【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第100号
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○連載「知的感動ライブラリー」(72)

市川崑監督映画『つる 鶴』(東宝1988年)
総合科学部教授 石川榮作

名匠・市川崑監督の映画『つる 鶴』(東宝1988年)は、吉永小百合映画生活100本記念特別企画作品として製作されたものである。かつて弓の矢で射られていた鶴が、一人の貧しい百姓に助けられたことから人間に姿を変えて彼の妻となって恩返しをするというわが国で有名な昔話『鶴の恩返し』(あるいは『鶴女房』ともいう)を素材にしたものである。映画の内容は素材の昔話よりも奥の深いものとなっており、映画ならではの見どころも多い。以下、この映画のあらすじを辿りながら、見どころなどを紹介することにしよう。


1.大寿の女房となるつる

映画の冒頭部分では深々と雪が降る山里に、白い着物を着た一人の女が立っている。どこか雪女を思わせるような姿である。そこに突風が吹いて来て、雪が舞い上がったあと、それが収まると、黒い着物を着て蓑笠を被った女に変身していた。この女が主人公のつる(吉永小百合)である。

雪が深々と降るある夜のこと、山の中の貧しい百姓家でもう一人の主人公大寿(たいじゅ、野田秀樹)がわら仕事をしていると、戸が少し動いたかと思うと、外から「ごめんなさいまし」というやさしい女の声が聞こえてきた。大寿が戸を開けてみると、そこには一人の女性が立っていた。女は道に迷ったと言ったので、大寿は気の毒に思って、たった一枚しかない円座(座布団)を探し出すと、「まあ上がって、炉端であたれや」と勧めた。女がたいへん美しかったので、大寿はウキウキしながら、いろりに薪をくべた。女がまぶしいような白い手を火にかざして、そのまま黙っているので、大寿は何かしゃべらないといけないと思い、一生懸命考えた末、「何か食うか」と聞いた。女は首を横に振った。ここまでの展開では二人のセリフはなく、ナレーターの石坂浩二によって語られることで、昔話の雰囲気がよくて出ていて、たいへん興味深い。こういうところも見どころであろう。

以下では二人のセリフ付きで会話が進むが、大寿が「こんな寒い晩に誰を訪ねて来たのか」と尋ねると、女は「あんた(あなた)」を訪ねて来たと言う。彼女の名前は「つる」といい、「あんたの嫁になりに来たんじゃ」と答えるのである。大寿は最初はびっくりしたが、からかわれていると思い、自分は貧乏な小作人で、このとおり家の中の物はすべて売り払い、明日の食べ物の「ひえ」にも困っているのだと言う。つるという名の女は「それでもいい」と答えたので、大寿は「自分には養わなければならない寝たきりの母がいる」ことを口にする。そのとき隣の部屋から母(樹木希林)の声が聞こえてきた。さすがにその女は、寝たきりの母がいることは想定していなかったようである。由良(ゆら)という名前の母によると、息子は甲斐性のない男で、田畑を持ちたいとは言うものの口先だけで、自分の力で精を出そうとはしないどうしようもない男だが、一方よいところもあって、心掛けが少しばかりやさしいという。「こんな倅(せがれ)じゃが、それでもいいかね」と尋ねる母由良に向かって、つるという名の女は「はい」と答えた。つるはこうして大寿の嫁となったのである。

翌朝、大寿が目を覚まして起き上がってみると、炉端のある部屋はきちんと片付き、整然としていたので、大寿はびっくりする。つるはよくできた働き者のようである。今も外に出ているようであるが、やがて小魚を持って帰って来る。朝食に食べてもらおうと思って、池の中で捕まえたのだという。しかし、池はこの時期、氷が張っているので、どのようにして魚を捕まえたのかと、大寿は不思議に思う。それに対して母も「水鳥はくちばしで氷を割って、池の魚を捕っているがのう」と言うものの、それ以上のことは考えずに、働き者の嫁がこの家に来てくれたことを喜んでいる。


2.布を織るつる

隣といっても、かなり離れているが、隣の家には馬右衛門(うまえもん、川谷拓三)とその女房波(なみ、横山道代)が住んでいた。馬右衛門は大寿の家に若い女が入って行くのを見たと妻に話して、夫婦二人で大寿の家へ出かけた。誰かが近づいて来るのを察知したつるは、母由良の指示で急いで納戸(なんど)に隠れた。馬右衛門夫婦がそこにやって来るが、大寿と母由良のほかには姿が見えなかった。その夫婦が帰ったあとで、大寿がなぜ花嫁が来たことを隠さねばならないのかと尋ねると、母由良はまずお世話になっている長者様に報告してからだと答えた。そのあと納戸から出て来たつるも、「見知らぬ者には身を隠して用心しなければならない」からとっさに隠れたという。このあたりではつるの本当の姿が見え隠れしていて、興味深い。そのときつるは部屋の隅に機織(はたお)り道具があるのを見つけて、それを使わせてはもらえないかと言い出す。使ってよいとの返事なので、さっそくつるは機織り場を用意してもらった。

