【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第146号
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○定年退職にあたっての特別寄稿

39年間徳島大学の教壇に立って

――究極の教養とは何か――
教養教育院教授 石川榮作

本年(2017)3月末をもって39年間勤めた徳島大学を定年退職することになった。昭和53(1978)年着任当初は教養部に所属していたが、平成5(1993)年に総合科学部と教養部が合併すると、総合科学部教員となり、全学共通教育のドイツ語の授業のほかに学部専門の授業を担当するとともに、大学院の授業をも担当してきた。そして平成28(2016)年度に大学改革実行プランに沿って常三島キャンパスの組織編成が行われると、私は教養教育院へ配置換えとなり、最後の1年間を教養教育院で過ごしてきた。振り返ると、長いようで、またアッという間の39年間でもあったが、その間、常に「教養とは何か」を念頭において、さまざまなことを実践してきた。それによって学んだことも多い。教員としても、また人間としても徳島大学に育ててもらったと言ってもよいであろう。そこで定年退職を迎えるにあたって、39年間に培ってきた私自身の「教育論」を、恩返しの意味も込めて、ここにまとめておきたいと思う。以下に記述する私の39年間の教育実践の報告が、これからの徳島大学の教育研究に少しでもお役に立つことになれば幸いである。


1. 教養部での初修外国語としてのドイツ語教育

昭和53(1978)年4月1日付けで教養部ドイツ語教員として採用され、当初はもっぱら初修外国語としてのドイツ語の授業を週6コマ担当してきた。ドイツ語の授業は1年次に初級文法と読本、2年次に中級あるいは上級の読本であった。当時は1コマが110分であり、かなり詳しい授業を展開していくことができた。ただ当時も、学生がドイツ語を学ぶモティベーションとしては、ただ単位を取得するためであったということは、今となんら変わらなかった。そのような風潮の中で、それではいけないと思って、私たちがドイツ語を学ぶ意義について懇々と説いてきた。医学部と歯学部の1年次・2年次のクラスを担当することが多かったが、これからは医学の世界でもドイツ語ではなく、英語が主流になっていくので、英語だけしっかり勉強しておけばよいと考える学生が多くなっていったのも事実である。そのような雰囲気の中で、私はドイツ語教育も単なる「語学教育」ではなく、「教養教育」の一つであるという立場を取り続けた。ドイツ語を学ぶことは、英語とはまた違った言語とその文化を学ぶことによって、自分の視野も大きく広がって、これまで気がつかなかった新しい自分に出会うことにもつながるということを主張したのである。この私自身の教育観に従って、私も単なるドイツ文法の説明やドイツ文学作品の訳読だけのものに終わらないように気を配り、ドイツ文化情報もふんだんに織り込んだり、ドイツ文学作品の中から「心の糧」となるような文言を引っ張り出してきて、ドイツ語を学ぶことで「心が豊かになる」という、自分の体験談もひんぱんに盛り込んだものである。そして私がよく主張したことは、ドイツ語を学ぶということは、日本語をも大切にすることであるという私の信念であった。その際、引用したのは「外国語を知らない者は、自国語を知らない」(Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.)というゲーテの格言であったことは、言うまでもない。ドイツ語を学ぶときには、常に日本語を大切にして、漢字で書くべきときは漢字を使い、きちんとした日本語、きれいな日本語を使うよう、自分自身の日常生活を省みることを促してきた。さらに強調したのは、語学を学ぶことによって規則正しい生活スタイルを学生時代のうちに築き上げておくようにということであった。語学を学ぶ際に最も大切なことは、一日にたくさんの時間をそれにあてること――それが可能ならば、それにこしたことはないが――ではなく、細切れの時間をうまく使って、コツコツと努力を重ねていくことである。毎日少しずつ語学を学んでいく習慣を身につけると、それによって日常生活も規則正しくなっていくはずである。そのような私自身の体験話もよくしたものである。コツコツと努力することを、私はドイツ語を学ぶことから身につけたように思う。ドイツ語を学ぶということは、これまで気がつかなかった新しい自分に出会うことなのである。それにはさまざまな体験や読書、自分の専門分野を深めていく必要がある。ドイツ語を話せる人がすべてドイツ語教員になれるものではない。そこには自分の専門分野をしっかりと深めて、常により高いものを求めて努力していくことが求められる。語学教育にはただ表面的なテクニックではなく、専門分野でのより深い知識と、さらには自分のライフスタイルを持ち合わせた豊かな人間性が必要なのではあるまいか。このような私の語学教育論は39年経った今でも、変わるところはない。


