【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第102号
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○連載「知的感動ライブラリー」(74)

ワーグナーの舞台神聖祝祭劇『パルジファル』
総合科学部教授 石川 榮作

リヒャルト・ワーグナー(1813-83)の『パルジファル』(全3幕)は1882年1月に完成し、同年7月にバイロイト祝祭劇場において初演された、彼の最後の作品である。この作品はキリスト教的な「救済」をテーマとしたもので、世俗的な一般の歌劇上演と区別するため、ワーグナー自らが「舞台神聖祝祭劇」(Ein Bühnenweihfestspiel)と銘打っている。素材はドイツ中世叙事詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァル』であるが、主人公の名前は最終的にはワーグナーが評論家ゲレスのアラビア語解釈を踏襲するかたちで、「パルジ」(純粋な)と「ファル」(愚か者)を結び付けて、「パルジファル」としたものである。まさにこの「純粋な愚か者」パルジファルが妖女クンドリーから受けた接吻がきっかけで「同情(共苦)」(Mitleid)に目覚め、聖盃王アンフォルタスの傷を治し、聖盃城に救いをもたらすのである。

以下、この作品『パルジファル』のあらすじの展開を辿りながら、聴きどころ・見どころなどを指摘していくことにしよう。


Ⅰ.前史

第一幕における長老の聖盃騎士グルネマンツの語りと散文草稿からこの作品の前史が明らかになる。それらによると、物語の舞台はイスラム世界に隣接するスペイン北部のモンサルヴァートのキリスト教世界である。時は中世の時代である。モンサルヴァートの城主ティトゥレル王は、ある夜天使から、聖盃(せいはい)と聖槍(せいそう)を守護するようにと命ぜられた。聖盃とは、キリストが最後の晩餐でぶどう酒を飲んだ盃であり、しかもキリストの十字架処刑のときに傷口から流れ出る血を受け入れた盃でもある。そして聖槍とは、その処刑のときにキリストの脇腹を突き刺した槍である。そこでティトゥレル王はモンサルヴァート城内に聖堂を建設し、若い騎士たちから成る聖盃騎士団を編成して、それらの宝を守護していた。彼らはそれらの宝を守護し、聖盃を仰ぎ見ている限り、永遠の生命を授けられるのである。

ところが、あるときそのティトゥレル王のもとにアラビアの異教徒クリングゾルがやって来て、聖盃騎士団への加入を願い出た。そのとき城主はその異教徒の邪心を見抜いて、加入を許さなかった。それを恨んだクリングゾルは、魔法を使って荒野に歓楽の花園を作り、妖艶(ようえん)な美女を大勢集めて、しきりに聖盃騎士たちを誘惑して堕落させていったのである。

年老いたティトゥレル王は王子アンフォルタスに譲位したが、若い新しい王アンフォルタスは魔術師クリングゾルを征伐しようと出かけたとき、クリングゾルがさしむけた謎の妖艶な美女(あとでクンドリーだと分かる)に誘惑されて、クリングゾルに聖槍を奪い取られたうえ、その聖槍で脇腹に傷を負ってしまう。そのときからアンフォルタス王は、傷口が閉じずに、日夜、苦痛に悩み続けなければならない身となってしまった。そのようなアンフォルタス王に、ある日、神託があって、「同情(共苦)によって叡智(えいち)に至る、神に選ばれた純粋な愚か者を待つように」という。その「純粋な愚か者」が聖盃城に救いをもたらすというのである。『パルジファル』はそのような前史を前提にして、第一幕のあらすじが始まる。


Ⅱ.第一幕

第一幕の幕が上がる前に前奏曲が奏でられるが、まずはこの前奏曲が聴きどころであろう。前奏曲は主に「愛餐(あいさん)の動機」と「聖盃の動機」と「信仰の動機」によって編成され、静寂の深淵から響いてくる宗教的で神秘的な音楽に心を洗われる気持ちになり、自然と心が引き締まってくる。初期の作品『ローエングリン』の音楽に似たメロディも織り交ぜられていて、とても印象的で、このうえなくすばらしい前奏曲と評してもよかろう。

