【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第109号
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○連載「知的感動ライブラリー」(81)

黒澤明監督映画『影武者』
総合科学部教授 石川榮作

1.映画『影武者』の製作

黒澤明監督の時代劇と言えば、不朽の名作『七人の侍』をはじめとして、『蜘蛛巣城』や『用心棒』、そして『椿三十郎』などが挙げられるが、いずれも傑作揃いであることは言うまでもない。今回ここに紹介する『影武者』は、その黒澤明監督の時代劇の中でも頂点に立つ作品と評してもよいであろう。

この作品は、戦国時代の武田信玄が敵を欺くために影武者を使っていたということをヒントにして作られたものであるが、撮影に入るまでにはさまざまな難題が待ち受けていて、かなりの難航の末に完成したものである。

まず黒澤映画には巨額の製作費がかかることで有名である。これまで長期にわたって提携を結び、数々の名作を残してきた東宝でさえも、最初は次回作に出資しようとは言わなかった。黒澤明はシナリオと数百枚の絵コンテを持って、海外に出かけて協力を求めたが、ヨーロッパでは手応えなく、アメリカでやっとフランシス・コッポラ監督(1979年『地獄の黙示録』製作)とジョージ・ルーカス監督(1977年以降『スター・ウォーズ』シリーズ製作)という2人の支持者を見つけて、二十世紀フォックス社から製作費の一部を負担してもらうこととなった。これを受けて東宝も経費を出すこととなり、撮影に向けて本格的に動き始めたのである。

ところが、これまで黒澤映画を支えてきた重要なスタッフが病気等の理由で担当できなくなり、その代わりのスタッフを補充する必要に迫られた。その補充はできたものの、それよりももっと大きな問題が撮影の段階になって生じてきた。この映画のシナリオは、主人公の武田信玄と影武者を勝新太郎が演じるという想定で書かれたのであったが、その勝新太郎と黒澤明監督の間で意見の衝突があり、突然勝新太郎が降板することになったのである。その代役に急遽抜擢されたのが、仲代達矢である。仲代達矢はこれまで黒澤映画に起用されてきたとはいえ、突然の交代劇でその二役の役作りには苦労したのではなかろうか。撮影の日程調整も大変だったに違いない。

またこの映画ではほとんどの配役が新しい試みとして一般公募の中から選び出されたが、そのことも大変な作業であったに違いない。「今や日本映画は新しい人材発掘と、その人材を育てることから出直さなければならない」という黒澤明監督の考えから、主人公武田信玄と影武者(仲代達矢)、侍大将山県昌景(大滝秀治)、側室役の於ゆうの方(倍賞美津子)とお津彌の方(桃井かおり)以外の配役はすべて、プロの俳優・素人を問わず、一般公募が行われたのである。応募者は実に1万5千人にも及び、その中から選ばれた出演者としては、信玄の息子勝頼役に萩原健一、信玄の弟の信廉役に山崎努、近習の土屋宗八郎に根津甚八、信玄の重臣馬場信春に室田日出男ら既成のベテラン俳優が選ばれたほか、信長役には無名塾の新人隆大介、家康役にはまったくの素人の油井昌由樹が、何十回にも及ぶオーディションの末、抜擢されたのである。しかも応募者には全員に小論文提出を課したという。この出演者選びだけでも、黒澤明監督のこの映画への意気込みが伝わってくる。黒澤明監督のすることは、何事も桁外れと言うしかない。

桁外れと言えば、ロケ地選びもそうであるし、また二百頭の馬を用意することに関しても、鎧・兜などの武具を用意することに関しても、同様である。

こうして撮影は長期にわたって続けられ、1980年に完成して、日本だけではなく、世界で公開されることになったのである。製作費は総額14億5千万円だったと言われている。

