【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第129号
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○M課長の図書館俳句散歩道 (芭蕉・蕪村・一茶)

今回は、芭蕉・蕪村・一茶について、それぞれの人生をたどりながら、その句風について紹介します。

まず、三人の生涯について簡単にふれます。


○生涯

松尾芭蕉

寛永21年(1644年)、伊賀国上野の赤坂(現在の三重県伊賀市上野赤坂)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生を受けました。

12歳の時に父が逝去。18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕え、良忠から俳諧の手ほどきを受けて詠み始めます。22歳の時、師と仰いでいた良忠が没し、悲しみと追慕の念からますます俳諧の世界へのめり込んでいきます。松尾芭蕉は、家が貧しく、次男であったため、29歳の時、俳諧師(職業俳人)になることを夢見てく江戸に出ました。

35歳の時に、俳句の師匠となりました。その二年後には、門人二十人の歌仙を集めた本『桃青門弟独吟二十歌仙』を出版します。桃青とは、芭蕉の別号です。

この年の冬、芭蕉は深川に移り住みます。

その後、46歳の春、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払い、愛弟子の河合曾良を連れて「奥の細道」の旅に出ます。江戸から奥州へと赴き、松島や平泉を通った後、日本海側の山形に出て、新潟、富山、金沢、福井へと西に向かい岐阜の大垣に至るという、日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行でした。大阪で亡くなりました。享年51歳でした。


与謝蕪村

享保元年(1716年)摂津の毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。

十代の頃に父と母を亡くし、家を失って、20歳で江戸に出ました。

その二年後、江戸で、夜半亭巴人という俳人に弟子入りします。巴人は、松尾芭蕉の高弟、宝井其角と服部嵐雪から俳諧を学んだ人で、このためか蕪村は芭蕉を尊敬していました。

27歳の時に、師匠の巴人が亡くなりその後、蕪村は江戸を出て、茨城県結城市に住む同じ巴人の弟子の元に身を寄せます。それから、十年もの間、東北地方、関東地方を旅して周り、絵や俳句を作って過ごし、36歳になると、京に上りました。

三年後に、宮津に赴き、画題となる自然の豊かな地で、絵を描き続けました。

45歳頃に結婚し、娘のくのをもうけています。55歳で、師匠の名である夜半亭を継承します。画家としても俳人としても蕪村は有名になり、彼の主催する発句会には多くの人が集まるようになりました。

この頃、俳諧の世界は、独創性を失って行き詰まっており、蕪村は松尾芭蕉を祖とする蕉風の流派を復興させようとしました。京都で亡くなりました。享年68歳でした。


小林一茶

宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿の農家に生まれました。本名を小林弥太郎といいます。

彼は、不運にも3歳の時に母を亡くしました。その後、父が再婚して継母に弟が生まれると、継母とうまくいかなくなり、長男であるにも関わらず15歳の春に江戸に出て行きます。継母との反目は弟との間にも溝をつくり、これが一茶を生涯苦しめることになります。

江戸に出た一茶は、あちこちの奉公先を転々として、貧しい生活を送りましたが、その中で、いつしか俳諧に親しむようになり、二十五歳の頃には、二六庵竹阿という山口素堂を祖とする葛飾派俳人の門人となっていました。

29歳の夏に、父の病気見舞いのため、14年ぶりに故郷に帰り、その旅の記録である「寛政三年紀行」を書きました。

この巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」

と書いています。自分はさすらいの身で、茶の泡のように消えやすい者だから、一茶と名のったという意味です。

30歳の春に、関西、中国、九州地方を巡る六年間の旅に出て、松尾芭蕉のように旅先でたくさんの句を作りました。50歳の頃に一茶は、故郷で暮らすようになりました。

そして52歳の時に結婚し、28歳の妻、菊を迎えます。結婚して、二年後に長男、千太郎が生まれましたが、すぐに死んでしまいます。その翌年に長女さとが生まれますが、彼女も2歳になった途端に、亡くなります。その後も、次男、三男と生まれますが、赤ん坊の間に次々に亡くなります。

一茶自身にも不幸が襲いかかり、58歳の頃に、脳卒中で倒れて半身不随になってしまいます。さらには、妻も病死するという災難に見舞われ、一家は壊滅状態になりました。

65歳の時に火事にあい自宅が燃えて、その後焼け残った土蔵でこの世を去りました。

 

○句風

三人の生涯を簡単に紹介しましたが、人生の喜びと苦しみの中で彼らの句がどのように生まれたのでしょうか。

芭蕉は「旅人」蕪村は「画人」一茶は「俗人」と一般にいわれますが、彼らの目指した俳句の世界はどのようなものだったのでしょうか。


松尾芭蕉

「正風俳諧」は、松尾芭蕉が大成した俳諧の概念をさす言葉です。「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味うべき道なり。」と芭蕉は述べています。

芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句あります。「侘び・さび」の精神、「匂ひ・うつり・響き」といった嗅覚・視覚・聴覚などの感性を駆使した表現で句を詠んでいます。

「不易流行」は、芭蕉が「奥の細道」の旅の中で見出した蕉風俳諧の理念の一つです。

いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくことが大切です。また、「軽み」は芭蕉が晩年に到達した理念で、平明な言葉な言葉で、日常身辺のさりげない事象を描写しながら、かつ自然や人生への深みへ入っていくような俳諧の手法です。


与謝蕪村

18世紀後半の江戸の天明期に、与謝蕪村は、あくまでも正風の真髄を護持しながらも、言葉を広く自由に近代的な感覚、自然や生活への感動を表現しようと図りました。

子規の時代まで、蕪村といえば画家としてのほうが有名でしたが、子規はそんな蕪村の俳句を新しい観点から高く評価しています。

蕪村が画家であったことから、俳句はそのまま絵画を連想させる視覚的かつ客観的ですが、洗練された美意識のある言葉を使って景色の奥に広がる永遠の時間を感じさせてくれます。


凧(いかのぼり) きのふの空の ありどころ

見上げると、今日も凧(たこ)が昨日と同じところに上がっています。遠い昔、少年だったころにも同じところに凧が上がっていたような郷愁をさそう句です。


小林一茶

正岡子規は「俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり。」と述べています。生い立ちからくる精神的な自虐的な句や風土と共に生きる平易で庶民的な句、愛すべき小動物への愛護の句など独自の句風を確立しました。


猫の子の ちょいと押さえる 木の葉かな

茶の花に かくれんぼする 雀かな


○秋の俳句

三人の俳句については、今までたくさん紹介してきました。秋の季節にちなみ、秋の句を紹介します。


松尾芭蕉

あかあかと 日はつれなくも あきの風

奥の細道の道中、金沢から小松に至る道で詠まれた句です。日はあかあかと、秋が来たのに素知らぬふりで照りつけるが、あたりを吹く風はさすがに秋の気配が感じられ旅愁を覚えさせてくれます。


塚も動け われ泣く声は 秋の風

奥の細道の道中、金沢で詠んだ芭蕉の門下であった小杉一笑の追悼句。

芭蕉の訪問をひたすら待ち望んでいましたが、彼が金沢に訪ねた前年に36歳の若さで没していました。


むざんやな かぶとの下の きりぎりす

奥の細道の道中、小松の多太神社での句。源平合戦の時、平家方の斎藤実盛が源氏方の木曽義仲と戦いました。その時、老齢である実盛は、白髪を黒く染めて討ち死にしたことは、平家物語の「実盛最期」として一章を成しています。かぶとは、多太神社の宝物として奉納されています。


蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ

奥の細道の旅を終えて美濃大垣に着いた芭蕉は、あわただしく伊勢参宮のため旅立っていきます。蛤は伊勢の名産。伊勢二見の浦に枕詞的に言い、さらに蛤が蓋と身にわかれることから、「わかれ」の序としています。

奥の細道の紀行文の冒頭に「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」と首尾相呼応してこの句を以て結んでおり、純文学的な旅の余情へと誘います。


この道や 行く人なしに 秋の暮

秋の暮れ方、あまり辿る人もいないさびしい道を一人歩いていく孤独寂寥を実感する淋しさの句。衰老していく芭蕉にとって、この道は俳句の道であったのか、それとも冥界への道であったのでしょうか。


秋深き 隣は何を する人ぞ

芭蕉は大阪の旅の宿でひとり過ごしていると、今や秋も果てようとして、底知れぬ寂しさがしみじみと感じられる。隣家は、深閑として物音もない。一層この秋の静寂感を深く感じる、日常の用語を用いて、日常的に表現した「軽み」の境地の句。

蛇足ですが、この句を「秋深し」と終止形に切れば、隣の人は何をしているのだろうかという傍観的な軽い句になります。


与謝蕪村

鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分かな

この句は保元物語の「崇徳院御謀反挙兵の事」を題材として、描写したと解されています。当時、崇徳院は鳥羽の田中殿に居られました。野分は秋の暴風、台風のことですが、天下の風雲急を告げる様の象徴になっています。


五月雨や 大河を前に 家二軒

牡丹散って 打重なりぬ 二三片ぺん


俳句に具体的な数値を入れることにより、画を見るようです。作風は描写的でありますが、句の風景は現実をそのまま書き表すというより、理想化された空想的なものを感じます。


