【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第121号
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○M課長の図書館俳句散歩道 (如月の巻)

如月になりました。紀元前二世紀頃の中国の辞書『爾雅(じが)』の中に「二月を如と為す」という記載があり,古く中国で2月のことを「如」と表していたことが由来とされています。

「如」は本来「従う」という意味で,「ひとつが動き出すと次々に従って動き出す。その動き出す状態」のことから,自然や草木,動物など全てが春に向かって動き出す月,ということで「如」をあてたとされています。ただし,中国では「きさらぎ」とは読みません。

語源の有力なものとして,寒さが厳しいので衣をさらに重ねて着る「衣更着」,陽気が更によくなってくることから「気更来」などがあります。


余談になりますが,豊臣秀吉の軍師「黒田官兵衛」が,隠居という形で出家しその号として「黒田如水」と名のっています。司馬遼太郎著の「播磨灘物語」に「水ハ方円ノ器ニ随フ」という言葉を典拠にしているのかもしれず,いずれにしても勘兵衛という男の号らしい。(中略)よほどこの名が,かれにふさわしいということかも知れない,と書かれています。

また,如水の辞世の歌も,彼の名のような潔いものです。天下人であった秀吉の辞世の歌とは対照的です。


おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて



裸には まだ衣更着(きさらぎ)の 嵐かな       松尾芭蕉


「笈の小文」真蹟懐紙に「西行の涙,増賀の名利,皆これ誠の至る処なりけらし」と前書きがあります。増賀聖が伊勢神宮に詣でて名利を捨てよとの示現を蒙り,着衣を全部乞食に与えて丸裸で下向したという故事(『選集抄』)をふまえて詠んだ句です。


旧暦の2月は今でいえば3月中旬頃ですが,春とはいえ裸でいるにはまだ寒く,衣を着た上にさらに着ているそんな如月の嵐が吹いていることよ。

増賀聖の馬鹿正直なまでの愛すべき行動に,笑いを感じさせられる句です。


早春の 鎌倉山の 椿かな                高浜虚子


「春は名のみの風の寒さや」という「早春賦」の歌詞の言葉通り,寒の戻りや余寒もあって,立春からしばらくの間は寒い日が続きますが,草木に芽が吹き,吹く風にも心なしか春の予兆を感じます。

「春さき」は,まさに「早春」です。ほかに,「春浅し」や「春淡し」も細やかな季節感のある俳句ならではの季語です。


高浜虚子が子供たちの健康のために,鎌倉に移住したのは明治43年でした。また,句誌「ホトトギス」を立て直すべく,気分を一新するために鎌倉に移り住むことにした,と自伝で語っています。大正から昭和の50年を鎌倉の由比ヶ浜で過ごし,「鎌倉を驚かしたる余寒あり」「鎌倉は古き都や注連の内」「鎌倉に實朝忌あり美しき」など,たくさんの鎌倉の句を詠んでいます。北条政子や源実朝が眠る鎌倉の寿福寺にお墓があり,椿を愛した彼の命日(4月8日)は,「椿寿忌」と呼ばれています。


人に死し 鶴に生れて 冴返る         夏目漱石


「冴え返る」は,立春を過ぎて寒気がゆるみ,いくぶん暖かくなってほっとした途端に,またぐんと冷え込む春先の様子のことです。突然冬のような寒さがよみがえって寒さがより敏感に感じられる心持ちをいいます。寒さをくっきりと表し,「凛」とした印象がありますが,春の季語です。

また光,音,色などが澄むことも意味し,「月冴えて」とか「物音が冴え」などと言います。さらにそこから転じて頭の働きや腕前があざやかであることを形容する「頭の冴える」という言葉にもなりました。


小説「草枕」には,伊藤若冲の鶴の図の作品が登場します。

「床にかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄だけに,部屋に這入った時,既に逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが,この鶴は世間に気兼ねなしの一筆がきで,一本足ですらりと立った上に,卵形の胴がふわっと乗っかっている様子は,甚だわが意を得て,飄逸の趣は,長い嘴のさきまで籠っている。」


当時,漱石は教師をしていた熊本から東京にいる子規に俳句を送っては丸をつけてもらっており,この句は二重丸が付いたものでした。


漱石30歳の同じ時期に詠んだ句があります。


菫程な小さき人に生まれたし


もう一度生まれかわれるならば,清らかでつつましい菫のような花になりたい,という心情を詠んでおり,俗にまみれた人間や世を嫌悪した漱石らしい句です。菫の花言葉は,誠実,謙虚を表します。


