【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第142号
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○「心の支えとなった本16選」(14)

ミシェル・カズナーヴ(中山真彦訳)『愛の原型――トリスタン伝説――』(新潮社)
教養教育院教授 石川榮作

徳島大学に着任して早や39年が経ったが、この39年間、さまざまなことに励んでいるうち、ライフワークと言える4つのテーマに出会うことができた。まず1つ目は大学院時代から携わっているもので、ドイツ中世英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を中心とするニーベルンゲン伝説の系譜研究である。2つ目は同じく大学院時代から関心を寄せているもので、このドイツの『ニーベルンゲンの歌』とわが国の『平家物語』との比較研究である。3つ目はジークフリート伝説の系譜研究との関係で、特に徳島大学に着任してから着手しているワーグナー研究である。そして最後の4つ目がジークフリート伝説と並ぶトリスタン伝説の系譜研究である。これも大学院時代から関心を寄せていたものであるが、時間的なゆとりがなく、長いこと着手できないままであった。ジークフリート伝説の系譜研究もだいぶまとまり、数冊の著書を書いてからようやく取り掛かったものである。そこにはワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』が根底にあったことは言うまでもない。学部長を務めている頃、身も心も引き締めるために、トリスタン伝説の系譜研究に取り組み、ワーグナー生誕200年の2013年(平成25年)にはその成果として平凡社から『トリスタン伝説とワーグナー』(平凡社新書)を出版することができた。この著書を執筆中には熊本大学文学部で同じテーマで集中講義をする機会にも恵まれたが、そのトリスタン伝説の系譜研究 を1冊にまとめていく段階で繰り返し読んだのが、標題のミシェル・カズナーヴ(中山真彦訳)『愛の原型――トリスタン伝説――』(新潮社)である。読み返すたびにさまざまなインスピレーションを得て、研究が着実に広がっていき、執筆も着々と進んでいったものである。挫折したときにも、これを読めば、また初心に返るきっかけをつかむことができ、その意味でも「心の支えとなった本」の1つである。

本書はトリスタン伝説の系譜研究には最適の研究書であり、前半の第一部「トリスタンとイズー (イゾルデのフランス語標記) 物語」ではトリスタン伝説の素材となったケルトの原型から考察されている。主人公たちの名前の語源まで説明してくれている。まずトリスタンの名称については、中世の物語作者たちは「悲しみ」(トリステ)を通してこの世に生まれてきたことに関連づけたのであるが、この名前はもともとケルト系ピクト語 (古代スコットランドで用いられた言語) から来ていて、「騒乱、騒ぎ」を意味しており、起源はケルトであることがその記述(28ページ)から分かる。その相手役のイゾルデにしても、ケルト系ピクト語のイッシルトがその語源であり、その人物はアイルランドの妖精で、「神秘的な姿、熟視すべきもの」を意味し、また一方ではケリドヴェンの湯水の象徴であるという説などもあるが、いずれにしても女性の神秘性を象徴し、男性を導き、男性にとって精神世界を表し、媚薬とも結びついて、文字どおり「生命の水」であり、水(海)による甦生(そせい)と精神世界への導きの媒介をなすものである(68-69ページ)と説明されている。そのほかの登場人物についても、その語源が示されて、そういう意味においてもたいへん有益な研究書である。

後半の第二部「物語の周辺」ではもちろんワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』についての解説も詳しくなされていて、いろいろと有益なインスピレーションを与えてくれる。上記の平凡社新書を執筆中には、いろいろなヒントを与えてくれたことは言うまでもない。最後の方には宮廷風恋愛の掟まで記載されていて、その掟のうち2つを挙げておこう。


容易(たやす)く得られた恋は価値が少なく、征服が困難であった恋ほど価値がある。

恋する女に不意に出会った時は、男の胸は打ち震えるのでなければならぬ。


このような中世ヨーロッパの騎士道風恋愛の一端を垣間見ることもできる。隅から隅まで興味深い本である。

そのほかにトリスタン伝説とは関係ないところでも、印象に残っている記述がある。それはニーチェの次のような言葉が注で引用されている部分である。すなわち、「重要なのは先頭を歩くことではない。(それはせいぜい羊飼いのすることだ。つまり羊の群れからいちばん要求されることだ。) 大切なのは、自分だけの道を行き、人と異なって生きる術を知ることだ」とある。以前には気にもとまらなかった箇所であるが、学部長を務めているときには、大いに感動してしまった。ちょうど総合科学部では学部2年終了時と4年終了時には成績優秀者を表彰しているが、その表彰式の学部長挨拶ではこの言葉をもじって利用させてもらったものである。


卒業生の皆さんには、成績優秀で「有終の美」を飾って、まことにおめでとうございます。皆さんは卒業生285名の中でもトップを走る成績優秀者として表彰されたわけです。トップを走ることは本当にすばらしいことです。しかし、もっと欲を言えば、大切なのは、先頭を走ることではなく、自分の道を切り開いていくことです。これからはトップを走りながらも、是非、自分の道を切り開いていただきたいと思います。道は未知ですが、志あれば必ず開けてきます。皆さんの今後のますますのご健闘をお祈りしています。


これは卒業生に贈る言葉であるばかりではなく、自分自身にも言い聞かせている言葉である。先頭を走ることに気を奪われずに、しっかりと自分の道を見つけ出して、今後とも一歩一歩新しい道を切り開いていきたいと思っている。それはこの「心の支えとなった本16選」(2)の『道をひらく』にも戻っていくことになるが、しかし、それは決して後退ではなく、時間的にも精神的にも前に進んでいることを意味している。初心に返り、時には反省をしながら、努力を繰り返し継続していくところから、必ず新しい道が開けてくるものである。このようなことを考えさせてくれたという意味で、標題の本は「心の支えとなった本」である。


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