前奏曲のあと幕が上がると、舞台はスペイン北部の聖盃城モンサルヴァート近くの森の中である。起床ラッパの響きで目を覚ました老齢の聖盃騎士グルネマンツは、そばで寝ていたうら若い2人の小姓を起こして、ともに朝の祈りを捧げて神に感謝する。ここで奏でられるのが、「信仰の動機」である。やがて城から2人の騎士がやって来て、グルネマンツは彼らにアンフォルタス王の容態を聞く。2人によると、王は傷口の痛みがすぐまたひどくなって、一睡もできずに、これから湖で水浴を望まれているという。グルネマンツは2人の小姓に水浴の準備をするようにと命じる。

そのときものすごい勢いで1人の女が馬に乗ってやって来る。荒々しい女のクンドリーである。彼女は騎士団に献身的に仕えているが、その素姓は誰にも知られていない。妖女クンドリーはグルネマンツに近づき、アンフォルタス王の傷を癒すためにアラビアからとってきたというバルザム(鎮痛香油)を渡すと、疲れた様子で地面の上に身を投げ出してしまう。

やがて小姓たちと騎士たちの行列が、担架を手にして、登場して来る。その担架にはアンフォルタス王が身を横たえている。神託によれば、「同情(共苦)によって叡智(えいち)に至る、神に選ばれた純粋な愚か者」が現れれば、アンフォルタス王の傷は快癒するが、しかし、そのような者は現れ出てこないため、王はその傷の痛みにいつまでも苦しみ続けなければならない。グルネマンツはクンドリーが持って来たバルザムを王に渡すと、王はまだ地面に伏したままのクンドリーに礼を述べる。「お礼の言葉よりも、早くご水浴を!」というクンドリーの言葉に促されて、王の一行は水浴のために湖の方に向かって進んで行く。

クンドリーはそこに残った小姓たちから「災いをもたらす魔性の女」だと罵られるが、それに対してグルネマンツは彼女が聖盃騎士団に献身的に奉仕していることを説明して、彼女を擁護する。しかし、グルネマンツはクンドリーが不在のときに限って災いが降りかかってくるという因果を否定することはできない。そこでグルネマンツは聖槍が奪われた経緯――前史で述べた災いの顛末(てんまつ)――を沈痛な思いで語るのである。ワーグナーに特有の「長大な語り」であり、ワーグナーならではの聴きどころである。

グルネマンツが「この聖盃城の災いを救うのは、同情(共苦)によって叡智(えいち)に至る純粋な愚か者」と語り終えたところで、突然、湖の方から騎士たちや小姓たちの叫び声と互いに呼び交わす声が聞こえてきた。まもなく野育ちの白鳥が矢を射られた格好で、その場に飛んで来て、力つきて地面に落ちてしまう。そのあとを追って騎士たちや小姓たちがやって来たあと、1人の若者(パルジファル)が引っ立てられて登場する。グルネマンツがこの聖域では狩りは禁じられていることを若者に教え諭すと、若者は傷ついた白鳥に憐れみを感じて、自分の持っていた弓を折り、矢の束を投げ捨ててしまう。グルネマンツは小姓たちを去らせて、若者に素姓と名前を尋ねるが、若者は答えることができない。ただ若者が覚えているのは、ヘルツェライデ(「心の苦しみ」という意味)という母がいて、森の中で暮らし、弓を自分で作って、それで荒鷲どもを森から追い払ったということだけである。

この話を聞いて、これまで各地をさまよって見聞を広めた女でもあるクンドリーはそばから叫ぶように語りかけてきて、若者の両親のことを話す。それによると、母親ヘルツェライデは夫ガムレットが戦死したあと、生まれてきた息子には父のように勇士となって早死にすることはないようにと、武器をいっさい遠ざけ、人のいない荒野の中で愚か者になるように育て上げたのだという。これを聞いた若者は、あるとき森の脇を見事な馬に乗って立派な人たちが通り過ぎて行ったことがあったことを思い出して、自分もあのようになりたいと思い、あとを追いかけて行ったが、追いつけなかったこと、そして荒れ地や山や谷を通ってここまで辿り着いたことを語る。するとグルネマンツは、さぞかし母親は今頃悲しんでいるぞと教え諭すが、そのとき見聞の広い妖女クンドリーは若者の母親が死んだことを伝えた。若者は激昂してクンドリーに飛び掛かり、喉を締め付けようとするが、グルネマンツに抑えつけられる。クンドリーは角杯に水を汲んできて、若者に飲ませると、疲れた足取りで森の中へ去って行く。

