【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第122号
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○「知的感動ライブラリー」(94)

ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
総合科学部教授 石川榮作

1.楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の執筆と初演

ワーグナーは1848年に歌劇『ローエングリン』の総譜を完成させたのち、畢生 (ひっせい) の大作『ニーベルングの指環』四部作に取り組んでいたが、1857年にその四部作のうちの三作目『ジークフリート』第二幕第2場の作曲に取り掛かっていたとき、それを中断させて別の作品を作ることにした。その12年間の中断の期間に楽劇『トリスタンとイゾルデ』(1859年) のほかに製作されたのがこの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』である。この作品はもともと1845年に初演された初期のロマン派オペラ『タンホイザー』と対を成す作品として着想されていたが、さまざまな事情で着手できないままとなっていたものである。ワーグナーはようやく1861年に台本の執筆に取り掛かり、翌年1月にはすでに台本を完成させていたが、しかし、作曲の方がなかなか進まずに、やっと全曲のスコアが完成したのが、1867年10月24日であった。そして翌1868年6月21日にバイエルン宮廷歌劇場でハンス・ビューローの指揮により初演された。その初演の際にはバイエルン国王ルートヴィヒ2世も臨席していて、大成功を収めたという。

この楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』はワーグナーのほかの作品と違って、唯一の喜歌劇であり、ワーグナー全作品の中でもひときわ異彩を放っている作品であると言ってもよいであろう。しかし、それは決して単なる滑稽な喜歌劇ではなく、主人公の一人ハンス・ザックスの諦念がストーリーの展開の重要な柱となっていて、苦味の効いた喜歌劇になっているとともに、そこにはワーグナーの芸術観と人生哲学をも読み取ることができる重厚な作品となっている。以下、全三幕の展開を順に辿りながら、この作品の聴きどころやワーグナーの芸術観および人生哲学などを紹介していくことにしよう。


2.第一幕――ヴァルターの一目惚れと昇格試験――

テレビドラマなどでもよく使われて現在ではたいへん有名になっている「マイスタージンガー(職匠歌人)の動機」で始まる前奏曲がまずは最初の聴きどころであるが、この前奏曲が10分くらい続いたあと、第一幕の幕が上がると、第1場の舞台は聖ヨハネ祭 (6月24日) の 前日の午後、聖カタリーナ教会の中である。そこではオルガンの音とともに礼拝の厳かな合唱が響き渡っている。フランケン地方の田舎出身の若い騎士ヴァルター・フォン・シュトルツィング (テノール) は、中世のミンネザングの詩人にあこがれを抱いていて、自らも詩人になろうとしてニュルンベルクの町にやって来て、昨日はこの町の裕福な金細工師でマイスタージンガーの親方でもあるファイト・ポーグナー (バス) を訪問したところであったが、そのとき親方の一人娘エーヴァ (ソプラノ) に一目惚れしてしまい、今この教会でヴァルターは讃美歌の合間にエーヴァに眼差しで合図を送っているところである。この二人の眼差しによる合図はヴィオラ (エーヴァ) とチェロ (ヴァルター) で表現されていて興味深い。礼拝が終わると、ヴァルターはエーヴァがすでに婚約の身かどうか、彼女の乳母マクダレーネ (アルト) に尋ねると、婚約の身であるが、その花婿は明日のマイスタージンガーの歌くらべで決まるという。実はこのときエーヴァもまたこの町にやって来た騎士ヴァルターに密かに想いを寄せていたが、二人が結婚するためには、ヴァルターがその歌くらべに出場して優勝する必要があるのである。

第2場となって、ちょうどそこへ靴屋の親方ハンス・ザックスの徒弟で、乳母マクダレーネの恋人でもあるダーヴィット (テノール) がマイスタージンガーの会合の準備のためにやって来て、騎士ヴァルターは彼から歌くらべの手ほどきを教えてもらうことになる。ダーヴィットは大まじめになって歌の規則がいかにむずかしいものであるかを語り始める。ヴァルターはその煩雑さに驚いてしまう。最後にダーヴィットは恐い記録係についても説明して、7つ以上の間違いが記録されると、そこで「歌いそこない」と判断されて、失格になるという。この場面でダーヴィットがほかの徒弟たちと輪舞をするが、この輪舞の歌もなかなか楽しくて、おもしろい。見どころ・聴きどころである。

