【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第120号
メールマガジン「すだち」第120号本文へ戻る


○「知的感動ライブラリー」(92)

ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』(2012年イギリス)
総合科学部教授 石川榮作

フランスの文豪ビクトル・ユーゴーの小説を題材としたミュージカル『レ・ミゼラブル』は、1985年にロンドンで初演されて以来、今もなおロングラン記録を更新し続け、世界各地でも多くの言語に翻訳されて上演されている。とりわけ今年は30周年ということで、世界の至るところでさらにいっそう注目を浴びることであろう。日本でも今年4月から東京・大阪をはじめ6都市で上演される予定であることは、周知のとおりである。このミュージカル『レ・ミゼラブル』ブームに拍車をかけたのが、2012年にイギリスで製作されたミュージカル映画『レ・ミゼラブル』である。監督は名匠トム・フーパーで、役者がすべての歌を実際に歌いながら、生で収録するという撮影方法を取っており、それだけにいっそうミュージカルならではの醍醐味を体感させてくれる。以下、この映画の展開を順に辿っていきながら、その見どころ・聴きどころなどを紹介していくことにしよう。


1.疎外感に打ちひしがれたジャン・バルジャン

この映画の時代背景は、フランス革命後、1815年の王政復古によりルイ18世が王位に就いて、ブルボン王朝が復活した年である。映画冒頭の舞台は地中海にのぞむフランス南東部のツーロンの町である。この町はフランス海軍の基地が置かれている軍港であるほかに、刑務所もあることで知られている。主人公ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、飢えている妹の子供のためにパンをひとつ盗んだ罪で捕らえられ、脱獄を重ねたこともあって、結局19年間もここの刑務所で囚人生活を送り、辛い労役を強いられている。怪力の持ち主であることで知られていた彼は、船を港に引き上げる仕事に携わっていたある日のこと、監督官のジャベール(ラッセル・クロウ)から仮釈放を告げられて、身分証代わりの釈放状を持って世間に出て行く。しかし、世間の風当たりは強くて冷たかった。身分証には「危険人物」という烙印(らくいん)を押されていたために、仕事を求める先々でことごとく断られ続けたのである。ジャン・バルジャンは疎外感に打ちひしがれながら各地をさまよい歩くが、ある日、心身ともに疲れ果てて辿り着いた教会ではその司教ミリエル(コルム・ウィルキンソン)から温かく迎えられ、食事まで出してくれたうえ、その日の宿まで提供してくれた。しかし、ジャン・バルジャンはその司教の好意に背いて、その夜、ベッドから起き上がって、銀の食器を盗んで逃げて行った。憲兵に捕まって、事情を問い質(ただ)すために教会に連れ戻されるが、驚いたことに、司教はその食器は確かに彼にあげたものであると答えたばかりか、その食器だけではなく、燭台(しょくだい)までも持って行くがいいと言って、差し出した。この司教の温かく寛大な心に触れたジャン・バルジャンは、身も心も新しい人間に生まれ変わることを決意して、仮釈放状を破り捨ててしまうのであった。主人公が過去を捨てて新しい人間に生まれ変わろうと決意するこの場面で歌われるのが、「独白」の歌であり、まずは冒頭部分の「囚人の歌」とともに最初の見どころ・聴きどころであろう。


2.市長の地位に就いたジャン・バルジャン

それから8年の歳月が過ぎ去り、映画の舞台は1823年、フランス北東部にある港町モントルイユ・シュル・メールである。ジャン・バルジャンはその後マドレーヌと名前を変えて、そこの街で工場経営の事業家として成功し、さらには市民たちから人徳を認められて、そこの市長の地位にも就いていた。

そのマドレーヌ市長が経営する工場では、ファンテーヌ(アン・ハサウェイ)という若くて貧しい女性も多くの女性作業員たちとともに働いていたが、彼女は男に捨てられ、その男との間に生まれた幼い娘コゼットをパリ郊外にあるモンフェルメイユの宿屋の夫婦に預けていた。ところが幼い娘コゼットが病気だからと言って金を催促するその宿屋からの手紙を同僚の女性作業員たちに取り上げられて、彼女はからかわれたり、罵られたりして、大騒ぎとなっていた。そこへマドレーヌ市長がやって来て、工場長に穏便に騒ぎを収めるよう命じた。女性作業員たちは自分たちも職を失うことを恐れて、淫(みだ)らなファンテーヌを解雇するようにと要求したので、工場長は彼女を「昼間は生娘で、夜は娼婦か」と罵りながら、工場から外に放り出した。