そのときからつるは納戸を機織り場として、何も食べずに機を織り続けた。翌日になっても、織り続けている音がするので、心配になった大寿が納戸の中を覗き込もうとすると、母の由良は「一機(ひとはた)織り上がるまで覗き込んではならない」とつるが言ったことを倅に思い出させて、覗き込むのを止めさせた。その日も暮れて、夜になっても一晩中機織りの音は聞こえ、とうとう朝になって、ようやくつるが機織り場から出て来た。しかし、つるはかなり疲れていたようである。つるはまだ寝ている大寿を起こして、早く織物を見て欲しいと言う。大寿が機織り場に入ってみると、立派できれいな布が出来上がっていたので、びっくりする。それを見せられた母の由良も、「まるで鶴の羽根のようじゃ」と、その美しさに感嘆する。つるはその母の言葉にギクリとするが、母と息子がたいへん喜んでくれたので、役に立てたと思って、自分もうれしく思った。大寿は自分が使うにはもったいないので、「売ってもよいかな」と尋ねると、つるから「ええ」という返事をもらい、とても喜んだ。しかし、そのとき大寿は美しい布に魂を奪われてしまい、つるがかなり疲れて痩(や)せこけていることに気がつかなかった。


3.山へ帰ったつるを呼び戻す大寿

さっそく大寿は布を売りに長者(菅原文太)のところに出かけた。すると長者は高く買い取ってくれて、大寿は大金を持って帰って来た。つるは大寿と母由良がたいへん喜んでくれたので、それだけで満足であったが、布を織るのはこれで終わりだと二人に伝えた。

大寿から布を買い取ったことを長者から聞き知った馬右衛門は、大寿の家には母と倅のほかにきっと布を織った者がいると確信して出かけてみると、案の定、つるがいるのを見つけた。その場面での馬右衛門の演技にも注目されたい。

それ以来、馬右衛門は大金めあてに大寿を唆して、つるにたっぷりと布を織らせるようにと仕向けるのであった。大寿はつるとの約束を守って、最初は断り続けていたが、ついにつるが機嫌のよいときに話してみることにした。一方、つるは大寿が喜んでくれたので、役目を果たすことができたと思い、近いうちに山に帰って行かなければならないと思い始めていた。

そのためつるは母由良が一人で歩けるように手助けをしていたが、その折り、ふと「一人になってもきっと歩けるようになります」と言ったことから、母由良に「つるさんはいつまでもこの家にいてくれるのじゃろ」と聞かれてしまった。そのときつるはためらいながらも「ええ」と答えるほかはなかった。母由良は嫁がどこで生まれたのかも知らなかったので、そのことを尋ねると、つるは「一山越えた先の山奥の沼のほとりにおりました」と答えた。さらに母由良から「織り糸はどのように都合つけたのか」と尋ねられると、つるは答えるのに窮していたが、「持って来たのか。でないと織れないもんな」との問い掛けに、辛うじて「ええ」と答えることができたのであった。

そのような折り、つるが隣の馬右衛門の家に借りていた塩を返しに行ったとき、その家のにわとりを誤って逃がしたことから、馬右衛門にひどく怒鳴られてしまった。つるは大寿とともに平謝りを続けていたが、馬右衛門の怒りは解けない。そこで大寿はつるを許してもらうためには「どんなことでもする。この雪の深い山の中でもにわとりを探しに行く」と言ったことから、馬右衛門もなんとか怒りを和らげた。しかし、この大寿の言葉に思わぬ影響を受けたのは、つるであった。大寿のやさしい心にこれ以上長く触れていると、山へ帰れなくなってしまうことを恐れたのである。これをきっかけに、つるは別れがつらくならないうちに山に帰ってしまったのである。

突然、つるがいなくなったことに気づいた大寿は、あちこち探すがつるの姿はどこにも見あたらない。どうしたらよいか困っていたとき、母由良から「山を越えたら(ひょっとしたら会えるかもしれない)」という言葉を聞いて、大寿は腹を満たす時間も惜しんで、急いで山の中に入って行った。雪が降り続く雪山の奥をあちこち探し回っても、つるらしき姿はどこにも見られない。つるの名前を叫びながら、大寿は探し続ける。しかし、どこにもいない。

