【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第115号
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○「知的感動ライブラリー」(87)

山田洋次監督映画『学校Ⅲ』

総合科学部教授 石川榮作

山田洋次監督の映画『学校Ⅲ』は前作『学校Ⅱ』公開から2年後の1998年に製作されたものである。今回の舞台は東京の下町にある職業訓練校で、これまでのものとはまたかなり異なっているが、一緒に学び合うという意味ではやはり「学校」である。この映画の製作当時は、中小企業はおろか大企業まで倒産するという大不況の時代であったが、山田洋次監督はこの映画を通じてそのような不況の中で新しい職業を求めて技術や資格を取得しようとする中高年の人々に力強いエールを送ったと言えよう。さらにこの映画の中には鶴島緋沙子著『トミーの夕陽』から自閉症を患う息子と母のエピソードも盛り込まれていて、主人公の女性がさまざまな苦難にもめげずに母として生徒として常に明るく生きようとする姿には、感動を覚えずにはいられない。以下、この映画の展開を順に辿りながら、その見どころなどを指摘することにしよう。


この映画の主人公小島紗和子(こじまさわこ、大竹しのぶ)は、10年ほど前に過労死で夫を亡くしたうえ、自閉症の息子富美男・トミー(黒田勇樹)を女手一つで育てているという45歳の母親である。ところが、それまで勤めていた小さな会社が不況の影響を受けて、経理担当の彼女は解雇されてしまった。トミーを養っていくためにも、自分が働くしかない紗和子は、再就職するために必要な資格を得ようとして、東京の下町にある職業訓練校(江東技術専門校)に入学した。彼女がそこで学ぶことになったのは、中高年の人たちが集まるビル管理科のクラスで、担任は斉藤先生(寺田農)である。入校式の日に生徒たちが行った自己紹介によると、そのクラスには、保険会社に35年勤めていたが、定年退職前にリストラ退職した元会社員(笠井一彦)や、町工場を経営していたが、不況のために倒産した元経営者(田中邦衛)もいれば、水商売をしていた元マスター(ケーシー高峰)や、親から譲り受けた電器製品の小売店をたたんでしまった元店主(笹野高史)、そして大手研究所の下請け会社にいたが、経費節減のあおりを受けて退職となった元会社員(高田進)たちがいた。主人公の小島紗和子はこのクラスの紅一点であるが、このクラスには彼女の相手役としてもう一人の主人公とも言うべき人物(小林稔侍)がいる。自己紹介ではただ高野と名乗っただけで、クラスに溶け込もうとする気持ちはまったく見られない人物である。彼はこの映画の冒頭で小島紗和子に続いて紹介されており、それによると、大手証券会社の部長であったが、リストラ勧告に憤慨して辞表をたたきつけるように出して退職したという人物である。このクラスの中では唯一のエリート社員であったという設定であるが、リストラ退職をきっかけに家族ともうまくいかずに別居して、アパートで一人暮らしをしていることがあとで明らかとなる。映画のストーリーは、紗和子の息子トミーのエピソードを織り込みながら、主人公の小島紗和子とこの元エリート社員との間で展開していくと言ってもよいであろう。

こうして紗和子はボイラー技士の資格を取るために6か月間この職業訓練校で学ぶことになったのであるが、団地の家には自閉症のトミーもいて、大変な毎日である。トミーは新聞配達のアルバイトをしている。しかし、夕日が美しいときには、いつまでもそれに見とれてしまい、配達の方を忘れてしまうという息子である。ヘマをするのは、それだけではなかった。母が職業訓練校に通い始めて2日目の夕刊配達のときには大雨で、自転車に乗っていたトミーは、転んでしまい、新聞をずぶ濡れにしてしまったが、濡れた新聞を配ってはいけないと思い、ゴミ置き場で古い新聞を見つけて、それを配達してしまったのである。すると配達先から苦状の電話がたくさんかかってきて、母紗和子は一軒一軒を訪ねて、その日の夕刊を届けるとともに、息子のしでかしたヘマを詫びた。中にはトミーが大きな声で独り言を言いながら新聞を配達することに苦状を述べる主婦もいて、紗和子は辛い思いをする。しかし、濡れた新聞を配達してはいけないと思って、濡れていない古い新聞を配った息子を褒め称えてあげてもいいのではないかと、紗和子は常に前向きな考え方をする。このような障がいのある息子にやさしい態度を見せて、明るく生きようとする紗和子の生き方にも注目したいところである。世間の目は冷たいが、幸いにも、同じ団地に住む倉本宅の奥さん(余貴美子)とその息子健ちゃん(伊藤淳史)はトミーに温かい声援を送ってくれており、観客も救われた気持ちになる。紗和子がこれから学ぼうとしているボイラー技士資格取得の勉強も大変なようであるが、紗和子は6か月間しっかり勉強と家庭との両立を目指すことを決意するのであった。