この映画では、武田信玄が死ぬ前に遺した「3年間はわしの死を秘密にせよ」という遺言を守りながらも、織田信長と徳川家康との駆け引きの中で、ついには戦場に散っていった武田家の家臣たちの辛苦が、黒澤明監督らしい隙間ない重厚な演出で見事に描かれている。またこの作品は、その頃すでに台本が出来上がっていた時代劇の超大作『乱』を製作するための準備作品であるとも言われており、見どころが盛り沢山であることは言うまでもない。以下、この映画の展開を最初から辿りながら、見どころなどを紹介することにしょう。

2.映画『影武者』のあらすじと見どころ

まず冒頭では「影武者」のタイトルがスクリーンに映し出される前に、プロローグとして甲斐の国躑躅(つつじ)ヶ崎武田屋形(やかた)の広間に3人の男が座っている場面が付け加えられている。3人は容貌も体軀もそっくりで、また同じ直垂(ひたたれ)を身につけているので、見わけがつかないが、そのあとすぐに台詞が始まってそれぞれがどういう人物なのかが分かってくる。中央の敷畳にどっしりと座っているのが、本物の武田信玄(仲代達矢)であり、そのそばの円座に座っているのが、これまで長年信玄の影武者を務めてきた弟の信廉(のぶかど、山崎努)である。その2人から少し離れて一段下の板の間にもう1人の男(仲代達矢)が座っている。弟の信廉が兄の信玄に説明するところによると、この男は領内を荒らし廻っている盗人で、信玄によく似ているので、何かの役に立つかもしれないと思って、逆磔(さかさはりつけ)になるところを信廉が助けておいたという。その対面の場でも男は、無礼にも信玄に向かって、「俺はたかだか5貫10貫の小銭を盗んだ小泥棒だ。国を盗むために数えきれないほど人を殺した大泥棒に悪人呼ばわりされる覚えはない!」などと、自分の言いたいことをずけずけと言ってのけるので、逆に信玄はあとで使えるかもしれないと思って、その身柄を弟の信廉に預けた。俳優仲代達矢が山のように動かぬどっしりとした信玄と野卑な盗賊の男の二役を務める印象的なプロローグである。

このあと「影武者」のタイトルがスクリーンに映し出されて、映画のあらすじが動き始める。時は戦国時代の天正元年(1573年)、武田信玄の軍勢は徳川家康の砦の一つである野田城を攻めているものの、このところ攻めあぐんでいる場面である。やっと野田城本丸の水の手を絶ち切ることができたが、それでも野田城落城までにはかなりの時間がかかりそうである。夜になると、野田城からは笛の音が聞こえてくる。城主の菅沼定盈(さだみつ)が名手に笛を奏でさせているようである。しかし、水を絶たれた今宵は、果たしてその笛の音が聞こえてくるか。笛の音が聞こえてくれば、野田城の人心に動揺はなく、落城はまだかなりかかりそうで、逆に聞こえてこなければ、城内には常心はなく、落城は目前と考えてよいであろう。このようなことを重臣の山県昌景(やまがたまさかげ、大滝秀治)から聞いた信玄は、今宵は自らが野田城内に出向いてそれを確かめたいので、座席を用意しておくようにと言い付けた。やがて夜になって、野田城の本丸からは笛の音が聞こえてきた。寒月のかかった冬の空から、静かに降ってきたような冴え返った調べである。その笛の音が響き渡る中、突然一発の銃声が響いた。その場では何が起こったのか、観客には分からないが、次の場面での展開から武田信玄が銃に撃たれて重傷を負ったことが分かる。

この野田城での信玄狙撃の噂は、たちまち浜松城の徳川家康(油井昌由樹)のもとにも届くが、ただ信玄が果たして死んだのか、あるいはまだ生きているのか、その詳細までは分からない。この狙撃の噂は岐阜城の織田信長(隆大介)の耳にも入るが、信長はただちに信玄の生死を確かめるよう、部下に命じた。信長にとって天下で一番怖いのは、甲斐の山猿(信玄)なのである。さらに越後の春日山城の上杉謙信(清水利比古)のもとには、信玄が死んだという報告が届くが、それを聞いた謙信は、信玄の死去を悼むために、これより3日間は音曲を禁じた。当時の戦国武将がその城の佇まいとともに立て続けに紹介されて、これだけでも見どころと言える場面である。黒澤明監督らしい隙を見せない画面構成である。こういうところにも注目したいものである。