そのとき湖の方から人々が近づいて来る気配がし、やがて騎士たちと小姓たちが水浴を終えたアンフォルタス王を担架に乗せて、戻って来た。グルネマンツはこれまでの若者の話からこの若者こそ神託の「純粋な愚か者」ではないかと考え始めて、彼を愛餐の席へ連れて行くことにした。

グルネマンツが若者を伴って森の中を通り、岩壁の間を通り抜けて、聖盃城内の聖堂に向かうが、その間に静かに舞台転換が行われる。2人が城に近づいたところで、若者が「ろくに歩いてもいないのに、もう遠くへ来たような気がする」と言ったのに対して、グルネマンツが「ここでは時間が空間となるのだ」と答えるこの場面転換の瞬間は、文句なしに聴きどころであり、また決して見逃してはならない見どころでもあろう。場面転換によって観客も不思議な空間の世界に誘われてしまう場面である。

2人が聖堂に入って、ファンファーレが聞こえて、鐘の音が高らかに鳴り響くと、聖盃騎士たちが入場して、「愛餐」の食卓に並ぶ。そこに反対側からアンフォルタス王が担架に乗せられてやって来る。アンフォルタス王の前には4人の小姓が先行して、覆いをかけられた聖盃厨子(ずし)が運ばれている。覆いをかけられた聖盃厨子が食卓の上に置かれて、準備が整うのと、背後から先代王ティトゥレルの声が聞こえてきて、「勤めを果たすように」と促される。「聖盃を開帳せよ」との指示に対してアンフォルタス王は、それを拒み、罪深い身で儀式を行う苦しみを訴える。儀式において聖盃が燦然(さんぜん)と力強く灼熱してくると、自分の傷口からはただ罪深い熱い血潮が湧き出てくるばかりだというのである。最後には、アンフォルタス王は慈悲深い神に向かって、父から継承した勤めを免じていただき、傷を塞いで、清らかに死なせて、汚れなき身を御前に蘇らせてほしいと懇願するほどである。このあたりは聴きどころの連続であると言ってもよいであろう。

しかし、「同情(共苦)によって叡智(えいち)に至る純粋な愚か者が彼に救いをもたらす」という予言を期待して、ついに背後から聞こえてくる老王の命令によって聖盃は開帳され、その中から水晶盃が取り出された。すると上方から目もくらむような光りが射してきて、聖堂内を照らし出す。すると最後の晩餐でキリストが口にした「わが肉を取れ、わが血を受けよ、我らの愛のために!」という言葉が、高みから聞こえてくる。祝福と祈りが捧げられてから、愛餐が行われる。老齢の騎士グルネマンツは自分の隣席を空けておいて、席に着くよう若者に合図するが、若者はただ硬直したまま物も言わずに、傍らに佇んだままである。

この場面で聖盃騎士たちの半数が「パンを取れ。毅然としてそのパンを肉の力と強さに変えよ」と合唱すれば、あとの半数が「ぶどう酒を取れ。新たにそのぶどう酒を火のように燃える生命の血に変えよ」と合唱するこの愛餐の儀式も、文句なしに第一幕の聴きどころ・見どころと言ってもよいであろう。いつ聴いてもそのすばらしい音楽と合唱には感動せずにはいられない場面である。

この愛餐の儀式が行われている間、アンフォルタス王もまたそれに加わらずに、頭をうなだれて、片手を傷口にあてたままである。傷口からは新たに血が湧き出していたのである。

