【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第134号
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○M課長の図書館俳句散歩道 (さようならの巻)

今まで,長い間ご愛読をいただきました。わたくしごとで恐縮ではありますが定年となり今回をもって最終となります。

物事には,はじまりがあれば終わりがあり,出会いがあれば別れがあります。まさに鴨長明の方丈記の冒頭にある「ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず」の気持ちです。

この移ろいゆくはかなさそのものが『方丈記』に流れる無常観ですが,未来はいずれ現在に,現在はいずれ過去になっていきます。

そして,過去へは再び戻ることはかないません。だからこそ今この時,精一杯生きるしかないことを,今回の「さようならの巻」としてあらためてかみしめる思いです。


俳句はその一瞬を切り取る芸術です。場面であったり思いであったり,何よりも自分の心の輝きを表現し,十七文字という器の中に映し出してくれるスクリーンなのかもしれません。


徳島といえば阿波踊りですが,徳島市の象徴である標高279mの美しい山を「眉山」と呼称したのは享保9(1724)年,歌人であった蜂須賀古武が京都の歌人有賀長伯を招いて徳島城内で歌会を藩士たちと供に催した時であったそうです。

長伯は,眉山の霞と題して「立春のみどりをこめて佐保姫の粧ひふかく霞む山まゆ」と詠みました。

また,眉山山頂には,船王(ふなのおおきみ)が詠んだ万葉集にある和歌の文学碑があります。


眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ舟 とまり知らずも


眉のように遠い空の彼方に見える阿波の山,その方にかけて漕いでいる舟の泊まるところは,どこだろう。

どの方位から見ても眉の形をしていることから名付けられた眉山は,万葉の時代から徳島のまちを見守るように堂々たる山容を誇っています。


木々は芽吹き,冬の静かな風景が一変する「山笑う」眉山,新緑の瑞々しさに萌える「山滴る」眉山,「山装う」錦秋の眉山,雪景色に気高く美しく輝きながら「山眠る」眉山。

眉山はいつも傍にいます。

徳島大学附属図書館が,映画「眉山」のロケ地であったことはご存知ですか?

図書館でDVDを借りて是非さがしてみてださい。


私の大好きな「さだまさし」さんの「眉山」につぎの歌詞があります。


遠い故郷のようなあなたを愛して生きた

眉山にかかる月のように手は届かなくてもいつでも傍にいた


図書館は いつもあなたの 傍におり 眉山にかかる 白き月影


徳島を去るにあたり,眉山は私にとっては,いつもそばにいてくれた心の山です。


私の座右の銘ともいうべき好きな言葉は,「春風接人」です。春風の心を以て人に接するという意味です。四季の歌の冒頭の歌詞「春を愛する人はこころ清き人 すみれの花のような僕の友だち」 人生は,もの淋しい「秋風」,冷たい「北風」そして,「向い風」が吹きます。


「目的地を持たない船には追い風は吹かない」


社会に旅立つ皆さん,大学院に進む皆さん,今一度 自分の目的を確認してください。

そしてその目標に向けてしっかりと歩いていってください。やがて困難であろうと思った「向い風」は,その目標を見失わない限り,「追い風」になります。


人生には無常の風が吹いています。風を感じる生き方を,俳句を通して私は学びました。


仰げばいつも微笑み返してくれる眉山,吉野川に風薫る阿波の里,そして藍と愛のあふれる徳島の人はあたたかく春風そのものでした。


私にとって第ニのふるさとになりました。


さて,愛読していただきました皆さんにお礼として俳句の作り方を伝授したいと思います。

これができれば免許皆伝です。

なかなか難しいですが,それを楽しむ余裕をもってチャレンジしてみてください。


俳句を作る極意は「引き算でつくる」ことを心がけてください。


俳句は「省略の文学」「沈黙の文学」と呼ばれています。


小説のように多元的な世界は表現できません。ぎりぎりに限定された言葉の空間の中で,季語と切れ字を有効に生かしながら不要な言葉を切り捨てていきます。そこに余情と拡がりのあるポエジーを表現します。


1 まず「我」を切り捨てます。私という主語を切り捨てて主張しません。


2 焦点をしぼり結論のみを言い切ることにより「省略」を普遍化します。


3 短歌は抒情,俳句は即物です。そこにものがあることを詠めば十分です。


4 問答無用と刀を一振りする心です。句の説明はしません。明快な感動が主体です。


5 時間の経過は省きます。大きな詩的感動を呼ぶための省略こそが余白の詩情を生みます。


6 潔い表現に,言わずして思いは深く・・・


7 複雑な対象を極度に単純化し,叙述を節約して一息に表現します。


8 切れ字を使って無駄な動詞を省略します。



さようなら・・・

という言葉が残す余韻。

皆さんは,この言葉の意味をご存知でしょうか?