2. 教養部での名著講読

教養部での主な役目は上記のドイツ語授業を担当することであったが、やがてアンケート調査の結果、活字離れの学生が多いことがわかって、教養部では新しい科目として「名著講読」を設けることにした。新入生を対象にして、1クラス5名から10名までの少人数による読書指導の授業で、入学時に受講希望届を出して、受講者調整をしていくというものであった。全国のどの大学にも例がなく、徳島大学教養部の目玉となって、注目されたものであった。担当コマ数は1コマ増えることになったが、私はそのようなことは負担に思わず、喜んでそれに参加した。外国文学をはじめ、日本文学をも取り上げて、学生と一緒に名著を読んで、感想を述べ合うことで、よりいっそう読書に励んだものである。この授業では「読書が心を豊かにしてくれる」ことを強調して、文学作品について教えるというよりは、学生と一緒に味読することをモットーとした授業であった。理想の教養教育が展開できたのではないかと思う。この名著講読によって私自身も大いに得るところが多かった。


3. 総合科学部での「基礎ゼミナール」と学部・学科共通科目と「キャリアプラン入門」

この教養部での名著講読の授業は、平成5年に総合科学部の教員となると、そこで新入生を対象に設けられた「基礎ゼミナール」の授業に一部ながら引き継がれた。ただ教養部の名著講読は全学部の新入生が対象であったのに、総合科学部の「基礎ゼミナール」は当然のことながら総合科学部の新入生あるいは所属コースの学生に限られた。それも読書指導というよりは、大学が高校と違う点を踏まえた上で、講義受講の心得、ノートの取り方、レポートの書き方などを指導していくものであった。そういうところから私には「テクニック」だけを教えているような気がして、私自身はそのような表面的な「テクニック」ではなく、規則正しい学生生活を送るための心構えを強調していくよう心がけた。ときにはリラックスするために徳島中央公園へ出かけて、そこでバドミントンをしたり、吉野川の河川敷まで散歩をしたり、昼食会などをしたこともある。私自身、学生とともに教員生活を大いに楽しんだ記憶がある。このような学生と戸外で活動できる授業も、ときには必要なのではあるまいか。

上記の「基礎ゼミナール」のほかに、やがて学部あるいは学科共通科目なるものも担当するようになったが、これらは100名を超える大人数の授業で、教員が一方的に講義するだけのものであったが、最近になって担当した「文化研究の基礎」あるいは「総合科学の基礎B」などでは、総合科学部の理念に基づいて「複合的な視野」から文化を研究していくことを強調するとともに、ややもすれば軽視されがちな「文化」研究の必要性を説いていった。疲弊した現代日本の社会を救うのは、政治・経済の充実・発展ばかりではなく、地方の文化の活性化であることを主張した。「地域文化の振興」こそ、今の日本を生き生きと活気づけるものではあるまいか。実用的な「政治・経済」ばかりではなく、即座には役に立たないように思われる「地域文化の振興」こそ、実は大切なものなのである。

やがて社会の変化とともに、学生の就職難の時代を迎えると、それに対応するかたちで「キャリアプラン入門」なる科目も増設されて、もちろん私もそれに協力することとなった。これは1年生全員を対象とした学部共通科目で、受講生が280名にも達する科目であった。最初は工学部K棟の創成スタジオを使っての授業であったが、総合科学部2号館に300名収容できる「けやきホール」ができると、そこで行われた。私の担当は「読書と人生」ということで、一回だけの担当であったが、それだけにいっそう力をこめて、豊かな人生を送るためには読書が必要不可欠であることを主張した。そこにはもちろん私の読書体験を盛り込んで、とりわけ吉川英治『宮本武蔵』では中村錦之助主演の東映映画まで持ち出して、「修行には辿り着くところはないが、その目標に向かって努力を重ねていくところから、道は開かれる」と説き、学生の未来の道もそのように切り開かれるはずなので、努力を続けるようにと、エールを送った。