やがて儀式が終わって、一同はアンフォルタス王を担架に乗せて、聖堂から出て行く。ただ無言のままそこに立ち尽くしている若者を見て、グルネマンツは怒りを示して、その若者を「まったくただの愚か者」だと罵って、好きなところへ行くよう、そこを追い出してしまう。そのとき高いところから「同情(共苦)によって叡智(えいち)に至る純粋な愚か者」という神託が聞こえてきて、「信仰に幸あれ」と合唱が聞こえてきたところで第一幕の幕が降りる。


Ⅲ.第二幕

陰気な世界をイメージした響きの短い前奏曲のあと、幕が開くと、第二幕の舞台はイスラム世界の側にある妖術師クリングゾルの魔法の城である。クリングゾルは鏡の前にすわって、愚か者(パルジファル)がこちらに近づいて来る様子を窺っている。そして彼は呪文によってクンドリーを呼び出し、魔法をかけて、クンドリーに向かって愚か者パルジファルを、かつて彼女がアンフォルタス王にしたと同じように誘惑するようにと命じる。彼女は最初は拒み続けるが、結局いやいやながらクリングゾルの言いなりになる。鏡には愚かな若者がこの城の兵士たちを薙ぎ倒すさまが写し出される。クンドリーは叫び声を上げながら姿を消す。クリングゾルは力ではなく、色仕掛けで愚かな若者に対抗しようとして、塔もろともに地の中に沈んで行くと、やがて舞台は魔法の花園に変わっていく。いったいどのような花園が現れて出てくるのか、この舞台転換も楽しみであり、また見どころの一つであろう。

百花繚乱の花園に舞台が変わると、花の乙女たちが次から次へと現れ出て、自分の恋人が薙ぎ倒されたことを嘆きながら、その場に立っている若者を取り囲んで、彼の行為を咎めてから、やがて若者を誘惑し始める。甘い音楽が流れる中で、この花の乙女たちが若者を誘惑する場面も、見どころであり、また聴きどころでもあろう。

若者が花の乙女たちを退けて逃げ出そうとしたとき、「パルジファル、お待ちなさい!」という声が聞こえてきた。クンドリーの声である。その声を聞くと、花の乙女たちは若者から離れて、やがて城の方に引き上げて行く。若者はクンドリーの声で、かつて母が自分のことをそのように呼んでいたことを思い出す。絶世の美女に変身したクンドリーが姿を現すと、彼女は若者の母親ヘルツェライデがまだお腹にいる息子のことを「ファル」(愚か)で「パルジ」(純粋)だから「パルジファル」と呼んだので、父親ガムレットがアラビアで亡くなる前にそのように名付けたのだと話して聞かせる。そしてその名前を若者に教えようと思って、クンドリーはパルジファルをここで待っていたのだという。そしてクンドリーは母親がどれほど愛情こめて息子パルジファルを養育したかについて、こと細かに話して聞かせる。この長々と話して聞かせるクンドリーの語りも、パルジファルの幼い頃のことを明らかにするもので、たいへん重要なものである。特に毎朝、息子の目を覚まさせたのは、母親の熱い涙のつゆだったのだと、クンドリーは話して、パルジファルを女性的なものへと引き込んでいって、しまいには息子がいなくなったので、母親ヘルツェライデは「悩み」(ライデ)が「心臓」(ヘルツ)を破って死んだのだと付け加える。自分が離れて行ったことで母親が悲しみ、死んでしまったことを知ったパルジファルは、深い自責の念にとらわれて、自分の愚かさを後悔し始める。今こそよい機会だととらえたクンドリーは、「後悔をすれば、罪は後悔となって消えるもの。悟りがひらければ、愚かさも分別に変わるもの。だから愛を知るがいいわ。お母さんヘルツェライデの熱情が火のようにお父さんガムレットに注がれたとき、お父さんを包んでいたものが愛なのよ」と言って、自分の唇をパルジファルの口もとに押しつけて、長い接吻をする。するとパルジファルの態度は一変するのである。あらすじの展開の上で最も重要な場面である。見どころでもあり、また聴きどころであることは、言うまでもない。