そのような出来事があった頃、マドレーヌ市長がその工場にいるところへあのジャベールが現れる。ジャベールは新たにこの街の警部に就任したので、その挨拶に訪れたのである。ジャベールは市長にどこかで会ったことがあるような気がしたが、マドレーヌはもちろんそれを否定する。そのとき外では荷車が横転する事故が起こって、一人の男がその荷車の下敷きになっていた。そこへ駆けつけたマドレーヌ市長は、持ち前の怪力ぶりを発揮して、馬車を持ち上げて、その男を助ける。そのさまを見ていたジャベールは、かつてツーロンの軍港で重い柱を持ち上げて運んだ男のことを思い出し、この市長こそその脱獄した男ではないかと疑いを抱き始め、それ以降市長に目を光らせるのである。

工場を解雇されたファンテーヌは、病気の幼い娘を救うため、どうしてもお金を稼ぐ必要があり、手持ちの物を売ろうとしてやむなく港湾地区に出かけた。悪知恵の働く女性たちに唆されて、金儲けになると言われて、彼女はきれいな長い髪の毛を切られたうえ、奥歯まで抜き取られてしまった。さらには娼婦にまで身を落してしまう。このときファンテーヌが歌うのが「夢破れて」の歌である。映画パンフレットによると、そのとき切り落とされた長い髪の毛は、女優アン・ハサウェイの本物の髪のようである。涙を流しながら、自分の不運な境遇を歌い上げるその「夢破れて」の歌は、聴いていてあわれを催さずにはいない。その涙ももしかしたら本物の涙なのではないだろうか。この映画で最大の見どころ・聴きどころであることは、間違いない。

その娼婦街ではファンテーヌはさらにまた一人の男にからまれそうになって、悲しみのあまりその男を突き飛ばして、相手の頬に傷をつけてしまう。そこへ警部ジャベールが通りかかって、事情を聞くと、男は「この女に襲われた」という。ジャベールはその男の言い分を真(ま)に受けて、彼女を逮捕しようとする。ちょうどそこへマドレーヌ市長がやって来て、ファンテーヌをかばった。しかし、彼女は「あなたが私を工場長に追い払わせたからこうなったのだ」と言って、マドレーヌ市長に唾を吐きかけた。このとき初めて彼はこの女性が解雇になったせいで娼婦にまで身を落したことを知り、彼女を無実だと言ってから、胸の病に苦しんでいた彼女を病院へ運ぼうとする。その際、彼女の幼い娘のところへ使いを遣わせて、必ず連れて来ることを約束するのである。

そのような折り、警部ジャベールのもとにパリの警察本部から連絡があり、彼はマドレーヌ市長のもとに出かけて、自分が早とちりをしてしまったことを詫びる。実はジャベールは市長を逃亡中のジャン・バルジャンだとパリの警察本部に告発していたが、そのジャン・バルジャンが逮捕されたとの連絡が入ったので、自分の過ちをマドレーヌ市長に詫びるとともに、自分の処罰を求めたのである。それに対してマドレーヌ市長は「あなたは職務に忠実だっただけなので、職務を続けるがよい」と答えるのであったが、しかし、「別の人物がジャン・バルジャンだと間違えられて逮捕されている。自分が本物だと名乗り出れば、自分はすべてを失う。ただこのまま名乗り出なければ、人の道に背(そむ)くことになる」と、激しい葛藤に苦しめられた。思い悩んだ末、マドレーヌ市長、つまり、ジャン・バルジャンは裁判所に出向いて、自分こそ逃亡中のジャン・バルジャンであると申し出た。このときジャン・バルジャンは刑に服するつもりであったが、しかし、入院中のファンテーヌは他界してしまい、彼女が息を引き取る前に幼いコゼットを救い出すことを約束をした。ジャン・バルジャンは亡くなったファンテーヌのためにもその娘コゼットを引き取る必要がある。執念を燃やして自分を捕らえようとする警部ジャベールを振り切って、窓から川へ飛び込んで逃げて行き、ジャン・バルジャンは幼いコゼットが住むモンフェルメイユの町に向かうのである。

モンフェルメイユの町はパリから東へ約17キロのところにある。そこの安宿屋の主人であるテナルディエ(サシャ・バロン・コーエン)とその妻(ヘレナ・ボナム=カーター)は、卑劣なやり方で旅人たちから金品を巻き上げる経営者で、幼いコゼットには辛い下働きをさせる一方、自分たちの娘エポニーヌには贅沢をさせるという夫婦であった。そこの町へ行く途中の森の中でジャン・バルジャンは、井戸の水を汲みに来た幼い少女に出会い、この少女がコゼットだと分かると、その宿屋へ行って、あくどい夫婦と交渉して少女コゼットを引き取ろうとする。宿屋の夫婦は彼に大金を払わせるように仕向けるが、ジャン・バルジャンは大金を払らってまでもコゼットを引き取った。そこへ警部のジャベールがやって来るが、ジャン・バルジャンがコゼットを引き取って連れ帰ったあとであった。

