【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第112号
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○連載「知的感動ライブラリー」(84)

山田洋次監督映画『東京家族』
総合科学部教授 石川榮作

1.『東京家族』の製作

山田洋次監督の映画『東京家族』は山田監督が監督生活50周年を迎えたのを記念して製作され、2013年に公開されたものである。50周年記念作品として山田洋次監督が小津安二郎監督の名画『東京物語』のリメークを考えた背景には、この名画に対する崇敬の念があったことは確かであり、それは映画の最後で、山田洋次監督が「この作品を小津安二郎監督に捧げる」とスクリーンに表示して敬意を払っていることからも明らかである。しかし、リメークと言いながらも、山田監督は『東京物語』とはまた違った新しい『東京家族』を作り上げ、監督独自の作品世界を展開させている。しかもこの映画の撮影をまさに始めようとしていた段階で、あの忘れることのできない2011年3月11日に東日本大震災が起こり、映画製作を急遽延期したという。映画パンフレットでの山田洋次監督の言葉によれば、「3・11以後の東京を、或いはこの国を描くためには、どうしてもそれが必要」だったようで、すでに出来上がっていた脚本を新たに書き直した上で、撮影のクランクインを迎えたという。映画の中にあの東日本大震災の出来事を盛り込んで、2012年5月の東京の物語としたのである。「長く続いた不況に重ねて災害を経験し、新たな活路も見出せないまま苦悩する今日の日本の観客」の心に迫る作品に仕上がっている。このようにその製作年の歴史的出来事を巧みに映画の中に盛り込むことによって観客の心を掴んでいくところが山田洋次監督の真に偉大なところであろう。以下、常に小津安二郎『東京物語』と比較しながら、山田洋次監督の新たな『東京家族』の魅力と見どころなどを紹介することにしょう。

2.『東京家族』の魅力と見どころ

まず山田洋次監督は昭和28 (1953) 年頃の東京が映画の舞台となっている小津安二郎作品を2012年5月現在の現代版にリメークするにあたって、その家族の登場人物の設定や名前等に若干の変更を加えている。東京に住む息子や娘を訪れようとしている老夫婦の平山周吉(橋爪功)ととみこ(吉行和子、小津映画ではとみ)が住んでいるところは、尾道から瀬戸内海の小島に変更され、長男幸一(西村雅彦)が東京郊外で開業医を営み、長女滋子(中嶋朋子、小津映画では志げ)が東京で美容室を経営していることには変更がないが、次男昌次(しょうじ、妻夫木聡) については、戦死しているという設定ではなく、フリーターのようなかたちで舞台美術の仕事をしていることになっている。小津映画で戦死していた次男昌次の妻紀子にあたる人物として、書店に勤める間宮紀子(まみやのりこ、蒼井優)が昌次の恋人役で登場する。大阪で鉄道会社に勤めていた三男敬三は、この映画では登場せず、また老夫婦と一緒に実家に住んでいた小学校教師の次女京子も登場せず、その次女京子と隣家の老婦人に代わる人物として、老夫婦の留守中に犬の世話をする隣家の高校生ユキ(荒川ちか)が登場している。

