【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第126号
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○「知的感動ライブラリー」(98)

ジャン・コクトー原作・脚本の映画『永劫回帰(悲恋)』
総合科学部教授 石川榮作

1.トリスタン伝説の映画化

9世紀アイルランドのケルト伝説がウェールズ(イギリス)あるいはブルターニュ(フランス)の地に伝承されて、12世紀後半にそこでその原型ができたとされるトリスタン伝説は、その後も、中世・近代を経て、現代に至るまでヨーロッパ各地に伝承されて、さまざまな芸術形態で発展していった。20世紀に入って映画が普及すると、その物語の映画化もなされており、2006年に製作されたケビン・レイノルズ監督のアメリカ映画『トリスタンとイゾルデ』は、このメールマガジンでも第47号(2008年12月発行)で紹介したところである。そこで今回は、まだ紹介していないトリスタン伝説の映画として、フランスの作家ジャン・コクトーの原作『永劫回帰』をもとにジャン・コクトー自らが脚本を担当して、その盟友ジャン・ドラノワ監督によって製作され、1943年に公開されたフランス映画『永劫回帰(悲恋)』を取り上げることにしよう。この映画は中世以来の伝統的なトリスタンとイゾルデ(フランス語ではイズー)の悲恋物語をナチス占領下の1940年代フランスの物語に置き換えて作られたものである。現代と神話が入り混ざったジャン・コクトー独特の世界が展開されて、これまでの物語とは一味違ったトリスタン伝説となっていることは、もはや言うまでもない。以下、物語の展開を順に辿りながら、伝統的な物語との比較をも織り込みつつ、その特徴や見どころなどを紹介していくことにしよう。


2.ジャン・コクトー原作・脚本の映画『永劫回帰(悲恋)』のあらすじと見どころ

まずこの映画では、コーンウォールのマルク王の居城は主人公パトリス(トリスタンにあたる、ジャン・マレー)の伯父マルク(ジャン・ミュラー)の大きな邸宅に置き換えられている。時代はナチス占領下の1940年代であるが、その邸宅の外観は中世の城を彷彿とさせる。そこの邸宅にはマルクの甥パトリスのほかに、妹ゲルトルード(イヴォンヌ・ド・ブレ)とその夫アメデー、それにその2人の間の息子アシール(ピエラル)が一緒に暮らしていることになっている。マルクの邸宅に妹夫婦がその息子アシールを連れて同居しているところにこの映画の特徴がある。そのアシールが重要な存在となっているのであるが、パトリスの今は亡き母ノランジュはマルクの妹であるから、パトリスとこのアシールは従兄弟(いとこ)同士ということになる。従兄弟という点ではアシールは従来のトリスタン伝説における家臣の1人でマルク王の甥であるアンドレに相当するが、物語の展開における役割から言えば、マルク王に仕える小人フロサンにあてはまる。この映画ではアシールは小人フロサンと同じように、外見は背丈の低い子供であるが、年齢はパトリスと同じ24歳であり、美貌のパトリスにはいつも嫉妬と憎悪を抱き、パトリスの部屋からいろいろな物を盗み出したりするだけではなく、この邸宅の従者クロードの犬を銃殺したりするという、まったく手に負えない邪悪で異常な行動をとる小男として登場しているのである。そしてまたアシールの両親は従来の伝承においてトリスタンを宮廷から追い出そうと懸命になっている重臣たちに該当するが、この映画では逆にマルクから厄介者に思われているという設定である。

この邸宅の主人マルクは先妻エディットをずっと以前に亡くしてから、甥のパトリスをたいへん可愛がっているが、妹ゲルトルードの一家からいろいろと嫌味を言われているばかりのある日の夕食後のこと、甥のパトリスから新しい若い花嫁を迎えるように勧められる。パトリスは伯父の領地である島へ出かけて若い花嫁を見つけて来るというのである。伯父マルクはもはやそのような年でもなかったが、甥のパトリスの提案に従うことにした。