ジャン・バルジャンはコゼットを馬車に乗せてパリに向かっていたが、その街の北門のところでは検閲が行われていた。身分証明書を提示しなければならなかったので、ジャン・バルジャンはコゼットを連れて馬車から降りて、走って逃げ出した。やがて警部ジャベールが馬に乗って、その二人の後を追いかける。二人は懸命に逃げる。このあたりもドキドキハラハラさせられて、見どころ・聴きどころであろう。ジャベールに追われながらも、なんとかそれを逃れてジャン・バルジャンが辿り着いたのは、パリの街の中の修道院であった。そこはかつて荷車の下敷きになっていたところをマドレーヌ市長(ジャン・バルジャン)によって助けられた男フォーシュルバンが庭師を務めていたところだったので、ジャン・バルジャンはコゼットとともに温かく迎え入れられて、そこに匿(かくま)ってもらった。こうしてジャン・バルジャンはジャベールの手から逃れて、コゼットの養父となってパリの街で過ごすこととなるのである。


3.パリでの学生たちによる革命

それから7年が経過した1830年7月に起こった、いわゆる「七月革命」によってブルボン王朝は倒れ、ルイ18世の後継者シャルル10世が退位して、それに代わってオルレアン家のルイ・フィリップ王が即位した。ルイ・フィリップは「フランス国民の王」であると自称して、国民との宥和を図ったが、中流階級の暮らしは豊かになるものの、下層市民の生活は依然と苦しく、労働者や学生たちはその貧富の差に不満を募らせて、革命の機会を窺っていた時代のことで、映画の舞台はこうして1832年のパリの街に移っていくのである。

ジャン・バルジャンは美しい女性に成長したコゼット(アマンダ・セイフライド)と、プリュメ街の家でひっそりと二人きりで暮らしながらも、ときどき貧民街に出かけては、そこで困った人たちへの奉仕をしている。パリの街角では学生たちが貧困にあえぐ下層民たちとともに、自由で平等な社会の実現を求めて、革命への不穏な動きを見せている。

裕福な家庭を飛び出して貧民街の安アパートで独り暮らしをしている学生のマリウス・ポンメルシー(エディ・レツドメイン)もまた、その革命に参加しようとする学生のうちの一人である。彼は親友のアンジョルラス(アーロン・トヴェイト)がリーダーを務めている「ABCの友」の一員として活動を続けていた。ところがマリウスは貧民街で施しをしているコゼットを初めて目にして以来、美しい彼女に一目惚れしてしまい、革命の理想を忘れさせるほどの恋に陥ってしまった。彼は近くに住むエポニーヌ(サマンサ・バークス)――あのモンフェルメイユの安宿の夫婦の成長した娘であり、パリの街についてはよく精通していた――に頼んで、美しいコゼットの住む家をつきとめてもらった。

一方、コゼットの方も貧民街で見かけていたマリウスに心惹かれていた。エポニーヌに案内されてマリウスがその家へ出かけると、コゼットは門越しにマリウスの手を取って、二人はお互いの気持ちを確かめ合う。そのさまを陰からあのエポニーヌがやるせない気持ちで眺めている。エポニーヌもまたマリウスには密かに恋心を抱いていたのである。この場面でコゼットとマリウスとエポニーヌの三人が歌う三重唱は圧巻である。コゼットとマリウスが初めての恋に戸惑いながらも、互いの愛を確かめ合う傍らで、密かにマリウスへの片思いを歌い上げるエポニーヌの気持ちには、とりわけ同情せずにいられない。彼女の存在がこの場面を大いに盛り上げていると思う。この場面の三重唱が大きな見どころ・聴きどころであることは言うまでもない。

