【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第90号
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連載「知的感動ライブラリー」(63)

マックス・ノイフェルト監督の映画『野ばら』(1957年オーストリア)
総合科学部教授 石川榮作

映画『野ばら』はマックス・ノイフェルト監督によって撮影・製作された1957年のオーストリア作品である。原題は „ Der schönste Tag meines Lebens“ (私の人生で最高に素晴らしい日)であるが、主人公の少年がウィーン少年合唱団に入団するためのテストで『野ばら』を歌ったことから、日本語ではその表題が使われている。また『野ばら』はどこの国の少年少女合唱団でもよく好んで歌われる歌でもあるので、映画の内容を示すには最適な表題であると言ってよいだろう。この映画ではウィーン少年合唱団の澄み切った歌声が特に東チロルの美しい山々に鳴り響き、その中で主人公の少年と寮母との「誠実な心の触れ合い」が展開されていく。上映時間も1時間29分という「可愛らしい」映画であり、またいろいろと魅力にも溢れた、本当に素晴らしい映画である。順にあらすじを辿りながら、この映画の見どころ・聴きどころなどを紹介することにしよう。

ハンガリーに動乱が起こって、隣のオーストリア・ウィーンにはハンガリーからの亡命者が船に乗って逃れて来ている。その中には孤児の少年トーニ・フェレンチ(ミハエル・アンデ)もいた。両親を亡くした彼は、その母がウィーン出身だったということもあり、愛犬フロッキとともにこのオーストリアのウィーンに逃れて来たのであるが、収容所行きのトラックに乗り遅れて困っていたところ、善良な老人ブリュメル(ヨゼフ・エッガー)に引き取られて、ウィーン近郊のドーナウ河畔の小さな村にあるその老人の家で暮らすこととなった。老人ブリュメルはかつてドーナウ河を行き来する汽船の船長であったが、今は一人で年金暮らしなので、彼も孤児トーニを養子に迎えてうれしく、これから二人で楽しい毎日を送ることとなった。映画の冒頭から老人ブリュメルがハンガリーからの亡命者のために物資を寄付したりする場面がスクリーンに映し出されていて、彼は真の意味での「善良な人」であることが明らかにされている。

一方、のちに少年トーニの心の支えとなる若い寮母マリア(エリノア・イェンセン)は、ウィーン少年合唱団の80人の少年たちの食事や身のまわりの世話をしている。彼女もたいへん優しそうで、善良な女性のようである。ウィーン少年合唱団の少年たちが外から学校に戻って来て、彼らから猫車に乗せられて悪戯(いたずら)をされても、広い心で、逆に生徒たちと一緒になってそれを楽しんでいる。教育的見地から少年たちを叱り飛ばすケプラー教授に向かって、マリアは「教育とは子供の心になることです」と、心に残るとても印象的な言葉を口にする。寮母マリアもここですでにそのキャラクターが明らかにされていると言える。

のちにこのウィーン少年合唱団に入団することとなる少年トーニは、ブリュメル老人と一緒にドーナウ河畔の家で新しい生活を送っている。歌を歌いながら食器を洗っているが、どうやら素晴らしい美声を持ち合わせているようで、また歌も一度で覚えられるようである。そのような少年トーニは、ある日、養父ブリュメルと一緒に出かけたある教会でウィーン少年合唱団たちが歌っているのを聞いて、その合唱団に興味を持った。それを知った養父のブリュメルは、トーニをその合唱団に入団させることを考える。トーニは自分など入団できるはずはないし、また入団するとなると、寮生活をすることになるので、養父ブリュメルとも別れなければならないので、半ばあきらめている。しかし、ブリュメルは、真の意味で善良な養父らしく、トーニのことを最優先して、自分にはつらいことではあったが、彼の望みを叶えてあげようと決意した。