こうしてパトリスは伯父の領地である小島へ愛犬ムルクを連れて、その花嫁探しに出かける。その島の酒場ではモロールトという名の男(モーロルトにあてはまる)が暴れまわっている。その酒場の片隅には1人の女性(イズーにあたる)がすわっていて、モロールトから嫌なお酒を押しつけられて辱(はずかし)められようとしていたとき、パトリスが介入してその乱暴男と喧嘩になり、パトリスは最後にはナイフを投げつけられて左足を怪我してしまうのである。

その女性の家に運ばれたパトリスは、彼女の養い親アンヌ(イズーの母親にあたる)から傷の手当てを受けて、数日後にはその傷も癒えた。その家に滞在しているうち、女性はナタリー(マドレーヌ・ソローニュ)という名で、年は22歳(ちなみに、パトリスは24歳)、ノルウェー人の父は海で死んで、パトリスと同じように孤児であることを聞き知ってから、2人の間には親しみにも似たような感情が通い始める。

そのような雰囲気の中、パトリスはナタリーに伯父マルクとの結婚を勧めるので、彼女は一時怒りを覚えるが、最後にはそれを承諾する。それを承諾した背景には、この島にいたらモロールトに結婚を強いられてしまうので、その前にここから抜け出したいという気持ちもあったのである。ナタリーが旅立つにあたって、養い親のアンヌはラベルに毒薬と記載した瓶を彼女に持たせた。それはそれを飲むと一生の間、否、死んだ後も互いに愛し合うようになるという「愛の媚薬」であった。このあたりでは伝統的なトリスタン伝説に基づいていると言えよう。こうしてパトリスはナタリーを連れて、伯父マルクの住む本土に向かうのである。

本土に着いて舟から降りると、パトリスはナタリーとともに馬に乗り換えて、伯父マルクの邸宅に向かうが、中世の城を彷彿とさせるその見事な邸宅を目の前にして、ナタリーは尻込みしてしまう。この場面では中世と現代が融合したような展開となっていて、興味深い。一つの見どころであるとも言うべきであろう。

こうしてパトリスはナタリーとともに馬で邸宅の玄関に到着すると、マルクから出迎えられる。マルクはナタリーが気に入って、結婚することを決意して、やがて結婚式が執り行われた。このようにして今やマルクがナタリーを妻に迎えたことによって、この屋敷から追い出されるのではないかと慌てたのが、居候(いそうろう)の妹ゲルトルード一家である。ゲルトルードはパトリスが心密かにナタリーのことを思っていて、恋した女性を伯父マルクに奪われたかたちとなったことを見て取って、息子アシールに対してパトリスをよく見張るようにと言い付けた。パトリスとナタリーの逢引きの現場を押さえて、マルクに突き出そうと考えたのである。

そうしているうちに、マルクとその妹夫婦が町に出かけた日は、雨が激しく降り始めて、夜にはひどい嵐となった。雷の鳴り響くその夜、邸宅にいたのは、夕方ずぶぬれになって戻って来たパトリスと、ナタリー、それにアシールの3人であった。そのうちアシールは雷の音に怯えて屋敷の中を走り回っていた。パトリスはナタリーとともに暖炉の前にいるが、ナタリーがあまりにも寂しそうにしているので、酒でも飲んで、もっと陽気になろうと提案する。そこでパトリスは地下の酒蔵に降りて行くと、アシールを見つけた。アシールは窓からそこに入って、酒を飲んで酔っ払っていたのである。パトリスはアシールをそこから追い出すと、2本の酒瓶を持って、ナタリーのもとに戻り、カクテルを作り出した。ところが、パトリスがナタリーを喜ばせようとして口笛で小鳥の鳴き声を真似(まね)ている隙に、背後からアシールが2つのグラスに溶液を流し込んだ。その溶液はラベルに毒薬と書かれていたことからすると、どうやら養母がナタリーに持たせたあの「愛の媚薬」であり、アシールが棚から盗み出したものであった。それとも知らずに、パトリスはその2つのグラスを運んで、ナタリーと一緒にカクテルを飲んだ。やがて2人は不思議な気分にとらわれて、稲光が光る中、じっと見つめ合っていると、2人の顔はだんだんと近づいて、接吻しそうになる。その瞬間、アシールが現れて、ラベルに毒薬と書かれた瓶を2人の前に投げつけてから、逃げて行った。このあたりは伝統的なトリスタン伝説と同じように、見どころであることは言うまでもない。ナタリーがその瓶を拾い上げて、自分たちが飲んだものが何であったかを悟ったところで、マルクとゲルトルード夫妻が帰って来たようである。ナタリーは立ち上がって、戻った3人を出迎えることもなく、自分の部屋へと入って行った。ナタリーの様子が変であることを心配したマルクに向かって、妹のゲルトルードは「パトリスに用心しなさい」と警告するのであった。