さようならの語源や由来は,「左様ならば(さやうならば)」の「ば」が略され,挨拶になった言葉です。現在で別れ際に言う「じゃあ,そういうことで」のようなもので,「さやうならば(さようならば)」は,「そういうことならば」を意味します。


『さようなら』の言葉にある『さよう』は,『そう』の丁寧な言い方で,『そう(さよう)ならねばならぬのなら』という言葉が人間味溢れる”美しいあきらめの表現”です。


なぜ人間は,別れの言葉を告げて,別れるのでしょうか。


英語の別れの挨拶は,「グッドバイ(Good bye)」だと思っていましたが「グッドバイ」と言う人は少なく,多くの人は「シーユー(See you)」と挨拶をするのだそうです。

フランス語のアディユも,神のみもとでの再会を期しています。

中国語の「サイチェン」も, 漢字「再見」は「また会いましょう」という意味の挨拶です。世界の人は「また会いたい」という気持ちを,別れの挨拶で表現しています。


それなのに,日本人は,別れにのぞんで,そうならねばならぬのなら,とあきらめの言葉を口にします。


『もう二度と会えないかもしれない』という, 切なさ,儚さ,さびしさ,あきらめは,相手の最後の姿を目にしっかりと焼き付けようと,姿が見えなくなるまで互いに振り返り,手を振るという行動に結びつくのかもしれません。


『さようなら』という言葉が残す美しい余韻。


儚さと覚悟が入っているこの言葉の意味,そして重みを理解して使いたいと思います。

そしてそれが今なのかもしれません。


「じゃあね」「またね」と言って,明日会えることが当たり前である毎日と違う日がやがて来ます。


人が会って別れていくときに,もう会えないかもしれないと感じるようになるのは,どういう瞬間でしょうか?


「別れ」「離れ」は,人間として味わわなければならない悲しみでもあり,仏教の四苦八苦の一つである「愛別離苦」という,愛するものと別れ,離れていかなければならない苦しみでもあります。


しかし,この別れを惜しむ気持ちこそ,また俳句の中では,ひとつの「いのち」としての表現です。


NHKで放送された連続テレビ小説「花子とアン」の最後の美輪明宏さんのナレーション「ごきげんよう さようなら」に,心があたたかい気持ちになりました。


「ご機嫌良う」は,「次回会うまでご機嫌良くお過ごし下さい」そして「お元気で」といった意味です。


相手に対するおもいやりの気持ちを伝えた「ご機嫌良う」が,別れを惜しむ「さようなら」と結びついた時こそ,また「会いたいね」「きっと会える」に変わっていくと思います。



このほどを 花に礼いふ わかれかな     芭蕉


芭蕉45歳の時,伊賀上野の瓢竹庵から,吉野へ旅立つ時庵主に残した句です。

滞在中は,まことにゆっくりと心地よくさせていただいたお礼を花にむかって述べています。

花を主人に比して,主人へのお礼の挨拶の句です。ゆとりのある言い方に,あるじに対する感謝の心もちも十分に伝わってきます。芭蕉のまことのこころが読み取れる風雅の句です。



皆さんもいつかキャンパスを去り,また,就職などの転勤で徳島から愛する家族や友人など大切な人と離れてしまうことがやがてくることになります。

どうぞ,心の片隅にそのことを少しだけ気にとめてください。

そうすれば,今,この時に出会う様々なことがいかに,かけがえのないことか,そして有り難いことであるかを感じることができると思います。

人との不思議な「えにし」や「きずな」を感じながら,お互いに「大丈夫?」「大丈夫だよ」といえる春風のようなあったかい関係をきづいていけると思っています。


やがて別れがくること,さようであるならば,いつでもそばにいてくれる眉山のように,その大切な想いを胸にあらたなステージと夢に向かって,さっそうと翔びたってください。


長い間,ご愛読いただきありがとうございました。 どうぞお元気で

ご機嫌良う さようなら・・・・・



さようなら 眉山をすだつ 春の風


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