マリウスがその庭先から立ち去ると、入れ替わりに数人の者がその庭先に押し掛けて来た。あのかつてのモンフェルメイユの安宿のテナルディエたちで、彼らは貧民街でジャン・バルジャンとコゼットを見かけて以来、居場所をつきとめてジャン・バルジャンからまた金を絞り取ろうと画策していたのである。しかし、その場にいたその娘のエポニーヌが大声を上げたことから、その押し掛けは差し止められた。その騒動でジャン・バルジャンは警部のジャベールに隠れ家をつきとめられたと思って、ただちにコゼットを連れて、まず今夜はロマルメ通りまで逃げて、そのあとは英国へ逃げて行こうと決意する。急な旅立ちを知らされたコゼットは、マリウスにその日の行き先を書いた紙きれを家の門に挟んでおいた。それを手にしたエポニーヌは、それをポケットに仕舞い込んだまま、一人で雨の降る中、パリの街をさまよう。そのときに彼女の歌う「オン・マイ・オウン」も、届かない想いでも道は残されているという内容の歌であり、見どころ・聴きどころである。ただ彼女は嫉妬にかられて、コゼットの行き先が書かれている手紙をその時点では彼に渡さなかった。コゼットの家に数人の者が押しかけたことを聞き知ったマリウスは、急いでその隠れ家へ駆けつけるものの、コゼットはジャン・バルジャンに連れられてどこかへ立ち去ったあとであった。マリウスはどん底に突き落とされたかたちである。自分はコゼットを探すべきか、あるいはここにとどまって革命に参加すべきか。マリウスはついに革命に参加する決意をする。このあたりも注目したい感動の場面である。

一夜明けて、パリの街角には闘いを叫ぶ学生たちの「民衆の歌」が響き渡った。学生たちはリーダーのアンジョルラスの指揮でバリケードを築き上げた。やがてそこへ警部のジャベールが労働者に扮してスパイとして近づいて来るが、ガブローシュという名のストリート・チルドレンがその男の正体を見破り、彼を捕らえて、縛り付けた。まもなくしてから兵士たちの攻撃が始まり、学生たちは果敢に応戦する。それでも兵士たちはバリケードのところまで押し掛けるが、そのときマリウスが油の入った樽と松明(たいまつ)を手に持って、死を覚悟して「引き上げなければ、火をつけるぞ」と言ったので、兵士たちは一旦後ろに引き上げた。しかし、このときの兵士たちの攻撃でマリウスをかばおうとしたエポニーヌは、兵士の放った銃弾に倒れてしまっていた。兵士たちが退いたあと、マリウスがエポニーヌを抱き上げると、彼女は意識が薄れていく中、マリウスに謝りながらコゼットの手紙を渡して、心密かに恋慕う人に抱かれたまま息を引き取ったのであった。この場面でもエポニーヌにはあわれみを感じずにはいられない。このエポニーヌが物語の展開に重要な役割を果たしていて、見どころ・聴きどころであることは言うまでもあるまい。

そうして学生たちがバリケードを築き上げて、夜になっても兵士たちとにらみ合っているところへ、ジャン・バルジャンが姿を現した。彼はストリート・チルドレンのガブローシュを通してコゼットに宛てたマリウスの手紙を読んで、コゼットのためにどうしてもマリウスを助けねばならないと思って、ここにやって来たのである。ジャン・バルジャンは建物の上から兵士たちが狙い撃ちしようとしていたところを食い止めたことから、リーダーのアンジョルラスから信頼を得て、縛りあげられていた警部のジャベールの身柄を自分に任せてほしいと申し出た。ジャン・バルジャンは警部ジャベールを裏路地に連れ出すと、縄を解いて、殺したと学生たちに知らせるため空砲を撃ってから、ジャベールを解放して逃がしてやった。

翌日、学生たちは闘いに備えてバリケードに集まっているが、民衆は誰も姿を見せない。辛うじてストリート・チルドレンのガブローシュの姿が見えるだけである。しかし、その少年はバリケードの前に立ち、歌を歌っているところを銃撃されて、無残にも倒れてしまった。やがて兵士たちの大砲による総攻撃も始まって、学生たちのバリケードは壊滅状態となった。マリウスは銃弾を浴びて意識を失ってしまった。リーダーのアンジョルラスも追い詰められた末、ついに銃殺されてしまう。その間に、ジャン・バルジャンは意識のないマリウスを抱えて逃げて行き、下水道の中に入って安全な場所に逃げようとしていた。その下水道の中にはあのかつての安宿の主人テナルディエがいた。彼は倒れた者から金目のあるものを奪い取っていたのである。どこまで彼はあくどい男なのか。徹底的な悪人、否、この男こそ「惨めな男」と言ってもよいかもしれない。彼はマリウスの指からも指輪を抜き取ったが、そのときジャン・バルジャンが起き上がって彼と揉み合う。この下水道でのジャン・バルジャンとテナルディエの格闘もドキドキハラハラさせられて、見どころの一つである。