そのあと金細工師ポーグナー親方と市役所の書記ジクストゥス・ベックメッサー (バス=バリトン) が登場して第3場の展開となる。ポーグナー親方はすでに騎士ヴァルターに対して好感を抱いているが、書記ベックメッサーにとってはこのヴァルターは恋敵になると思って、最初から敵意を持っている。そのあとマイスターたちが次々にやって来て、最後にはハンス・ザックス (バス=バリトン) も姿を現す。マイスターたちは全部で13人だが、1人欠席で、今日の出席は12人のようである。12人の点呼が終わると、ポーグナー親方は芸術を愛する心から、明日の歌くらべで優勝した者には、すべての財産とともに一人娘エーヴァを花嫁として差し上げることを宣言する。ポーグナー親方の言葉には、自分たちマイスターが今や芸術の担い手であるという自負と名誉心があふれていると言えよう。ただポーグナー親方は、歌くらべで優勝者を決定するのはマイスターたちだが、その優勝者との結婚は娘エーヴァ本人が最終決定を下すのだということを付け加える。これに関連してハンス・ザックスは歌の規則は尊重するものの、あまりにも規則主義に陥ることを危惧(きぐ)して、これからは芸術に民衆の声を反映させてはどうかと、柔軟で進歩的な考えを提案するが、しかし、マイスターたちからは「歌の規則を民衆に任せるのか」と言われて反対されてしまう。とりあえず今回はボーグナー親方が提案した賞と規則で歌くらべが行われることになり、ハンス・ザックスも「親方の娘さんが結婚の決定権を持つ」ということで満足する。

そこで議長のような役割を果たしているパン屋のフリッツ・コートナー (バス) が昇格試験に応募する者は申し出てほしいことを伝えると、ポーグナー親方は若い騎士ヴァルターを推薦する。ベックメッサーは怒りを示して、「今更遅すぎるのではないか」と反対するが、ほかのマイスターたちからは、応募者は騎士であるし、新しい事例でもあり、また何よりもポーグナー親方の推薦でもあるということで、最終的には受け入れられて、騎士ヴァルターはその場で昇格試験を受けることになる。

その前にコートナーからどの師匠の弟子であったか、と尋ねられると、ヴァルターは「冬の最中の静かな炉辺で」と歌い始めながら、自らの経歴を語り始める。それによると、彼は先祖から伝わる一冊の古い書物から学び、ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ (中世のミンネゼンガー) が彼の師であり、そこからひとりでに規則を学び取って、美しい自然から霊感を受けてきたという。このあとコートナーの指示により規則に定められている「歌の椅子」にすわると、ベックメッサーの「始めよ」の合図でヴァルターは昇格試験の歌を歌い始める。このあたりから始まる場面も聴きどころであろう。「始めよ!と、春が森の中に呼びかけると、森中にこだまが轟く」という歌詞で始まるヴァルターの歌は、情熱的で自由奔放なもので、これまでの規則からすると違反だらけであり、マイスターたちは戸惑いを表して、記録係のベックメッサーもそれみたことかと、たちまち失点をつけて、第2節の途中で遮ってしまう。ヴァルターは途中で「歌の椅子」から立ち上がって歌ったので、その点でも失点である。このヴァルターの歌に対してハンス・ザックスだけは感動するところがあって、それを弁護するが、ベックメッサーの猛反対をはじめとして、多くのマイスターたちがそれを認めない。ヴァルターは歌の続きを歌うが、それはふくろうをベックメッサーに、からすの群れをマイスターたちに、そして黄金の翼の不思議な鳥をハンス・ザックスになぞらえた内容の歌だったので、その場は騒然となり、結局のところ、「歌いそこない」の判断が下されて、一同は散会する。ただ一人ハンス・ザックスがその場に残るが、彼は誰もすわっていない「歌手の椅子」を感慨深げに眺めているところで、第一幕の幕が下りる。


3.第二幕――「にわとこのモノローグ」と殴り合いの乱闘――

徒弟たちの楽しい合唱でもって第二幕が始まると、その第1場は初夏の夕べのニュルンベルクの町の中であり、右手の豪華な家は金細工師の親方ポーグナーの屋敷で、左手の質素な家は靴屋の親方ハンス・ザックスの家である。徒弟たちの合唱がドイツの初夏の快い夕べを歌い上げている。聴きどころである。