そのようなことがあったその夜、ベッドの上でパトリスが不思議な気持ちにとらわれているところへナタリーがやって来て、自分たちが飲んだのは「愛の媚薬」であったことを打ち明けてから、去って行く。部屋に戻って来たナタリーが、神経を高ぶらせているのを見て取ると、マルクは妹が2人の関係を疑っていることを伝えるとともに、パトリスの部屋にも出かけてスキャンダルを起こさないようにと釘を刺しておいた。

それでもパトリスとナタリーはもはや離れられなくなるほどの強力な愛の虜(とりこ)となってしまった。パトリスは庭からナタリーの部屋に向かって口笛で小鳥の真似をして、彼女を窓辺に呼び寄せて、今夜の逢引きの約束をする。それをアシールが密かに聞きつけて、マルクに言い付けるのである。

こうしてパトリスはその夜、逢引きの場所の泉で待っているが、ふと泉に目をやると、水面にはマルクの姿が映っている。木に登って見張っているようである。しかし、そこへナタリーがやって来た。パトリスは咄嗟(とっさ)に機転を利かせて、「伯父たちが自分たちのことを疑っているが、それは叔母たちの陰謀であると、ナタリーの方からマルクに真実を話してほしい」と頼むのであった。パトリスの異様な様子で、ナタリーもマルクが木の上にいることに気がついて、巧みな言葉を口にしてその場を去って行くのである。伝統的なトリスタン伝説と同じように、この映画でも最大の見どころのうちの一つであろう。この2人の気転の利いた言動によって、マルクは2人を信じてしまうとともに、余計な告げ口をしたアシールを叱り飛ばしてしまうのである。

しかし、ゲルトルード一家の者たちは、マルクがこの半月の間、パトリスとナタリーの行動を見て見ぬふりをしているのに我慢ができなくなって、ある策略を考え出す。マルクが3日間、町へ出て留守にするふりをすることを提案して、逢引きの現場をとらえようとしたのである。策略どおり、マルクが車で町へ出かけるふりをした夜、パトリスは愛の炎が燃え上がって、階段を一段一段と登って、ナタリーの部屋へ近づく。ナタリーも媚薬の力に身悶えしつつ、パトリスを待ち受けている。このあたりの神秘的な雰囲気の漂う中での演技と演出は圧巻である。やっと2人は逢うことができたかと思った瞬間、パァーと明かりが点(つ)いて、現場を押さえられてしまった。ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』第二幕第2場から第3場にかけての同じ場面を彷彿とさせる場面である。最大の見どころであることは、言うまでもない。逢引きの現場を捕えられた結果、パトリスはこの屋敷から出て行き、ナタリーは島に帰るようにと命ぜられるのである。

しかし、ナタリーが島に帰るべく、ゲルトルードによって車で運ばれている途中、その車がエンジン故障(実はパトリスの仕業による)を起こしたところへ、パトリスが別の車で現れ、ナタリーを助け出して、そこを去って行った。伝統的なトリスタン伝説でもこれに相当するエビソードがあるが、この映画では車で逃亡するのであり、そのようなところはまさに20世紀の現代版であると言えよう。

