七月になりました。旧暦で文月です。
文月の由来は,七夕の日に詩歌の書物を供えた事から「文披月(ふみひらきづき)」と言われ,略されて「文月」となったといわれる文学的な説があります。文や詩歌や書物というキイワードから,図書館にとっても縁の深い月であると思います。
七夕といえば,牽牛と織姫の恋物語。中国が発祥とされており紀元前七世紀の春秋戦国時代の『詩経』に牽牛,織姫の名が書かれています。また,わが国の記録としては『日本書紀』に持統天皇五年七月七日に宴が催された記述があり,『続日本記』には天平六年七月七日に聖武天皇が相撲をご覧になり,その夕べにあたり文人に七夕の詩をつくらせたことが記されています。その他,七夕伝説はさまざまの地で言い継がれています。
天の川 楫の音聞こゆ 彦星と 織女と今夜 逢ふらしも 人麻呂
天の川に,かじの音が聞こえます。彦星が天の川を舟で渡って織姫星に今夜逢いに行くのですね。万葉集にある柿本人麻呂の歌です。
七月の別名に「愛逢月」(めであいづき)がありますが,まさにピッタリの別名です。
七夕の 逢はぬ心や 雨中天 芭蕉
一年に一回しか逢えない二つの星がやっと逢える日が来たというのに,この雨では天の川が増水して渡れない。晴れていれば「有頂天」で逢いに行けるのに,逢うことができないのなら心の天気は「雨中天」でないのでしょうか。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句に代表される自然の世界で人生を旅として深くとらえた若き彼が,二十四歳の時に詠んだちょっぴりユーモアを感じる句です。
「有頂天」とは得意の頂点にあって夢中になっている心理状態のことですが,これは仏教用語であることをご存知でしょうか。日常で使われる「ありがとう」「だいじょうぶ」なども仏教用語です。玄関のない家はないと思いますが,「玄関」も仏教用語で,もとの意味は「玄妙(げんみょう)な道に入る関門」。つまり悟りへの関門ということです。
毎日の玄関の出入りに,そういう気持ちになってみてはいかがでしょうか?
七夕は,「五節句」の一つで,中国から伝わりました。 中国の暦法と日本の風土や農耕を行う生活の風習が合わさり,宮中行事となったものが「節句」の始まりとされています。江戸時代に「重要な年中行事」として「年に五日」の式日(祝日)が制定されたものです。
五節句とは,「七草の節句」「桃の節句」「菖蒲の節句」「笹の節句」「菊の節句」ですが,日付から不思議なことに気がつきませんか?
荒海や 佐渡によこたふ 天の河 芭蕉
新潟の荒く波立った海の向こうに佐渡島が見えます。その上に天の川がかかっている雄大な景色を詠んだ「奥の細道」にある芭蕉の代表的な句の一つです。
芭蕉に随行した曾良の随行日記によれば,七月七日は「雨降り続く。出発を見合わせていると,聴信寺から再三に亘って迎えが来る。夜,佐藤元仙宅にて句会。ここに一泊。昼の内少し止んだ雨が夜中には強雨になる」とあります。
なんと,教科書にも掲載されているこの名句ですが,芭蕉は七夕の夜実際に天の河を見ていなかったのは驚きです。そして,この夜の句会で披露した芭蕉としては当然のことかもしれませんが,日頃から句を考えている心構えや構想力のすごさを更に感じます。
ひとりなは 我星ならん 天川 一茶
ひとり見える星は私の星だろう。継母に虐められ,江戸で薄幸の生活。 十五歳の身寄りのない彼の寂しさを詠んでいます。
彦星の ゆきあひを待つ かささぎの と渡る橋を われにかさなむ 道真
大宰府に左遷された菅原道真が,都にいる妻に逢いたいと,重ねあわせて詠んだ歌です。
天の川に関連して,とっても大切な鳥がいます。昔に鳥と書いて「鵲」(かささぎ)と読みます。七夕伝説は本当にロマンに溢れています。「鵲」は,秋の季語です。
文月や 硯にうつす 星の影 子規
明治26年,「寒山落木」に掲載された正岡子規二十六歳の句です。
文月のある日,七夕の日かもしれません。文月の星空と対話しながら句を詠み,硯に墨をすり,書をしたためている静謐な夜の情景が浮かびます。
七夕の 歌書くひとに よりそひぬ 虚子
七夕まつりは,元来はお盆行事の一つとして,先祖の霊をまつる前の,禊の行事でした。
「歌書くひと」とは,亡くなった大切な人です。
先月は,「発見」や「気付き」について紹介しましたが,今月は「逢うこと」「逢えること」について考えてみました。
「図書館」は,天の川のように社会に点在する情報の架け橋として,また青春時代の出会いの玄関として皆さんを待っています。そして,新しい自分に出あってください。
“七夕や 素敵な本と めぐりあい”