【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第117号
メールマガジン「すだち」第117号本文へ戻る


○M課長の図書館俳句散歩道 (秋 神無月の巻)

「秋の夜長」を意味する「長月」から,十月になりました。旧暦で「神無月」です。


一般に出雲大社に全国の神が集まるため,出雲以外には神がいなくなるからと言われていますが,これは中世以降の民間による俗説とされ,先般「水無月の巻」で紹介しましたように,神様を祭る月である「神の月」が有力な語源とされています。


秋の季語に,「天高し」「秋高し」があります。「春高し」や「夏高し」という季語はないのは,秋を春や夏に置き換えてみるとよくわかりますが,「天高く馬肥ゆる」から感じる「天高し」や「秋高し」は空気が澄み渡った秋の空が高く感じる言葉です。


松山や秋より高き天守閣       子規


明治24年に詠んだ俳句で,松山城リフト降り場に句碑が建っています。


伊予松山城は,1602年に築城された平山城で,姫路城,和歌山城と並ぶ日本三大連立式平山城です。天守からは15万石と呼ばれた城下を一望でき,道後平野や瀬戸内海の島々も一望できる名城です。


「松山城」は,江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されている日本ではわずか12城しかない「現存天守」です。これ以外に存在する天守には,復元天守,復興天守,模擬天守等がありますが,そのうち四国には,4つの「現存天守(松山城・宇和島城・丸亀城・高知城)」があります。


春や昔十五万石の城下かな      子規


明治23年,日清戦争に従軍記者として参加するにあたり,松山へ帰郷した時に詠んでいます。

故郷を懐かしんだ句碑が,JR松山駅前に建っています。


秋の大きな行事の一つに五穀豊穣を神に感謝する「秋祭り」があります。


一日の秋にぎやかに祭りかな      子規


正岡子規は,名は常規といい,幼名は処之助で,のちに升(のぼる)と改めています。父は常尚といい松山藩の武士で御馬廻りをつとめていましたが,明治5年子規が満4歳のときに亡くなっています。


雅号の子規とはホトトギスの異称で,結核を病み喀血した自分自身を,血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものであることは有名ですが,彼は,雅号だけでも百あまり持っていました。


その中に,「獺祭書屋主人」があります。その命名の由来ですが,カワウソは捕らえた魚を岸に並べる習性があり,その姿はお祭りをしているように見えるとの事から,詩や文をつくる際,多くの参考資料等を広げちらす様子と共通することから,「獺祭」とは書物や資料などを散らかしている彼自身の様子を雅号として気概を表したものと思います。


また,ベースボールを「野球」と命名したのが子規と言われているのは「升(のぼる)」をもじって「野球(のぼーる)」としたからといわれています。


祭りの俳句から,獺祭に脱線してしまいました。


さて,秋の味覚のくだものである柿,子規といえばまさに次の句が浮かびます。


柿くえば鐘がなるなり法隆寺      子規


国語の教科書にも必ず採用され,知らぬものがいないほどの句です。


旅先で「柿」を食っていると,法隆寺の鐘が聞こえてきた。澄んだ空気を伝わって聞こえてき鐘の音にほのかな旅情を感じさせる俳句です。


実は,この句が生まれる背景には,次のようなエピソードがあります。


明治28年4月夏目漱石が,東京から子規の故郷である松山の松山中学に英語の教師として赴任します。

同年8月,日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した子規は神戸で療養中でしたが,漱石が親友である子規を故郷での静養を勧めたのか,子規自らが故郷へ親友が赴任したことから訪ねたのか,漱石の下宿へころがりこみ,一階にいた漱石が二階に移りました。

子規はこの下宿に,漱石の別号であった「愚陀佛」を付けて「愚陀仏庵」と名づけました。


愚陀佛は主人の名なり冬籠         漱石


漱石寓居の一間を借りて


桔梗活けてしばらく仮の書斎哉       子規


子規が漱石の下宿愚陀仏庵に滞在したのは50日余りに過ぎませんでしたが,この間松山の俳句愛好家「松風会」の人々に囲まれ,大いに俳句を作り議論しています。漱石もその輪に加わり,俳句をひねるようになりその様子を,次のように述べています。


「僕は二階に居る,大将は下に居る。其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると,毎日のように多勢来て居る。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが,兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むをえず俳句を作った。」