こうしてパトリスとナタリーが逃げ延びた先は、伝統的な伝承(森の中)とは異なって、雪山の頂上である。その頂上にある山小屋で2人はパトリスの愛犬ムルクと一緒に生活を始めるが、ナタリーは病気で、熱がある。パトリスが町へ出かけている間に、マルクがそこを探し当てて、連れ戻す。マルクは最初ナタリーを殺すつもりであったが、その寝顔を見ていると、その気持ちも失せて、彼女を連れ戻すあたりは、伝統的な伝承と同じである。ただこの映画ではパトリスの愛犬ムルクもマルクの邸宅に一緒に戻ることになっている。

ナタリーがマルクのもとに帰って行ってからは、パトリスは車を売るために立ち寄った自動車工場で、偶然親友リオネル(ローラン・トゥータン)と出会い、そこの自動車工場で働くことになる。その親友にはナタリーという名の妹(白い手のイズーにあたる、ジュニー・アストル)がいて、そのうち彼から妹との結婚を勧められる。パトリスは最初ためらっていたが、最後には承諾して、以前傷を治してもらったアンヌのもとで結婚式を挙げることにした。ところが、そこの島へ行って親友の妹ナタリーはアンヌから、写真を見せられて、かつてのパトリスとナタリーのことを聞き知ると、激しい嫉妬を覚えるのである。ナタリーは自分が本土のナタリーの幻影に過ぎなかったことを兄リオネルに嘆くと、リオネルはパトリスに対して怒りをあらわにする。

その頃、パトリスは以前モロールトと喧嘩した酒場に出かけていて、そこのマスターからモロールトが海で溺れ死んだときのことを話してもらっていた。そこへリオネルが怒りを爆発させながらやって来て、かつてのナタリーの写真を見せつけて、事情を説明するようにと求める。パトリスは本土のナタリーに未練が残っていることを打ち明け、一目だけ彼女に会って、彼女がもはや自分のことを忘れていたら、そのときはきれいさっぱり彼女のことをあきらめて、リオネルの妹ナタリーと結婚することを約束するのである。

こうしてパトリスは親友リオネルとともに本土に渡って、マルクの邸宅の庭に立ち、ナタリーの部屋に向かって、口笛で小鳥の真似をして呼びかける。それを何度も繰り返すが、ナタリーは部屋を変えていたため、まったく反応がない。それに気がついて目覚めたのは、悪賢いアシールだけである。口笛で小鳥の鳴き声を真似て、恋人に呼び掛けるところなどは、中世における伝統的なトリスタン伝説を彷彿とさせる。しかし、この映画ではパトリスがいくら口笛で呼び掛けても、反応がないので、パトリスは目には涙をいっぱい溜(た)め、あきらめて悲しげに帰ろうとする。そのとき小人アシールが窓から銃の狙いをパトリスに定めて、引き金を引いた。銃声が鳴り響いて、邸宅の者たちも目覚めた。パトリスはリオネルに抱えられるようにして逃げた。そのとき犬小屋に繋がれていたパトリスの愛犬ムルクは、鎖を噛み切って、パトリスのあとについて行った。

命からがら島に逃げ帰ったパトリスは、アンヌの手当てを受けるが、傷は重症であり、出血も多くて、危ない状態だという。パトリスもそれを悟って、死ぬ前にもう一度本土のナタリーに会いたいので、最後の願いとして親友リオネルに彼女をここに連れて来てほしいと願い出る。伯父マルクにも事情を話して、彼も一緒に連れて来てほしいと頼んだ。そしてもしナタリーが来るなら、舟には彼女の白いスカーフを掲げてほしいとも依頼した。親友リオネルはそれを承諾して、本土に向かうのであるが、そのパトリスとリオネルのやりとりを親友の妹ナタリーは陰で聞いていた。伝統的なトリスタン伝説と同じ展開である。 

