【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第135号
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○「心の支えとなった本16選」(7)

石母田正『平家物語』(岩波新書)
教養教育院教授 石川榮作

昭和49年4月に大学院文学研究科 (独文学専攻) 修士課程に進学し,そこでライフワークとなるドイツ中世英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に出会ったことは,前回において述べたが,この『ニーベルンゲンの歌』との関係でもう一つ私のライフワークとなった作品として『平家物語』を挙げねばならないであろう。『ニーベルンゲンの歌』は,最初に古代ゲルマンの伝説があり,それが5,6世紀にはライン河畔フランケンの領土で歌謡として歌われていたもので,やがて13世紀初頭には叙事詩の形式で現在のオーストリア地方で成立した作品である。これに対してわが国の『平家物語』は12世紀末の源平合戦を素材として最初のうちは琵琶法師が語り伝えていたもので,その原型は中世の初期,1221年の承久の乱以前に成立したものだと言われている。いずれも最初は語り物として生成発展していったもので,現在の私たちに伝えられているその作品の成立事情はかなり複雑であるものの,成立年代がほぼ同じであるという点のほかに,いずれもリズミカルな文体で書かれた作品であり,しかも滅亡をテーマとした作品であるという点でも共通している。日独比較文学の観点から研究すれば,結構おもしろいのではないかと思い,『平家物語』関係の本も,現代語訳と付き合わせて原典を読むだけではなく,研究書や解説書に至るまで片っ端から読んでいった。その中でも特に印象に残り,それ以降も繰り返し読んでいるのが,標題の石母田正『平家物語』(岩波新書)である。

大学院生時代に初めてこの本を読んだときには,まず「第一章 運命について」に強い感銘を覚えた。この運命というテーマで『平家物語』の中で見逃すことのできない人物として石母田氏は,平清盛の嫡男重盛,その重盛の弟新中納言知盛,そして平家の家人(けにん)として有名な斎藤別当実盛の3人を取り上げて,論述していくのであるが,なかでもこれまで気がつかないような脇役の存在に過ぎなかった知盛に注目することを促してくれた点で,たいへん得るものが多かったと思う。知盛と言えば,巻十一「内侍所(ないしどころ)の都入り」で「見るべき程の事は見つ,今は自害せん」と言って,壇ノ浦の海に身を投げた人物としてのみ理解していたが,この知盛からは作者の眼と精神,作者が時代に対して立っている場がどのようなものであったかを窺うことができる(18ページ)というこの著書の主張によって,知盛が『平家物語』においていかに大きな役割を果たしているかということに気づかされたのである。『ニーベルンゲンの歌』で言えば,後編に出てくるベッヒェラルンの辺境泊リューディガーのような存在であり,比較研究すればおもしろいと感じたほどである。知盛に出会えたという点で,本書は私にとって重要なものである。

また「第二章 平家物語の人々」の中では,とりわけ平清盛,木曽義仲,そして源義経が取り上げられて,『平家物語』全体の主要な人物として論述されているが,いろいろと教えられることが多くてたいへん有益であった。『平家物語』全体はこの3人がバトンタッチをするかたちで,平家と源氏を問わずに「たけき者」の滅亡の物語が展開されていくのであり,物語全体の大きな柱になっていることは確かであろう。

その後,徳島大学に着任してからも何度かこの石母田氏の本を読んだが,繰り返し読んでいくうちに,「第三章 平家物語の形式」と「第四章 合戦記と物語」にも興味を持つようになった。著者の石母田正氏は,とりわけ『平家物語』巻六が作品全体の縮図の性質を持っている (126ページ)として,巻六の分析を行い,それを『平家物語』全体の作品構造に結び付けている点が特に示唆に富むものである。それによると,巻六には年代記的なもの,説話的なもの,物語(ロマンス)的なもの,そして合戦記的なものなど,性質の違ったものが雑多に含まれているが,しかし,その雑然としたものを貫いている骨格がある(195ページ)として,それを次の五つにまとめている。まず第一は,巻頭の「たけき者も遂には滅びぬ」,「久しからずして亡じし者ども」と,それに対応する巻末の「それよりしてこそ平家の子孫は絶えにけれ」の結びに表れている骨格,第二は,各巻の初めと年の変わり目に表れている年代記的な叙述形式に表現されている骨格,第三は,清盛―重盛―維盛―六代御前と貫いている平氏嫡流の興亡の物語に表れている骨格,第四は,内容上異質なものであっても,語り物としての統一,従って文体=声調の統一が存在するということ,そして第五は,無常観あるいは運命観に表れている作品としての思想一貫性が認められるということである。『平家物語』と言えば,まず作品冒頭の「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり」を思い浮かべて,無常観を物語った文学作品だと思ったり,高校の古典の教科書に出てきた合戦譚から軍記物語であると思いがちであったが,石母田氏の著書によって,現在私たちが普通読んでいる『平家物語』(岩波文庫版などの覚一別本)は決してそれだけではないことがよりよく理解できると言ってもよいであろう。

石母田氏のこの説明は、現在の『平家物語』が最初の原平家物語から多くの人々の手を経て次第に増補されていったことを教えてくれるが、これは『ニーベルンゲンの歌』とはまた異なる作品構造であることにも気づかせてくれた。『ニーベルンゲンの歌』の作品構造は前編と後編とが有機的な結び付きを見せて、全体で二つの悲劇が展開していく構造を示している。たとえてみれば、『ニーベルンゲンの歌』は吊り橋のような構造をしていて、前編と後編のエピソードのいずれかがなくなれば、全体が崩れ落ちるような緊張感に支えられた作品である。それに対して『平家物語』は日本のお城の石垣のような構造をしていて、たとえば、清盛の横暴の犠牲となった「祇王」や「小督(こごう)」のエピソード(石垣)が取り除かれたにしても、その城が崩れ落ちることはない。しかし、そのようなエピソード(石垣)があるからこそ『平家物語』の城は揺るぎないものとなっているのである。その豊饒 (ほうじょう) の世界にこそ『平家物語』の魅力があると言ってよいであろう。

このような『ニーベルンゲンの歌』と『平家物語』の比較研究に私を導いてくれたのも、標題の石母田正『平家物語』(岩波新書)である。やがて徳島大学ではこの比較研究を授業や公開講座でも取り上げるようになり、今ではライフワークとまで位置づけるようになっている。高校時代には古典が苦手で、古典はまさに「こてんこてん」であったが、今ではドイツ文学以上に好きでたまらないものとなっている。『平家物語』に限らず、『方丈記』や『徒然草』はもちろん『源氏物語』などにも興味を持ち、日本にこそ世界に誇れるすばらしい古典文学作品があることを認識するに至った。また『平家物語』の影響で歌舞伎にも興味を持つようになった。『ニーベルンゲンの歌』でオペラと出会い、『平家物語』で歌舞伎にも出会うこととなり、新しい自分に出会うことができたと言ってもよいであろう。学ぶということは、それまで気がつかなかった新しい自分に出会うことである。決して平坦な道ばかりではなかったことは、言うまでもないことであるが、しかし、研究に行き詰まったときなどには、この標題の著書を読めば、勇気とエネルギーを与えてくれたものである。その意味において本書はやはり「心の支えとなった本」のうちの1冊であり、私の研究生活になくてはならない本であると言ってもよいであろう。


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