【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第123号
メールマガジン「すだち」第123号本文へ戻る


○「知的感動ライブラリー」(95)

フンパーディングの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』
総合科学部教授 石川榮作

1.歌劇『ヘンゼルとグレーテル』の成立過程

エンゲルベルト・フンパーディング (1854-1921) はワーグナーに魅せられ、ワーグナー『パルジファル』執筆の折りや初演の際には、その助手として忠実に働いたという、ワーグナーの弟子である。彼は妹のアーデルハイト・ヴェッテから、1890年5月の彼女の夫の誕生日に子供たちによって演じられる劇の音楽を書いてほしいと頼まれた。その誕生日に行われた音楽劇が好評だったので、のちに妹アーデルハイト・ヴェッテが両親や夫、それにフンパーディング夫人の助言を得ながら、台本を書き直して、それに兄フンパーディングが音楽を付け加えて出来上がったのが、歌劇『ヘンゼルとグレーテル』である。この歌劇は1893年12月23日にリヒャルト・シュトラウス指揮によりヴァイマール宮廷歌劇場で初演されて、大成功を収めた。

『ヘンゼルとグレーテル』といえば、まずグリム童話を思い浮かべるが、フンパーディングの妹は自分の台本を書く際に、グリム童話ではなく、1845年に出版されたルートヴィヒ・ベヒシュタインの『ドイツのメールヘン』に収録されている話を素材に用いた。そのためグリム童話に見られる残虐性は削除される結果となっている。たとえば、グリム童話では意地悪い継母(ままはは)がヘンゼルとグレーテルを邪魔扱いして捨てるために、森の中へ追いやるのであるが、この歌劇では実の母が怠け者の兄妹を叱りつけて、そのために森へいちご摘みに行かせることになっている。また最後の方で、グリム童話では子供たちが魔女に食べられてしまうが、この歌劇では以前に魔女から食べられていた子供たちが生き返ることになっている。19世紀の道徳観にふさわしい内容となっていて、現在ではクリスマスにひんぱんに上演されて、子供たちからもたいへん親しまれている作品である。もちろん子供たちばかりではなく、大人が観ても結構楽しむことができる深みのある歌劇である。以下、あらすじの展開を最初から順に辿っていって、見どころ・聴きどころなどを紹介することにしよう。


2.歌劇『ヘンゼルとグレーテル』の見どころ・聴きどころ

第一幕

これから観客をこのメールヘン世界へ導き入れようとする役割を果たしている前奏曲が終わると、第一幕第1場は兄ヘンゼルとその妹グレーテルの家である。2人の家は貧しく、父親は朝早くから箒(ほうき)を売りに町へ出かけ、母親は金策にあちこち駆け回っている。ヘンゼルは箒を作り、グレーテルは靴下を繕ったりしながら、留守番をしているが、2人はお腹をペコペコに空(す)かしている。しっかり者のグレーテルが冒頭においてドイツに古くから伝わる民謡『かわいいズーゼちゃん』を歌って気を紛らわせようとしているが、どこか頼りないヘンゼルはすぐに愚痴をこぼしてしまう。グレーテルは隣のおばさんがミルクをくれたことを話すと、ヘンゼルは空腹に耐えられずに、そのミルク壺の中に指を突っ込んで舐めてみる。とてもおいしい。ヘンゼルが何度も舐めるのを、グレーテルはたしなめて、家の手伝いをするようにと言う。それに対してヘンゼルは手伝いなんてもう嫌だと言って、遊んで楽しもうと言う。そこで2人は一緒に踊りを踊り出す。自分たちの仕事をそっちのけにして、2人が踊り出すこの「踊りの二重唱」もたいへん楽しくて、見どころ・聴きどころであろう。

そこへ母親のゲルトルートが戻って来て、第2場の展開となる。母親ははしゃぎまわっている2人を叱りつけながら、追いかけ回すが、そのときミルク壺をテーブルから落して壊してしまった。それを子供たちのせいにして、母親はこれから森へ出かけて行って、いちごを籠いっぱい摘んで来るようにと、2人に言い付けた。2人の子供が森へ出かけて行くと、母親は貧乏暮らしを嘆きながら、ひどく落胆して、やがて眠り込んでしまう。

そこへ遠くから「ララララ」と陽気に歌う声が聞こえてきた。父親ペーターが帰って来て、第3場の展開である。父親は今日は箒が売れたので、ほろ酔い機嫌で陽気なのである。この父親の明るい民謡風の歌もおもしろい。眠っていたゲルトルートは目を覚ますと、愚痴をこぼすが、ペーターは相変わらず陽気に話しかけて、箒がたくさん、しかも高値で売れたことを報告して、たくさん持って帰って来た食物をも見せる。妻ゲルトルートはうれしくなって、夫ペーターと一緒に踊り出す。このあたりも明るくて、おもしろい。

ところが、ペーターは子供たちがいないのに気づき、しかも森の中のイルゼ岩のあたりへいちご摘みに出かけて行ったと聞くと、たちまち心配になった。森の中には魔女がいて、子供たちを焼いてお菓子にしてしまうと言い伝えられていたからである。2人は大慌(おおあわ)てで、子供たちを探しに森へ出かけて行くところで、第一幕の幕が降りるが、ペーターの陽気な歌からゲルトルートの不安な感じの歌へとだんだん変っていく、この音楽の変化がこのあたりの聴きどころである。