ブリュメル老人は、さっそくその日、入団交渉のため養子トーニを連れてウィーンへ出かけた。ウィーン少年合唱団の学校を訪れて、校庭で最初に出会ったのは、教育的見地から少年たちを厳しく指導しているケプラー教授であった。ブリュメル老人は彼を校長だと思って話しかけるが、自分は校長ではなく、教授なので、団員の採用には関わっていないと答えるのみである。次にブリュメル老人は学校の中に入ろうとすると、守衛に出会い、彼にトーニの入団の件を話しても、入団試験は2か月後にあるので、今は校長に会えないということで、たちまち追い返された。ブリュメル老人は仕方なく帰ろうとして出口を探していると、庭仕事をしている男性に出会った。その庭師に事情を話したところ、庭師はブリュメル老人と少年トーニを裏口から学校の中へ案内した。この場面でブリュメル老人はその庭師にチップを渡したり、守衛のいる正門ではなく、裏口から建物の中にこっそりと入るなどして、実に微笑ましい「裏口入学」というものをほのめかしていて、このあたりはユーモアを込めた展開となっている。

ブリュメル老人と少年トーニはしばらくしてから校長室に呼ばれて入ってみると、なんと先程の庭師が実は校長(パウル・ヘルビガー)だったのである。校長先生も善良な人のように見える。来客の二人の希望はすでに庭で聞いているので、話はトントン拍子に進み、さっそく入団試験のために合唱団が練習している教室に案内された。

少年たちを指導しているのは、若い音楽教師のシュミット(パウル・ベジガー)である。シュミット先生のピアノの伴奏に合わせて、少年トーニはヴェルナー作曲の『野ばら』を歌い始めた。素晴らしい美声を持っているようである。ただ歌詞を忘れているところもあって、途切れたりもしたが、そこはそばにいる団員たちが一緒に声を合わせて助けてくれた。ウィーン少年合唱団の素晴らしいハーモニーを聞くことができて、この場面が最初の見どころ・聴きどころであろう。校長先生は少年トーニの美声に感動しながら、そばにいるブリュメル老人にチップを返す場面もユーモアに満ちていて、たいへん微笑ましい。少年トーニが『野ばら』を最後まで歌い終えると、試験に合格したこととなり、ただちに彼の入団が決まった。

そこへ寮母のマリアもやって来て、トーニは新団員として紹介された。校長先生は新団員のトーニに向かって、素晴らしい声を持っているが、しかし、それ以上に重要なものがあると言って、三つのことを教え諭す。まずは「誠実であること」、二つ目は「互いに協力すること」、そして三つ目は「努力すること」である。努力しなければ神様からは何ももらえないということを言い伝えた。これで簡素な入団式は自然のうちに終わった。

さっそくその日からトーニはここのウィーン少年合唱団の学校で寮生活をすることになった。養父ブリュメルは養子トーニに別れを告げて、また一人暮らしの生活へと戻って行くが、その別れの場面も見どころの一つであろう。特にトーニが養父ブリュメルに日用品の置き場所を教えたり、愛犬フロッキの世話を願ったりするところからは、二人のこれまでの幸せな生活が想像される。それだけでも満ち足りた生活であったが、しかし、トーニはさらにすばらしきものを求めてここウィーン少年合唱団での新しい生活を始めるのである。別れると言っても、毎週水曜日には家族の面会が許されているので、週に一度は会える。養父ブリュメルはそれを楽しみに、またドーナウ河畔の自分の家へと帰って行くのであった。

翌日からトーニのウィーン少年合唱団での学校生活が始まった。体操、音楽、算数、音楽と授業は進んでいく。シュミット先生による音楽の授業で、シュミット先生が校長先生に呼ばれて不在になると、少年たちはモーツァルトの曲を別のリズムで歌ったりする。ウィーン少年合唱団の生徒たちはただ熱心であるばかりではなく、このようにふざけたりすることもあるのである。そこへ校長先生とシュミット先生が入って来て、校長先生は別のリズムのモーツァルトもいいけれど、オリジナルの方がさらに素晴しいと生徒たちに言い聞かせるのであった。この映画にはウィーン少年合唱団の日頃の生活をそのまま織り込んでいるとのことで、また実際のウィーン少年合唱団のメンバーも出演しているようで、このあたりは貴重な映像であると言える。