映画は老夫婦が朝早くフェリーに乗って、新幹線で品川駅に到着した頃から始まる。東京郊外にある平山医院では幸一の妻文子(夏川結衣)が義理の両親を迎えるためにせっせと部屋の掃除をしている。そこへ長男実(みのる、柴田龍一郎)が戻って来る。部屋を空けるために自分の机が片付けられているのを見て、「勉強しなくていいんだね」と母に向かって言う場面などは、小津映画のバリエーションで微笑ましく、つい小津映画でのその場面が自然と目の前に浮かんでくる。やがて滋子が平山医院へやって来る。滋子は弟の昌次にたまには親孝行するようにと言って、彼を出迎えに行かせたのであったが、ちょうどそこへ昌次から電話があり、両親の姿は見えないという。どうやら昌次は両親を迎えに東京駅へ出かけたようである。昌次はいつもこのような失敗ばかりしているようで、姉からすれば「まったく役に立たない」弟である。滋子から携帯で連絡を受けた周吉ととみこは、車で昌次が品川駅まで来るのを待ち切れずに、タクシーに乗って幸一の家に向かった。老夫婦がそこに到着すると、皆が出迎えた。幸一の次男勇(いさむ、丸山歩夢)は、小津映画では服を着るのを母親に手伝ってもらうほどの幼い子供であったが、ここでは9歳の小学生となって、兄の実と同様、たいへん大きくなっていることに祖父母は驚く。ただこれからその実の方は夜の弁当を持って塾に出かけるようである。瀬戸内海の小島に暮らす老祖父母からすれば、驚きであるが、現代の東京ではあたりまえのことである。そうしているところへ昌次がイタリア製の古い小さなポンコツ車に乗って来て、平山家の家族が久し振りに全員顔を合わせたことになる。小津映画と同じく歓迎の夕食はすき焼だったようである。楽しいひとときが過ぎ去って、滋子と昌次が自分たちの家に帰って行くと、老夫婦は2階に用意された部屋に入るが、子供たちに会うために東京にやって来たことを心から喜ぶのであった。特に昌次が来てくれるとは思っていなかったので、二人はそれが余計にうれしかったのであろう。どうやら昌次のことは、子供のときから親に反抗的な息子で、現在の仕事もうまくいっているのかと、老夫婦にとっては心配のようである。長男の幸一にしても、都心部での開業はむずかしいため、東京郊外での開業医に甘んじているが、老夫婦としては小津映画と同じように「それでよし」と思うことにしたようである。寝巻に着替えているところへ、瀬戸内海の隣家の高校生ユキから電話があり、留守番はしっかりしているとのことで、二人は安心する。このユキの存在は陰ながら重要な役割を果たし、特に最終場面では周吉の老後に希望を与えるような存在となっている。この場面で「ユキちゃんはいい子だねえ」ととみこが口にする台詞は、やがて登場する昌次の恋人の間宮紀子に向かって口にする言葉の伏線となっている。スクリーンに映される一つ一つの場面がそれぞれの意味を持っていて、興味深いものとなっている。

翌日は老夫婦は旅の疲れをとるためにゆっくりと幸一の家で休んだようである。3日目の日曜日には、中学生の実は野球ユニホームを着て出かけたが、幸一は次男の勇を連れて、両親を案内して出かけることにしていた。ところが、出かけようとしているときに、患者の容体が急変し、医者の幸一は急遽往診に出かけなければならなくなった。小津映画と同じ展開であるが、とみこは孫の勇と公園へ出かけた際、まだ9歳の孫が自分の将来についてあきらめているような言葉を口にするので、溜息をついてしまう。このあたりも現代の子供を表現していると言えようか。小津映画では別の意味で虚しさを覚える場面であったが、ここではまた別の意味で現代社会の虚しさを覚えずにはいられない。

老夫婦は次には長女滋子の家に泊まりに行くが、滋子は美容室の仕事で忙しくて、両親をどこにも案内できないでいる。しかも外は大雨のようである。老夫婦は一日中2階で過ごしている。とみこは滋子に頼まれて浴衣を縫っている。周吉は何気なくテレビを見ている。滋子の夫庫造(くらぞう、林家正蔵)は学校の教師だった周吉を苦手に思っていたが、ご機嫌伺いに2階へ上がって、周吉を駅前の温泉へと連れ出すことにした。翌日は雨もあがる模様なので、滋子は昌次に電話をかけて、翌日両親を連れて東京案内をしてくれないかと頼む。小津映画では志げが亡き昌次の嫁紀子に頼むのであるが、ここでは昌次に頼むことになっている。

