことである。先生に言われて辞書、参考書を買いに行くことになった。言われて行ったのは神田神保町の内山書店だった。内山書店は魯迅や徳島出身の賀川豊彦等の友人である内山完造が経営していた書店である。上海で書店を開いた内山は革命派の魯迅や郭沫若等を中国官憲から保護する一方、武者小路実篤、横光利一、林芙美子等多くの文化人を魯迅等に紹介していた。

私が学部生だった頃には内山完造はすでに亡くなっており、その弟の嘉吉さんが店主をしていた。電車を乗り継ぎやっと内山書店に着くと、なんとカーテンが閉まっていた。しばらく立っていたら中から店員らしき人が出てきたので、隣県から遠路はるばるやってきた、何とか入れてもらえないかと話した所、店内に入ることができた。奥を見ると老婦人がレジの横に立っていた。嘉吉さんの奥さんだった。彼女は私に用向きを尋ねたので、中国語を勉強することになり先生に言われて辞書と参考書を買いに来たと伝えた。すると、奥さんはあなたの先生はどなたか、あなたは中国語をどのレベルまで勉強するつもりなのかとまるで医者の問診のように優しく聞いてくれた。そして辞書を何冊か選んで、それぞれの辞書の特長や使い方を説明し、自分の学習目的に応じたものを選ぶようにと勧めて下さった。また、参考書には適当なものがないので、もっと勉強が進んでから買ってはどうでしょうとアドバイスして下さった。

これを契機に私もたびたび内山書店に立ち寄る様になった。行くたびにカウンターの所には年配の先生らしき人がお茶を飲みながら内山嘉吉さんや奥さんと談笑していた。おそらく名のある先生達だったと思うが学部生には誰が誰だか知るよしもない。ただ、私たち学生は親しみを込めて嘉吉夫人のことを内山のおばさんと呼んでいた。まだ中国語の学習者も少ない時代である。ましてや私たちの先生で内山のおばさんに世話にならなかった人はいなかったのだろう。当然、中国語を教えている先生の専門や授業の仕方もわかっていたからその様に適切なアドバイスをして下さったのであろう。

実は後で知ったことだが、内山嘉吉さんご自身も美術教師だった。魯迅を初めとする中国人に版画を教え、中国に版画を広めたのも嘉吉さんである。上海の内山書店が日中の文化人のサロンであったように、東京の内山書店も単なる本屋でなく文化人のサロンだった。

私も大学院生になってから、京都や名古屋の本屋サロンに出入りするようになった。しかし、ある神田の本屋さんの話では本屋に出入りする研究者も学生も様変わりし、文化の香りがなくなったという。書物が取り持つ文化的なサロンは消えて行くのであろうか?本屋が単なる本の販売店、図書館も単なる本の置き場になっては意味がないのだが・・・。

いま問われているのは本を売る者、読む者、扱う者の文化に対する気持ちの問題なのであろう。


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