3日目から各科目の具体的な授業が始まったが、例の高野という男は、遅刻するやら、斉藤先生から作業着に着替えるよう言われると、嫌な顔をしたりして、なかなかクラスの皆には溶け込めないどころか、これまで大きな会社で顎を使って部下を動かしていたかのような横柄な態度を取るので、皆からは嫌がられているようである。その日の授業が終わって、すぐに帰ろうとすると、教室の掃除当番やお茶くみの順番を決めたいので、少し残っていてほしいと呼び止められた。そのときにも高野は「どうして掃除をしなくてはならないんですか」と言って、そそくさと帰ってしまう有様である。こうしてますますクラスの者たちから敬遠されてしまうのである。そのあと高野は街中に出て、公衆電話を使って、大学時代の友人に電話をかけるが、相手が不在でなかなか連絡をつけることができない。あとでやっと連絡がついたところで分かることであるが、高野は大手会社で部長を務める友人に頼んで仕事を紹介してもらおうと考えていたのである。しかし、この不況の中、なかなかその話もうまくゆかない。そのことが原因で高野は授業にも身が入らない。再度、電話をしたときには、その友人からも見捨てられるようなかたちとなり、高野はますます落ち込んでいくのである。ちょうどその日は高野が掃除当番だったようであるが、何も言わずに帰って行ってしまったので、クラスの者たちからはそれを咎められて、彼らとの仲もますますまずいものになっていくばかりであった。

そのような高野の横柄な態度にもかかわらず、紗和子が嫌な顔一つ見せずに高野の代わりに掃除をしていることを聞き知ると、高野は教室に戻って行って、掃除をしようとするが、掃除の経験のない高野は要領が分からずに、そこに鬼塚という元水商売の男とともに残っていた紗和子からアドバイスを受けて、その紗和子が帰って行ったあと不器用ながらもなんとか一人で掃除をすることができた。掃除の終わったあとで机を並べていると、一つの机の中から一冊の教科書が落ちてきた。拾い上げてみると、名前と住所が書いてあり、紗和子のものだと分かった。パラパラ中をめくってみると、至るところにメモがしてあって、彼女が一生懸命に勉強していることが見て取れた。

翌朝、高野は自転車に乗って、紗和子の住む団地に向かった。その日からはゴールデンウィークで、勉強家の紗和子にはその教科書がなければ困ると思ってのことである。昨夜、息子(伊崎充則)を呼び出して、酒に酔ってのことであれ、これまでのことを後悔していることを打ち明けたところなどから推測すると、今回友人からも見放されたことで、これまでの生き方ではやっていけないことを痛感して、根本的に心を入れ替えて生きていくことを決意したのであろう。そのまず第一歩としてこの教科書を届けるという行為に出たのかもしれない。途中でいろいろな人に聞いてから、やっとのことで団地に着くと、ちょうど紗和子が仲のよい倉本さんと一緒に外に出ていたので、戸番を探さずに済んだ。教科書を渡すと、高野は帰ろうとしたが、倉本さんのアドバイスで紗和子は遠いところからわざわざ教科書を届けてくれた高野さんにお茶を差し上げることになった。家の中でお茶を飲んでいるうちに、紗和子の夫は10年ほど前に過労死で亡くなり、息子のトミーは2歳半のときに幼児自閉症と診断されてから今日に至っていることが明らかにされる。一方、高野の方も自分を必要とする会社はいくらでもあると思って、強気で辞表をたたきつけて退職したものの、世の中はそれほど甘いものではなかったことを語ると同時に、家には息子が一人いることなどを話す。わざわざ教科書を届けてくれたことなどで、紗和子は高野さんがもともとはやさしい人なのだということを知るとともに、高野の方も職業訓練校に入って初めてクラスの者と心を割って話すことができて、気持ちもだいぶ和らいできたようである。帰りがけには、紗和子に学校には遅刻しないようにと注意されると、素直にそれに従うまでになっている。そのとき現在妻と別居していることを聞かされると、紗和子は電話を使ってモーニングコールをしてあげることを約束したのであった。高野がだんだんと心を開いていくさまに注目したいところである。