クンドリーの接吻によってパルジファルの身には、突然恐ろしいほどの変化が起こり、その口からは激しい苦痛の叫び声が出てくる。「アンフォルタス王!あの傷だ!あの傷だ!あの傷が俺の心の中で燃えている。あの嘆き声!あの嘆き声!あの嘆き声が俺の心の奥底でも叫んでいる」この瞬間に、愚かだったパルジファルの脳裏にはアンフォルタス王の苦悩が蘇り、これまで愚か者で、臆病者の自分は腕白なことばかりしてきたが、この罪をどのようにしたら償えるのかと思い始めたのである。彼は無知な少年から苦悩を知る大人へと変貌を遂げたと言ってもよかろう。

このように目覚めたパルジファルに向かってクンドリーは、彼の方に身を傾けて、愛撫のしぐさをして、彼を誘惑しようとする。そのときパルジファルは彼女の声を聞いて、この目の前にいるクンドリーこそがアンフォルタス王を誘惑した謎の美女であったことをも悟る。クンドリーはずっと以前に十字架上のキリストを嘲笑ったために呪いを受けて、永遠に苦しみ続けなければならなくなった自分の身の上を語り、パルジファルに「抱かれて罪をあがない、救ってもらいたい」と肉体的救済を求める。しかし、パルジファルは「そのような情欲の泉が閉ざされない限り、救いなど恵まれることはない」と言って、これを拒む。クンドリーは懇願するように、アンフォルタス王のもとに行く道を教えてあげるから、自分にも同情(共苦)を示して欲しいと訴え、パルジファルを抱擁しようとする。パルジファルは彼女を激しく突きのけて、不吉な女に立ち去るようにと命じる。するとクンドリーは激しく怒り狂って、加勢を求めながら、ついには世界中のすべての道に「迷い」の呪いをかける。そのときクリングゾルが城壁の上に現れて、「そこを動くな」と言いながら、聖槍をパルジファルに向かって投げつける。その聖槍はパルジファルの頭上まで飛んで来ると、宙に浮かんだまま止まってしまう。そのさまがどのように演出されるのか、それもまた見どころの一つであろう。パルジファルはその聖槍を片手で掴み、頭上にかざしながら、十字の印をきると、まるで地震が起こったかのように、クリングゾルの魔法の城は陥没し、花園はたちまち荒野に変わって、地上にはしぼんだ花が散乱するばかりとなる。クンドリーは悲鳴をあげて倒れ伏してしまう。パルジファルはクンドリーに「どこで再会できるか、分かっているだろうな」という言葉を言い残して、その場を立ち去って行く。そこで第二幕の幕が降りる。


Ⅳ.第三幕

パルジファルが苦難の旅を続けているのをイメージした短い前奏曲のあと幕が開くと、第三幕の舞台は聖盃の領域である。舞台背景に花の咲く野原が広がる打ち開けた地形で、前方は森の縁(へり)となっている。前景右手には泉に向き合ったところに隠者小屋も見える。夜が明けたばかりのすがすがしい聖金曜日の朝である。グルネマンツはいよいよ老齢に達した老人となり、隠遁者としてそこで暮らしている。

藪の中で妙な呻き声が聞こえてくるので、グルネマンツはそこに近づいてみると、クンドリーが硬直しているのを見つける。身体をもみほぐしてやると、彼女は目をさます。彼女の顔色は青ざめているが、容貌や態度からは粗野な態度が見えなくなっている。彼女は立ち上がって、服や髪を整えると奉仕する態度を見せる。しかし、今はもう使いに出てもらう用もなくなっている。クンドリーが隠者小屋に入って行くのを見て、彼女の歩き方が以前とは随分違っているのを認めたグルネマンツは、「これも今日が聖金曜日であるおかげかなあ」と言いながら、彼女を目覚めさせたのが彼女の救いになったことを喜ぶ。クンドリーは隠者小屋の中から水瓶を持って来て、泉の方に向かっていると、1人の男がこちらに向かって近づいて来るのに気づき、グルネマンツにそれを目顔で教える。