御屋形様(信玄)が敵に狙撃されたという噂は、武田軍勢の中にまで広まっているが、しかし、それは敵方の間者(かんじゃ)が放った流言に過ぎないと見られている。彼らの御屋形様は今や甲斐の国に引き返している武田軍勢の中で堂々と馬に跨っていたからである。それにしても野田城は陥落寸前であったのに、突然和議を結び、なぜ軍勢を引き上げることになったのか。兵士たちにはそれがどうしても解(げ)せない。何か訳がありそうなことだけは、兵士たちの間に広まっていたようである。

甲斐の国に引き返すその武田軍勢の中で堂々と馬に跨っていたのは、どうやら影武者を務める弟の信廉のようで、本物の信玄は今や山間の寺の中にいて、息子の勝頼(萩原健一)や重臣の山県昌景らの前で次のような遺言を口にする。「信玄なしと知らば、織田、徳川、その他の敵が我が領国に攻め込んでくるは必定。我もし死んでも、3年間はそれを秘密にし、領国の備えを堅め、ゆめゆめ動くでない。これに叛(そむ)き、みだりに兵を動かすときは、我が武田家の滅びるときだ。これを我が遺言と心得よ」この映画の骨格をなす重要な台詞であるが、信玄は一座の者たちが静まり返っているばかりなので、「まだ死にはせぬ。万が一のことを考えて、申したまでじゃ」と言うものの、その言葉がかえって皆の者に信玄の死が近いことを重苦しく感じさせるのであった。

一方、浜松城の家康は、野田城で信玄を狙撃したという一人の兵士から、その狙撃の方法を実際に試してもらって、信玄が深手を負ったことだけは確信したが、しかし、落城寸前の野田城と和議を結んで、兵を引き上げるその武田の軍勢の行動がいかにも奇妙に思われてしかたない。家康はこれには裏があると思うばかりである。

重傷の信玄を乗せた輿は、数十名の武者に伴われて今や三州街道の寒原(かんばら)峠にさしかかっていたが、あまりに急ぐと御屋形様の身体にも障るので、このあたりで一休みすることにした。重臣の山県が「殿、殿」と、籠の中に向かって呼びかけるが、返事がない。山県が輿の戸を開くと、信玄が輿の中から外を見て、「瀬田の橋はもう過ぎたか・・・やや京が見える・・・京に我が旗を立てよ」と叫んだかと思うと、ついに輿の中で倒れてしまった。これが信玄の最期であった。

御屋形様を失った武田軍の幹部たちは、武田家の前途を思うと、心中の動揺を隠しきれない。三州街道を行く途中の武田軍夜営の本陣では、勝頼を中心とした幹部たちが、いかに御屋形様の遺言を実行していくか、その方策について話し合っている。そこで信玄の影武者を務めている信廉が、もう一人の影武者を使うことを提案して、その男をその場に呼び出す。映画の冒頭で信玄により信廉に預けられていたあの盗人である。一同の者はその男が御屋形様にそっくりで瓜二つであることに驚く。武田軍はこの男をもう一人の影武者として甲斐に向かって道を進めることにした。