疲れ果てて、雪山の中に立ち止まって途方に暮れていたとき、鳥が羽ばたきしたような音がすると、しばらくして遠くから大寿の名前を叫ぶ声が聞こえてきた。つるの声である。振り返ってみると、つるの姿があった。つるが雪の中を駆けて大寿のもとに近づくと、つるは事情を話す。突然、大寿のもとを逃げ出したのも、「これ以上一緒にいると、離れられなくなるのが怖かった」と打ち明けるのである。しかし、つるは、馬右衛門のにわとりがいなくなったときにも、大寿がどんなことがあっても探し出すと誓ったように、このたびもこのような雪の深い山奥に自分を探しに来てくれたので、そのやさしい心根の大寿を目の前にして、心は決まったようである。そこでつるは「たとえ私が何であれ、いとしいと思ってくださるか」と尋ねる。すると大寿は「おら、つるさんはどぶろくよりも好きだ」と答える。この瞬間、二人は雪の中で抱き合って、はしゃぎまわって、喜ぶ。この場面が文句なしにこの映画の見どころであろう。これからは二人で「何事も一緒にするのだ」と叫びながら、家に帰って行く場面は、すがすがしくて感動的である。この場面での二人の演技にも注目されたい。


4.再び布を織るつる

ところが、その後、大寿は長者に呼び出されて、妻のつるにもう一枚布を織ってもらえという命令を受けて戻って来た。長者の話によると、あの布を献上した京の偉い人はたいへん喜んだというのである。もう一枚献上したら、この前の二倍ものお金がもらえるということだったが、大寿はつるにも相談する必要があるので返事を保留にして帰って来たのである。しかし、つるは「あの布を織ることができるのは一生で一枚だけじゃ」と言って、固く拒んだ。このことで大寿とつるの間は、だんだんと気まずくなっていった。

翌日、大寿が長者のもとに再度出かけると、ひどく叱られた。「長者の言うことが聞けんというのか」という剣幕で、怒鳴られたのである。長者はつるにもう一度布を織ってもらったら、大寿に田んぼと銭をやろうと言われたが、逆に織れない場合は貸してある小作畑をそっくり返してもらうぞとまで言われたのである。小作畑を返したら、この村を出て行くしかないのである。

家に戻って、この長者から言い渡されたことをつるに伝えると、つるは悲しいことではあったが、大寿がこの村を出て行かなくて済むように、ついにもう一度布を織ることを決意する。長年大寿が願ってきたことを叶えてやろうと決意したのである。「住み慣れたところを出て、広い空の下、山を越え、野を越え、ねぐらを求めてさすらうことがどんなにつらいことか」つるにはよく分かるので、大寿にはそのような思いをさせたくないと思ったのである。このあたりのやさしい心根のつるのセリフにも注目したい。こうなっては、自分に手助けできることはただ一つしかないと、布を織ることを決断するのである。ただその際、「布を織るのはこれでおしまい」ということを伝えるとともに、「布を織っているところを決して覗いてはならない」と、念を押すように言った。

こうしてつるは機織り場に入って行った。夜更けになってもつるは布を織り続ける。大寿は落ち着かなくて、夜更けには隣の馬右衛門の家に出かける始末である。夜が明けて、大寿が隣から戻って来ても、機織り場からはまだ布を織っている音が聞こえてくる。その音がいつまでも続き、布はなかなか織り上がらないので、大寿はつい心配になって、母由良が止めるのも聞かずに、とうとう機織り場の中を覗こうと、そこに近づいて行く。ドキドキハラハラする場面であり、見どころであることは言うまでもない。戸を少し開けて、中を覗いてみると、目に入ったのは鶴の姿であった。布を織っていたのは、一羽の鶴だったのである。そのとき大寿は以前に町へ出かける途中、鶴の群れから矢の突き刺さっていた一羽の鶴が空から落ちてきたことを思い出した。そのとき大寿はかわいそうだと思い、猟師にお金を払ってまでもその鶴を放ってやるようにと頼んだのであるが、どうやら今機織り場にいる鶴がそのときの鶴のようである。その鶴が自分の羽根を一枚ずつ剥ぎ取ってから布を織っている。大寿がびっくり仰天したのも当然である。