やがて森の中から黒ずくめの武装をした男が姿を現す。聖盃騎士でないことは明らかである。彼は兜の面を閉ざして、手には槍を持っている。そのときオーケストラによって奏でられるのが「パルジファルの動機」であり、この男の正体がすでにほのめかされている。男が兜を取り外してみると、かつてグルネマンツが追い出したあの愚かな男であり、また男が持っている槍が聖槍であることもグルネマンツには明らかとなる。グルネマンツは大いに感動して、生きて拝むことのできる今日の聖金曜日に感謝の念を捧げる。パルジファルもグルネマンツに再会できたことを心から喜び、これまで迷いと悩みのいろいろな道を辿りながら、この森にやって来た次第を語り、聖盃城から消え失せていた聖槍を今ここに持って来たことを伝える。

グルネマンツはこの上ない歓びの表情を見せて、奇蹟を称え、聖盃騎士たちがパルジファルを待っていること、パルジファルの救いが必要であることを伝えながら、聖盃城の現状を話して聞かせる。それによると、アンフォルタス王は相変わらず死を求めて聖務を行わないので、聖盃騎士たちはすっかり衰え果てたうえ、先代のティトゥレル王も崩御されたという。このことを聞いてパルジファルは、こういう災いを招いたのもすべて自分の責任だと嘆き、罪の深さを思い知り、気が遠くなって、倒れそうになる。グルネマンツはパルジファルの身を支えながら、彼を泉のほとりへと連れて行く。グルネマンツは「この男が今日のうちに気高い業(わざ)を果たすだろう」ことを予感する。グルネマンツとクンドリーはパルジファルを泉の方に向ける。クンドリーはパルジファルのすねあてをはずして、懸命に彼の両足を洗ってやる。またグルネマンツは彼の胸鎧をはずしてやって、泉から水をすくって、それを彼の頭にふりかける。その間にクンドリーは胸もとから小瓶を取り出して、その中身をパルジファルの両足に注ぎかける。するとパルジファルは、それを頭の方には亡きティトゥレル王の朋友であるグルネマンツによって注いでもらうことにして、その小瓶をクンドリーから受け取ってグルネマンツに渡す。グルネマンツは小瓶の中身をすべて頭にふりかけると、パルジファルを聖盃城の王として迎えることを宣言し、パルジファルを「純粋で、共に悩む御心の深い忍苦の人」であり、また「他人を救う御心も豊かな人」と呼んで、「アンフォルタス王の最後の重み(聖盃王としての王冠)を受け継ぐように」と懇願する。このあたりも聴きどころである。

一方、パルジファルの方もまた泉から水を汲んで、自分の前にひざまずいているクンドリーに身を傾けて、水でもって彼女の頭をうるおしてやる。これがパルジファルの聖盃王としての「最初の勤め」であり、「この洗礼を受けて、救世主を信じるように」と言うと、クンドリーは初めて激しく泣く。その涙によって救済が示唆されていると言ってもよいであろう。パルジファルは今日のこの日、野がたいへん美しく見えることに感嘆する。グルネマンツは「これぞ聖金曜日の奇蹟である」と言う。この場面は文句なしに聴きどころである。パルジファルがクンドリーの額に口づけするうちに、正午となる。グルネマンツは聖盃騎士の外套をパルジファルに着せてから、パルジファルをクンドリーとともに聖堂へと案内して行く。ここで印象的な音楽が奏でられる中、舞台転換が行われる。

やがて舞台転換が終わって、舞台に現れたのは、聖盃城内の聖堂である。聖堂では聖盃騎士たちが先代王ティトゥレルの遺骸を入れた棺を運ぶ列と、アンフォルタス王を担架に乗せて運ぶ列に分れて左右から入って来る。後者の列の先頭には覆いをかけられた厨子(ずし)が運ばれており、その中には聖盃が納められている。

聖盃騎士たちは先代王ティトゥレルの死を悼み、アンフォルタス王に最後の勤めを果たすようにと請い願う。アンフォルタス王は今もなお死を望むばかりである。「死こそ自分の罪の最も寛容な償い」だからと言うのである。先代王の棺が開かれると、一同は激しい悲嘆の叫び声をあげる。アンフォルタス王は、父の死を悼みながら、救世主の聖なる血の輝きにより聖盃騎士たちには新しい生命が恵まれ、自分にはこれを限りに死を恵んでくれるようにと祈る。