そこでその影武者が信玄になりきって武田の軍勢の前で馬に乗って、勇壮に駆け回る場面は、この映画の一つの見どころであろう。池辺晋一郎の音楽もその場にふさわしくすばらしいもので、映画の醍醐味を味わわせてくれる。この様子を敵方の間者たちが陰から見張っているが、寒原峠に向かった輿が引き返すということなど不思議に思うことはたくさんあるものの、その信玄の馬に乗って勇壮な姿を見て、信玄は健在だと悟って帰ってしまう。しかし、その直後、影武者は人々から遠く離れたところで落馬して、武田の幹部からひどく戒められる。ただその落馬の場面を敵方の間者たちに見られなかったのが幸いであった。とにかく間者たちの報告は、朝には信玄は重態だといい、夕べには健在であるというし、そして夜にはまた怪しいという。すべてあいまいなので、それを聞いた岐阜城の信長は苛立ちを隠せない。ほんの少しの場面だが、この場面の信長の演技も見落とせない。

武田軍はこうして伊那高遠(いなたかとお)の建福寺に着いて、その本堂には錦の布に包まれた大甕を保管している。その夜、そこへ信玄の影武者を務める男が泥棒根性からその大甕の中に入っているものを盗みとろうとして入って来る。もともと盗人であった男のように巧みに大甕の一部を壊して、中を覗いてみると、そこで見たのは亡き信玄の顔であった。男は恐れおののいて、叫び声を上げたため、そこへ駆けつけた警護の武者たちに捕らえられて、勝頼ら武田家の幹部の前に引き出された。幹部の者たちはこれ以上その男を影武者に使えないことを悟ると、「もはやこれまで」と観念して、御屋形様の死を公にすることにし、遺骸は明朝諏訪の国に入ったところで、遺言どおり諏訪の湖に沈めることにした。盗人については、今更彼を斬って捨てる必要もないということで、これまでの恩賞を渡して、彼を放免にした。

続く場面は諏訪湖である。朝靄の立ち込めた中の湖面を、大甕を乗せた小舟がゆっくりと進んで行く。湖畔では勝頼ら武田家の幹部が跪いて、その小舟を見送っている。小舟はやがて靄の中に消え、何かを湖に落す音がして、再び靄の中から姿を現すと、その小舟にはもはや大甕は見えなかった。この一部始終を湖畔の壊れかけた漁師小屋の中から敵方の間者たちが見ていて、彼らはその大甕の中に入れられていたのは、信玄の遺体で、その遺体は今や湖に葬られたことを確信して、急いで去って行った。

その小屋の中にはもう一人の男がいて、その男は物陰に隠れて湖上での一部始終と小屋の中での間者たちの様子を窺っていた。例のもう一人の影武者である。彼は大急ぎで、湖畔に跪いている武田家の幹部たちのもとに駆け付け、敵方の間者たちを追い掛けて斬り捨てるようにと進言する。しかし、信廉は「今日これから武田の全軍に御屋形様のことを知らせるので、敵方の耳に入るのも先刻承知である」と答えて、その盗人を追い返そうとする。すると盗人は湖の水際に跪いてまでも「俺を使ってくれ、俺はあの人の役に立ちたいのだ」と言い出す。男は今や御屋形様に深い感動を覚えている様子で、信廉を見つめるその目には、偽りは認められなかったので、信廉はその男を再び使うことにした。ただ敵方の間者たちにはこの湖上でのことを見られているので、武田軍はただちに諏訪神社の参道に立札を立てて、今朝諏訪龍神に神酒一甕を献上したことを告げるとともに、今宵は諏訪大明神に薪能(たきぎのう)を奉納することを知らせた。敵方の間者たちもこの立札を見て、ひとまずその薪能で様子を探ることにした。このあたりの展開がたいへんおもしろい。そのあとの薪能奉納の場面と併せて、一つの見せ場になっていると言えよう。

