1.作品の成立と素材
歌劇『ナブッコ』はヴェルディの全歌劇28曲の中で3作目にあたる作品である。第1作目の歌劇『オベルト』(1839初演)では成功を収めたものの、第2作目のオペラ・ブッファ『一日だけの王様』(1839初演)は 大失敗に終わり、その挫折の上に、そのほかにもさまざまなことが重なって、創作意欲を失い、まさにどん底に陥っていたときに作曲を依頼されたのが、この第3作目『ナブッコ』である。依頼したのは、当時ミラノ・スカラ座の支配人であったバルトロメ・メレッリで、彼は作曲の引き受け手がなかったテミストークレ・ソレーラの台本『ナブッコ』を何とかしてヴェルディに作曲させようと努めた。ヴェルディは気が進まなかったが、しかし、強制労働を課せられているヘブライ人たちが望郷の念を合唱する「我が思いよ、金色の翼に乗って飛んで行け」の箇所が偶然にも目に止まり、それによって天啓を得たのだと言われている。ヴェルディはソレーラの台本の中で一部修正を求めた上で作曲を始めた。こうして全曲の作曲は1841年秋に完成し、1842年3月9日にミラノ・スカラ座で初演されると、作曲者自身さえ予想もしなかったほどの大喝采を浴びて、センセーショナルな成功作となった。この作品によってヴェルディの名声がイタリア中、ヨーロッパ中に広まったと言ってよいであろう。
タイトルの「ナブッコ」とは紀元前604年にアッシリアの旧領を含む新バビロニア帝国の王位に就いたネブカドネザル二世もしくはナブコドノゾール(ネブカドレザル)という人物のイタリア語式の俗称である。彼はその後、国家の基礎を固めながら、次第にその領土を拡げ、エルサレムのユダヤ王国を滅ぼし、紀元前586年には1万人を超えるヘブライ人を捕虜としてバビロニアに連行したことでも知られている。この史実は旧約聖書にも記述されており、歌劇『ナブッコ』の題材は旧約聖書であることは確かであるが、しかし、そのほかの素材としては、1838年10月にミラノ・スカラ座で初演されたアントーニオ・コルテーゼの歴史劇バレエ『ナブコドノゾール』も使用されたことが一般に認められている。ナブッコ以外の登場人物の設定はむしろこのバレエ作品に由来すると言ってもよいであろう。
歌劇『ナブッコ』は正確に言えば、全4幕(Atto)からではなく、全4部(Parte)から成り、下記に示すように、各部にはそれぞれの内容を示す副題が付けられている。「幕」の代わりに「部」という表示を用いることや副題をつけることは、当時のイタリア・オペラにはよく見られたことで、実質的には「幕」と少しも変わることはなく、テレビ放送や各種解説書では「幕」と表示することも多い。ここでは原作に忠実に「部」を用いることにして、この作品のあらすじを辿りながら、その聴きどころ・見どころなどを紹介することにしよう。
2.歌劇『ナブッコ』のあらすじと聴きどころ・見どころ
第1部 エルサレム
第3部におけるヘブライ人たちの合唱曲「我が思いよ、金色の翼に乗って飛んで行け」や第2部におけるレビ人(イスラエルの部族の中でモーセにより祭司となることに定められた人たちをさす)たちの合唱曲「呪われた者に同志はいない」などが織り込まれた、たいへん印象的で聴きどころでもある序曲が終わって、第1部の幕が上がると、舞台はエルサレムにあるソロモンの神殿である。
バビロニア軍(台本ではアッシリア軍と表記されている)の侵攻に怯えるヘブライ人やレビ人がその神殿に集まって、恐怖と絶望のうちに「祝祭の聖具も砕け散るがいい」と叫んでいる。この冒頭の合唱からもうすでに聴きどころである。ヴェルディの第一の魅力はやはりこのような合唱にあるのではないか。この作品の全編においてもすばらしい合唱が至るところに織り込まれている。