4. 総合科学部での専門教育

総合科学部では上記のような共通科目のほかに、専門科目もあって、ドイツ文学史を中心とした授業もあれば、ワーグナーのオペラ講読の授業も担当した。後者のワーグナーのオペラ講読の授業は、当初は主に欧米言語コースの5、6名の学生を想定していたが、オペラ講読という珍しい授業であったせいか、受講者は他コースの学生も加わって30名にまで増えていった。オペラ講読の授業のためにワーグナーの各作品の対訳プリントを作成し、半期に取り扱う1作品につき100ページを超える対訳プリントであったため、30人分のコピーをするのが大変であったが、しかし、徳島大学の教壇に立って最もやり甲斐のある授業であった。ワーグナーの作品の中でも最も得意とするのは、楽劇『ニーベルングの指環』四部作の講読であり、2年間8単位受講して四部作全体を読破できるという、ある意味ではたいへん贅沢な授業であった。その四部作の二つ目の作品『ワルキューレ』第三幕の最終場面で、神々の長ヴォータンが愛娘(まなむすめ)ブリュンヒルデを罰せねばならないところまで追い詰められて、罰せざるを得ないながらも、父ヴォータンと愛娘ブリュンヒルデが抱き合う場面では、学生の間からすすり泣きの声が聞こえてきたときには、私もたいへん感動してしまった。オペラの内容を学生が理解できるほどにまで「心にゆとり」ができて、その作品世界に入って行っているように思われたことに感動したのである。このときほど教師(教員)冥利に尽きたことはなかった。このような作品を学生と一緒に講読し、それをビデオで鑑賞して、一緒に感動することの境遇にあることに、この上ない幸せを感じたことであった。教育はすでに「ある」のではなく、このように学生とともに「作り上げていく」ものである。これぞ私が求めていた理想の授業である。

このような理想の授業をいつまでも続けたいところであったが、その後、学部の再編に伴うカリキュラムの変更で、この授業はなくなった。代わりにドイツ文学作品の表面をなぞっていくだけの授業内容で、しかも前期のみのとなって、残念に思ったことであった。もちろんそれでもできるだけワーグナーのオペラを織り込んで、できるだけ感動できるように努力していったが、2年間8単位のオペラ講読の授業には及ばなかった。


5. 全学共通教育での教養教育科目

私の最も得意とするそのワーグナーのオペラ作品を本格的に使っての専門授業は、総合科学部ではなくなったが、その後、全学共通教育でも、これまでのドイツ語の授業のほかに、教養教育科目を担当することにして、そこで継続していった。当初は年間1科目であったが、著書が増えてくるたびに、それを教科書に使うことにして、別のテーマで授業を開設していって、現在では、年間4科目も担当している。しかも受講希望者はどの科目も200名から250名ほどいて、教室の関係で抽選して144名に限定している。受講の理由は、毎回出席してオペラを鑑賞していれば、たやすく単位を取ることができることにあるようであるが、私としては受講の最初のきっかけはそれでもよいと思っている。ただ16回の授業に出て、「この授業を受けて本当によかった」と思う学生が一人でも多くいれば幸いである。答案用紙の記入などを見ると、オペラというものに初めて接して、新しい自分に出会った学生が多いことがわかる。現在では、この4科目の教養教育科目が最もやり甲斐のある授業である。総合科学部長を務めているとき、負担を減らすためにこの教養教育科目を外す話も出たが、「私の趣味(生き甲斐)を奪わないでほしい」と言って、断った。この4科目は定年退職前の現在も続いており、さらに2年前から夜間主の授業も加わって、年間5コマになっている。このほかにドイツ語の授業も年間6コマあり、全学共通教育だけでも年間11コマあるものの、このような授業をたくさん担当できる大学教員であることに大きな誇りを感じている。教授会等ではよく教員の負担が話題となるが、私に言わせれば、負担よりは授業の内容を話し合った方がよいような気がする。やる気さえあれば、負担は問題ではなくなるのである。教員にとって一番大切なのは、教育への「情熱」、授業に対する「熱意」である。


6. 大学院授業

平成5(1993)年に教養部が総合科学部と合併して、翌年からは大学院での授業も担当することになったが、大学院ではドイツ語・ドイツ文学という専門分野の授業よりは、むしろ大学院全体の共通科目を担当することが多かった。しかし、そこには社会人も入学してくるので、かなり高度な授業を展開することができて、たいへんやり甲斐のある授業であった。そこでの教育理念は、「専門分野をさらに深めるためには、幅広い教養が必要である」ということで、学部あるいは全学共通教育となんら変わるところはなかった。