こうして敵方の間者たちの目をくらまして、武田軍は盗人の男を御屋形様の影武者として、躑躅(つつじ)ヶ崎の武田屋形に到着する。そこでは信玄の孫(勝頼の子)で、世継ぎとも定められている竹丸君(油井孝太)がいて、影武者はその子供にも対面しなければならない。広間に座っている信玄の前にその竹丸が出迎えの挨拶に現れると、竹丸は突然「違う、これはおじじではない」と言う。すぐさま信廉は、「5か月に及ぶ戦場でのご苦労のため、面変わりなされたのだ」と言い逃れる。竹丸は信玄に近づいて、顔をじろじろと眺める。そのとき影武者が自分の兜を竹丸の頭に被せた。すると竹丸はニコニコして、「ほんとだ。おじじは変わった!こわくなくなった」と叫ぶ。あとで影武者は竹丸を膝に抱いたが、こうしてその場は繕われたかたちとなり、一同大笑いである。ただ竹丸の父上である勝頼だけは笑わなかった。勝頼は信玄の嫡男でありながら、かつて敵であった諏訪城主の娘を側室にして生まれた子であるから、信玄は波風立てぬよう、その勝頼の子竹丸を世継ぎと定め、その竹丸が成人するまで陣代を務めているに過ぎないのである。しかも勝頼はこのところ卑しい身分の影武者に頭を下げなければならない。そのことも不満の種であった。それにしても影武者のとっさの行動で窮地を切り抜け、一同はホッとした。信廉はあとで影武者に向かって、「子供だと思って油断したのが間違いだった。子供の眼はだませない。しかし、その方、よくやってくれた」と褒めて、今後もずけずけと振る舞うようにと言い付けた。

こうしてなんとか竹丸君はだますことができたが、難題は山積している。信廉はまず影武者に御屋形様の部屋に案内して、いろいろと説明する。影武者のそばには常に近習3人と小姓2人をつけて、屋形内での作法については彼らの指示に従うようにさせた。一番の難題は、「黒雲」という暴れ馬がいたが、その馬を乗りこなせるのは御屋形様以外にはいないことであった。そこで信廉は病のあとの御屋形様には当分の間は乗馬を控えてもらうことにした。また側室たちに会うことも、大きな試練である。側室たちは御屋形様の一部始終を知り尽くしているからである。側室の於ゆうの方(倍賞美津子)とお津彌の方(桃井かおり)に酌をしてもらっているときには、信廉がそばに仕えていたが、その2人の側室たちはいつもの御屋形様とは違うことに気がつく。そこで影武者はもはや観念して、自らが御屋形様の身代わりであることを白状する。しかし、それがかえって冗談と受け止められて、またもや窮地を切り抜けることができた。その夜は御屋形様は医師の指示により「病み上がりなので、しばらく女人は近づけないように」ということで、そこでの宿泊は遠慮することにした。このように影武者が屋形内での難題を切り抜ける場面が、ユーモアも混ぜられて展開されており、ヒヤヒヤさせられながらも、観客には興味深くおもしろいところである。

ひとまず武田屋形での生活が落ち着いて、その後、信玄のもとでは何の異常もないことが浜松城の家康のもとに知らされると、家康は、今こそ信玄が京に旗を進める好機なのに、それを逃していることを不思議に思い、打って出ることにした。家康は駿河国岡部の武田の出城を攻めて、信玄の様子を窺うことにしたのである。

一方、信玄の息子勝頼は諏訪城に戻って、湖を見下ろしながら依然悶々としている。そばにいる部下の跡部(清水綋治)が、勝頼様こそ実質上の嫡男であると説明しても、勝頼は納得しない。そうしているところに駿河の岡部の出城が落城したとの知らせが届いた。勝頼は軍議のためさっそく武田屋形へ出かけることにした。

その武田屋形では庭を前にした広縁(ひろえん)で影武者が竹丸を片手に抱いて座っている。「おじじはなぜお山なのじゃ」との問いに、そばに仕えている近習の土屋宗八郎(根津甚八)が武田軍の御旗に書かれている「疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」について説明し、「御屋形様はいつも武田軍の後ろに大きな山のようにどっしりと控えておられるので、武田軍は安心して存分の働きができるのです」と解き明かす。この孫竹丸君への教えがそのあとすぐ影武者にも役に立つことになるのである。