なす術もなくただ神に祈っているばかりの民衆のところに、ヘブライの大祭司ザッカリーアが人質の娘を連れて現れて、「皆よ、希望を持つのだ。我々には貴重な人質がいるのだから」と勇気づける。その人質とは、侵攻しようとしているバビロニア王ナブッコの娘フェネーナである。大祭司ザッカリーアは神の加護を信ずるようにと民衆を勇気づけながら、「神はあのエジプトの海辺で」において、イスラエルの栄光と歴史を歌い上げる。「窮地に陥ったときに、神を信じて滅んだ者はない」と民衆に向かって説教するのである。
しかし、そこへエルサレム王の甥イズマエーレが駆け込んで来て、敵がすぐ近くまで迫って来ていることを報告する。大祭司ザッカリーアは人質フェネーナをイズマエーレに委ねて、敵の信仰するベル神への憎しみを露わにしながら、「太陽に追われる夜のように」を歌ってから、民衆とともにその場を退いて行く。
そこに残ったイズマエーレは人質フェネーナと2人きりになると、彼女に向かって情熱的に「愛しい人よ」と呼びかける。イズマエーレはかつてヘブライの使者としてバビロニアに派遣されたとき、捕らわれて投獄されたが、敵の王女フェネーナに助けられて以来、フェネーナとは密かに恋仲になっていたのである。彼は彼女を秘密の扉から逃がそうとする。
ところが、そのときナブッコの長女、つまりフェネーナの姉アビガイッレが、ヘブライ人の服装に身を隠して部下の兵士たちとともに、「神殿は我らが占拠してしまった」と叫びながら入って来て、それを阻止する。姉アビガイッレは自分もまたイズマエーレに激しく恋心を抱いていたのに、彼が妹のフェネーナと一緒にいることに怒りを覚え、皮肉をこめて「勇ましい武人よ」とイズマエーレに呼びかける一方、フェネーナには嫉妬の炎を燃やして、「復讐の稲妻がすでにお前の頭上に襲いかかっている」と叫ぶ。そのあと音楽はテンポを落として、アビガイッレは女らしい気持ちを見せて、イズマエーレに対して自分が彼を愛していたことを告白し、愛と引き換えにイスラエルの民を救ってやることを持ちかける。しかし、イズマエーレは「命は棄てたとしても、心は渡すことはできない」と言って、きっぱりと拒絶する。この場面で3人の恋愛感情が絡み合って、すばらしい三重唱になっており、聴きどころの一つであろう。
バビロニア軍の侵略に驚いたエルサレムの人々が、慌ててこの神殿に駆け込んで来る。彼らが恐れおののいているところへ、バビロニアの王ナブッコが兵士を引き連れてやって来る。このナブッコが登場する場面での行進曲も印象的でおもしろい。ナブッコが侵攻して来たことに、ヘブライの大祭司ザッカリーアは怒りを示して、人質フェネーナに短刀を振りかざす。ナブッコはそれを軽くあしらって、ソロモンの神を侮辱して、「ひれ伏せ、勝者は俺だ」と宣言すると、怒った大祭司ザッカリーアは本気で人質フェネーナを短刀で突き刺そうとした。その瞬間、その短刀をヘブライ側のイズマエーレが払いのけた。フェネーナは父ナブッコの腕にしっかりと抱きかかえられる。ヘブライ人たちは仲間を裏切ったイズマエーレの行為を非難して、憎しみの言葉を投げつける。勝ち誇ったナブッコは部下にここのソロモンの神殿を焼き打ちにするようにと命じる。燃え盛る炎の中で、そこにいる人々はそれぞれの自分の感情、つまり、愛、祈り、憎しみの感情を歌い上げる。若きヴェルディに特有のエネルギッシュなフィーナーレである。聴きどころであることは言うまでもない。
第2部 背信
第2部の幕が上がると、舞台はバビロンの王宮内にあるナブッコ王の居室である。勝利を収めてエルサレムからバビロニアに戻ったアビガイッレは、そこで自分が奴隷の娘であることを記した古文書を見つけ、興奮した状態で舞台に登場する。父ナブッコの王位継承権は、奴隷の娘として生まれた姉の自分にではなく、れっきとした国王と王妃との間に生まれた妹フェネーナの方にあることは明白である。アビガイッレは怒りと恥辱のさまを歌つたあと、アリア「かつては私も喜びに満ちていた」に託して心の中の悲しみを歌い上げる。この場面でのアビガイッレの歌はいずれも文句なしに聴きどころである。
