【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第132号
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○「心の支えとなった本16選」(4)

ゲーテ(佐藤通次訳)『ヘルマンとドロテーア』(岩波文庫)
総合科学部教授 石川榮作

前回は大学生となって専門科目との関連で読んだ手塚富雄『ドイツ文学案内』を紹介したが、今回はその本の中でも感動的に書かれているゲーテの『ヘルマンとドロテーア』(1797年)という作品を紹介しよう。この作品に初めて触れたのは、大学3年生のときで、しかも「独文学講読」の授業でドイツ語の原文で読んだ。そのときいつも傍らに置いて参考にしたのが、標題の佐藤通次訳 (岩波文庫) である。この岩波文庫は、昭和53年に徳島大学教養部に着任したのち、数年後に始まった「名著講読」の授業でも教科書として使い、学生と一緒に再読することで、私の愛読書の一つとなったものである。その後も、何かの折りに手にするが、そのたびに常に新しい感動を呼び起こしてくれる名著である。

このゲーテの作品『ヘルマンとドロテーア』は叙事詩形式で書かれており、前回取り上げた手塚富雄氏の著書から引用すると、「形式の上ではギリシャ以来のヘクサメーター (六韻脚) を踏んでいながら、内容では、当時のドイツの小都会の市民の生活と精神をあつかっているところが、まず文学的に興味がある。それは大げさな英雄などの冒険談と袂別して、現代の平凡人にかかわりのある身近な題材を取り上げている」(95ページ) 作品である。あらすじを簡単に紹介すると、フランス革命の動乱の中、ドイツの小都市に住む青年ヘルマンは、フランス軍に追われてライン地方から移動している避難民の中に、一人の健気(けなげ)な女性ドロテーアを見つけて、彼女に一目惚れしてしまい、必死になって父親や近所の大人たちを説得して、ついには彼女と結婚するというものである。平凡なあらすじでありながら、作品の随所には登場人物の台詞(せりふ)のかたちで格言や名言が織り込まれていて、一行一行に奥行きのある意味が込められている。

全体が九歌から成るこの作品のあらすじは、主に青年ヘルマンの両親である「金の獅子屋」の主人とその女房、薬種屋、牧師、そしてヘルマンとドロテーアの台詞によって展開されていくが、第二歌で独身の薬種屋が「このような物騒な時節には独身者が仕合わせですなあ・・・なんせ、逃げるのはひとり身にかぎりますよ」と意見を述べたのに対して、避難民に施し物を届けて帰ってきたヘルマンが口にする言葉は、格言風で注目に値しよう。


「それはあんまりなお言葉です、わたしはそうは考えません。

幸せのおりにも不幸のおりにも、わが身のことばかり心にかけて、

他人といっしょに苦しんだり楽しんだりするすべを知らず、

また、しようという気をおこさないでは、立派な人と言われましょうか?

わたしは今日こそはいつもより、家内をもちたいと思います。

娘たちのうちには、護ってくれる夫の必要な者がおりましょうし、

不幸に遭った男には、慰めてくれる妻が無くてはなりませんから。」(93-4ページ)


このように考えるヘルマンがのちに第五歌で避難民のドロテーアを両親のもとに連れてきて、この娘を妻にしたいと申し出たとき、これまで息子と対立してきた父親は何も返事をしないので、そばにいた牧師がヘルマンを弁護して言う。


・・・「人間の生涯や、一生の

運命を定めるものは、一瞬間のほかにはありません。

いくら評定をしたところで、決定はやはり瞬間のつかさどる

ところで、分別のある人のみが正しい道をつかむのです。」(83ページ)


牧師はこのようにヘルマンの父親を説得するのであるが、この牧師の言葉は今では私の信念のうちの一つになっている。年も新たになって最初の授業のときなどは、学生に向かって知らず知らずのうちに、「これから皆さんは、就職、結婚、転職など、一大決心をしなければならないことに直面すると思うが、その決心は瞬間的なものだ。しかし、日頃から自分のしっかりとした信念をもっていたら、その一瞬の決断にも間違いはないはずだ。この新年も信念を持って頑張っていこう!」と口にすることが多い。いつの間にか私の考えは、駄洒落以外は、ゲーテ的になっているようである。

ゲーテの作品に戻って、第九歌でヘルマンはついにドロテーアと結婚することができるが、そのとき彼女に向かってこう言う。


「では、ドロテーア、世間一体の動揺の際ゆえ、

堅い契りを結ぶとしよう! 共々に持ち続け持ち堪(こた)えて、

心をしっかと一つにし、立派な財産を守ってゆこう。

動揺の時代に己(おの)が心までもぐらつかせる者は、

自分の禍(わざわい)を増すのみか、世間の禍を拡げてゆく。

それにひきかえ、志を堅固に保つ者は、世界をわが用に造るのだ。」(176ページ)


志を堅固にもってさえいたら、自らよりよい世界を作っていくものだというのである。この作品は訳者の言葉を借りて言えば、「いかなる世の乱れにも、人生の根本的の制度(家)は崩れず、人間の基本的な営み(農)は廃(すた)らないという、人生に寄せる明るい信を表現した」ものと言えよう。

そのほかにも、たとえば、「菌(きのこ)同然に、根づいた場所で大きくなって、生きて働いた跡も残さず、そのまま腐って無くなるようでは、なんの人間に生まれた詮(かい)がありましょうか?」(49ページ)や「進まぬ者は退く!」(53ページ)といった、知らず知らずのうちに私の信念ともなっている珠玉の格言が至るところにちりばめられている。読むたびに新しい感動を与えてくれる古典作品であり、私の「人間形成」あるいは「自己形成」に大きな影響を与えたという意味で、このゲーテの名作も私の「心の支えとなった本」のうちの一つである。


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