「猫の恋」という季語を詠みこんだ句を紹介します。


猫の恋 やむとき閨の 朧月           松尾芭蕉

巡礼の 宿とる軒や 猫の恋           与謝蕪村

火の上を 上手にとぶは うかれ猫        小林一茶

おそろしや 石垣崩す 猫の恋          正岡子規


春先の猫の狂おしい有様は江戸の昔から俳句の格好の素材になっています。普段はおとなしく,つんと澄ましてよそよそしい猫が,春先になると前後の見境もつかない狂態を演じます。「猫の恋」という季語には,恋に対する人間の取り繕った様の風刺や猫の自由奔放な恋に身をやつす姿にうらやましさを感じる人間の滑稽さも込められています。

和歌では動物の恋と言えばもっぱら「鹿の恋」を優雅に歌っていますが,俳諧では俗な猫を詠んでいます。

ペットとして世の中には犬好きと猫好きがいますが,これほど人間に従わない愛玩動物はいないともいわれていますが,あなたはどちらが好きでしょうか?


声たてぬ 時がわかれぞ 猫の恋         加賀千代女


加賀千代女は,1703年(元禄16年)に加賀国松任(今の白山市)で,表具師福増屋六兵衛の娘として生まれました。生まれつき身体が弱かったため,父の六兵衛は娘の健康を願って,地元の松任の松にも縁のある千代という俳号を授けたと言われています。芭蕉の「奥の細道」が1702年に世に出されたこともあり,北陸でも蕉風俳諧が隆盛でした。彼女は,このような時代背景の元に生まれ,幼い頃から俳諧に親しんでいました。


朝顔に 釣瓶とられて もらひ水


千代女の最も有名な句です。朝起きて井戸の水を汲みにいったら,朝顔の蔓がつるべに巻きついていて,水を汲むことができない。蔓を切ってしまっては朝顔がかわいそうなので,他のところへ水をもらいにいくという優しく美しい句です。


しら梅に明る夜ばかりとなりにけり


1783年(天明3年)12月25日未明,蕪村臨終吟三句のうち最後の作です。享年68歳でした。


几董の「夜半翁終焉記」に,「二十四日の夜は病体いと静かに,言語も常にかわらず,やをら月渓を近づけて病中の吟あり,・・・吟声を窺うに,「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐいすや何ごそつかす藪の霜」ときこえつつ猶工案のやうすなり。しばらくありて又,「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」こは初春と題を置くべしとぞ。この三句を生涯語の限りとし睡れるごとく臨終正念にして,めでたき生涯をとげたまひけり。」とあります。


「間もなく白梅の美しい夜明けなのに,死んでいくわが身が口惜しい」「この身は,これからは世俗をはなれ,白梅に明ける夜ばかりを迎えることとなるのだ」など,蕪村がどのような感慨をもって辞世の句を詠んだのか,その真意はわかりませんが,自分の死をしっかりと見つめている彼の心情と姿勢に敬愛の念を感じます。


願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ


武士を捨て,出家し仏門に入った西行は,亡くなる十数年前に,遺言のような歌を詠んでいました。彼はこの歌のとおり,旧暦2月(今の3月)の頃に一生を終えました。月や花に心を寄せて,寂しさや孤独を飾らずにありのままに素朴な心境を吐露した和歌です。蕪村の句と重ねあわせて,思いを馳せてみてはいかがでしょうか?


うすらひや わずかに咲ける せりの花        宝井其角


「うすらい」とは,春浅いころの薄く張った氷のことや解け残った薄い氷のことです。

冬の氷と違い,消えやすいことから,淡くはかない印象があります。


其角は,蕉門第一の門弟です。逸話として,芭蕉が「蛙飛び込む水の音」の上五で悩んでいたところ,門人の其角から「山吹や」の提案がありました。芭蕉はそれを受けて,和歌の定番とされる「山吹と蛙」という伝統的で華やかな言葉をさけ,新たな境地を求めた「古池や」と定めたそうです。

古典などの型にはまった従来の俳句から,不易流行を理念とした芭蕉俳風が確立していく上で歴史的な意味をもっています。

直感的で聴覚的な想像力を呼び起こし,自然に心の中に入ってくるこの句をあらためて考えてみたいと思います。


雪とけて 村いっぱいのこどもかな      小林一茶


雪どけの季節になって,冬の間家に閉じこめられていた子供たちがいっせいに戸外に出て,村いっぱいに広がって遊んでいます。

待ち遠しい遅い春を迎えた雪国の子供の,はじけるような喜びがひしひしと伝わる一句です。


春はもうすぐです。そして,卒業や進級まで,もうわずかとなりました。



開館や 図書館前の うす氷


図書館に 学び集いて 冴え返る


春淡し 夢いっぱいの 感動本


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