テナルディエを振り切って、下水道から地上に上がろうとしたところで、ジャン・バルジャンは警部ジャベールに出くわしてしまう。銃を突きつけるジャベールに向かって、ジャン・バルジャンはこのマリウスを助けるために1時間の猶予を願い出る。それでもジャベールはジャン・バルジャンにピストルを向けたままであったが、どうしても引き金を引くことはできずに、ジャベールはピストルを投げ捨ててしまった。自らの信念に背いたかたちであるが、これは先程相手が自分の命を助けてくれたことへのお返しなのか。「俺と奴、法と善、正しいのはどちらか一人」このような苦悩に苛まれながらも、価値観の崩壊に耐えることができずに、ジャベールはついにセーヌ川に身を投げ入れて、自殺してしまう。高い橋の上から川の中に身を投げる前に歌うジャベールの歌も、聴きどころであることは言うまでもない。こうしてその日の闘いのシーンが終わる。

意識を失っていたマリウスは、祖父の家に運ばれて、意識を回復し、生き延びはするものの、闘いで倒れてしまった仲間たちのことが心から離れずに、苦悩する。そのときに「カフェ・ソング」を歌う場面は、見どころ・聴きどころであろう。意気消沈したマリウスであったが、祖父の家でコゼットの献身的な看病によって心身ともにだいぶ回復する。しかし、ここまで誰によって運ばれたのかについては、何も知らない。マリウスはジャン・バルジャンにコゼットとの結婚を認めてくれるように頼んだとき、ジャン・バルジャンはコゼットと出会う前のことを彼に話して、コゼットのことをすべて彼に託して、自分は遠くへ行くと言ってから、ひっそりと姿を消してしまった。

マリウスとコゼットの結婚式の日、あのかつての安宿のテナルディエ夫婦がまたもや姿を現した。夫婦は結婚式場に忍び込んで、金品を盗み取ろうとしたのである。しかし、マリウスに見つけられて、叩き出されそうになるが、あの闘いの日にジャン・バルジャンが下水道の中にいたことを持ち出して、お前を救ったのはジャン・バルジャンだ、金を払えば、その彼の居場所を教えようと取り引きする。テナルディエはどこまで悪党なのか。さらにその下水道で奪い取った指輪を見せびらかすが、それは紛れもないマリウスの指にはめていたもので、マリウスはそれによって自分を助けてくれたのは、ジャン・バルジャンだったことに気づくのである。

テナルディエ夫婦からジャン・バルジャンの居場所を聞いたマリウスは、ウェディングドレスを着たままのコゼットを連れて、ジャン・バルジャンのいる修道院へ駆けつけた。ジャン・バルジャンはそこで死を迎えようとしていた。彼はマリウスとコゼットに見守られながら、コゼットの母ファンテーヌの幻に導かれて、昇天していくのである。この場面にも涙を流さずにはいられないであろう。最大のクライマックスと言ってもよいであろう。

最終場面はあの闘いの日まで遡って学生たちが「民衆の歌」を歌っているシーンである。「どんな暗い夜も、いつかは明けて日が昇る・・・明日がくるとき、未来が始まる」という内容の歌であり、壮大なミュージカル映画にふさわしい合唱である。最大の見どころ・聴きどころであることは、言うまでもない。感動の最終場面である。


以上のように見てくると、このミュージカル映画『レ・ミゼラブル』は原作であるビクトル・ユーゴーの大河小説を、ジャン・バルジャンとファンテーヌ、その娘コゼットと恋人マリウスを中心にした感動の人間ドラマに集約して、ミュージカルとして仕上げたものと言えよう。物語が展開されていく随所にすばらしい音楽が添えられて、原作以上の感動を覚えずにはいられない。またこのミュージカル映画は劇場上演とは異なって、映画版ならではの魅力となっているところも多い。たとえば、仮釈放後にジャン・バルジャンが各地をさまようシーンは、寒い山越えをスクリーンに映し出すことで、彼の凍える心の中のうちをも表現していると言える。また工場を解雇されたファンテーヌが娼婦に堕ちていくシーンも、劇場では見られない原作部分が再現されており、そのほかにも挙げればきりがない。映画全体にはさまざまな愛が展開されており、とりわけ司教ミリエルの寛大な心に触れて生まれ変わったあとのジャン・バルジャンのファンテーヌとその娘コゼットに寄せる愛は、他人のために生きることの尊さを歌い上げ、その犠牲的な愛によって実現したマリウスとコゼットの愛は、愛と希望によって築き上げられる理想の未来を象徴しているとも言えよう。是非、この機会に壮大な感動の人間ドラマであるミュージカル映画『レ・ミゼラブル』を鑑賞していただければ幸いである。随所にちりばめられたすばらしい音楽によって、輝かしい未来への勇気と希望を与えてくれるであろう。それが真の「芸術の力」というものである。


メールマガジン「すだち」第120号本文へ戻る