第二幕

第一幕の終わりからこの第二幕冒頭にかけて続けて演奏されるのが、「魔女の騎行」と呼ばれている前奏曲である。魔女が箒に乗って飛び回っていることをイメージした前奏曲であるが、これがワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』四部作中の二作目『ワルキューレ』第三幕冒頭で奏でられる「ワルキューレの騎行」の影響を受けたものであることは、言うまでもない。この歌劇で魔女が実際に登場して来るのは、第三幕においてであるが、この前奏曲で森の中には魔女が住んでいることがほのめかされていると言ってもよいであろう。

前奏曲が終わって、第二幕第1場は森の中、ヘンゼルとグレーテルがイルゼ岩の近くでいちごを摘みながら遊んでいる。そこで歌う「こびとが森に立っている」も古くからのドイツ民謡である。2人はいちごをたくさん摘み取ったが、カッコーの泣き声に合わせるかたちで、いちごを一つ一つ食べていくと、ついになくなってしまう。また道にも迷ってしまった。そのうえあたりはだんだんと暗くなってくる。2人は心細くなって、叫んでみるが、返ってくるのは、自分たちの声の「こだま」だけである。さらに霧がたちこめてきて、その中から背中に砂袋を背負った眠りの精が現れる。メールヘン的な雰囲気が漂ってくる場面である。

眠りの精が現れて、第3場となると、メールヘン的な雰囲気はさらに高まってくる。このあたりからの音楽が圧巻である。眠りの精は「眠りの精の歌」を歌いながら、兄と妹に砂を振りかける。2人は「夕べの祈り」を歌って、眠り込んでしまう。

そこへ14人の天使たちが降りてくると、第3場である。天使たちのパントマイムで美しい情景が展開されていく。このパントマイムも見どころ・聴きどころであろう。感動的な音楽が奏でられる中、第二幕の幕が降りる。


第三幕

短い前奏曲のあと、第三幕の幕が上がると、第1場は第二幕第3場と同じ森の中である。もはや天使の姿は見えなくなっていて、あたりはだいぶ明るくなっている。そこへ露の精が現れて、眠っている兄妹に露を振りかける。するとまずグレーテルが目を覚まして、夢の話をしたり、小鳥の鳴き声を真似(まね)たりしながら、ヘンゼルを起こす。グレーテルが天使の夢を見たことを話すと、ヘンゼルは自分も同じ天使の夢を見たことに気づく。すばらしい音楽が流れる場面である。

その瞬間、2人の目の前にはお菓子の家が現れ出て、第2場となる。2人はうれしそうにその家に近づいて、家をかじってお菓子を食べ出す。

そのとき家の中から「家をかじるのは誰か?」という声が聞こえてくる。2人は「風だよ。空の子供だよ」と答える。そこへその家に住む魔女が現れて、最初は親切そうにしていたが、やがて魔女の本性を露わにして、魔法をかけて2人をつかまえる。そのときの魔女の歌「ホークスポークス、魔法だぞ」もたいへんおもしろい。魔女はヘンゼルを檻(おり)に入れて、グレーテルには仕事をさせる。魔女は檻の中のヘンゼルが太ったら、食べようと思っているのである。魔女は箒に跨って、掛け声をかけながら、不気味な歌を歌いながらあたりを駆け回る。このあたりの魔女の歌も圧巻である。見どころ・聴きどころであることは、言うまでもない。賢いグレーテルは自分を焼いてレープクーヘンにしようと企んでいる魔女をうまく騙して、魔女がかまどの近くにやって来たところで、逆に魔女をかまどの中に押し込めた。うまくいったことを2人は大いに喜び、「お菓子のワルツ」を歌う。そのあとかまどは大きな爆発音を出して、家は壊れてしまう。

爆発でもって魔法が解けた瞬間、第4場の展開となって、たくさんの子供たちが舞台に現れ出て来る。その子供たちは魔女によってお菓子にされていたのである。子供たちが大喜びの中、ヘンゼルとグレーテルのお父さんとお母さんも子供たちを探し当てて、そこにやって来る。魔女は今や大きなお菓子に焼き上がっていて、一同はそれを目の前にして、神の恵みを讃える合唱をしながら、踊り出す。すばらしい合唱のうちに第三幕の幕が降りる。


以上のように見てくると、この歌劇ではグリム童話に見られたような残虐性はまったくどこにも見られないことがお分かりいただけよう。まさにこの歌劇が作られた19世紀の道徳観を反映させたものとなっている。グリム童話では、最後の方で2人の子供が家に帰ると、邪悪な継母は亡くなっていて、父親が2人を出迎えることになっているが、この歌劇では両親が森の中で2人の子供たちを探し出して、無事であったことを喜ぶばかりではなく、そのことで神に感謝するという設定にもなっている。さらにフンパーディングは民謡を多く取り入れることによって、その素朴さを活かしつつ、ワーグナーのライトモチーフの技巧を駆使しながらも、独自のメールヘン的世界を作り上げたのである。こうしてフンパーディングのこの作品は幅広い人気を獲得していったのであるが、しかし、人気が高まれば高まるほど、ワーグナーの後継者という側面が忘れられていき、子供に受け入れられやすいような、ディズニー風のカラフルで、かわいらしい演出が目立ってきて、この歌劇の真価が軽視されている傾向も見られる。この作品は決して子供のためだけの歌劇ではなく、大人も大いに楽しめる歌劇であり、またワーグナーの弟子であるということを念頭において鑑賞すると、その作品の深みに触れることができる歌劇でもある。是非、この機会に鑑賞していただければ幸いである。


メールマガジン「すだち」第123号本文へ戻る