ゴールデンウィーク明けとなって、学校が始まると、高野は紗和子のモーニングコールのおかげで遅刻せずに姿を現した。紗和子はすでに黒板の前に集まってクラスメイトからいろいろと教えてもらっている。授業開始のチャイムが鳴って、紗和子が振り向いた瞬間、高野の姿を見て、二人が密かにニコッと笑みを浮かべる場面は微笑ましい。この日は電車の事故で1限目の野村先生が少し遅れるようなので、事務員の北さん(さだまさし)がそれまでの繋ぎをすることになったが、それがまた山田洋次監督作品らしくたいへん楽しくて、この映画のもう一つ別の見どころでもあろう。北さんは黒板に「道具」という字を書いて、人類が作り出した「道具」についてユーモアたっぷりの身振りで話し始めた。「やがて人類は火を使うことを発見し、さらにその火を使って鉄を作り出す技術を見出した。そしてついに今から200年前、あのジェームス・ワットはタンクの水を沸騰させて、蒸気の力を動力に変える装置、つまり、今皆さんが学んでいるボイラーを発明した」ここまで説明したところで、北さんはニコニコと顔に笑みを浮かべながら「蒸気の力を動力に変える、どうりょく(努力)はしてみるもんですねえ」と、最後に駄洒落を言って締め括るのである。このときのさだまさしの演技もこの映画の見どころであろう。山田洋次監督の映画は、ときどきこのような笑いを誘うおもしろい場面があるから楽しいものである。ストーリーの展開には直接関係はないが、しかし、不況の中であえぐ人たちを取り扱った映画の中でホッとする一場面である。高野の気持ちと同様にこの教室にも明るさが漂ってきたことを意味していると言ってもよかろうか。やっと野村先生が到着すると、今度は現実に戻ってまたむずかしい授業が始まるのである。

夏休みになると、紗和子は伯母さん(中村メイ子)に呼ばれて出かけて行くが、再婚を勧める話であった。しかし、紗和子は気が進まずに、帰って行く。一方、高野の方もある日のこと、別居中の妻(秋野暢子)と喫茶店で待ち合わせて会っている。奥さんは会社を経営しているが、うまくいっていないようである。高野は退職金の小切手を渡して、そこから家のローンを支払い、残った分は息子肇の大学進学に遣ってほしいと言ってから、立ち去って行く。夫婦間は冷え切っていることがその場面から見て取れる。高野はそのあとしょんぼりしながら街中のベンチにすわって、あんパンをかじっていると、そこに紗和子がやって来る。トミーも一緒のようである。紗和子親子は同じ団地で親しくしてもらっている倉本さん親子とこれから海に出かける予定のようで、やがてその倉本親子もやって来る。紗和子親子は倉本親子と出かけるが、しばらくして紗和子が戻って来て、一緒に海へ行こうと高野を誘った。特に用事のない高野は、一緒について行くことになった。海辺でトミーと倉本の健ちゃんが高野と楽しそうに遊んでいる姿を見て、倉本さんは「やっぱり父親が必要なのね、男の子には」とつぶやく。この台詞から倉本さん家庭も何らかの事情で母子家庭であることが分かる。その夜は海辺の宿泊所で楽しいひとときを過ごしたのであった。仕事一筋に生きてきた高野にとっては、このようにつくろいだ時間を過ごしたのは、これが初めてだったのかもしれない。紗和子は高野がこれまで見せなかった素顔を垣間見て、彼にいっそう親近感を感じていくのだった。

短い夏休みが終わると、また授業が始まった。うちわを扇ぎながら、皆は斉藤先生の授業を受けている。そこへ用務員の女性が入って来て、紗和子の息子トミーが交通事故で病院に運ばれたという知らせが入った。紗和子はロッカーへ急いで着替えているうち、クラスメイトはすでにタクシーを呼んでいて、紗和子がタクシーに乗り込んだとき、高野が「こういうときはお金はいくらあってもいいですから」と言って、紗和子にお金を渡す。この気のきいた行動にクラスメイトたちも高野をほめた。高野はだんだんとクラスに溶け込んでいることが見て取れよう。