7. 附属図書館での取り組み

教育はなにも教室での授業だけに限られたものではない。教室外でも行われるものである。平成19(2007)年4月に徳島大学附属図書館長に就任したのをきっかけに始めたのが、「知的感動ライブラリー」である。最近の学生を見ていて、どの学生も豊富な知識は持っているものの、それが単なる知識の蓄積で終わっていて、知識を応用して何かをしようという姿勢は見られず、自ら進んで何かに没頭し、ある物を創り上げようとする積極的な姿勢はあまり見られないような気がした。お金を出せば、何でも買える便利な時代になってきたせいかもしれない。物が豊かになり過ぎた反面、心が貧しくなって、趣味もなければ、打ち込むものもなく、物事に感動することが少なくなっているように思えたので、これではいけないと思って、私の趣味である日本だけではなく、世界の映画・音楽・オペラ作品を毎月1回紹介することにしたのである。授業で「知的感動ライブラリー・ファンクラブ」の宣伝をして、図書館本館に学生を集めて、その作品の鑑賞会とその原作の読書会を開いたが、授業以外で学生と話し合うことができて、たいへん有意義な催し物であった。最初はたいへん静かだった学生が、世界の名作品に触れているうちに、最後にはとても積極的な学生となったことを感じて、うれしく思ったことであった。このような地道な催し物を続けていきたいところであったが、そのうち私の仕事も年々増えていくことになって、この「知的感動ライブラリー」は附属図書館の毎月1回発行のメールマガジンに掲載されるだけとなった。しかし、その「知的感動ライブラリー」は8年間続いて、当初の予定どおり100回の連載となり、毎回の愛読者もあって、有意義だったのではないかと思っている。この附属図書館での取り組みは、全学共通教育の「知識よりも感動を!」をモットーとした授業に活かされて、現在にまで至っている。


8. 総合科学部長としての役割

その附属図書館での取り組みが十分に継続できなかった理由の一つに、附属図書館長の任期終了とともに、総合科学部長に選出されて、さらに多忙になったことがあげられる。しかし、それまでの授業はすべて継続しながら、総合科学部長としての役割を果たしていったが、入学式あるいは卒業式、その他もろもろのイベントなどの機会に大勢の学生の前で学部長としての挨拶をすることが多くなった。そのように機会を利用して、私はできるだけ私の経験から教訓となるようなことを盛り込んでいくように努めた。たとえば、卒業式の日には成績優秀者の表彰式があったが、そのようなときには「あなた方は280名の中からトップに選び出された優秀な学生です。先頭に立つことは、本当にすばらしいことですが、しかし、もっと欲を出して言えば、もっと大切なことは、先頭を走ることではなく、自らの道を切り開くことです」と、エールを送ったものである。これはニーチェの言葉をもじったものであるが、私の信念の一つになっているものでもある。


9. 教養教育院

文部科学省の大学改革実行プランに沿って、徳島大学も特に常三島キャンパスは平成28(2016)年度に大きな組織改革があり、総合科学部は文系だけの学部となり、理系のうち生命関係の教員は新設の生物資源産業学部へ異動し、そのほかの理系の教員はこれまでの工学部を改めた理工学部へ異動した。この常三島キャンパスの組織改革に伴って、教養教育院なるものが新設された。この教養教育院が新設されることになり、私は総合科学部に残るべきか、新しい教養教育院に移るべきか、選択を迫られることになったが、迷わず後者を選んだ。どこに移れば、最後の1年間、安楽な教員生活が送れるかということではなく、どこに移れば自分というものが最大限に活かせるか、このことを考えたとき、やはり私の本分は「教養教育」にあることを再確認したからである。

39年間、私の教育活動の中心は「教養教育」にあったと思う。「教養教育」と言っても、単なる知識の蓄積という意味での「教養」をめざしたものではなく、文化・芸術に触れることで「豊かな人間性」を培うことをめざしたものである。それは決して授業だけで身につくものではなく、長きにわたってのさまざまな人生体験を必要とするものであるが、しかし、私は自分の授業がその「豊かな人間性」修得への第一歩になればよいと考えている。そこで私は文学作品やオペラなどを織り込んだ授業を展開し、ビデオ・DVD等で実際にそれらの芸術作品に触れることで、心揺さぶられるような感動を体験し、それによって学ぶことに喜びを見出して、それが学生たちに「心のゆとり」をもたらし、学生たちの内面的な成長につながる授業をめざしてきた。まさに「感動が人間を育てる」のである。現在の教育においては、小中高であれ、大学であれ、この「物事に感動する」ということが必要なのではあるまいか。「感動する」ということは、「内面的成長」を意味するものであり、「心にゆとり」ができたことをも意味している。「心のゆとり」こそ「創造の源」である。この信念に基づいて、この教員生活最後の1年間を過ごしてきたが、39年経ってやっと自分の満足のできる授業ができたと思う。これも39年間、「ドイツ中世文学とワーグナー」という自分の専門分野を深めると同時に、さまざまな分野にも挑戦していって、自分の視野を広めてきたからであり、また何よりも学部長といったつらくて過酷な職務を経験してきたからでもあり、さらには地域の人たちとボランティア活動をしながら社会と関わってきたからであると思う。「教養教育」の根底には、教員の側にそのような専門性とさまざまなつらい体験も、また社会との触れ合いもあるべきである。今後の徳島大学における「教養教育」はそのようなものであってほしいと願っている。