さっそく諏訪城より勝頼が来て、家康が動いたことに伴い、武田軍は出陣すべきか、または動かないで様子を見るべきか、そのことについて軍議が行われることとなった。信廉の指示によると、評定の断は譜代の侍大将たちが下すので、影武者はその軍議の席ではどっしりと座って、最後に「よかろう、大儀であった」と言うだけでよいとのことであった。ところが、出陣を主張する勝頼は、どっしりと座っている男が影武者と知りながら、わざと直接影武者に断を下すことを迫った。この勝頼の無思慮な発言のために、信廉は祈るような気持ちで影武者を見つめた。この瞬間の場面が間違いなく見どころであろう。果たして影武者はどういう言葉を口にするか。しばらくして「動くな・・・山は動かぬぞ!」またしても影武者の言葉に信廉ら幹部は救われたが、しかし、勝頼はさらに侮辱された格好となった。幹部らはとっさにその場を繕う影武者の小才を褒め称えたが、しかし、勝頼をあまり刺激しないよう、影法師は影法師らしい態度を取るように指導することとなった。

その夜、影武者は恐ろしい夢を見る。自分が逆磔になっているところで、死に物狂いでもがくと、急に自由になる。そのあと奇妙な沼の畔に立つと、大きな甕があり、それに走り寄るや否や、大甕は二つに割れて、その中から鎧姿の信玄が現れ出てくる。影武者は恐ろしくなって逃げ出すと、信玄は背を向けて歩き出したので、影武者はあわてて信玄を追いかける。いつの間にか二人は荒涼たる野原に来ている。影武者が信玄に向かって何か叫ぶと、信玄は振り返って影武者に歩み寄る。すると影武者はまた脅えて逃げ出す。しばらくして振り返ってみると、あたりには誰もいない。影武者は信玄を探し回る。その影武者の動作はしだいに金縛りになったようになって、それから逃れようとしてもがき、絶叫したところで、目が覚めるという夢であった。追えば逃げるし、逃げれば追いかけるという、「影」としての影武者自らの運命を描いている。黒澤明監督の得意とする夢の世界の展開である。これも見どころと言うべきであろう。

場面は岐阜城に変わって、信長は近江の浅井を撃つために出陣しようとしている。そのとき南蛮の僧侶たちを目に留めて、その中に医術の心得のある者がいたことを思い出して、信玄のもとにその医者を遣わせることにした。ただ自分が遣わせるわけにはいかないので、追放の身となって今や京にいる信玄の父信虎よりの医者ということで派遣して、信玄の身辺を探らせることにした。

その頃、武田屋形では影武者が竹丸君を手なずけて一緒に独楽(こま)遊びをしていたが、そこへ諏訪城の勝頼が出陣したとの知らせが入った。軍議もせずに自分勝手に高天神(たかてんじん)城に出陣したというのである。高天神城であれば、狙いはよいが、しかし、信玄もこれまで落すことができなかった城である。勝頼だけで落せるとは思われない。武田軍の幹部は、こうなった以上は後詰めの軍勢を繰り出して、背後に「風林火山」の孫子の旗を立てて、勝頼の後ろに御屋形様ありと装うことにした。

その出陣に取り掛かろうとしているところへ、例の南蛮の医者(藤原釜足)が訪れて来るが、突き返しては疑われる、逆に影武者を診てもらって疑いを晴らすことにした。医者には顔見知りの田口刑部(たぐちぎょうぶ、志村喬)という男が一緒について来たが、この場面でも信廉がいたので影武者はうまく切り抜けることができた。

そのあとは天正2年5月の高天神城での攻防戦である。この映画の最終場面と併せて最大の見どころであろう。敵と味方の軍勢があわただしく動いている背後で、影武者はどっしりと山のように座っている。影武者はときどきそわそわして立ち上がったりするものの、その軍勢の「動」と信玄の「静」のコントラストがすばらしい。黒澤明監督が最終場面とともに、特に力を入れている場面である。池辺晋一郎のテーマ音楽もその場にふさわしくて、格調高い場面となっている。影武者の出陣によって、最後には武田軍が勝利を収めることになるが、またもや勝頼にとってはおもしろくない。このたびの勝利も自分の力によるものではなく、後ろに控えている山の陣営のおかげだと思わざるを得ないからである。「この勝頼、いくらあがいても、父の幻から逃れることはできない」と部下の跡部に嘆く勝頼の苛立ちは、ますます募るばかりである。