ポーグナー親方が娘エーヴァとともに夕べの散歩から戻って来て、第2場となる。この親娘(おやこ)のさりげない会話から父親の娘を思う気持ちが感じ取られて、快い夕べのひとときである。

ポーグナー親娘が自分たちの家の中に入ると、第3場の展開となって、左手の家ではその中からハンス・ザックスが姿を現し、靴作りの仕事を始めようとする。しかし、彼はすぐに物思いに耽り始めて、「にわとこのモノローグ」を歌う。ハンス・ザックスの頭からは今日聖カタリーナ教会で歌ったヴァルターの歌が離れないのである。あの歌は感じることはできるが、理解することができない。覚えておくこともできないが、忘れることもできない。全体を掴み取ってはいるが、測って知ることができない。どんな規則もしっくりと当てはまらないのに、誤りはまったくないのだ。古くて懐かしい響きだが、とても新鮮な歌でもあった、まるで甘美な5月に、鳥たちが歌うように!ハンス・ザックスはこのようにヴァルターの歌を評価するのである。このあたりも聴きどころであることは、言うまでもない。

そうして一人物思いに耽っているところに、隣のエーヴァがやって来て、第4場となる。彼女は今日のヴァルターの昇格試験の結果が気になっているのである。ハンス・ザックスは彼女の本心を察しているが、「その花婿さんて誰でしょう」という質問をわざとはぐらかせて、ベックメッサーが明日の歌で彼女を花嫁にするつもりでいることを伝えたりする。それに対してエーヴァは「(求愛するのは)男やもめ(ザックス親方)では駄目なのですか」と口にすると、彼は「君には年を取り過ぎているよ」などと答える。するとエーヴァは「肝心なのは芸術でしょう。腕に覚えがある人なら、名乗り出てほしいわ」と、親方に一種の愛情にも似た感情を抱いていることをほのめかす。ハンス・ザックスは早くに妻を亡くして、男やもめの生活を過ごしていて、幼い頃から可愛いがってきたエーヴァに今ではほのかな愛情を心に抱いているが、しかし、若い二人のために自分は潔く身を引くことを決心している。この諦念がこのあとの展開の大きな柱となっていて、苦味の効いたあらすじへと発展していくのである。しかし、会話の中にやっとヴァルターの名前が出てきたとき、ハンス・ザックスは今日の昇格試験で騎士ヴァルターは「歌いそこない」の判断を下されたことをエーヴァに伝えねばならなかった。そのとき乳母のマクダレーネがエーヴァを呼びに来た。なんでも夜が更けたら、ベックメッサーがやって来て、エーヴァのために美しい歌を歌うので、エーヴァには窓際に立っていてほしいのだという。厄介なことが加わって困り果てたエーヴァは、自分の代わりに乳母マクダレーネに窓辺に立っていてほしいと頼んでから、父の叫び声も聞こえてきたので家に帰って行こうとする。

そのときヴァルターが彼女の家の前にやって来て、エーヴァは彼を出迎える。第5場である。愛し合う二人の再会をワーグナーは、抒情的な音楽で表現する。聴きどころであることは、言うまでもない。マイスターたちから失格の評価を受けたからには、もはやエーヴァを誘って駈落ちするしかない。彼女に「どうか僕について来てほしい」と言いながら、マイスターたちが自分を待ち受けていることを想像して、彼らに対する怒りが頂点に達したとき、夜警の角笛の大きな音が聞こえてきて、ヴァルターは剣の柄に手をかけて、荒々しく前方を見つめる。するとエーヴァは「あれは夜警の角笛ですよ」とヴァルターを宥(なだ)め、二人は菩提樹の木陰に隠れる。やがて夜警が近づいて来て、通り過ぎてしまうと、エーヴァは一旦家に帰って、乳母マクダレーネと衣裳を取り替えてから、また戸外の木陰に戻って来る。二人はこれからここを逃げ出そうとするが、二人の駈落ちを察したハンス・ザックスは自分の家の中から路上に灯りを放ったので、二人は見つかることを恐れて身動きがとれない。