やがてそこへベル神の大司教がやって来る。ヘブライ人はエホバ神を信仰しているのに対して、バビロニア人はベル神を信仰していたが、そのベル神の大司教は王位継承者のフェネーレがエホバ神を信仰するヘブライ人を釈放していることに反感を抱き、アビガイッレに向かって彼女がナブッコの代わりに王位に就くようにと唆したのである。アビガイッレはこの要請を喜び、自分の父ナブッコと妹フェネーレへの復讐心を燃え上がらせて、それを承諾する。ここでのアビガイッレの歌もまた聴衆をワクワクさせるような力強い見事な音楽である。
場面は変わって王宮内の広間である。夜、ヘブライの大司教ザッカリーアが登場し、エホバ神に対して奇蹟を起こしてくださいと厳かに祈ってから、フェネーレの居室に入って行く。
入れ代わりにエルサレム王の甥イズマエーレとレビ人たちがやって来る。レビ人たちはイズマエーレの背信行為を非難すると、イズマエーレは懸命に弁解するものの、レビ人たちの非難は少しもおさまらない。そのレビ人たちの「呪われた者に同志はいない」と歌う合唱は、序曲の中にも重要な動機として織り込まれている。ヴェルディらしい音楽で、聴きどころの一つである。
そうしているところにヘブライの大祭司ザッカリーアとその姉アンナが現れ、イズマエーレの取った行動は「ヘブライの女」となったフェネーナの命を救うためだったのだと彼を擁護する。フェネーナはバビロニアのベル神を棄てて、エルサレムのエホバ神信仰に改宗したのであり、イズマエーレの愛をめぐって始まったバビロニアの王女たちアビガイッレとフェネーナの対立は、それぞれベル神とエホバ神の信仰を取り込んでの宗教的な対立となったのである。
そこへナブッコに仕えているバビロニアの大臣アブダッロが駆け込んで来て、ナブッコ王に対してアビガイッレの謀反が起こったことを知らせる。この知らせを聞いてフェネーナは、毅然とした態度で行動しようとするが、すぐさまそこへベル神の大司教とアビガイッレが現れ、フェネーレに王冠を要求したので、激しい争いとなる。
アビガイッレがフェネーレから王冠を奪おうとしたとき、ナブッコが部下たちとともに現れ、自らが王冠を頭にのせて、一同を睨みつけて、「避けがたい怒りの時が近づいている」と歌い始めると、それがやがてアビガイッレ、イズマエーレ、フェネーナに受け継がれ、さらには人々の合唱にも受け継がれて、大きなアンサンブルとなる。聴き応えのあるヴェルディらしい見事な合唱である。
バビロニア人の謀反に怒り狂ったナブッコは、バビロニアのベル神とともにイスラエルのエホバ神をも侮辱して、「唯一の神はお前たちの王であるこの俺だ」と宣言する。「俺はもはや王ではない。俺は神なのだ!」とナブッコが叫んだ瞬間、恐ろしい雷鳴が轟いて、彼の頭上から王冠が落ちてしまい、ナブッコは地に倒れてしまう。どのような雷鳴が轟くのか、この場面の演出が見どころである。ナブッコは倒れてしまって立ち上がることができない。神は傲慢なナブッコの理性を曇らせてしまったのである。ナブッコは恐怖に脅えながら、娘アビガイッレに助けを求めるが、彼女はその父の王冠を自分のために拾い上げる。恐怖に晒されたフィナーレである。
第3部 予言
第3部の最初の舞台はバビロンの王宮内にある吊り庭園である。奴隷から生まれたアビガイッレが大勢の貴族や予言者たちを従えて玉座に座っている。人々はアビガイッレを称えた歌を歌っている。そこへベル神の大司教が進み出て、祖国を裏切ったフェネーナの罪を訴えるとともに、ヘブライ人を皆殺しにするようにと迫る。
