【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第125号
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○M課長の図書館俳句散歩道 (俳句の魅力)

昨年から,毎月の季節にふさわしい俳句や月の由来を紹介してから1年がたちましたので,今回は俳句の持つ様々な魅力について掲載したいと思います。


まず,そもそも俳句とは何か?

俳句とは,季語を入れた五・七・五音の短い詩です。高浜虚子は,「俳句は十七字の文学であります」と言っています。


鎌倉時代から興り室町時代にかけて大成された連歌は,やがて近世には俳諧連歌に発展します。連歌の発句を自立させその芸術性を高めた芭蕉によって俳諧はさらに,民衆的文芸から純芸術へと高められていきます。芭蕉の俳諧の概念をさす言葉に「正風俳諧」があげられますが,「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく賤となく味うべき道なり」と深く自然と人生に思いを込めて語っています。


さらに近代文芸として個人の創作性を重視して俳句を成立させたのが明治時代の正岡子規です。その後,俳句の自立後の視点から,芭蕉などの詠んだ俳諧の発句をさかのぼって,俳句と同一視するようになっています。


こうした歴史的な背景の中で,遊戯性や教養を高めるものとしての連歌は,複数で集まる連作形式から,まさに個人の人生観を高め,己をみつめる純文学の領域で句を詠むようになってきました。


文学の持つ魅力として,人に自分の思いを伝えることがありますが,その根本には自分を見つめてその思いを文字という形式表現に記憶をとどめていくことがあります。俳句でいえば,句を詠んでいくこと自体が,自分の人生を見つめていくことになると思います。


古池や 蛙飛びこむ 水の音           松尾芭蕉


あまりにも有名な芭蕉の句ですが,さてこの句の魅力とは何でしょうか?

古い池に蛙が飛びこむ音が聞こえてきた。というまさに単純な情景を詠んだ句です。芭蕉が詠んだから,その魅力があるとも言えなくもありませんが,芭蕉はこの句に何を詠みこんでいるのでしょうか?

また視点を変えて,あなたがもし蛙としたら,飛び込む古池とは何でしょうか?水の音とは何の音でしょうか?そんなことを,ゆったりとした気持ちの中で少し考えてみてはいかがでしょうか?


やせ蛙 まけるな一茶 ここにあり         小林一茶


蛙がけんかをしています。がんばれやせた蛙よ,おれがここで見て応援しているよ

「けんか」とは,たくさんのオスガエルがメスガエルを奪いあう「蛙合戦」のことで,やせ蛙は,苦戦しています。一茶は,あたたかく見守っています。

愛情たっぷりの一茶の句ですが,このやせ蛙が,もし一茶の身の上のことであるととらえたら,この句の意味も当然変わってきます。この句を彼が詠んだのは54歳の時ですが,初めての子であった病弱な千太郎への命乞いの句とも言われています。


ゆうぜんとして 山をみる 蛙かな         小林一茶


一茶の生家で終の棲家となった長野県信濃町で詠んだ句です。雄大な山々を一望できる場所に,一茶は立っています。


親分と 見えて上座に 鳴き蛙

向き向きに 蛙のいとこ はとこかな

めでたさの 煙そびえて 鳴く蛙

われを見て 苦いかおする 蛙かな


一茶の俳句の魅力は,蛙という小さな動物からも感じることができます。


さて,蛙は春の季語ですが,夏の蛙をさす季語は,「雨蛙」「青蛙」です。


青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか         芥川龍之介


恐る恐る 芭蕉に乗って 雨蛙           夏目 漱石


大正4年,芥川の発表した「羅生門」は不評で自信を失いかけていました。そんな中,「鼻」の小説に対し,漱石は,手紙で「大変面白いと思います」と褒めます。喜んだ龍之介は,それ以降,自信を取り戻して作家として生きていきます。


「鳥獣戯画」などにユーモラスに描かれている蛙はどこか愛嬌がありますが,俳句においても,詠みての心をくすぐるのでしょうか。


俳句の魅力の一つに「発見」があげられます。


芭蕉の蛙の句は,芭蕉ならではの自分の発見です。蛙が古池という世界に飛びこむことによって聞こえる音の発見です。その音とは,聞こえてくるただの音ではありません。彼にしか聞こえない心の音かもしれません。


自分を生き物としてとらえたり,突き放したり,生き物と話しをして自分の心とむきあったり,さまざまな自分の中には,個性ある発見や気づきがあると思います。


俳句の基本は「写生」だと言われます。そこにある情景を写しとり言葉にしていく作業ですが,見る角度や見る時の気持ちによって同じものが違ってみえます。自分の観察力から思いがけない発見があります。


俳句をつくるよろこびは,新しい自分に出会うこと。けっして出会うことができなかった自分に出会えることが,かけがえのない喜びでないでしょうか?