聖盃騎士たちはアンフォルタス王の近くに迫って来て、厨子を開くようにと請い願うが、アンフォルタス王は絶望のあまり逆上して、騎士たちの間に身を投げ出して、それを拒もうとする。ますます狂乱状態となって、彼は衣服の胸もとをかきひろげ、傷口を見せて、ここに剣を突き刺すようにと迫る。「この罪人を苦悩もろとも突き殺してくれれば、聖盃がそなたたちに向かって自ずと光り輝くことであろう」と言うのである。騎士たちはアンフォルタス王の気迫にのまれてしまって、後ずさりしてしまう。

そこへパルジファルがグルネマンツとクンドリーに伴われて姿を現し、アンフォルタス王の前に進み出て、聖槍を突き出し、「傷口を塞ぐのは、その傷を負わせたこの聖槍のみ」と言いながら、その穂先を王の脇腹の傷口にあてる。すると傷はたちまち癒えて、アンフォルタス王の容貌は神聖な歓喜の色に輝く。深い感動のあまり、王はよろめくほどで、それをグルネマンツが支える。パルジファルは続いて、アンフォルタス王に代わって自分がその勤めを果たすことを宣言し、「同情(共苦)の最高の力と至純な知の力が臆病で愚か者だった自分に王の苦しみを共にさせた」ことを打ち明けるとともに、聖槍を高くかかげながら、「この聖槍を皆のもとに持ち帰った」ことを報告するのである。

一同は歓喜に包まれながら、その高く掲げられた聖槍を仰ぎ見る。その聖槍からは聖なる血が流れ出て、聖盃へと流れていく光景が見える。このときパルジファルは聖盃の覆いを取り、厨子を開くようにと命じる。パルジファルがその厨子の中から聖盃を取り出して、黙祷すると、聖盃はやわらかい輝きを増していく。一同は「この上ない救いの奇蹟よ!救済者に救済を!」とおごそかに合唱する。聖盃の輝きは頂点に達し、パルジファルの頭上には鳩(平和のシンボル)が舞い降りて、クンドリーはパルジファルを見上げながら救済されて、彼の前で息絶えて、床にくずおれてしまう。譲位したアンフォルタス王とグルネマンツはパルジファルの前にうやうやしくひざまずく。パルジファルは祈りを捧げる騎士たちの頭上に聖盃をかざしながら、祝福を続けているところで、第三幕の幕が降りる。


Ⅴ.ワーグナー集大成としての『パルジファル』

以上のように見てくると、ワーグナーの最後の作品『パルジファル』には罪を負った人物が3人登場して、あらすじの展開の上で重要な役割を果たしていることが分かる。

まず1人目はモンサルヴァート城のアンフォルタス王である。父ティトゥレルから王位を受け継いだ彼は、同時に聖盃と聖槍を守護する役目をも受け継いだ。聖盃騎士団はその聖盃を仰ぎ見ることで永遠の生への糧を得ることができる。この点は『ラインの黄金』で神々は女神フライアの栽培する黄金のりんごをたべているおかげで永遠の生命を授けられていることを彷彿とさせる。ところが、アンフォルタス王はある日、魔術師クリングゾルが差し向けた妖艶な美女に誘惑されて、それがきっかけでクリングゾルには聖槍を奪われた上、その聖槍で脇腹を突き刺されてしまう。それ以来、愛餐の儀式を執り行っても、その聖槍が戻って来ない限り、聖盃の効果は見られない。アンファルタス王の傷口は痛みを増すばかりで、彼はそれが苦痛のため愛餐の儀式を拒絶し続け、しまいには死を願うばかりである。彼のその脇腹の傷口はそれを傷つけた聖槍によってしか塞ぐことができない。神託によれば、「同情(共苦)によって叡智に至る純粋な愚か者」が聖盃城に救いをもたらすということであるが、しかし、その「純粋な愚か者」は現れないため、永遠に苦しみ続けなければならない。このアンフォルタス王の運命は、「誠実な乙女」に会うことができずに永遠に7つの海をさまよわなければならない「さまよえるオランダ人」の運命に似ている。あるいはその運命は戦いで受けた傷が王妃イゾルデによってしか癒されないというトリスタンの運命にも似ている。アンフォルタス王の苦しみの奥底にはワーグナーの作品の主人公たちの苦しみが見え隠れしていると言えよう。