病院へ駆けつけた紗和子は、心配そうに手術が済むのを待っているが、幸いにも、トミーの左足の手術はうまく終わり、大事に至らなかったのでまずは一安心である。しかし、手術後のトミーはほかの患者たちと一緒の大部屋に入れられたので、紗和子はまたほかの患者たちに気を使わなければならない。自閉症の息子を持つ母親の苦労がひしひしと伝わってくる場面である。その夜、紗和子は看病を続けながらも、トミーが寝入ったあとは、教科書を開いて勉強を続けていたが、いつの間にか自分も眠ってしまっている。幸いにも、そこへ親しい倉本さんが来てくれて、彼女が付き添ってくれるというので、紗和子は家に戻って休むことにした。観客の気持ちを和ませてくれる場面であり、この映画における倉本さんの存在はかなり大きいと言ってもよいであろう。

深夜、団地に帰ると、入口のところで高野さんが待っていてくれた。病院名を聞いていなかったので、高野はここでずっと待っていたようである。家に上がってもらって、紗和子はその日の授業のポイントを教えてもらうが、いつの間にか寝入ってしまう。高野はやさしく上着をかけてあげて、自分もソファーで休む。夜が明けて、紗和子は大変なことがあっただけに、高野のやさしさに触れて、彼に対してだんだんと心を開いていく。高野に限らず、クラスメイトは皆トミーと紗和子のことを心配してひんぱんに見舞ってくれるので、紗和子もなんとか勉強を続ける自信を持つことができたのであった。

トミーの怪我も順調によくなって、9月7日、紗和子は松葉杖をつくトミーを連れて、職業訓練校の技能祭(学校祭)に出かけて行った。トミーにとっては初めてのお母さんの学校訪問である。2人はクラスメイトから大歓迎を受けて、楽しいひとときを過ごすことができた。これも「学校」の楽しみの一つであろう。最後に校庭で一緒に撮った記念写真がすべてを物語っていると言えよう。

それから数日経った9月16日は、紗和子のボイラー技士資格試験の日である。その頃にはトミーもまた新聞配達ができるようになっており、紗和子は勉強不足を痛感しながらもその資格試験を受けに出かけた。その資格試験の1コマもユーモアたっぷりに描かれていて、大いに映画を楽しみたいところである。紗和子は「落ちるに決まっている」と思っていたが、数日後、速達で合格通知を受け取った。あまりにもうれしくなって、真っ先に高野に電話で知らせた。高野も合格したようである。そこで2人は卒業式の日の夜に2人だけでお祝いをしようということにして、紗和子は今からそれがたいへん楽しみであった。

ところが、9月27日の卒業式の日、職業訓練校の教室には高野の姿は見えなかった。クラスメイトたちとパーティをしている最中も、紗和子は高野のことが心配でならない。パーティが終わって、電話をしてみても、高野のアパートにはいないようである。ますます心配になって、紗和子は自宅のソファーに沈み込んでいると、電話が鳴った。高野からであったが、別れて暮らしている彼の奥さんが自殺をはかったようである。幸い、一命を取り留めたようで、高野は数日後に2人のお祝いをしようと提案した。そのとき紗和子は決然とした態度でこう言う。「奥さんのそばにいてあげなくちゃだめじゃないの・・・こういうときこそ女は男にそばにいてほしいものよ」と言って、今後は連絡しないでほしいと伝えるのである。紗和子は夫なしであることがどんなに辛いことであるかを長年体験してきたことだけに、言える言葉である。自分の気持ちを犠牲にしてまでも、高野の奥さんのことを気遣う紗和子の決断の言葉には感動せずにはいられない。紗和子がほのかに抱いていた高野への愛情も、これで終わったと言ってもよいであろう。


