【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第144号
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○「心の支えとなった本16選」(16)

髙田郁『あい――永遠に在り』(角川春樹事務所2013年)
教養教育院教授 石川榮作

徳島大学に着任して早や39年が経ち、もう来月で定年退職を迎えることになった。教育と研究のみならず、地域貢献にも専念することができた39年間であった。その地域貢献の一つに2012(平成24)年度から徳島大学ガレリア新蔵展示室での特別展開催の世話があったが、その第5回特別展(2013年4月~8月)では「徳島の偉人長井長義展示会」を行った。長井長義は日本の化学の道を切り拓いて、薬学の礎を築いた「日本薬学の父」とも呼ばれている徳島の偉人である。徳島大学薬学部の前身である徳島高等工業学校応用化学科に製薬化学部を設置する際にも尽力した人である。その功績を称えて2011(平成23)年度には徳島大学長井長義映像評伝実行委員会により映画『こころざし――舎密(せいみ)を愛した男』が製作された。特別展は「人間長井長義」をコンセプトにその映画の写真も多く展示したのであったが、その展示会の一環事業として上記映画の山田和広監督をお呼びして、映画解説並びに映画上映会を行った。それ以来、山田監督とはときどき連絡を取り合っているが、標記の本はその山田監督から贈っていただいたものである。

標題の「あい」とは徳島藩主の侍医を務めた関寛斎の妻の名前であり、この小説はその夫婦愛を描いている。上記の映画では主人公の長井長義の長崎留学の便宜をはかった人物として登場する。ちょうどよい機会なので、山田和広監督に勧められるまま、読んでみたところ、なかなか興味深いものであった。これから退職後の生活を始めるにあたって、反省も促されたり、また励みにもなった。「心の支えとなった本」というよりこれからの第二の人生で「心の支えとなる本」である。

小説全体は四章から成り、第一章「逢」、第二章「藍」、第三章「哀」、そして第四章「愛」というまさに「あい」尽くしの内容である。

まず第一章「逢」では1835年に上総国(かずさのくに)山辺郡前之内(まえのうち)村で生まれた主人公の幼いあいが、のちに寛斎と名乗ることになる少年豊太郎と出逢い、結婚するまでを取り扱っている。

この2人が結婚してから、徳島に移り住むまでのことを取り扱っているのが、第二章「藍」である。寛斎は佐倉順天堂という医学校を卒業したのち、まずは前之内村で関医院を開業するものの、蘭方医であったこともあって、訪れる患者はほとんどなく、故郷での開業を後悔し始めた。そのうち長男初太郎も生まれてから、寛斎は佐藤泰然先生の勧めにより銚子で開業することになった。その銚子で、調子よくとでも言おうか、寛斎は濱口梧陵(ごりょう)という運命的な人物と巡り会うのである。濱口梧陵は、紀州広(ひろ)村に拠点を置き、銚子に醤油醸造所、江戸に販売店を持つ大富豪であったが、自らは慎ましく、倹(つま)しい者の暮らし向きにも理解が深く、眼差しも優しい人物であった。この人物から寛斎は「日本の医療の堤となる人だ」と、その才能を認められて、長崎留学の便宜もはかってもらい、1年間長崎でオランダの医師ポンペに師事して医学の勉学に励んだ。一旦銚子に戻ったのち、さらに5年間の長崎留学を梧陵から勧められたが、関寛斎はこれ以上厚意に甘えることもできず、返事を先延ばしにしていたちょうどその頃、徳島藩主の侍医になる話が持ち上がって、長崎留学を断る口実ができて、関寛斎は徳島に移住することを決意した。梧陵の期待は裏切られたかに見えるが、しかし、決してそうではなく、そこがこの人物の偉大なところで、梧陵は相変わらず関寛斎に大きな期待を寄せ、妻あいに向かってもこう言う。「関先生に、私はこう話したのです。人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り、と。・・・目先のことに囚われるのではなく、永遠を見据えることです。関寛斎という人物は、何時か必ず、彼なりの本分を全(まっと)うし、永遠の中に生き続ける、と私は信じます。」夫に寄せるこの梧陵の厚い信頼にあいは心打たれて、涙ながらに感動するとともに、感謝の念を示すのであった。