10. 卒業論文指導

こうして最後の1年間は教養教育院で過ごしたが、同時に総合科学部の併任教授でもあり、総合科学部の専門授業も担当すれば、卒業論文の指導も行った。これまで私のゼミに来る学生は、テーマにグリムや古伝説あるいはワーグナーを取り扱う者が多く、彼らと一緒にさまざまなことを学ばせてもらい、たいへん有意義であったが、今年受け持った最後の卒業生の卒論指導にはこれまで以上にやり甲斐を感じた。「卒業研究」6単位の前には「ゼミ演習」8単位の授業があるが、そこでさまざまな芸術作品を取り上げているうちに、最後の卒業生は2012年に公開されたミュージカル映画『レ・ミゼラブル』に最も感動し、それを卒論テーマにしたいと申し出た。そのためにはヴィクトル・ユーゴーの原作をも読まなければならない。岩波文庫でも600ページ以上ある本が4冊の作品である。かなりの苦労を要する卒論テーマであるが、学生のその作品への「感動」と困難に立ち向かう「熱意」を第一に大切にして、その卒論テーマに取り掛かることにした。卒論指導するからには、教員側も翻訳ながらそのヴィクトル・ユーゴーの原作を読まなければならない。そのほかにさまざまな仕事がある中、その岩波文庫の原作を読み始めたら、たいへんおもしろくて、まさに寝食をも忘れて、3か月間、読書に夢中になった。このように世界文学の大作を読むことに夢中となって、読書を通じて心揺さぶられるような「感動」を覚えたのは久し振りのことであった。私がこの作品に感動したのは、ヴィクトル・ユーゴーの考えに感化されたというより、そこにはまさに私が39年間に培ってきた「信念」が書かれていたからである。これまでなんとなく感じていたことが、ヴィクトル・ユーゴーの言葉で表現されており、まさにこれこそ「究極の教養」というものではあるまいかと思い至ったのである。主人公の一人ジャン・ヴァルジャンのように、苦しい体験をしてきただけに、他人の苦しみが分かり、他人のために尽くすことの喜び、これこそ教育の行き着くところではないだろうかと思ったのである。このヴィクトル・ユーゴーの原作を読んだおかげで、ミュージカル映画のすばらしさもいっそう理解することができた。学生もジャン・ヴァルジャンなど登場人物の生き様から「真の喜びは苦しみから生まれる」「苦しみを乗り越えてこそ、そこに真の喜びがある」という信念をつかんだようで、卒論執筆を通して内面的にも大きく成長したあとが見られて、教員としてもたいへんうれしい限りである。学生の卒論指導をしながら、教員の私の方もこれまで気がつかなかったことに気がついたり、新しい発見があったりで、内面的にも大きく成長したのではないかと自負している。教員は学生の添え木であるが、それも単なる「添え木」ではなく、学生とともに自分も「成長する添え木」でなければならない。教員にとって一番大切なのは、学生に教えることではなく、教員自身が成長することである。教員が成長すれば、それと同時に学生も成長するであろう。教養教育とは常により高いものを求めて生涯にわたって続くもので、「生涯教育」と言ってもよいであろう。


11. 公開講座・講演等

その「生涯教育」と言えば、徳島大学39年間の教員生活の中でも「生涯教育」に係わる公開講座や講演等も数多く行ってきた。現在の徳島大学大学開放実践センターが設置される前には、教養部がその公開講座の大半の役割を担っていたが、教養部時代から総合科学部時代、そして現在の教養教育院を通じて、公開講座は、放送大学での面接授業も含めると、全部で26回担当したことになる。それらは4回から10回の授業から成り立っているので、コマ数で言うと、ものすごい数になるが、これらの公開講座の準備をしながら、いろいろなことを学ばせていただき、視野が大きく広がっていったことをいつも実感したものである。