そのとき精神錯乱状態で憔悴してしまっているナブッコが、迷い出て来て、かつての自分の玉座に歩み寄る。ここから父と娘が激しく対立する二重唱が展開される。娘アビガイッレはヘブライ人の処刑を要求して、その判決文に父ナブッコの承諾印を強制的に押させる。しかし、その処刑のヘブライ人の中には娘フェネーナも含まれており、娘フェネーナをも処刑にする承諾印であることを知ると、ナブッコは怒り狂って「奴隷女!」と、娘のアビガイッレを罵ってしまう。その言葉にアビガイッレの方も怒りを爆発させて、懐から自分の出自を記した文書を取り出して、父ナブッコの目の前で粉々に破り捨ててしまう。ナブッコは護衛兵を呼び寄せようとするが、アビガイッレの命令によって逆に捕らえられてしまう。もはや国王としての力のない、哀れな老人に過ぎないナブッコは、冷酷な奴隷の娘アビガイッレの前に跪いて、慈悲を懇願するありさまであり、あわれでならない。この場面も聴きどころである。
ここで場面が変わって、舞台はバビロニアのユーフラテス河畔である。強制労働を押しつけられているヘブライ人たちは、懐かしい祖国に想いを馳せながら、「我が思いよ、金色の翼に乗って飛んで行け」と静かに歌い始める。望郷の念をしみじみと歌い上げるこの合唱こそ、歌劇『ナブッコ』全曲の中でも最も注目すべき聴きどころである。この部分を作曲したとき、ヴェルディには祖国独立や国家統一という政治的な意図はなかったものと推定されるが、作曲当時のイタリアの状況と重なることもあって、この合唱は「イタリアの第二の国歌」とも称されているほどである。歌劇『ナブッコ』上演の際にも、この合唱はアンコールで2度歌われることが多い。静かな曲であるが、悲しくも切実な捕虜たちの気持ちが見事に表現されていて、「静けさ」中にも人々の「熱くて強い思い」が感じられる。ヴェルディの名声をイタリア中、ヨーロッパ中に広めるきっかけとなったのも、この合唱のためであろう。
この静かな、しかし、どこか人々の「熱くて強い思い」を感じさせる合唱が終わると、ベブライの大祭司ザッカリーアが現れて、バビロニアが崩壊することを予言して、ヘブライ人たちを励ます。ヘブライ人たちはこれを「神の予言」だと勇気づけられて、大祭司ザッカリーアに唱和して、正しい信仰と祖国の勝利を神に祈って、フィナーレとなる。
第4部 偶像破壊
第4部の冒頭の舞台はナブッコが幽閉されているバビロンの王宮の一室である。ナブッコは恐ろしい夢を見ていたようであるが、その夢から目覚めたところである。窓の外では死刑場に送られるフェネーナの行列が通り過ぎるざわめきが聞こえる。少し理性を取り戻したナブッコは、娘フェネーナを救い出すために部屋から出ようとするが、扉はいずれも閉まったままである。捕らわれの身であることを悟った彼は、絶望的になって、涙を流しながら床に跪いて、思わず「ユダの神よ」と歌い始めて、ヘブライの神に祈り、救いを求める。この歌の中にはナブッコの切実な思いが込められており、もちろんのこと聴きどころである。祈りを終えたナブッコが扉を破り開けようとしたとき、バビロニアの大臣アブダッロが兵士を引き連れて駆け込んで来る。忠臣アブダッロはナブッコがすっかり正気を取り戻しているのを見て喜ぶ。ナブッコは玉座に戻ることを宣言して、「勇敢な兵士たちよ、俺に続け」と歌いながら、処刑場に向かう。
ここで場面が変わって、第3部の冒頭と同じ王宮内の吊り庭園である。中央の祭壇前にベル神の大司教が立ち、大勢が集まっているところにフェネーナをはじめ、ヘブライ人たちが連行されて来る。このときの音楽が陰気なもの悲しい葬送行進曲で、たいへん印象的なメロディである。処刑の覚悟を決めたフェネーナはヘブライの大祭司ザッカリーアの前に跪いて、最後の祝福を受け、「天国は開かれました」と歌いながら、この世に最後の別れを告げて、神に祈りを捧げる。聴きどころであることは言うまでもない。