高天神城も落ちて、また影武者が武田屋形での様子にも慣れて、さらに竹丸君をうまく手なずけている頃、武田家の運命は逆回転してしまう。高天神城以来、影武者の立ち振る舞いにも少しの危なげもなかったように思われたので、近習も小姓も影武者のそばを離れたときのことである。影武者はいい気になって、あの暴れ馬「黒雲」に跨ったのである。結果は言うまでもなく、影武者は落馬してしまった。心配した2人の側室の於ゆうの方とお津彌の方が影武者に駆け寄って、介抱しようとすると、あの川中島の合戦で謙信に斬りつけられた刀傷がないことに気がついたのである。「やはり、これは影武者か」という側室たちの問いに信廉は返す言葉もなかった。竹丸は「おじじはどこじゃ」と叫ぶが、影武者の役目ももはやこれまでである。そこへ諏訪城から勝頼がやって来て、譜代の侍大将たちの前で山県昌景が、「今日より諏訪勝頼殿が御屋形様じゃ!」と叫ぶ。

もはや何の役にも立たなくなった盗人影武者は、大雨の中を武田屋形から出て行くことになった。土屋宗八郎は信廉殿からの褒賞と山県たち幹部からの褒美を彼に渡して、彼を去らせようとするが、彼はなかなか立ち去ろうとしない。番屋の者たちも彼を立ち去らせようとするが、彼は「竹丸に会いたい・・・会って別れを言いたい」と頼む。すると番屋の者たちは、「何をぬかす。とっとと失せろ」と言いながら、彼に石を投げつけて、彼を追い払う。影武者を務めた男がなんとも不憫で、あわれでならない場面である。この場面も、世の中の冷たい側面をまざまざと見せつけて、観客の心を複雑にさせながら、いろいろと考えさせる見どころの一つであろう。

天正3年4月、武田屋形で信玄公の仮葬儀が行われた。読経の声が聞こえてくる中、影武者を務めた男も柵の後ろからその葬儀の様子を覗いている。敵方の間者の姿もあった。間者たちは信玄の死を確信すると、それぞれの主人のもとに急いだ。浜松城の家康は「なに、信玄の仮葬儀が行われた!?」と、思わず叫んだ。岐阜城の信長は、「さすがは信玄、死してなお3年の間、よくぞこの信長をたばかった!」と叫ぶと、立ち上がって、「人間五十年」の舞を舞う。舞い終えたところへ、「諏訪勝頼が出陣、武田の全軍2万5千、長篠に向かった」との知らせが入った。信長は「なに!?山が動いた!?」と一言。これで武田軍は滅びることが運命づけられていると言えよう。

勝頼は軍勢を連れて出陣し、諏訪湖畔を通りかかったところ、湖水の上には行く手を遮るように水平の虹が出ている。重臣の山県昌景がその虹を指さして、「この虹は、これより先へ進むなとの御屋形様のお告げでござる」と警告しても、もちろん傲慢な勝頼は従う意志がまったくない。勝頼は軍扇を振って、全軍を先へ進ませるのである。その様子を影武者を務めた男も陰から窺いながら、あとをつけて行く。