そのアンフォルタス王の傷を癒すのがパルジファルであり、彼がこの作品の2人目の罪人である。この主人公はいつ罪を犯しているのか。森の中で母によって大切に養育されたにもかかわらず、彼は母の悲しみを察することもなく、母のもとを離れたことで、無意識のうちにいつの間にか罪を犯していると言える。そうした母の悲しみも分からない彼が、モンサルヴァートの城に来て、アンフォルタス王の苦しみを目(ま)のあたりにしても、それに同情(共苦)を示す術(すべ)を知らないのも無理はない。この時点でも彼は無意識のうちに罪を犯していると言えよう。のちに母の亡くなったことを知って、女性的なものへのあこがれを示すパルジファルは、ジークフリートが森の中で母への思慕をつのらせる場面を彷彿とさせる。またのちにクンドリーの接吻によって「目覚める」パルジファルは、ジークフリートが眠るブリュンヒルデに口づけすることによって、彼女を目覚めさせると同時に、自らも異性への愛に「目覚める」こととなる場面を彷彿とさせる。また聖盃城に向かおうとするパルジファルが魔法の花園の中に迷い込んでしまう場面は、2つの世界をさまようタンホイザーを彷彿とさせる。このあたりにもワーグナーの別の作品からのヴァリエーションが見て取れる。

そのパルジファルを「目覚めさせる」ことになるクンドリーも、もちろん罪を負っている。この作品の3人目の罪人である。彼女のもともとの罪は十字架上のキリストを見て笑ったことにある。それ以来、贖罪のためにモンサルヴァート城の聖盃騎士団に仕えようとするが、彼女の不在のときに限って、そこでは災いが起きている。彼女は魔術師クリングゾルに操られて、アンフォルタス王を誘惑したことでその城に永遠の災いをもたらしたのである。パルジファルを誘惑しようとするが、なかなか彼がそれに応じないので、立ち去ろうとする彼に向かって「迷い」の呪いをかける場面は、『ローエングリン』でオルトルートがゲルマンの神々に復讐の手助けを求める場面を彷彿とさせる。このあたりにもこれまでの作品の中からの興味深いヴァリエーションが見て取れる。

ちなみに、上記3人の罪人のかたわらにいて彼らの「悟り」や「救済」に重要な役割を演じなから、この作品全体を一段と気高いものに高めているのが長老の聖盃騎士グルネマンツであり、この人物にも注目する必要があることを付け加えておこう。

このように見てくると、ワーグナー最後の作品『パルジファル』にはこれまでの作品の要素が多分に織り込まれていて、文字どおりワーグナーの集大成とも言えよう。しかもそこには「救済」という思想面においても確かな深化が認められる。前作『神々の黄昏』最終場面においては神々の「権力」の世界が崩壊したのち、その廃墟の中からは人間の「愛」による新しい世界が生まれ出ることがほのめかされていたが、しかし、真の意味で人類を堕落から再生へと救うのは、単なる人間の「愛」ではなく、他人の痛みを共に苦しむ同情のために我意を捨てる崇高な熱い「愛」であることが、この最後の作品『パルジファル』では表現されているのである。つまりは、世界救済はすべての被造物に注がれる神の慈愛であると言ってもよいであろう。この作品には宗教的な感情の大切さが強調されており、このような背景にはショーペンハウアー哲学の影響も見て取られ、ワーグナー最後の作品にふさわしく、完成度の高い作品となっていると評することができよう。是非、この機会に鑑賞していただきたいものである。宗教的で、神秘的な音楽には心を洗われることであろう。


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