【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第137号
メールマガジン「すだち」第137号本文へ戻る


○「心の支えとなった本16選」(9)

エッカーマン(秋山英夫訳)『ゲーテとの対話』(社会思想社、教養文庫)
教養教育院教授 石川榮作

昭和53年4月、徳島大学教養部にドイツ語教員として着任した。当時26歳で、65歳の定年退職までは39年間もあり、どっしりと腰を据えてドイツ語教育のかたわら、ドイツ文学研究にも携わることができるようになった。一日一日を大切にして、着実に前進しようと決意を新たにしているその着任当時に、手にして読んだのが、標題のエッカーマン(秋山英夫訳)『ゲーテとの対話』である。この本は大学生のときに買って、もうすでに何度か読んでいたものであるが、とても印象に残っていたので、気持ちを新たにするためにも再読したものである。それ以降、常にかたわらに置いて、人生の節目ごとにたびたび読んでいるものである。私の充実した長い教員生活を支えてくれた名著である。

著者のエッカーマン (1792-1854) はドイツの詩人・作家であり、詩論『詩への寄与』(1823)という原稿を送付したことから老ゲーテ (1749-1832) と知遇を得て、それ以降ヴァイマールに移り住んで、ゲーテの身辺に仕えて、ゲーテの晩年の諸大作の完成に貢献した人物である。『ゲーテとの対話』はそのゲーテとの交流から生まれたもので、感動的な対話が収録されている。標題の秋山英夫訳はその本の抄訳であるが、それだけに感動的な記述がコンパクトにまとめられていて、読むたびに新しい感動を覚える作品である。

まず冒頭の「一歩一歩が目標」からもうすでに教訓的で、また感動的でもあり、この本にたちまち惹きつけられてしまう。ゲーテはエッカーマンに「大作なんかに手を出さないように気をつけるんだね!」(10ページ)とアドバイスするが、その理由としては「大作など頭にあると、それだけで頭が一杯になってしまい、せっかくの思想もひっこんでしまい、生きることそれ自身の楽しみでさえ、そのあいだは失われてしまう」(11ページ)というのである。ゲーテとエッカーマンとの対話では、文学作品での大作のことを話題にしていて、私たちとはレベルがかなり異なるが、しかし、このことは普通の人間の仕事についても言えることではあるまいか。私もドイツ文学研究者としてこれから長く研究論文を書いていかなければならないが、そのとき最初から大作の論文を書こうとは思わずに、自分相応の論文を毎年1本ずつコツコツと書いていこうと思ったものである。ときには内容が陳腐で、ヘマをやらかすこともあるだろう。そのようなことを考えたとき、「たまに多少失敗したとなっても、それで何もむだになったわけではない」(12ページ)というゲーテの言葉には、大いに勇気づけられたものである。しかし、いつかはいい論文が書けるだろうと、安易な気持ちでいることも許されない。「いつかは目標に行きつけるといった歩き方では不十分だ。一歩一歩が目標であり、どの一歩も一歩としての値打ちがなければいけない」(12-3ページ)とゲーテが締め括っているところを読んだときには、「これこそ自分が日頃心に思っていたことを言葉で言い表したものだ」と確信したものである。それ以来、この言葉は私の強い信念の一つとなっており、授業の中でも学生がだらだらとしているときにはよく次のように言い聞かせる。「いつかは卒業できると思ってはいけない。一日一日の授業、一時間一時間の授業がそれなりの値打ちを持っていなければならない。その一日一日の努力の結果が卒業につながるのだ」これはただぼんやりと授業を受けている学生への忠告であるだけではなく、私自身への戒めでもある。本書には「生産的」という言葉がよく出てくるが、私たちの生活はまさに日々「生産的」でなければならないのである。

この精神に則って私は、決して「器用」なタイプの人間ではなかったが、コツコツと努力を重ねて毎年1本の論文を紀要論文に掲載することを自分への課題とした。徳島大学着任当時から定年退職を前にした現在、おかげさまで毎年「欠かさず」論文を「書かせて」いただいている。毎年こうして論文を書き続けてきたのは、決して教授になるためでもなかったし、またなんらかの名声を求めてでもなかった。書くことで、毎年少しでも前に一歩前進したかったからである。「名声は求めて得られるものではない。名声を求めるすべてのあがきは無益である」(64ページ) というゲーテの言葉も本書には収録されている。「利口にふるまい、いろいろと手管を弄して、一種の名声をつくり出す人がいるが、心の中に宝石がなければ、それは虚名というもので、永続きしない」(同箇所) とも続けて書かれている。名声というものは、努力を重ねていって、その結果として得られるものであり、それが最初から目的であってはならない。まずは「心の中に宝石を持たねば」ならない。まだまだその境地に辿り着いていないが、絶えずこのまま歩き続けることにしたいと思っている。

本書でもう一つ大きな感動を覚えたのは、太陽の永遠の輝きについて、「太陽が沈んで行くように見えるのはただわれわれの肉眼にそう見えるだけで、決して沈んで行くのではない。たえず輝きつづけているではないか」(74ページ)と述べている場面である。この言葉は、ゲーテが75 歳を迎えて、人間の精神の不滅を確信している箇所で、人間の精神を「永遠から永遠へとはたらきつづける太陽と同じことなのだ」として太陽になぞらえているときのものであるが、私はこの言葉から、「あるものを見る際には、自分の目から見るだけではなく、それと同時にもう一つ大所高所から眺める必要がある」ことを学び取った気がする。文学作品と接するときにも、距離を置いて、作品解釈をしていく必要があるし、授業にしても教員である自分の目線だけではなく、学生の目線から、さにらは人間全体の目線から見ていく必要もあると思うに至ったのである。本書の「創造性の問題」の箇所では、「つねに全体を志して努力せよ。君自身が全体になれない時は、全体に仕える個として全体につながれ」(106ページ)というゲーテ詩集の中からの2行詩も引用されている。また別の箇所では、ゲーテの作品『タッソー』の中から、「人の中にまじわってこそ、自分というものがわかるのであって、人生のみが各人に自分の本当の姿を教えてくれるのだ」(120ページ)という言葉も引用されている。一個の人間たるものが社会の全体とどのように関わっていかなければならないか、このことについても大切なことを教えられた気がする。このように自分というものの存在についていろいろと考えさせてくれただけではなく、仕事をしていく上で私を大いに励ましてくれたという意味で、本書はやはり「心の支えとなった本」のうちの一冊である。


メールマガジン「すだち」第137号本文へ戻る