天正3年5月21日、のちに言う「長篠の戦い」の戦場である。「風」と白抜きにした黒い旗差し物を背にした馬場信春(室田日出男)、「林」と白抜きにした緑の旗差し物の内藤昌豊(志甫隆之)、「火」と白抜きにした真っ赤な旗差し物の山県昌景の3人は、互いに別れを告げて、「御屋形様のもとでまた会おう」と馬を走らせて行く。家康と信長の連合軍の陣地には、長蛇のように丸木の柵が続いている。その柵から鉄砲で攻撃する手筈をすでに整えている。家康が「武田はこれで滅びます」と言えば、信長は「山が動いては、それまでよ」と口にする。もはや勝敗は歴然としている。信玄の存在がこの2人にとって、これまでいかに大きく立ちはだかっていたかが、よく分かる。

「風林火山」の陣を敷いた武田軍は、背後に控える「山」の勝頼の指揮で、まずは「風」の武田軍勢が敵陣の柵に向かって駆けて行く。しかし、柵の向こうから激しい銃の攻撃を受けて、全滅してしまう。次に「林」の軍勢が勝頼の陣扇による合図を見て、突進して行くが、結果は無残にも同じである。背後では「山」の勝頼や信廉らがかなり動揺している。あせる勝頼によって陣扇が降られると、最後に「火」の攻撃隊が突撃して行く。敵方の銃による激しい攻撃が続く。「山」の陣では動揺と落胆の色が濃くなっていく。次の瞬間、スクリーンはスローモーションになって、銃を浴びた兵士たちが立ち上がろうとしては倒れるさま、撃たれた馬が起き上がろうとしながらまた転んだりしてもがいているさまがスクリーンに映し出される。前半の激しい動きの戦闘シーンと、この後半のスローモーションとがコントラストをなしていて、この映画の見どころであることに間違いはないが、しかし、その場面の池辺晋一郎のテーマ音楽でもって余計に戦さの虚しさを感じないではいられない場面である。さらに虚しさを感じるのは、この戦闘の様子を陰で窺っていたかつての影武者の男が、倒れた兵士の槍を拾い上げて、敵陣の柵に向かって突き進んで行く場面である。銃声とともに倒れてしまうさまは、なんともあわれでならない。最後には、そばを流れる川の中には「風林火山」が書き込まれた孫子の旗が沈んでいる。それに手を伸ばすかのように、その影武者の男は川の中に入る。その男の屍(しかばね)が川の中を流れて行くところで、クレジット・タイトルとなり、エンディングとなる。

以上のように見てくると、この映画『影武者』は、信玄の「3年間は自分の死を秘密にせよ」という遺言を守りながらも、信長と家康との駆け引きの中で、ついには戦場に散って行った武田家の家臣たちの辛苦を描くとともに、その武田家の中に入っていって信玄の影となって働いた男の虚しい悲劇を描いたものであると言えよう。人あっての「影」であるが、この映画の場合には、亡き人の「影」を務める男の物語である。亡き人が今や亡き人と分かれば、もはや「影」はできない。この「影」の男の物語は、ニセモノの愚かさと虚しさを表現したものであるが、それと同時にこの「影」の男の登場によって父(信玄)と子(勝頼)の確執がさらに深まっていったという、もう一つのテーマをも読み取ることができよう。父信玄の威光の中で、部下の身分に甘んじ、父亡きあとも、父の幻から逃れることのできなかった勝頼の苦悩も、この映画の中には盛り込まれていて、興味深い内容となっているのである。この父子の確執は次の作品『乱』に続くものであり、合戦シーンだけではなく、その父子の確執というテーマの点でも、この映画『影武者』は次の超大作『乱』を準備するためのものであったと言ってよいかもしれない。いずれにしてもこの映画『影武者』の合戦シーンは次回作『乱』のためのいわば「予行演習」であり、戦さというものの虚しさを「影武者」という1人の男の視点から描いていると言えよう。池辺晋一郎の音楽もそれぞれの場面に映像にぴったりと合って、全体が格調高い仕上がりとなっている。この機会に、是非、この黒澤明監督のスペクタクル時代劇『影武者』を鑑賞してください。これぞ壮大なスケールの黒澤時代劇映画の醍醐味であることがお分かりいただけるであろう。


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