姉滋子から頼まれて、昌次は翌日両親を連れて、東京見物に出かけたが、東京の名所をめぐる遊覧バスの中で、日頃の疲れがたまっているのか、居眠りばかりしているありさまである。ただそのバスの中からは現代の東京が眺められ、その中にはもちろんスカイツリーも映し出される。小津映画とはまた違った東京の風景が展開されて、比較すると、たいへん興味深い。最後の名所は、山田洋次監督映画なので、やはり「東京は葛飾柴又の帝釈天」の参道である。そこの「だんご屋」ではなく、「鰻屋」で三人は食事をとっているが、父周吉は息子昌次の仕事のことを尋ねる。舞台芸術の仕事をしている昌次に周吉は、「将来の見通しはあるのか」と心配でならない。昌次はまともに答えないまま、「この話はやめよう」と言い出すので、父子の溝は深まっていくようである。周吉は昔から次男の昌次にはとりわけ厳しく接しているようで、昌次の方もそのような父は苦手であった。親として当然のことながら心配しているのに、息子からすればそれがうるさくてたまらない。このようなことは、現代の東京だけにとどまらず、日本のどこの地方でも見られることではあるまいか。山田洋次監督はそのような「どこにでもある」ことを観客一人一人の物語として展開させていくのである。またこの父子の確執があるだけに、映画の最後の方になると、感動がさらに高まって盛り上がりを見せることにもなるのである。

三人がこうして柴又の鰻屋にいる頃、滋子は自分を訪ねてきた兄幸一にあることを相談していた。お互いに仕事で忙しいので、両親をどこにも連れて行けないような状態だから、お金を出し合って、両親に横浜の豪華なリゾートホテルに泊まってもらおうと考えたのである。「それはいい考えだ」と滋子の夫庫造も賛同したので、両親はその長男と長女の勧めによって翌日から2泊3日の予定でそのホテルでゆっくりと過ごすことになった。

ところが、周吉ととみこはその豪華なリゾートホテルでは、豪華なレストランでもどこか退屈な様子で、また広くて豪華な部屋の中でも何もすることがなくて、ただ夜のネオンに輝く大きな観覧車を眺めているだけである。その観覧車を見て、周吉は昔広島の映画館でとみこと一緒に映画『第三の男』(1949年イギリス)を見たことをなつかしく思い出して、それを口にする。寅さん映画『男はつらいよ』第41作目「寅次郎心の旅路」(ロケ地はウィーン)でもその映画『第三の男』がほのめかされているが、観客にも昔のそれぞれの思い出を心の中に呼び起こす1コマとなっている。しかし、周吉ととみこはそのあとカーテンを閉めて、ベッドに横になっても、ベッドがふわふわしていて豪華すぎるために、かえって眠れない。長男と長女は両親にゆっくりとくつろいでもらいたいと思って、豪華なリゾートホテルへやったのだが、それが逆の結果となった。あまりよく眠れない夜が明けると、二人はリゾートホテルを背景にした海岸にすわって、横浜港を眺めているうちに、そろそろ瀬戸内海の小島に帰ることを考え始めた。そうと決まると、二人は滋子の家に帰って行くことにした。そのときとみこは立ち上がった瞬間、少しめまいがしたが、すぐにおさまったので、そのままにしておいた。小津映画と同じ展開である。

こうして二人は2泊3日の予定を切り上げて、滋子の家に戻って来たので、滋子は困ってしまう。今夜は商店街の飲み会が滋子の家で開かれることになっていたからである。「だからお父さんとお母さんにはホテルでゆっくりしてもらいたかったのよ。・・・今夜はここにいてもらっては困るのよ」と、遠慮なしにずけずけと言ってしまう。そこで周吉は、同郷の友人である沼田さんに連絡して、最近亡くなった服部さん宅に案内してもらって線香をあげてから、沼田さん宅に泊めてもらうことを考えた。沼田さんは息子が部長に出世したらしくて、大きな家に住んでいると聞いていたからである。一方、とみこの方は、東京に出てきたら昌次のアパートへ行きたいとも思っていたので、そこへ行って、汚いに違いない部屋を掃除したり、料理を作ってあげたりして、息子の話をゆっくり聞いてあげたいと言った。息子に厳しい父親とは違って、やさしい母親らしい考えである。さっそく二人は出かけたが、しばらくはデパートの屋上で休憩する。ベンチにすわって、周吉はとみこに子供たちのことについて、「なかなか親の思うようにはいかんもんじゃのう」とつぶやく。「滋子は子供の頃はやさしい子じゃったのに」と口にするが、小津映画と同じように、「私らはええ方じゃよ」と考えて満足することにした。