子規が,体調が回復したため10月に母親や妹がいる東京に帰ることになりました。


送別句


御立ちやる可御立ちやれ新酒菊の花     漱石


行く我にとどまる汝(なれ)に秋二つ     子規


松山三津浜港から出航することになり,前日から船宿に泊まりこんでいました。見送りのため宿を訪れた松風会員十人が帰り,子規は晩秋の港に一人佇んでいました。


十一人一人になりて秋の暮       子規


これが子規の最後の帰郷となり,再び松山の地を踏むことも,そして親友の漱石に会うこともありませんでした。


せわしなや桔梗に来り菊に去る       子規 


このあと,子規は帰京の途に奈良を訪ねることになります。


ところで,この句「柿くえば・・・」は始め,法隆寺ではなく東大寺近くの宿屋で着想されたのではないかとの説があります。


子規は奈良へ着くと東大寺南大門近くに宿をとりました。


大仏の足もとに寝る夜寒かな        子規


旅館の女中が,子規の好きな柿を剥いてくれました。その時の様子は,後に雑誌「ホトヽギス」に掲載された「くだもの」(明治34年3~4月)の中の「御所柿を食ひし事」として記されています。


或夜夕飯も過ぎて後,宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと,もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから,早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢どんぶりばちに山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。(中略)やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い,場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。(中略)あれはどこの鐘かと聞くと,東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。


長き夜や初夜の鐘撞く東大寺      子規


子規が法隆寺にやってきたのは奈良に到着して四日目で,その日の天候は記述によれば雨模様でした。法隆寺を詠んだ句は,ほかにいくつかありますが,雨を読み込んでいます。


いく秋をしぐれかけたり法隆寺    子規


子規は剥いてくれた柿と東大寺の鐘の音が頭に残っており,後に法隆寺で実際に鐘の音を聞いたかもしれませんが,東大寺の鐘の音と重なった可能性があります。


「柿くえば・・・」の句は,正直なところ冴え渡った秋空や暮れていく秋の夕暮れを連想させます。


子規のこの有名な句は,東大寺の鐘と法隆寺の鐘との合作だという説です。


この句は,『海南新聞』明治28年11月8日に初めて掲載されました。


「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書きがあり,法隆寺に立ち寄った後,喫茶店で一休みしながら柿を食べていると法隆寺の鐘が鳴りその鐘の音色に秋を感じた,ということがこの句に込められています。


柿食えば,どうして鐘がなるのかという疑問がわいてきますが,柿と鐘に何の因果関係もないのは当然です。


むしろ柿を食えば,お茶が欲しくなります。


「柿を食ったら,その時に法隆寺の鐘が聞こえた」という事実に対して,「鳴るなり」という切れ字を使った表現は,「柿くえば」と「鐘が鳴るなり法隆寺」という文脈が二つありながら一つの心象風景として浮かびあがらせることに成功している妙が,この句にはあると思います。「鐘が聞こえり」では,この句の意図が違ってしまいます。


もう一つ,この句が生まれたエピソードとして,子規がこの句を発表する2カ月前の同じ海南新聞の9月6日に次の句が掲載されました。


鐘つけば銀杏散るなり建長寺     漱石


実は,子規はこの漱石の句を添削し,そしてこの句を覚えていて「柿食えば・・・」の句を創ったといわれています。「建長寺」は鎌倉を代表する禅寺ですが,漱石が明治27年鎌倉を訪れ参禅した時に詠んだものです。

寺の鐘をついたら銀杏が散ったという風景を詠んだ句に対して,子規は「柿」という「寺」とは全く関係のない季語をもってきて法隆寺という奈良を代表する風景とその鐘が響いてきたという音により,味覚,視覚,聴覚を俳句に創りこんでいます。


また,この句には暮れていく秋の肌寒さや,甘い柿の匂いさえも感じてきます。まさに触覚と嗅覚をプラスした五感あふれる句であるともいえます。


俳句の技法に「取り合わせ」があり,何を取りあわせるかによって句に「いのち」が吹きこまれていきます。


正岡子規自身も,「くだもの」に次のように書いています。


柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので,殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。


子規は秋の旅情をさりげなく詠んでいますが,病状が回復した帰京の途で,以前から訪れたいと思っていた古都奈良に来ることができた喜びは彼にしかわかりません。


思わず心がつかまれる抒情豊かな俳句は,子規にしか詠むこと,そして創ることができない必然性さえ感じます。


子規最後の旅は,7年に及ぶ闘病生活の始まりとなっていきます。


読書の秋はどんどん深まっていきます。子規や漱石,そしてあなたが読んでみたい図書を,ぜひ図書館で見つけてください。


小説に秋を挟みししおりかな


全集の読破の秋となりにけり


メールマガジン「すだち」第117号本文へ戻る