【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第154号
メールマガジン「すだち」第154号本文へ戻る


○巻頭エッセイ(6)

「近世古地図・絵図コレクション」の来歴
総合科学部 平井松午

徳島大学附属図書館が所蔵する200点を超える古地図・絵図群(近世古地図・絵図コレクション)はA~Eの5群に分類され、その中核をなすA・B・Cの3群は旧徳島藩主蜂須賀家の旧蔵資料です。A群・B群は地元の美術商を介して昭和26年(1951)の6月と8月に学芸学部図書分館が「備品」として購入したもの、C群は昭和28年(1953)1月に学芸学部図書分館が受入機関となって「自新会」から寄贈されたもので、書類上は学芸学部地理学教室の備品扱いとなっています(平井2001)。

徳島大学は1949年5月31日に、学芸学部・工学部・医学部の3学部をもって創立されましたが、それぞれ母体が異なったことから、当時は学部ごとに図書分館を設置していました。このうち、学芸学部図書分館と工学部図書分館は昭和27年(1952)5月2日に常三島分館に統合されました。常三島分館は昭和43年(1968)3月に常三島本館に包括されましたが、本館の建物が竣工したのは3年後の昭和46年(1971)3月です。

「自新会」の詳細については不明ですが、当時、学芸学部はC群の古地図(伊能図や阿波国絵図など)の他にも、教育学や心理学、数学、物理学などに関する専門書や外国図書などを自新会より大量に寄贈されています。学芸学部の前身である徳島師範学校は隣接する徳島工業専門学校とともに、昭和20年(1945)7月4日の徳島空襲で校舎や図書什物の一切を焼失しました(写真1)。そのため、昭和24年の新制大学発足前後より敷地の確保・拡充や校舎建築などの施設整備を行っていて、その一部には後援会の援助金などを充てています。「自新会」は、そうした施設整備にともなう学芸学部の図書充実事業に関係したとみられます。「(改過)自新」という言葉には、「自分の過ちを改めて、新たに再出発すること」という意味があります。ちなみに、徳島大学には第二次大戦後徳島市の管理下にあった旧蜂須賀家の常三島別邸の地所(戦災焼跡)が徳島市から寄付されています。その際、焼け残った別邸倉庫1棟は蜂須賀家所有物として存置が認められていたようです。

上記A~C群の古地図・絵図群は、その蜂須賀家常三島別邸倉庫に当時保管されていた資料の一部とみられ、蜂須賀家の蔵書印「阿波国文庫」の印影が押された古地図もあります。この倉庫には、蜂須賀家が所持していた藩政文書や「阿波国文庫」の蔵書も収蔵されていましたが、資料群の多くは戦中・戦後に東京に搬送され、昭和26年には神田の古本屋を介して売却されています。第二次大戦後には旧華族制度が廃止され、蜂須賀家だけでなく多くの旧大名家で財産処分が行われました。蜂須賀家旧蔵の藩政文書は、この時に文部省史料館(現在の大学共同利用機関法人人間文化研究機構国文学研究資料館)によって一括購入され、「蜂須賀家文書」として現在も歴史研究などに活用されています。

蜂須賀家の常三島別邸倉庫に保管されていた古地図・絵図の一部は、売却前には徳島師範学校生徒の授業教材としても利用されていたようです。古地図受入時の学芸学部図書分館長は当時精力的に郷土調査を行っていた地理学担当の岸本実教授であり、こうした経緯からも、別邸倉庫の蜂須賀家資料の売却にあたって、一部の古地図・絵図類が学芸学部図書分館に受け入れられたものと推察されます。

第二次大戦末期に徳島市街地は焦土と化し、新制大学として発足した徳島大学もゼロからの出発となりましたが、多くの卒業生や教職員、地元関係者の多大な協力により、その後発展を遂げてくることになります。


参考文献

平井松午(2001):徳島大学附属図書館蔵「近世古地図・絵図コレクション」の来歴、徳島地理学会論文集、179~191頁。


メールマガジン「すだち」第154号本文へ戻る