そうしているうちに待ちに待った家族の面会日の水曜日がやって来た。合唱団員の少年たちは銘々家族との面会を喜んでいる。母親からプレゼントをもらって大喜びの少年もいる。ところが、トーニは一人しょんぼりとしている。養父ブリュメルの姿がなかなか現れないからである。その日はとうとう養父は現れなかった。映画のスクリーンの上では、養父の自転車が故障してしまって、彼はウィーンへ出かけることができなかったのである。映画の観客にはその理由が分かっているので、仕方ないと思うものの、何も知らないトーニからすれば、寂しくて悲しい限りである。そのさまを見た寮母のマリアは、母親からハーモニカを贈ってもらった団員ピプスに頼んで、そのハーモニカをトーニに貸してあげようと考えた。そこでピプスにそのことを話すと、彼は気前よくそのハーモニカをトーニにあげると答えた。マリアは校庭の木陰で一人寂しくしているトーニのところへ出かけて、ピプスからのプレゼントと言って、そのハーモニカを渡す。それを手にしたトーニは、しかし、それでも寂しくて泣き出してしまう。マリアは彼を抱きしめて、「私が一緒にいてあげる」と彼を慰める。ところが、夕食のときピプスが野菜を残したことから、マリアはピプスを叱るものの、すぐに優しい態度を見せたことから、それに嫉妬を覚えて、トーニはピプスからもらったハーモニカを彼に向かって投げ捨ててしまった。寮母マリアはトーニを叱り飛ばすが、孤児としてウィーンに逃れて来た少年の心のうちを察して、そのあと彼が自分のベッドの中で泣いているところへ出かけて、「みんなにはママがいるけど、僕にはいない。僕もママが欲しいんだ」と嘆くトーニに向かって、マリアは「今日から私がママよ。でもみんなには内緒だよ」と言いながら、トーニを慰めた。トーニには若いけれども母親ができたことで、彼の心は癒され、大喜びである。その場面でマリアはベッドの中のトーニにモーツァルトの子守唄を歌いながら、彼を優しく寝かし付けるのであるが、このあたりも子守唄のメロディとともにマリアのきれいな歌声でもって、見どころ・聴きどころの一つであろう。

さて、ウィーン少年合唱団はアメリカ公演を控えていて、そのために東チロルの合唱団専用の研修ホテルで合宿をすることになった。そこでの合宿生活がこの映画のクライマックスである。ウィーン少年合唱団は校長・教員・寮母らとともにバスに乗って、東チロルの研修ホテルに向かった。そこに至るまでのスクリーンに映し出される東チロルの美しい山々も見どころであることは言うまでもない。研修ホテルに着くと、寮母マリアはさまざまな世話で忙しい。明日からの牛乳を山の牧場から届けてもらうために、高い山の上にあるその牧場に行く必要がある。ケプラー教授が彼女の護衛を申して出て、そこへ向かうが、年をとっている彼にとって山登りは一苦労である。途中でくたばってしまい、その土地の男性に背負ってもらって、帰ってしまう有様である。寮母マリアは途中で待っていた若いシュミット先生と一緒に山を登り始めた。東チロルの美しい山々を一望に眺める岩山に辿り着いたところで、シュミット先生はやっと二人きりになれたと言いながら、以前から慕っていたマリアに向かって「少しは僕が好きかい」と愛を告白する。するとマリアは「いいえ」と答える。一瞬、シュミット先生はがっかりするが、そのあとマリアは「少しじゃなくて、大好きだわ」と答える。シュミット先生はマリアを抱き寄せて、彼女にキスをする。大自然の中で若い二人が自分の気持ちを素直に打ち明けるこの場面は、すがすがしくて気持ちがよい。この映画の見どころの一つである。