そのあと周吉は沼田さん(小林稔侍)の案内で、服部さん宅を訪問して仏壇に線香をあげたが、服部さんの遺影の隣にもう一枚の老婆の写真が飾ってあった。服部さんの奥さん(茅島成美)に尋ねると、それは彼女の母で、昨年の3月11日に亡くなったという。彼女は岩手県の出身で、母は津波にのみ込まれてしまい、今も遺体は見つかっていないとのことであった。小津映画では、服部さんが生きていて、沼田さんと三人で飲みに出かけるのであったが、山田洋次監督はここで東日本震災の出来事を盛り込んでいる。3月11日と聞いただけで、観客にはあの津波による惨事が脳裏をよぎってドキリとする場面である。

その頃、とみこの方は仕事を終えて帰ってきた昌次のアパートにいた。エプロン姿で息子のために料理を作り、息子はおいしそうにもりもりと食べている。お袋の味といったところであろうか。部屋を見渡すと、きれいに掃除してあって、持ち物なども整理されているので、とみこは不思議に思う。「掃除してくれる人がいるんだ」と昌次が言えば、「お金出して雇っているのかね」ととみこは尋ねる。「いいや」と答えるので、「ボランティアかね」と尋ねると、まったく察しのつかない母に「そういうようなものだよ」と昌次は答える。このあたりのシナリオはユーモラスで微笑ましいものとなっている。また「ボランティア」はまもなくここにやって来る昌次の恋人の間宮紀子と結び付いているので、すばらしいシナリオだと思う。まさに母子がそのような話をしているときに彼女がやって来たのである。昌次はちょうどよい機会なので、彼女を母に紹介しようと考えて、彼女を呼んだのである。そのとき昌次が紹介するところによると、彼女は書店に勤めていて、この近くのアパートに住んでいるという。母とみこはひざまずいて、「紀子さんと呼んでいいのかね」と言いながら、改まって挨拶して、息子がたいへん世話になっていることの礼を述べる。紀子の方もひざまずいて挨拶する。とみこはやさしそうな紀子を一目見たそのときから、彼女がたいへん気に入ったようで、「あんたは本当に感じのいい人だね」と紀子に向かって言う。自分の恋人が母にすぐ気に入ってもらって、ホッとしたようである。楽しいい夕べのひとときとなったことは、もはや言うまでもあるまい。

これに対して周吉の方は、大変な目にあったようである。服部さんに線香をあげたあと、沼田さんと居酒屋「かよ」へ行って、お酒を飲みながら、それぞれの息子のことについて話しているが、服部さんの口から出るのは、息子の愚痴ばかりである。「部長さんだろ」の問いに、「体裁が悪いので、そう言っているだけで、実際は係長にとどまっている」という。それどころか「嫁の機嫌ばかりとって、父親をないがしろにしている」とも愚痴をこぼす。今夜も周吉を泊めてあげたい気持ちはあるが、「客を連れて帰ると、嫁がいやな顔をする」という。どうやら周吉は今夜泊るところがなくなったようである。最初はお酒を勧められても断りながら少しずつ飲んでいたが、最後には自分で酌をして飲み始めた。挙句の果てに酔いつぶれて、その居酒屋「かよ」の女将さん(風吹ジュン)にもひどい迷惑をかけてしまったようである。

一方、とみこの方は、楽しいひとときを過ごして、紀子が帰ってから、昌次のベッドの隣に布団を敷いて、息子と水入らずに話す。紀子とどのように出会ったのか、母が尋ねると、福島県南相馬市へボランティアに出かけた際に知り合ったという。ボランティア活動中の昼食の席で、彼女がマスクとヘルメットをとると、長い髪がパラリと落ちてきて、一目ぼれしてしまったという。早く求婚しないと、ほかの男に取られてしまうので、3回目のデートのときに、求愛したところ、意外にもすぐにいい返事があったという。そういう話を聞きながら、母は息子に対して、きちんと自分がそのことを父親に話すべきだと言い聞かせる。昌次は父親が苦手で、またもや叱られるだろうと心配するが、そのときには母とみこが間に入って父を説得してあげることを約束した。翌朝、早く昌次は仕事に出かけたが、とみこが掃除機をかけているところへ、紀子がやって来た。昨夜、冷蔵庫の中を見ると、何もなかったので、お母さんの朝ごはんを買ってきたようである。このような紀子を申し分のない嫁と思ったのか、とみこは貧しい暮らしをしている昌次のためにお金を用意してきていたようで、それを紀子に託した。母から見れば、昌次はまったく経済観念がなく、買いたいものがあれば、借金してでも手に入れるという。今乗っているイタリア製のポンコツ車にしてもそうなのだろう。そのとき紀子は、息子のことを心配する母とみこに向かって、「おおらかというか、先入観にとらわれずに、物事をあるがままに受け入れてしまうような、そこがあの人のいいところなんです。大丈夫ですよ」と言って、母とみこを安心させる。母とみこはこのようなしっかり者の紀子に安心して息子昌次のことを託すことができたと言えよう。東京に来て、このときがとみこには一番うれしかったことは、もはや言うまでもないであろう。