月天心 貧しき町を 通りけり

おりから名月は高く上って天の中心に照り輝いている。貧しい下界の街並みに降り注ぐ月光に詩興をそそられます。清らかな心を味わう句です。


ゆの底に わが足見ゆる けさの秋

ほほに当たる冷たい風を受けながら、湯の中でほっこりしている足が見えることに秋の感覚を感じます。


小林一茶

秋風に 歩いて逃げる 蛍かな

夏の夜に飛び交う美しい景物であった蛍が、秋風の吹く中をもはや飛ぶ力もなく、縁先などをよろよろ這って逃げるように歩いている。歩いて逃げるに気力も菜えた蛍の生態が描写されています。一茶の病臥中、一層哀愁の感が深く秋風も凄愴の色を帯びてきます。


かな釘の ような手足を 秋の風

一茶50歳ごろの句。病後、手足もかな釘のようにやせさらばえて、秋風の中をとぼとぼと帰って行く。「かな釘のような」という形容は、一茶らしい鮮烈な印象を与えます。


うつくしや 障子の穴の 天の川

障子の穴から空を眺めると、美しい天の川が見えます。障子の穴を額縁にして、そこから覗かれる小宇宙の深さ、美しさ、驚きに興じた一茶の姿が目に浮かびます。

荒海や 佐渡に横たふ 天の川  芭蕉

芭蕉は広大な海の中に天の川を眺め、一茶は障子の穴から天の川を眺めています。

芭蕉と一茶の表現の違いが人生観からの句風であり、彼らが生きた元禄と化政の文化の違いかもしれません。


○終焉

松尾芭蕉

元禄7年(1694年)10月12日大阪の花屋仁左衛門の奥座敷で51年の生涯を閉じました。

死の直前10月8日に、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を残しています。

芭蕉は、時雨が好きで時雨の句をたくさん作っていたこと、10月の別名が「時雨月」であることから、芭蕉の命日は、「時雨忌」と呼ばれます。

お墓は、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言により、大津・膳所の義仲寺に埋葬されました。故郷の伊賀上野ではなく、源氏の木曽義仲が眠る寺なのでしょうか。朝日将軍として輝きその悲劇的な最期に、人としての「義と情」からくる清廉・凄烈な生き方に惹かれたのでしょうか。

義仲の 寝覚めの山か 月悲し   芭蕉

「木曽殿 と背中合わせの 寒さかな」の句は、芭蕉の弟子の又玄の作です。


与謝蕪村 1784年1月17日に京都の自宅で68歳で亡くなりました。蕪村は、臨終のときに三句を詠み、その最後が次の俳句だったとされています。

「しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり」

家の外では白梅の花が咲いて春めいてきたが、私の生涯もやがてその白梅が見えてくる夜明けには尽きることになりそうだ、縹渺とした中にほの明るい叙情性をたたえています。

お墓は、京都の詩仙堂の近くにある金福寺にあります。芭蕉も滞在したとされ、「うき我 をさびしがらせよ  閑古鳥」の句があります。

境内には、松尾芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって再興された芭蕉庵があります。

芭蕉庵の裏山には俳人、歌人、画家などの墓がたくさんあり、京都の町並みを眺めることができます。

与謝蕪村歌碑

「花守は 野守に劣る 今日の月」


小林一茶

文政10年(1827年)11月19日、持病の中風発作により65歳で亡くなりました。

「ぽっくりと死ぬるが上手な仏かな」

その年の6月、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになりました。

「やけ土の ほかりほかりや 蚤さわぐ」

焼け跡のぬくもりもさめきらない土蔵で蚤どもが騒ぎはじめます。

「御仏は さびしき盆と おぼすらん」

しばらく、門人宅などに身を寄せ 盆は 他の地に滞在します。

「送り火や 今も我らも あの通り」

被災後は、魂棚も祭らず祖先の墓にも詣でず他郷に盆を迎えます。

「盥(たらい)から 盥(たらい)へうつる ちんぷんかん」

生まれて産湯の盥、そして死んでは湯灌(ゆかん)の盥。この間の一生とは何のことやらちんぷんかんぷん。この詩は小林一茶の辞世の句として広く知られていますが、真実かどうかはわかっていません。

ちんぷんかんという言葉はまるで話が通じない様子を示す言葉で、論語など漢字のみで書かれた言葉を冷やかしたものだといわれています。

お墓は、長野県野尻湖の近くの上水内郡信濃町柏原にある「一茶記念館」近くにある、明治時代に一茶をしのんで建てられたお堂「俳諧寺」にあります。


近世・江戸時代という歴史の中で三人が人生や自己と向き合い、俳句にどのように表現していったのかを学んでください。


学ぶことの楽しさは、知ることの楽しさです。知ることから考えることに発展させていくことにより、学ぶことの本当の楽しさを味わうことへとつながっていくと思います。

そして、その学びの中に図書館があれば、うれしい限りです。


三人の生涯と人生観、そして俳句を紹介しましたが、あなたはどの作風が好きですか。

あなたらしさを大切に句風の風を吹かしてみてはいかがでしょうか。


秋高し あなたらしさの 風よ吹け


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