親友リオネルが本土に出かけてから、俳優ジャン・マレー扮するパトリスが瀕死の状態でナタリーの名前を口にしながら、舟を待ち焦がれる場面の演技は、すばらしいの一言に尽きるもので、文句なしに見どころである。そのさまを見て、親友の妹ナタリーは激しい嫉妬に駆られる。こうしてその夜も過ぎていって、やがて朝になって、遠くから舟のエンジンの音が聞こえてくる。それがだんだんと近づいてくると、パトリスはそばにいるナタリーに舟には白いスカーフが掲げられているかと聞く。舟の帆柱には白いスカーフが掲げられているが、ナタリーは嫉妬に駆られて、「赤いスカーフがなびいている」と嘘をつく。その言葉にパトリスはもはや生きる望みも力も失くしてしまい、うなだれてしまう。それを見たナタリーは、自分の言動を後悔して、「嘘よ」と言い直すが、遅過ぎた。パトリスはそのまま息を引き取ったのであった。

舟には伯父マルクも一緒に乗っており、病気で力も抜けてしまっているナタリーはマルクに支えられながら、舟を降り、パトリスのいる家に向かうが、途中からマルクの援助を拒んで、1人で歩き始めた。家の入り口ではもう1人のナタリーが悲しそうな姿で立っているが、本土のナタリーは彼女に目もくれずに家の中に入って行く。そのさまは、台詞の有り無しの違いはあれ、伝統的なトリスタン伝説において、金髪イゾルデが白い手のイゾルデに向かって、「そこを退(ど)きなさい。あなたよりも私の方が恋人に会う資格があるのです」と口にしながら恋人に近づいて行く場面を彷彿とさせる。ナタリーはパトリスがベッドの中で息を引き取っているのを見ると、自らもその隣に仰向けに横たわり、そのまま息を引き取ってしまう。そこに入って来たマルクは、「2人だけの世界へ旅立つがいい」と言い放つ。マルクが2人を許しているところにも特徴がある。こうしてパトリスとナタリーは死によって堅く結ばれたところで、エンディングとなるのである。


以上のとおり見てくると、この映画は中世における伝統的なトリスタン伝説の要素も巧みに織り込みながらも、物語の背景を製作当時の1940年代のナチス占領下のフランスに置き換えて、興味深い新しい悲恋物語に作り変えていることが容易に理解できよう。伝統的なトリスタン伝説で展開されていたさまざまなエピソードは、極力削除されて、主人公パトリスにことごとく敵対するのは、マルクの妹夫婦の息子アシールであり、このアシールに重要な役割が与えられていて、新しい物語が展開されているところに、この映画の特徴があると言えよう。伝統的な伝説とは一味違った内容の作品となっている。ナチス占領下のフランスを時代背景としながらも、戦争の要素は一切取り入れられずに、テーマは恋人たちの絶対的な永遠の愛に収斂(しゅうれん)されて、多くの神話で登場人物たちは同じ「愛」という主題を繰り返す「永劫回帰」の思想を見事に表現している。その「永劫回帰」の世界では、過去も現在も未来もなく、終末というものもなく、同じものが永遠に繰り返されるのであり、そこにジャン・コクトーの世界があると言えよう。是非、この機会にジャン・コクトー原作・脚本のフランス映画『永劫回帰(悲恋)』(現在DVDでは『悲恋』という表題となっている)を鑑賞していただきたいと思う。さらに2006年製作のケビン・レイノルズ監督のアメリカ映画『トリスタンとイゾルデ』と併せてこのジャン・コクトーの原作・脚本の映画を鑑賞すると、両者の違いなどがよく分かって、芸術作品に接するそのおもしろさも楽しさも増大することであろう。是非、お薦めしたいトリスタン伝説の2作品である。


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