さて、その日の昼前には、周吉は長男の幸一の家に来ていて、二日酔いの薬を飲んでいる。どうやら昨夜は酔いつぶれてタクシーで深夜の2時に滋子の家へ戻ったが、朝、滋子と喧嘩してしまって、この幸一の家にやって来たようである。それを聞いたのであろう、とみこの方もやがて幸一の家にやって来るが、ニコニコしていてとてもうれしいそうである。着替えてから、ゆっくりとそのうれしいことを話すことにして、2階に上がろうとするとき、とみこは幸一の妻文子に向かって、「東京に出て来て、本当によかったわ」と今の気持ちをうれしそうに話す。しかし、それが最後の言葉であった。とみこは階段の途中で突然倒れてしまったのである。

とみこは医師である幸一の指示により救急車で西多摩総合病院に運ばれた。ただちに滋子にも昌次にも知らせたが、それぞれ仕事の都合があって、すぐに駆けつけることはできなかった。幸一も一旦自分の病院に戻って、患者を診てから夕方5時までにはまた来ることにしたようである。周吉が病室で意識のないとみこと二人きりになったとき、妻に向かって、「治るさ、治る、きっと治る」と呼びかける場面は、小津映画の同じ場面を思い起こさせる。夕方になって滋子も駆けつけ、幸一もまた戻って来て、知り合いの橋本医師にとみこの病状を診てもらうが、しかし、あまりよくないということであった。幸一の妻文子と二人の子供が一旦自宅に帰って行くと、幸一は父周吉と妹滋子を廊下に呼び出して、「明日の朝までもつか、もたないかの状態で、朝までもてばいい方」であることを伝える。それを聞くと、滋子は泣き崩れる。「そうか、駄目なのか」と言う周吉の言葉もまた、小津映画を思い出させる。ただこの山田洋次監督の映画では、「そうか、昌次は間に合わなんだか」と周吉がふとつぶやくことになっている。これは小津映画で母の臨終に間に合わなかった大阪に住む三男敬三を思い起こさせるが、しかし、山田洋次監督は昌次がそのあと駆けつけてきたときの場面をこの映画の一つの大きな盛り上がりとして仕上げている。同僚の車で連れて来てもらった昌次が、西多摩総合病院に入って行くと、玄関のところで紀子が待っていた。昌次は紀子と一緒に5階にある母の病室に入ると、母がすでに意識はなく、また兄の幸一も頭を振って「もう駄目だ」のしぐさをしたので、昌次は「えっ、もう駄目なのか」と言いながら、ベッドの上の母に近づいて、「なんだよ、もう聞こえないのか。紀子も来たんだよ、一目会いたいと言って」と、話しかける。病室の隅に紀子が心配そうに立っているのに皆も改めて気づいて、滋子が「昌次、この娘さんは?」と尋ねる。すると昌次は、昨夜自分の狭い部屋で母とこの娘(こ)と三人で、遅くまでいろいろなことを話したと言ってから、この女性のことを紹介しながら、母と昨夜話したことを語り始めるのである。「紀子といって、俺が嫁さんにしたいんだって言ったら、母(かあ)さんが自分の口からきちんと父(とう)さんに言わなきゃ駄目だって言われたんだ。もし父さんが反対したら、そのときは母さんが応援してあげるからって、そう言ってくれたんだよ、夕べ。なあ、紀(のり)! それなのに、駄目じゃないか、こんなことになってしまって」と、母に泣きすがる。この場面での妻夫木聡の演技が圧巻である。「父に自分の口からきちんと説明するのだよ」という母との約束をここできちんと果たしたことにもなっており、この映画のクライマックスと言ってもよいであろう。そのあと紀子と二人で廊下に出て、二人で泣きじゃくる場面は、音楽の効果も手伝って、観客をも泣かせる場面である。山田洋次監督の得意とする場面である。