俳句の対象は,風景や,植物や動物,行事,生活,さまざまですが,人の外側にあるものでなく,内側にある人間の心の変化や感情の起伏も俳句の対象となります。


発見には 感性と感動がなければ 発見することはできません。

それを磨く感動館が図書館であれば,と思っています。


万緑の 中や吾子の歯 生え初むる    中村 草田男


草田男はこの句で,我が子の歯が「生え初むる」時において,その親としての喜びに,「万緑」という言葉を据えました。この句の「万緑」は生命感,躍動感そのものです。

王安石の漢詩「石榴詩」の「万緑叢中紅一点」は,「紅一点」に注目されていましたが,人間を含めた命を育む大自然の象徴の証として,「万緑」という季語の持つ力強さを発見しました。


夏草や 兵どもが 夢のあと       松尾 芭蕉


奥の細道,芭蕉が平泉で詠んだあまりにも有名な句です。芭蕉はこの平泉で何を発見しこの句を詠んだのでしょうか?芭蕉の心の中の何が句を詠ませようとしたのでしょうか?

「奥州藤原文化」の平泉は,平安時代の末期,京の都にも匹敵するほどの繁栄を誇っていました。藤原氏は,奥州を中心とした前九年,後三年の役などで亡くなった人々の魂の成仏と,平和が恒久に続くことを祈る極楽浄土をこの地において出現させました。しかし,わずか百年ほどで鎌倉幕府の源頼朝によって滅びます。中尊寺,毛越寺など極楽浄土を象徴する寺院の荒廃,さまざまな建物は遺構となって生い茂った夏草に隠れています。

芭蕉は,中尊寺に近い小高い「高館」とよばれる小山に立って,この茫洋とした風景を見ます。この地は,頼朝の弟であり,源平合戦の中心人物であった源義経が無念の死を遂げた場所でもあります。「兵ども」とは,義経とその郎党たちのことです。豪華絢爛の平泉と平家物語の中に流れる祇園精舎の鐘の響きのような諸行無常と栄枯盛衰のもつはかなさと美しさ,そしてその二つの舞台で夢のようにあらわれ消えていった義経,滅び去っても心に残る夢のような感慨が芭蕉の心を揺さぶります。

杜甫の春望の「国破れて山河あり,城春にして草木深し」の風景が,芭蕉の前にありました。永遠に残る思い,受け継がれていく夢のような感性がこのわずか十七文字の中に込められています。

芭蕉が歴史的な風土に鎮魂の意をもってこの句を詠んだかどうかはわかりませんが,これからさらに続く困難な旅への覚悟を秘めた凝視の句であるともいえます。


閑さや 岩にしみ入る 蝉の声       松尾 芭蕉


新暦の6月末「夏草や」の句を詠んでから,半月後に,彼は暑い日の夕暮時に岩山の上にある山寺にたどり着きます。

境内の周りのすばらしい景色は静寂に包まれ,心が澄みとおっていきます。その周辺の木々や岩はだに無数の蝉が張り付き,これほどの鳴き声を聞いたことはありませんでした。

しばらくの間,我を忘れ,蝉の鳴き声に圧倒されながら立ちすくんで聞いていました。

ちょうどその時,山寺の鐘つき堂から,夕暮れ時をつげる梵鐘が鳴ったのでした。

このとき,芭蕉にある驚きの感覚の響きと振動が貫いたのです。

その時,彼は何を発見したのでしょうか?うるさい蝉の声から「閑さや」と詠んだその心境に思いを馳せます。



あなたにとって,学生生活に何を発見するのか?新たな自分の可能性をどう見つけていくのか?

俳句という世界が少しでも参考になれば,とても幸せです。

そして図書館がさらにその応援できる空間であれば,とっても幸せです。


図書館で 叫ぶユリイカ 夏来たる


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