そうしているところへベックメッサーがリュートを弾きながら登場して、第6場となる。すると突然ハンス・ザックスが大きな声で歌いながら、靴を作り始める。その歌はエーヴァが楽園から追放されたときの歌であり、それでもって彼はここから今や駈落ちをしようとしているエーヴァを諫めているのである。靴屋が大きな声で歌うので、ベックメッサーは静かにしてもらえないかと頼む。この大きな声の歌がポーグナー家の窓際にいる女性に自分の歌だと思われたら困るのである。その窓際にはエーヴァの服装をした一人の女性の姿が見えたので、リュートに合わせて歌を歌おうとするベックメッサーをうまくとらえて、ハンス・ザックスはベックメッサーが歌を歌って、間違いをしでかしたら靴底を叩いて採点することにした。こうしてベックメッサーは窓際の女性をエーヴァだと思って、歌を歌い始めるが、ハンス・ザックスはその歌に合いの手を入れるように靴底を大きな音で叩きつけて採点する。滑稽な場面で、見どころ・聴きどころである。

やがて徒弟ダーヴィットが姿を現し、窓際にいるのが自分の恋人マクダレーネだと悟ると、彼はベックメッサーに殴りかかって、第7場の展開となる。それがきっかけとなって、町の多くの人がそこに飛び出して来て、ついに殴り合いの乱闘となる。騒々しい音楽であるが、この場面もこの喜歌劇ならではの見どころ・聴きどころであろう。殴り合いが頂点に達したとき、再度夜警の角笛が聞こえてきて、皆は一斉に散って帰って行く。そのどさくさ騒ぎの間にハンス・ザックスはエーヴァをポーグナー親方に引き渡してから、騎士ヴァルターと自分の徒弟のダーヴィットを自分の家に引きずり込む。さんざんにひどく痛めつけられたベックメッサーは、よろよろしながら退散していく。夜警が11時を告げて、満月が姿を現し、小路に明るくその光が射し込んだところで、第二幕の幕が下りる。


4.第三幕――ハンス・ザックスの「迷妄のモノローグ」と諦念――

静かで瞑想的な「ハンス・ザックスの諦念の動機」が奏でられる中、第三幕の幕が開くと、第1場はハンス・ザックスの仕事場で、彼は読書に耽っている。このあと第三幕の歌くらべの場面で合唱されることになる有名な「目覚めよ、朝は近づいてきた」のメロディが聞こえてくると、聖ヨハネ祭の朝が訪れたことがほのめかされる。その朝の光の中でハンス・ザックスはさきほどからじっと本を読むことに夢中になっている。この冒頭の場面はもちろん聴きどころである。

やがて徒弟のダーヴィットがベックメッサーに靴を届けに行ってから、またここに戻って来る。ダーヴィットは昨夜の殴り合いのことでお叱りを受けるだろうとビクビクしながら、「今日の聖ヨハネ祭に免じて、昨夜のことはお忘れください」と頼む。聖ヨハネ祭と聞いてハンス・ザックスは、ダーヴィットに聖ヨハネ祭の唱え歌を歌わせる。ダーヴィットはその唱え歌を見事に歌っているうちに、ハンスという名前はヨハネに由来することに気づいて、感激して今日はまさに親方ハンス・ザックスの命名日であることを口にする。手元にある花もリボンも、そのほかのものもすべて親方のために差し出すことを伝えると、親方はすべてダーヴィットがもらっておくがよいと言って、いつもよりも今日はずっとやさしいのに感動しながらダーヴィットは奥の小部屋に退いて行く。

一人になったハンス・ザックスは「諦念の動機」が奏でられる中、相変わらず瞑想に耽って、「迷妄のモノローグ」を口ずさむ。彼はこの世には至るところに迷妄があり、人々はそれから逃れることはできないと考え、それならばその迷妄を巧みに操って、気高い行いを成し遂げようと決意するのである。ここにはまさにその「迷妄」こそ創造力の源泉であるというワーグナー自身の考えや人生哲学が読み取られるが、それはショーペンハウアーの影響だとされている。いずれにしても重厚な「迷妄のモノローグ」であり、注目すべき聴きどころであると言えよう。