研修ホテルでも通常どおり授業が行われている。ケプラー教授の歴史の授業では、生徒たちが一枚の紙を回し読みしているところをケプラー教授が見つけて、怒りながら、生徒の一人ヘルマンに向かって「フランツ1世がオーストリア皇帝に即位したのは何年かね」と質問すると、1806年だと答えるべきところをヘルマンは「僕はまだ生まれていなかったので、分かりません」と答える。このあたりもユーモアがあっておもしろい。ケプラー教授は、いつものように「教育的見地から許せない。罰として全員に今日のおやつはない」と怒ってしまう。しかし、生徒たちはケプラー教授のいないところでは、その特徴あるケプラー教授の怒る真似をして、皆でおもしろがるのである。ウィーン少年合唱団といっても、ただ真面目な生徒というイメージではなく、このようにふざけたりする普通の腕白な少年たちなのだということを表現したいことから取り入れたシーンなのであろう。

今回の合宿はアメリカ公演を控えてのものであったが、そのアメリカ公演では新しいプログラムが企画され、そこでトーニが「青春」の役を歌うことになった。そのリハーサルが始まったが、一人フリッツだけはしょんぼりしている。シュミット先生がわけを尋ねると、自分の役を新米のトーニに取られてしまったからだと答える。それに対してシュミット先生は「ここではすべて実力で決まる」と厳しい答え方をする。こういう「すべてが実力次第だ」ということも、ウィーン少年合唱団の厳しい本来の姿だったのであろう。

翌日は遠足に出かけることになった。出発前にピプスは昼食用のパンを食べてしまうが、寮母マリアから咎められると、ピプスは「食べれば持たなくて済む」と答える相変わらずの腕白少年である。皆で歌を歌いながら山へ出かけようと合宿所を出たところに、養父ブリュメルが愛犬フロッキとともにやって来て、トーニと再会する。養父ブリュメルは1週間滞在する予定のようなので、トーニは喜んで遠足に出かけて行った。この遠足の場面も美しい山々を背景にして、ウィーン少年合唱団たちのきれいな歌声が大自然の中に響き渡って、見どころ・聴きどころである。その間、トーニは大きな岩山に登って、危険なところに生えているエーデルワイスを摘み取っていた。トーニは寮母マリアがそれを欲しがっているのを知っていたので、危険を冒してまでもそれを摘み取ったのである。

その夜、トーニは皆が寝静まったところで、一人ベッドを抜け出して、ベランダを通って寮母マリアの事務室に入った。机の上の花瓶にエーデルワイスを入れて、帰ろうとすると、机の上のあるものに目をとめて、それを手に取ってからにこりと笑い、一旦机に戻すものの、またそれを手に取って、持って帰ってしまった。ところが、トーニが部屋を出て行ったことを隣のベッドのフリッツが見ていた。トーニがロッカーに何かを隠したことにももちろん気がついていた。このことから大変な出来事が起きることとなるのである。

翌朝、寮母マリアが事務室に入ってくると、花瓶の中にエーデルワイスが飾られているのに気がついたものの、そのまま机の上に置いていた燃料費の請求書やお金などを持って校長先生のもとに出かけた。ところが、校長先生が燃料費のお金を数えてみると、6000シリングあるべきところ5000シリングしかなく、1000シリングのお金が足りないことに気がついた。寮母マリアは「昨日数えたときにはちゃんとあったのに」と答えて、自分の事務室に戻って探してみるが、どこにも1000シリングの紙幣は見つからない。責任を感じて校長先生に不足分を自分の給料から差し引いてくださいと言っているとき、少年たちが騒ぎながら階段を降りてきた。その騒ぎはトーニが昨夜ロッカーに隠したものをめぐって、フリッツが問い詰めたことから始まったものであった。そこでフリッツが昨夜トーニのとった行動を話したことから、トーニは校長先生に呼ばれて、マリアのいる前で、昨夜マリアの事務室で何をしたのかと尋ねられる。エーデルワイスを持って行ったことは打ち明けることができたが、何を持ち出したのかについては答えられない。校長先生が昨夜1000シリングがなくなったことを話して、「このままだとマリアさんが疑われることになるのだ」と言うと、トーニは自分が盗んだのだと答える。しかし、お金はどこにあるのだと聞かれても、答えることはできない。校長先生から団員の資格はなくなったことを告げられる。校長先生もマリアもトーニが盗んだことをとても信じられなかったが、とりあえず養父ブリュメルに引き取ってもらうことになった。養父ブリュメルにも信じられないことであったが、本人が白状したからにはどうしようもなく、連れて帰ることになった。