その後、時が経って、紗和子はビル管理の会社に就職することができて、オフィス街のビルで蛍光灯の交換などをする仕事に携わっていた。ところが、事務室に戻ってみると、先日の定期健康診断で再検査の必要があるという知らせを受けた。再検査の結果、乳がんで手術の必要があるということであった。再就職の願いも叶って、トミーとの生活も順調に進んでいると思ったが、またもや災難がふりかかったという感じである。辛いことではあるが、しかし、いつものようにこのようなことでへこたれる紗和子ではない。夕食に肉まんを用意してくれたトミーに向かって紗和子が口にする言葉は、この映画で最も重要なものであろう。「トミー、お母さんは今とっても大変な病気なの。今日、病院で聞いてきたの。誰か家族の人も一緒にと言われたんだけど、一人で行ってきたの。トミーを家族だと認めなくてごめんね。でも、母さん、怖くないよ。私はいっぱい勇気があって、強いんだから。お医者さんからトミーの障害の話を聞いたときも、父さんが突然死んでしまったときも、会社を首になったときや高野さんと別れたときも、しっかり頑張って乗り越えてきたんだから。母さんは大丈夫。ちっとも怖くなんかないから」と言うなり、泣き出しそうになるが、涙をこらえて、その辛さにじっと耐える。このような話をしてもトミーはその内容が分からずに、肉まんを黙々と食べているだけである。この場面で紗和子を演じる大竹しのぶの演技がこの映画の最大の見どころであろう。

紗和子の手術のうわさは職業訓練校での元クラスメイトたちにも伝わって、皆が連絡を取り合って、手術の日には彼女を見舞うために病院に集まることになった。たった一人の身内とも言うべき伯母さんも駆けつける。紗和子が担架に乗せられて手術室に向かう途中、クラスメイトたちが待ち受けていて、ありきたりな言葉だけれども、彼女を励ます。その中にはもちろん高野の姿もある。「奥さんは元気になりましたか」という紗和子の質問に高野はうなずいて答えると、「よかった」という言葉が紗和子の口から出てくる。クラスメイトの皆に見送られて、紗和子は手術室に入って行く。クラスメイトの存在のありがたさがひしひしと伝わってくる場面であり、涙を催させる感動の場面でもある。クラスメイトとの絆という点で、やはりこの映画は「学校」であるということを認識させる重要な場面である。映画はこの場面で終わり、その後のことは観客の想像にゆだねられたかたちとなっているが、手術が成功に終わって、紗和子がその後また社会復帰して、常に前向きの姿勢でトミーと一緒に生きていくことは確かであると言ってもよいであろう。そうでなければ、紗和子がこれまで幾多の困難を乗り越えてきたことが意味のないものになってしまう。山田洋次監督はわざと最終場面を途中で終わらせて、すべてを観客の想像にまかせたのかもしれない。その方が効果的になっているとも考えられるのである。クラスメイトが帰って行ったあとで、高野一人だけはそこに残ってトミーとともに,手術が終わるのを待っている。外では雪が降っている。この山田洋次監督のこれまでの「学校」シリーズでは、雪が重要な役割を果たしているようで、とても印象的なエンディングシーンである。


以上のように見てくると、トミーの台詞にもあるように、母紗和子が通っている職業訓練校には学生服を着た者はいないので、「ここは学校かな?」という疑問を抱かせるものの、やはり広い意味でここも一つの「学校」であると言える。さまざまな人が集まって一緒に学ぶことの中から新しい絆が生まれると同時に、互いに励まし合いながら各人がそれぞれの新しい人生を作り出していくのであり、その意味ではやはり「学校」なのである。特に最終場面で元クラスメイトが集まって、主人公の紗和子を励ます場面は「学校」のすばらしさをひしひしと伝えてくれる。「学校」で得られる最も貴重なものといえば、知識とか教養よりも、むしろこのようなクラスメイトの絆ではないだろうか。長い人生の中で一つの壁にぶつかって困ったとき、慰めだけではなく、困難に立ち向かう勇気と希望と忍耐を与えてくれるのは、一緒に苦役をともにしながら学んだクラスメイトたちとの絆である。その意味ではこの映画の職業訓練校の中にこそ「学校」の理想がある。山田洋次監督は中高年の「学校」を描いて不況にあえぐ人々に力強いエールを送りながら、同時に若者にも当てはまる普遍的な「学校」の理想とその理想への憧憬を描いていると言える。これまでの「学校」シリーズとはまた違ったすばらしさに満ちた映画である。是非、この機会に鑑賞していただきたいと思う。紗和子の常に前を向いて歩もうとする姿からは、感動とともにどんな苦難にも耐え抜く力を勝ち取ってほしいものである。


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