やがて客人のヴァルターが起きてきて、第2場の展開となる。素晴らしい夢を見たというヴァルターにハンス・ザックスは、その夢をもとにして歌を作り上げるようにと励ます。人間の本当の迷妄は夢の中にこそ現れるもので、詩人の仕事はその夢を解釈して、記憶に書き留めることだというのである。このあたりの台本はワーグナー自身の芸術観と思われるような、とても重要な言葉に満ち溢れていて、読み応えのある箇所である。「美しい歌」と「マイスターの歌」の違いを尋ねるヴァルターに対してハンス・ザックスは、次のように答える。多くの人が「美しい歌」を見事に作り出すのは、春が代わって歌ってくれたからである。しかし、人生にも夏があり、秋や冬になると、苦しみや憂いも重なり、幸せな結婚生活にも子供の洗礼、商売、そして数々の争いなどが加わってくるが、そのような体験を経ながらも、なおも「美しい歌」を作り出した者が「マイスター」と呼ばれ、その歌がまさに「マイスターの歌」というのである。このことを聞いてヴァルターは、一人の女性を愛していることを話し、彼女に求婚して、いつまでも添い遂げる妻にしたいことを打ち明けると、ハンス・ザックスは「ならば、まずマイスターの規則を身につけなさい」とアドバイスするのである。こうしてヴァルターはハンス・ザックスから「規則」の手ほどきを受けて、昨夜の夢を歌にしていくが、この歌を作る過程も聴きどころであろう。ハンス・ザックスはヴァルターの歌を紙に書きつけていって、こうしてヴァルターの「マイスター歌曲」の第一章と第二章が出来上がっていく。あとは第三章を作れば完全なものとなるのである。この楽劇で芸術とは何かという点において、最も注目すべき箇所であると言えよう。

とりあえず「マイスター歌曲」の第二章までが出来上がったので、二人は祭典の着替えのために別室に入って行くと、そこへベックメッサーが痛む身体を引きずりながらやって来る。第3場である。彼は騒々しくそのハンス・ザックスの仕事部屋の中を動き回っていると、机の上にザックスが書き留めたヴァルターの歌を見つけた。彼はこの歌でもって今日の歌くらべに参加して、エーヴァに求婚するつもりなのだと思って、怒りをあらわにしながら、その紙切れをポケットにしまい込む。そこへハンス・ザックスが別室から出て来ると、ベックメッサーは彼の正体が分かったぞと言って、彼が歌くらべで優勝するためにこれまで自分を追っ払おうとしたことを責める。これに対してハンス・ザックスは今日の歌くらべに参加するつもりは毛頭ないことを主張するものの、ベックメッサーは証拠を持っていると言いながら、ポケットを探す。そのときハンス・ザックスは机の上に置いていた紙切れがないのに気づいて、ベックメッサーに「あれをしまい込んだな」と問い質(ただ)す。ベックメッサーはそれを取り出しながら、この歌でもって今日の歌くらべに出場するつもりなのだろうというような口ぶりなので、逆にハンス・ザックスは「妙に疑われてもいけないので、その紙切れは進呈しますよ」と答える。しかも「この歌を今日の歌くらべで使ってもよろしい」ということなので、ハンス・ザックスの歌を手に入れたベックメッサーは、喜び勇んでそれを持って家へ帰って行った。ベックメッサーを見送ってから、ハンス・ザックスがほほ笑んで、「彼がここで泥棒を働いてくれたのは、自分の計画にとっては好都合なことであった」と独り言を言っていることからも分かるように、ここでハンス・ザックスはあの歌でもってベックメッサーに人前で恥をかくようにしてやろうと企んでいるのである。

そうしているところへエーヴァが美しく着飾ってやって来る。第4場の展開である。「素敵で晴々しい出で立ち」なので、エーヴァの美しい姿にハンス・ザックスの心はまたもや揺れ動いてしまう。エーヴァはハンス・ザックスが作ってくれた靴がきつすぎるので、ここにやって来たとのことであるが、それはもちろん口実に過ぎない。あとの展開からすると、彼女もまた今や「迷妄」にとらわれているのであろう。ザックスがエーヴァの前に屈み込んで、彼女の靴の具合を調べている間に、ヴァルターが思いがけなくそこに現れたので、エーヴァは叫び声を上げる。若い二人は見つめ合っている。靴の具合を調べながら、ザックスはすべてを理解して、諦念の思いを強めていく。そのときヴァルターがさきほど中断した歌の続きを歌い出す。情感豊かなメロディで、うっとりさせられてしまうヴァルターの歌である。聴きどころであることは、言うまでもない。ザックスはたいへん感動して、エーヴァに向かって「これこそ真のマイスターの歌だ」とヴァルターの歌を褒め称える。エーヴァもまたヴァルターの歌に聞き惚れている。