5.山へ帰って行くつる

やがてつるがやつれ果てた表情で機織り場から出てきた。つる自身が自分はかつて大寿に助けてもらった鶴であることを打ち明けるこの場面こそ、映画『つる 鶴』のクライマックスであり、最大の見どころであろう。吉永小百合の悲しそうに演じるつるの演技にも注目したい。つるが打ち明けるところによると、自分たちは雪が積もる前に山里に降りて食べ物を探さなくてはならず、あの日は仲間たちとこのあたりの池に降りようとしたところ、自分は矢で射られてしまったが、そのとき幸い大寿に助けられたのである。そのときまで自分は人間を怖いものだと考えていたが、大寿に助けられて、初めて「人の情け」を知った。「情け」には「情け」でもって応えなければならないと思って、その恩返しに大寿のところに来た。自分の羽根を織糸にして布を織ったら、大寿はたいへん喜んでくれた。これでご恩返しができたので帰ろうとした。しかし、大寿は自分のためには命までも捨てると言ってくれた。そこで自分は大寿と離れまいと思った。そのようなとき、大寿は自分にもう一枚布を織れとせがんだ。布が一生のうちに一枚しか織れないと言ったのは、自分の羽根が全部無くなると、見苦くなって大寿に嫌われるのが怖かったからである。それでも大寿との暮らしが続けられるのならと思って、心を決めて承知した。羽根を糸代わりにするたびに、自分の胸に響く痛みやつらさも、大寿のためなら耐えようと、心をこめて織っていった。命を賭けて織っていたのに、大寿は覗いてしまった。見るなと言うたのに、なぜ見たのか。「この悲しさは涙では足りない」と言う、このあたりの吉永小百合の演技が見どころであろう。自分の本当の姿を知られたからには、もはや人の世に住むことは許されない。こうしてつるは鶴の姿に戻ることを宣言するのである。

別れていくにあたって、つるは大寿が自分を助けてくれたときのことを語る。あのとき大寿は猟師に向かって、「お前もわしも命が惜しいように、この鶴も命が惜しかろう。おらの親がおらの帰りを待っているように、この鶴の親もこの鶴の帰りを待っていよう。どうぞ放ってやってくれ」と言ったのである。あのときの大寿のやさしい言葉はつるの耳にこびりついていて、いつまでも忘れないという。短い間ではあったが、つるは本当に幸せだった。つるの大寿への思いは消えない。それでも自分は「さよなら」を言わねばならない。一人で空へ飛んで行かねばならない。自分は鳥だから。こう言って、大寿と母由良に別れを告げて、織り上げてはいたが一点血のついた布を渡して、つるは鶴の姿に戻って、飛び去って行ってしまったのである。

そのあとを大寿が追いかける場面は、雪山の美しい景色とともに、一羽の鶴が美しく飛ぶさまが見事で、映画ならではの見どころである。市川崑監督らしい映像表現である。そして最後にはナレーター役の石坂浩二によって、「春になると、この山里には鶴の群れが戻って来たが、その中につるの姿があったかどうかは分からない」と語られて、エンディングとなる。鶴の群れが雪山の上の大空を飛んでいくさまが本当に見事である。


このように見てくると、映画『つる 鶴』はただ淡々と語られていた日本の昔話『鶴の恩返し』(『鶴女房』)を映画としてアレンジして、興味深くて内容の深い作品となっていることが分かる。その昔話を素材にした木下順二の戯曲『夕鶴』あるいはそのオペラ化された團伊玖磨作曲の『夕鶴』とは、また趣の異なった展開となっている。主人公の百姓が鶴女房の機織り場を覗いて見るのは、戯曲・オペラでは隣人から強引に唆されてであるが、この映画では大寿がつることを心配して覗き込むことになっている。この映画では主人公大寿の「心根のやさしさ」がさらに強調されておれば、それに呼応するようにつるのやさしさに基づく「ご恩返し」も強調されている。もともと「心根がやさしく、欲望も持ち合わせていない」大寿がつるに再び布を織るように頼むのも、この映画の中に新たに取り入れられた横柄な長者に脅かされたからである。この映画は「人間のやさしさ」が「人間の強欲」の犠牲になったという内容の作品と捉えることもできよう。

昔話『鶴の恩返し』(『鶴女房』)にも、また演劇・オペラ『夕鶴』にもそれぞれ特有の魅力があるが、この映画『つる 鶴』にもまたそれらとは異なる魅力がある。この映画の最大の見どころは、あらすじが山の中の白い雪景色の中で展開される中で、その白い雪の詩情に満ちた美しい世界がスクリーンに映し出される点であろう。白い雪の世界は「純真な」つるの「心の世界」である。その「純真さ」は大寿の「心根のやさしさ」にも通じているが、しかし、大寿の場合は常に近隣の人たちの「強欲さ」によって汚される危険性に晒されている。いつの時代にも必要なのは、絶対的に「純真さ」そのものであるつるの「白い雪」の「心の世界」である。この映画からそのようなつるの「心の世界」を読み取っていただきたいものである。是非、この機会に映画『つる 鶴』を鑑賞することをお勧めしたい。最終場面のスクリーンに映し出される、鶴が雪山の上の大空を飛んで行く見事な「美しさ」には感動せずにはいられないだろう。名匠・市川崑監督ならではの素晴らしい映像美である。美しいものに感動する「心のゆとり」が是非とも欲しいものである。


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