処刑がまさに実行されようとしたとき、ナブッコが兵士とともにその場に乗り込んで来る。ナブッコは処刑を中止することを命じ、「忌わしい偶像を粉々に打ち砕け!」と叫ぶと、たちまち奇蹟が起こって、ベル神信仰のシンボルであった大きな偶像が独りでに崩壊してしまう。この偶像が崩壊する場面はどのように演出されるのか、見逃してはなるまい。見どころの一つである。ベル神の偶像が崩壊してしまうと、ナブッコは喜ぶヘブライ人たちに向かって、エホバの神を称えて、「祖国に帰って、新しい神殿を建てるがよい」と歌う。このヘブライの神に帰依したナブッコの言葉にヘブライ人たちは、感動してエホバの神を称える壮大な讃歌を歌う。ヴェルディらしい迫力のある合唱が展開され、この場面は文句なしに聴きどころである。
そこへ瀕死状態のアビガイッレが部下の兵士たちに連れられて現れる。彼女は神の力で理性を奪われてしまい、毒をあおいでしまったのである。彼女は妹のフェネーナに自分の邪な行為をしてきたことで赦しを請い願い、父ナブッコには今後の国政を託し、さらにヘブライ人たちに向かっては「私を呪わないでください」と頼みながら、息を引き取ってしまう。この最期を迎えるアビガイッレの演技にも注目したい。全編を締め括る重要な場面である。聴きどころであり、また見どころでもある。
ヘブライの大祭司ザッカリーアは真の信仰に目覚めたナブッコを「真の国王だ」と称えて、最後の幕が降りる。
3.まとめ 『ナブッコ』の魅力
以上のように見てくると、歌劇『ナブッコ』のテーマは2つの民族の対立、すなわち、ヘブライ人とバビロニア人の対立であることが分かる。このような2つの民族の対立はのちのヴェルディの作品にもよく用いられている構図であり、『ナブッコ』はまさにヴェルディ歌劇の原点とも言えよう。しかし、たとえば、ヴェルディが最も円熟期を迎えたときの歌劇『アイーダ』ではエジプトとエチオピアの対立を背景にしてアイーダとアムネリスとラダメスの恋愛感情が有機的に絡み合ってドラマが展開されていくのに対して、『ナブッコ』ではフェネーナとアビガイッレとイズマエーレの恋愛感情は有機的に絡み合うことはなく、ドラマの進行にもほとんど影響を与えていない。『アイーダ』で主人公の父アモナズロは個性強い人物として登場してあらすじの展開に関与しているのに対して、『ナブッコ』のタイトルロールは確かに主人公として登場しているものの、アビガイッレとフェネーナの父としての存在はそれほど強く打ち出されてはいないし、そのナブッコの発狂についても、また正気の回復についても、さらにはエホバ神信仰への目覚めについても、その動機が明確にされておらず、ただ羅列のかたちで展開されているに過ぎない。突然毒を仰ぐアビガイッレの悲劇的な最期についても、その動機があいまいである。『ナブッコ』ではそれぞれの登場人物の個性が強く打ち出されてはおらず、あらすじはただヘブライ人とバビロニア人の対立の方に重きが置かれているように思われる。そのため『ナブッコ』は「オラトリオ」(聖譚曲)風な作品とも称されている。ドラマの展開としてはそのように荒削りなところは多いにもかかわらず、『ナブッコ』をオペラ作品の傑作に高めているのは、やはりヴェルディの若々しいエネルギッシュな音楽であろう。とりわけ合唱が作品の至るところにちりばめられていて、それらによってすばらしい作品に仕上がっている。それらの合唱が『ナブッコ』の最大の魅力であると言えよう。是非、この機会に若きヴェルディの初期の傑作である『ナブッコ』を鑑賞していただきたいものである。たちまちヴェルディの世界に魅せられることは間違いないであろう。