ところが、突然エーヴァは激しく泣き出して、ザックスの胸にすがりついて、しばらくザックスを抱きしめたままである。これはどういうことなのだろうか。エーヴァにはまだ迷いがあり、「迷妄」にとらわれているということなのだろうか。さきほど諦念の思いを強めたばかりのザックスにも、まだ迷いがあり、「迷妄」にとらわれているのだろうか。しばらく沈黙が続いたあと、ザックスは怒ったかのようにエーヴァを押し離して、彼女をヴァルターに引き渡す。それからザックスは靴屋稼業はつらいものだと言わんばかりに、歌を歌うが、彼は「迷妄」から必死に逃れようとしているかのように見える。エーヴァはこの仕草からザックスの気持ちをすべて理解したのであろう、彼を自分の方に引き寄せて、感謝の気持ちを伝える。「あなたの愛がなければ、そもそもあなたがいなければ、・・・あなたが私の目を覚ませてくれなかったら、私はまだ子供だったかもしれない・・・あなたのおかげで私は目覚めて、自由に、心ばえ高く、大胆に考えることを学んだ。私の花を開かせてくださったのはあなたです」このように感謝の気持ちを表すエーヴァの心の中には、そのあとの言葉からも明らかなように、ザックスを婿とする気持ちも片隅にあったのであるが、しかし、そのときザックスは『トリスタンとイゾルデ』の物語を引き合いに出して、自分はマルケ王のように若い女性と結婚するという仕合わせは望んでいなかったことを口にする。このときワーグナーは自らの作品の中から「トリスタンの憧れの動機」と「マルケ王の動機」を引用していて、印象的な場面となっている。ザックスはこの古い物語を引き合いに出すことでもって、ついに「迷妄」を断ち切って、「諦念」の境地に辿り着くことができたのである。

ザックスはヴァルターの歌った歌を「マイスターの歌」と認めて、エーヴァとともに自分が立会人となってその歌の誕生に洗礼を施すことにする。ちょうどそこにマクダレーネがやって来たので、ダーヴィットをも呼び出して、その二人を証人にしようとする。しかし、徒弟のままでは証人となれないので、ザックスはさきほど見事に聖ヨハネ祭の唱え歌を歌ったダーヴィットを「職人」に昇格させた。それぞれの人物がそれぞれに成長を遂げたところで、そこにいる五人によって五重唱が繰り広げられるが、その五重唱がこれまた文句なしに聴きどころであろう。五重唱のあと、皆は歌くらべの行われる場所へと向かうのである。

このあと舞台転換が行われて、最後の第5場は祭典が開催される広々とした草地である。背景にはニュルンベルトの町が眺められる。その祭典の会場では町の人々がすでに集まって、踊りなどに興じて、楽しそうな雰囲気で盛り上がっている。やがて親方たちがその場に続々と姿を現すが、そのときの音楽が前奏曲のメロディであり、一段とその場は盛り上がりを見せる。親方たちの入場の場面も見どころであり、また聴きどころでもあろう。

最後にハンス・ザックスが登場したところで、一同が彼を讃えて「目覚めよ、朝は近づいた」を合唱する。この歌はマルティン・ルターをナイチンゲールに喩えて、彼の宗教改革を褒め称えながら、新しい時代の夜明けを歌った実在のハンス・ザックスの格言詩をそのまま引用したものである。その草地に集まった人たち一同による合唱のすばらしい歌であり、これも聴きどころであることは、言うまでもない。

この合唱が終わると、ハンス・ザックスはこれから始まる歌くらべに騎士ヴァルターを参加者に加えることを提案すると、それが皆に受け入れられる。いよいよ歌くらべとなり、まずはベックメッサーが小さな壇に上がって、昨夜の歌のメロディにハンス・ザックスからもらった歌詞を無理やり当て嵌めて歌い始めるが、読み違えてばかりで、全体が駄洒落と語呂合わせの支離滅裂な内容の歌となって、聴衆からは笑いの声が聞こえてくる。笑い物となってひどく侮辱されたかたちのベックメッサーは、この歌はハンス・ザックスの歌だと言って、言い逃れようとする。