皆の願いも祈りも虚しく、母とみこは明け方4時半に亡くなってしまう。「人間ってあっけいないものね。あんなに元気だったのに。東京に出て来たのも、虫が知らせたのよ。でも来てくれてよかったわ。いろいろと話せたし」と滋子が口にする台詞は、小津映画とほぼ同じである。また小津映画で尾道のお寺の石灯篭のそばに周吉が立って、夜が明けるのを待っていたところに紀子が呼びに来たあの名場面は、この映画では病院の屋上に移されて、しかも昌次が呼びに来ることになっている。山田洋次監督作品では昌次に重要な役割が与えられていることが理解できよう。

とみこは東京で遺骨にされ、その遺骨を持ってひとまず先に昌次と紀子が父周吉を連れて瀬戸内海の小島に戻ることになったが、その旅の途中、何を聞いても父は一言も口にしなかったので、紀子は一緒について来たことを後悔し始める。翌日、故郷の小島で葬儀が行われ、それには幸一夫婦と滋子も顔を揃えたが、葬儀が済むと、翌日には天候が悪くなって、フェリーが出なくなるかもしれないということで、幸一夫婦と滋子はその日のうちに東京へ帰って行くことにした。滋子が母の形見をもらいたいと申し出るのも、小津映画と同じである。また小津映画では兄と姉が東京へそそくさと帰ってしまったあとで、紀子一人が尾道に残って、父周吉と話し合う感動の名場面が展開されるのであるが、この山田洋次監督作品では昌次と紀子の二人が残って、数日間父の世話をすることになる。しかし、それでも周吉は一言も言葉を交わすこともなく、昼間は畑仕事をしているだけである。そろそろ東京へ帰って行かなければならない日になっても、父が苦手な昌次はそれを言い出せずにいる。結局、紀子が伝えることになって、畑仕事から戻って来た周吉に紀子は今日の午後1時のフェリーで帰ることを伝えて、「お母さんの分まで長生きしてください」と挨拶して、引き下がろうとすると、周吉は紀子を呼び止めて、初めて彼女と言葉を交わす。小津映画での名場面にあたる場面であるが、この山田映画でもすばらしい場面となっている。周吉は「紀子さんと呼んでいいかね」と言ったあと、いきなり「あんたはいい人だね」と口にしてから話し始める。「かあさんが昌次のアパートに泊めてもろうた明くる日、幸一の家に戻って来て、よかった、よかった、昌次はこれで安心、そう言うて、そのわけを私に話す前に死んでしもうたんじゃが、かあさんの気持ちが今ならよう私に分かります。幸一や滋子がバタバタと帰ってしまったあと、3日も4日もいてくれて、何一つ嫌な顔をせずに、気持ちよう私の世話をしてくれて、本当にありがとう」と、頭を下げて礼を述べるのである。この意外な言葉に紀子は、「気持ちよくなんて、そんなことないんです。本当は私、ここに来たのを後悔したくらいなんですのよ。なんだか窮屈だし、仕事も気になるし、嫌な顔一つせずにだなんて、そんなの嘘です」と、正直に答える。これを聞いて、周吉が「正直じゃのう、あんたは。本当にいい人だ」と口にする場面は、小津映画を彷彿とさせる。こう言って、周吉は紀子に妻が30年間使ってきた時計を形見に渡す場面も、小津映画と同じである。ただこの映画ではそのあと周吉が昌次のことについて語ることになっている。それによると、周吉は長い間昌次のことを女々しくて、頼りない息子だと決めつけていたが、しかし、紀子さんと二人仲良くしている姿を見ていると、あれは母親の性格を受け継いだやさしい子で、そのやさしさが何よりあの子の値打ちであることに気づかされたというのである。そのことを伝えてから、居住まいを正して周吉は、「これから厳しい時代が待っとるじゃろうが、あんたがあの子の嫁になってくれれば、私は安心して死んでいけます。紀子さん、どうかあの子のことをよろしくお願いします」と、頭を下げてお願いすれば、紀子も「はい」としっかりした返事をする。この場面は、これからさらに厳しい時代となっていく中で、さまざまな苦難に向かって生きていかなければならない現代の若者に向けられた山田洋次監督の強いメッセージであろう。このあたりが小津映画とはまた一味違った山田洋次監督作品の特色であり、また大きな魅力となっていると言ってもよいであろう。この映画の見どころであることは言うまでもない。

