【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第136号
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○「心の支えとなった本16選」(8)

ショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について』(岩波文庫)
教養教育院教授 石川榮作

昭和51年3月に大学院修士課程を修了すると,4月からはそのまま博士課程に進学した。修士課程の2年間は授業が多いうえに修士論文の執筆などもあって,自由な読書の時間にも制約があったが,博士課程になると,授業も少なくなって,年度末にレポートを提出するだけでよいので,かなり自分の自由な時間が持てるようになった。北九州市にある私立大学にドイツ語の非常勤講師として週1回出講したり,福岡市内で医学部生のドイツ語の家庭教師に出かけたりして,結構忙しくもあったが,しかし,それらの往復の列車あるいはバスの中では定期的にかなりの読書ができた。大学院の授業も非常勤の授業も,また家庭教師のアルバイトもない日には,たいていは下宿に閉じこもって読書に専念した。この頃が私の人生で最も読書量の多い時期で,年間200冊くらいは読んでいたと思う。3日に1.6冊の割合である。外国文学と日本文学の作品を中心に,評論やエッセイ,実用書,その他趣味などの本も含めて実にさまざまな種類の本を片っ端から読んでいった。まさに濫読である。この濫読の最中にその濫読の1冊として手に取って読んだのが,標題のショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について』(岩波文庫)である。

本書は「思索」「著作と文体」「読書について」の3篇を収録したものであるが,特に「思索」と「読書について」では,「読書は自分の頭ではなく,他人の頭で考えることであり」 (9ページ),「本を読む我々は,他人の考えた後を反復的にたどるにすぎない」(91ページ)として,「自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには,多読を慎むべきである」(13ページ) とか,「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は,次第に自分でものを考える力を失って行く。常に乗り物を使えば,ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である。彼らは多読の結果,愚者となった人間である」(91ページ)とある。その数行あとには,「発条(ばね)に,他の物体をのせて圧迫を加え続けると,ついには弾力を失う。精神も,他人の思想によって絶えず圧迫されると,弾力を失う。食物もとりすぎれば胃を害し,全身をそこなう。精神的食物も,とりすぎればやはり,過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど,読まれたものは精神の中に,真の跡をとどめないのである。つまり精神は,たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである」(92ページ)ともある。多読をしている時期だっただけに,まったく面喰ってしまった。読書は本当に「毒書」なのだろうか。

しかし,本書のその先を続けてよく読んでみると,思索を伴わない読書は慎むことを警告しているように思われる。思索を行わないで多読をした場合には,そのようになるのであって,熟慮を重ねていけば,「読まれたものは,真に読者のものとなる」(92ページ),続けて引用すれば,「絶えず読むだけで,読んだことを後でさらに考えてみなければ,精神の中に根をおろすこともなく,多くは失われてしまう」(同箇所)というのである。真の意味での読書の心得を教え諭すような言葉であるが,読んだものを自分の精神の中にとどめおくためには,「重要な書物はいかなるものでも,続けて二度読むべきである」(99ページ)ということになるのであろうか。二度目になると,確かに全体のつながりが分かって,個々の箇所の理解も深まってくるし,その個々の箇所をめぐって思索を重ねていくことにもつながっていく。また読み終わって,もう一度読んでみたいと思う本に出会うと,二度目にはさらに思索が深まっていく。二度と言わず,三度,四度と繰り返し読みたくなるような,そのような内容の本に出会いたいものである。

その思索あるいは思想について,本書にはおもろしい記述がある。「心に思想をいだいていることと,胸に恋人をいだいていることとは,同じようなものである。我々は感激興奮のあまり,この思想を忘れることはあるまい,この恋人がつれなくなることはありえないと考える。しかし,去る者は日々に疎(うと)しである。美しい思想も,書きとめておかなければ,完全に忘れられて再現不可能となるおそれがあり,最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ,我々を避けてゆくえも知れず遠ざかる危険がある」(16ページ)というのである。読書の際に展開させた思索をできるだけ長く自分のものとしておくためには,書き留めなければならないということなのであろうか。確かに書き留めることによって自らの考えが整理されるだけではなく,よりいっそう堅固なものとなり,いつまでも自分の心に残り続け,真の意味で自分のものとなるものである。それが真の意味での「教養」というものであろうか。

ただその「教養」というものは,いくら「強要」したところで,すぐに身につくものではない。ショウペンハウエルも,上記の箇所で,「一般に精神的食物も,普通の食物と変わりはなく,摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで,残りは蒸発作用,呼吸作用その他によって消え失せる」(92ページ)と述べている。肝心なことは,やたらと読みまくる(食べまくる)のではなく,図書(食物)を厳選したうえで,思索を伴った読書(栄養バランスのとれた食事)をすることであろう。

本書で述べられているショウペンハウエルの考え方はあまりにも高度過ぎて,そのまま受け入れたら,私の読書という行為は成立しないものとなってしまうくらいであるが,しかし,私は私のレベルで読書を続けていく中で,警告されたり,また教訓を与えられたりして,考えるところが多かった。読書をしていくことが私の人生の大半を占めており,人生の節目ごとに本書を読んでいくたびに,それまでの読書方法について反省を促されてきたという意味で,本書は「心の支えとなった本」の中の1冊である。本書の冒頭には,「数量がいかに豊かでも,整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく,数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であれば,すぐれた効果を収めるが,知識の場合も事情はまったく同じである」(5ページ)とある。すべてはこの言葉に尽きるのではないだろうか。わが国の三木清も『読書と人生』(新潮文庫)の中で,「真の読書家は殆どみな濫読から始めている。しかし濫読から抜け出すことのできない者は,真の読書家になることができぬ」(99ページ)と述べている。私の今の心境をそのまま言い当てている言葉である。ショウペンハウエルの境地にまではなかなか辿り着けそうもないが,私は私のレベルで思索を伴う読書を続けていきたいと思う。読書の真の意味を教えてくれたという点で,本書は「心の支えとなった本」である。


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