自分の思い描いた筋書きどおりの運びとなったところで、ハンス・ザックスはこの歌を作った本当の人物として騎士ヴァルターを紹介して、彼にその歌「朝はばら色に輝いて」を歌ってもらうことにした。花で飾った小さな壇に上がって、今ここでヴァルターが歌うその歌は、今朝のときよりもいっそう自由なかたちで、豊かなものとなっている。第1節では朝の情景と楽園のエーヴァ、つまり、旧約聖書の世界を歌い、第2節では夕べの情景とパルナッソスのミューズ、すなわち、古代ギリシアの世界を歌い、第3節ではその両者を融合させて、夢が現実となることを歌い上げたものである。この二つの世界の融合からは、敬虔な信仰に基づいた市民生活と芸術世界との融合と調和が読み取られて、聴き応えのある場面と言えよう。一同は騎士ヴァルターの歌を褒め称え、エーヴァもそのすばらしい歌に感動して、花嫁としての手を彼に差し伸べる。

そこで親方ポーグナーは騎士ヴァルターに「マイスター」の称号を授けようとするが、しかし、そのときヴァルターはそれを拒否する。「私はマイスターにならずに、仕合わせでいたのです」と答えるのである。そのときハンス・ザックスが歩み寄って、重々しく、彼の手を握って、「マイスターたちを軽蔑してはいけない。その芸術を敬ってほしい」と諌め始める。すなわち、ヴァルターが今日、詩人となったのも、マイスターが彼を取り立ててくれたおかげであり、それに対して感謝の念を示すがよい、これまでドイツの芸術を維持していくことができたのも、そのマイスターたちのおかげによるものなのだと、説き聞かせるのである。「マイスターたちの働きに好意を惜しまなければ、たとえ神聖ローマ帝国が霞となって消え失せようとも、神聖なドイツの芸術は変わることなく、我々の手に残ることであろう」というハンス・ザックスの言葉でもって、この作品はクライマックスを迎えると言ってもよいであろう。民衆がハンス・ザックスと同じ言葉を合唱で歌い上げたところで、第三幕の幕が降りる。感動の最終場面である。


5.楽劇『ニュルンベルクのマイスタージガー』の特異性

以上のように見てくると、楽劇『ニュルンベルクのマイスタージガー』はワーグナーの全作品の中でも特異な位置にあることが容易に理解できよう。ほかの作品は神話や伝説を素材としてワーグナー特有のオペラ世界を展開させているのに対して、この作品はハンス・ザックス (1494-1576) という近世初期の実在の人物を中心に据えて、16世紀当時の職匠歌人たちの文化都市ニュルンベルクを舞台とした喜歌劇である。しかもそれはただ単なる喜歌劇ではない。ハンス・ザックスの「諦念」を大きな柱として、この作品においては「迷妄」こそが創造力の源泉であるというワーグナーの芸術観とともに、人生哲学も展開されている。「迷妄」を断ち切って、「諦念」に辿り着くハンス・ザックスの人間的・内面的成長を描いた作品であり、そこにはショーペンハウアーの影響も読み取られる。この作品によってワーグナー自身もまた、前作『トリスタンとイゾルデ』において創作の原動力となった人妻マティルデ・ヴェーゼンドンクとの苦悩に満ちた悲恋の「迷妄」を断ち切って、揺らぐことのない確かな「諦念」の境地に到達することができたのである。ヴァルターの「マイスター歌曲」に読み取られる旧約聖書の世界と古代ギリシアの世界との融合と調和からは、敬虔な信仰に基づいた市民生活と芸術世界との融合と調和も見て取れる。その市民と芸術の調和的世界がワーグナーにとっては16世紀の南ドイツの町ニュルンベルクだったのであり、このニュルンベルクこそ、ハンス・ザックスの言葉が示しているように、「ドイツ的で真正なもの」の芸術が育まれ、維持され続ける理想の芸術の故郷だったのであろう。ワーグナーはその理想の芸術の故郷をそののちニュルンベルクから少し離れたところにあるバイロイトの町において現実のものとするのである。楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』はそういう意味においてもワーグナーの全作品の中にあっても特異性を有する作品である。是非、この機会に鑑賞していただきたいものである。芸術とは何か、真の芸術の本質に触れることができるであろう。


追記

本稿をまとめるにあたっては、音楽之友編スタンダード・オペラ鑑賞ブック[4]『ドイツ・オペラ』(下)と高辻知義訳ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(音楽之友社オペラ対訳ライブラリー)を大いに参照させていただいたことを付記しておく。


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