その小島を離れていくフェリーの中で紀子は昌次に母の形見の時計を見せてから、それを父からもらったことを話す。「息子をよろしくお願いします」と、畳の上に手をついて言ったことも話すと、昌次は「本当に親父がそんなことを言ったのか」と、驚きである。

その周吉は一人になってしまった家で、今や爪を切っているところであるが、そこへ隣家の高校生ユキちゃんがやって来て、洗濯物籠を置いて帰って行く。どうやら洗濯物の面倒はこの隣家の親娘が見てくれるようである。周吉は葬儀のあと食事をしているときに、幸一から東京に来て老後を東京で送ってはどうかと誘われたのであったが、そのとききっぱりとそれを断っている。「子供たちの世話にはならん」ときつい言い方にもとれるような場面であったが、決してそうではなく、周吉はこの瀬戸内海の小島が大好きで、地域の人たちに支えながら、ここでのんびりと暮したいと望んだからである。特に地方に住む老人にとっては、このようなことが現在大きな問題となっているが、地域の人たちの誠実な心に支えられて、豊かな自然の中で老後を過ごすのも一つの生き方であることを、山田洋次監督はここで提示しているのであろう。映画の最終場面は、「いい娘(こ) 」であるユキちゃんが周吉の家の犬を連れて、小島の美しい自然の中を走って行くシーンであり、ユキちゃんは途中で野良仕事をしている老人には「こんにちは!」と元気よく挨拶することなどから、その山田洋次監督のメッセージが読み取れよう。小津映画とはまた違った、山田洋次監督特有のすがすがしいエンディングである。


以上のように見てくると、この山田洋次監督作品はモチーフとなった小津映画とはまた違った感じの家族をテーマとした映画となっていることが容易に理解されよう。特にこの映画では小津映画には写真でしか登場しなかった昌次がクローズアップされて、頑固親父周吉と頼りない息子昌次の確執が大きなテーマとなって、それをやさしい母とみこと素直な紀子が支えるかたちですばらしい内容の映画に仕上がっている。しかもこの映画の中に2011年3月11日に起こった東日本大震災の出来事を盛り込んで、長く続く不況と高齢化社会の問題であえいでいる現代の私たちにこれからの未来を強く生きぬいていくヒントを与えてくれている。特にこの映画の最終場面では、小津映画に出てくる次女京子と隣の老婦人という二人に代わって、これからの未来を生きていく隣家の若い高校生ユキちゃんが登場して、周吉の家の犬を連れて、散歩に出かけるが、そのときユキちゃんが畑で仕事をしている人に元気よく挨拶をする風景は、「美しい日本」の原風景であると言えるのではあるまいか。これからの高齢化社会では特に老人の一人暮らしが問題になっているが、都会においてであれ、地方においてであれ、このような地域とのコミュニケーションが必要なのではなかろうか。この映画で描かれた最終場面は、今後の日本社会があるべき理想の原風景であると捉えられよう。今回の映画の舞台が瀬戸内海に浮かぶ小島になっているのも、その原風景と関係があるのではあるまいか。どちらかと言えば、諦念に生きる老人を描いていた小津映画とはまた違って、山田洋次監督作品は昌次と紀子のみならず、ユキちゃんも含めて、これからの若者が未来に向かって希望を持って生きていくことをメッセージとして送っている映画であると言うことができよう。そこがこの山田洋次監督映画の魅力である。小津映画に劣らぬ名画がまた誕生したことを喜びたいものである。是非、この機会にこの新しい現代の名画を鑑賞していただきたいと思う。3・11以後における現代の日本が抱える問題について、いろいろと考えさせられ、また一つのヒントを与えてくれることは間違いないであろう。


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