こうして関寛斎夫婦は徳島に移り住むのであり、第三章「哀」はその徳島での28年間の生活を取り扱っている。関寛斎は徳島藩主蜂須賀(はちすか)斉裕(なりひろ)の国詰(くにづめ)侍医として着任したが、決して順風満帆な生活ではなかった。やがて戊辰戦争が始まると、関寛斎は新政府軍の軍医を命ぜられて、敵・味方の区別もなく、負傷兵の手当をして、その評判は高まっていった。元号が慶応から明治に変わって、そのまま東京に残れば更なる道も拓ける境遇にあったが、しかし、関寛斎は「医学を出世の道具とする」ことを嫌い、結局は徳島に戻って来た。徳島に戻ると、もはや藩医ではなく、一人の町医者に過ぎなかったが、しかし、貧しい者からは治療費を取らず、逆に裕福な者からは多額の治療費を取って、町医者としての本分を務めていった。そうしているうちに濱口梧陵がニューヨークで客死したという訃報や、長男生三との確執などがあって、「哀」の生活が続く中でも、妻あいの「愛」によって徳島での生活を28年も続けるのである。そのときあいは58歳になっていた。

最後の第四章「愛」では、その後の徳島での生活と北海道開拓に出かけて、そこでのあいの晩年が取り扱われている。以前から対立状態にあった父寛斎と長男生三との確執も、この頃には溶けていた。関医院周辺の士族屋敷はほとんどが関家の所有となっていた。長男は徳島市内で医院を開業しており、このまま徳島におれば何不自由ない老後を送ることができる境遇にあった。しかし、関寛斎は子供たちがあいとの金婚式のお祝いをしてくれた席で、北海道に渡り、開拓に身を投じたいことを打ち明ける。70歳を過ぎての開拓事業であり、子供たちはもちろん猛反対するが、寛斎の決意は堅い。寛斎の心の奥底には濱口梧陵の「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」という言葉があったのである。この寛斎を支えたのが、どこまでもついて行くという妻のあいであり、寛斎はついに北海道の開拓に乗り出す。寛斎73歳、あい68歳であった。二人は斗満(とまむ)に入植する前に、一端札幌郡山鼻村に仮住まいを構えることにした。そこで斗満に入る時機を雪解けまで待ち、一端寛斎が斗満に出かけてから、準備を整えたところで、あいも斗満に移る予定であったが、しかし、あいは心臓の病で亡くなった。夫に寄り添いながら、夫寛斎を支え続けた一生であった。夫寛斎が開拓に努めた町は、現在陸別町となっている。

このようにこの小説は、夫寛斎の人たる本分を全うすることにおいて下からしっかりと支えた妻あいの愛を描いたものであるが、70歳を過ぎての二人の情熱的な「こころざし」には感動せずにはいられない。定年退職後はのんびりと毎日昼寝でもして、適当に読書と趣味を楽しみながら過ごしてやろうと安易に考えていた自分が恥ずかしいくらいである。この本を読んでから、自分の本分は一体どこにあるのか、真剣に考える機会ともなった。関寛斎のようなスケールの大きい仕事は、凡人の私にはとてもできそうにないが、しかし、私は私なりに自分の特徴を活かした社会貢献ができるのではないか。「文学と映像」というライフワークを他人のために活かすことしかできないが、それを通じて地域文化の活性化に貢献できればと思うに至った。この境地に辿り着くことができたのも、標題の本を読んでからであり、その意味でもこの本は「心の支えとなった」というより、これから「心の支えとなる」本である。「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」という言葉の意味をしっかりと噛みしめながら、今後とも読書を重ね、その知識を他人のために活かせるような人間になれるよう努力していきたいと思う。本連載の第3回目にも書いたことであるが、「個人の一般的教養をめざすという立場を超え、社会に属する人間として有能な存在となり、それによって人間性を完成する」ことが、社会で暮らすすべての人間に課せられた「人たる者の本分」であろう。私たちが携わる大学教育に課せられた使命もそこにあるのではないかと思う。

以上、16回にわたって書き続けてきた「心の支えとなった本16選」を終えることにしよう。今後ともいっそう読書を続け、「心の支えとなる本」に出会いたいと思う。長い間、お読みいただいたことに、心より感謝する次第である。


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