1回だけ90分間話すのみの講演となると、全部で33回してきた。なかには休憩をはさんで3時間にわたる講演も何回かあったので、ものすごい回数になるはずである。しかも教員生活の後半になって依頼されることが多かったので、あるときには2か月のうちに6回講演をしたこともある。これらの講演の準備をするためには、さまざまな本を読み、いろいろと調べ物をしたり、図版などの配付資料を収集したりで、多忙を極める中、たいへんな苦労を強いられることであったものの、同時にそれだからこそたいへん楽しい作業でもあった。講演の準備等で学んだことも数知れない。講演を依頼してくれた人たちに感謝したいと思う。


12. 究極の教養

以上、39年間の教員生活を振り返ってきたが、私の考える「教育」の行き着くところは、一言で言えば、「社会的な人間性の完成」である。教養とは英語でculture、つまりはcultivate(自らを耕すこと)、ドイツ語ではBildung、つまりbilden(形成する、自らを作り上げること)である。教養とは単なる知識を得ることではなく、自らを耕し、自らを作り上げることである。そのことをゲーテは「個人の一般的教養をめざすという立場を越え、社会に属する人間として有能な存在となり、それによって人間性を完成する」という言葉で表現している。「真の教養」とはまさにゲーテの言うこの「社会的な人間性の完成」である。そのためにはある程度の苦労を強いられることもあるだろう。苦労を伴うものだからこそ、それに挑戦していって、その苦労と取り組む積極的な姿勢が必要である。安易な生活をしようとするのではなく、自ら進んで苦労を自分に課すところから「未来の道」が開けてくるものである。

私の好きな山本周五郎の『赤ひげ診療譚』には私の信念とする言葉が出てくる。「温床でならどんな花もすくすくと育つ。しかし、氷の下でも芽を出そうとする情熱があってこそ、生き甲斐があるのではないか」という言葉である。確かに温床の中でならどんな芽もすくすくと育つ。そうした花は、確かに見た目にはたいへんきれいである。しかし、寒い冬の戸外の下で、じっくりと堪え忍んで、やっと訪れた春につぼみを出す花の方がもっともっと美しいのではないだろうか。そのような花は「美しさ」の中にも「強さ」が感じられるのである。私たちの求めるのは、そういう真の意味で「美しいもの」ではないだろうか。現代の世の中は、目先の目に見える成果 (表面的に美しいもの) だけを求めて、すぐに役立つテクニックだけを身につけようとするが、そうではなく、もっと長い目で未来を見つめて、基礎的なもの(真に美しいもの)を大切にしながら地道に努力を続ける中から「本当の自分」(社会的に有能な人間)を見つけ出すことが大切である。学ぶということは、そのような「本当の自分に出会うこと」である。そのためには目の先だけを見つめるのではなく、未来を見つめて努力していくことである。

「徳島の赤ひげ」と呼ばれている元阿波藩の医師で、のちには町医者となった関寛斎夫妻を題材とした小説に高田郁『あい――永遠に在り』という作品があるが、その中に「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」という言葉が出てくる。関寛斎は徳島にいれば、老後は安楽な生活を送ることができる境遇にあったが、しかし、70歳にして北海道の開拓に取り組んだ人である。まことに「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」である。私も定年退職を迎えるが、教育活動はこれで終わったのではなく、むしろこれからが本番である。教育の形態はこれまでと異なるものの、めざすものは同じであり、地域文化の振興にこれまで以上に努めたいと思う。

「真の歓喜」は「苦しみ」の中から生まれ、「究極の教養」とは、さまざまな苦境にも負けることなく、強靱な心をもってそれに耐えることで、弱い立場にある人の苦しみをも理解できるまでの「心のゆとり」を持つこと、何事も寛容な心で受け容れる「広い心」「柔軟な心」を持つこと、つまりは「包容力」である。大きな川も小さな川も受け容れるために悠然と構えている太平洋のように、何事もおおらかに広く包み込んでしまうような「包容力」を持つことである。これが私の考える「究極の教養」というもので、39年間徳島大学の教壇に立ってやっと辿り着いた、私の理想とする「教育観」である。

徳島大学での教育研究が今後ともさらにますます充実・発展していくことを祈っている。


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