一方、ウィーン少年合唱団の新しい企画ではトーニに代わってフリッツが再び「青春」の役を歌うことになり、シュミット先生のピアノの伴奏でリハーサルが始まった。

トーニが白状したことが信じられず、何か隠し事があると思った養父ブリュメルは、犯人を探してやると言い出すと、トーニは「それは止めて」と言ったきり、ホテルから逃げ出してしまった。養父ブリュメルはあとを追いかけるが、トーニは通行禁止の古い橋を渡っている最中、橋が崩れ落ちてしまい、流れの速い川に落ちた。下流に流されたところで、トーニはその土地の男性に救い出されたが、意識はなく重体のまま、研修ホテルに運ばれた。

その間、研修ホテルでは新しい企画のリハーサルが行われていたが、シュミット先生がピアノを弾きながら、楽譜をめくったところ、1000シリングの紙幣が出てきた。昨夜、シュミット先生がマリアと一緒に山の牧場に行ったときの写真を届けた際、楽譜も机の上に置いていったが、そのとき1000シリングの紙幣が楽譜の中に紛れ込んだものであろう。1000シリングは見つかったので、トーニが盗んだのではないことが証明されたが、しかし、それではなぜトーニは自ら盗んだと言ったのか。校長先生がこのことを不思議に思っていると、シュミット先生が「マリアをかばうために嘘をついたのです」と指摘する。校長先生もトーニは母親がいなくて、寮母マリアを母親のように思っていたので、彼女をかばうために嘘をついたことに気がつき、「あれはむしろ気高い行為だったのだ」と言って、マリアに向かってトーニを呼び戻すようにと指示した。マリアが喜び勇んで校長の部屋から出たところに、トーニが重体のまま担ぎ込まれた。ただちに医者を呼びにやられるとともに、トーニが無実であったことと彼が運び込まれたことは、リハーサルの部屋にいた少年たちにも伝えられた。

寮母マリアはそれからというもの3日3晩徹夜でトーニの看病をしているが、熱は一向に下がっていない。少年たちも心配してトーニの様子を見に来る。シュミット先生もトーニのことを心配する一方、一生懸命に看病を続けるマリアのことも気遣うが、マリアは「トーニは私を母のように慕っていたから、傷ついたのよ。今、そばを離れたら、母親とは言えないわ」と答える。この映画の中で最も重要な言葉であろう。ホテルの近くの広場では野外ミサが行われている間も、マリアは、医者によると「今が峠だ」というので、トーニのそばから片時も離れることなく看病を続けている。野外ミサでは集まってきた大勢の人たちによってシューベルトの『アヴェ・マリア』が合唱されている。ウィーン少年合唱団も加わっているその合唱の歌声が、トーニの部屋にも聞こえてくる。マリアは部屋の中にあるマリア像に向かって真心から祈りを捧げる。そのマリアの真心のこもった祈りと野外の『アヴェ・マリア』の歌声によって、トーニは重体の中から、それを克服して、ようやく目覚める。目覚めて初めて口にするトーニの言葉は「お母さん(ムッター、Mutter)である。この映画のクライマックスで、最も感動的な場面である。最大の見どころ・聴きどころであることは言うまでもない。トーニとマリアが抱き合って喜んでいるところへ校長先生もやって来て、トーニが元気な姿に戻ったのを目にすると、トーニの無実が証明されたことを伝える。しかし、トーニが隠したものとは一体何なのか。それを知りたいので、尋ねると、トーニはマリアの顔を見ながら「マリアさんの写真です」と答える。校長先生は微笑みながら、さらにトーニにアメリカ公演では「青春」の役を歌ってもらうことを伝える。トーニはもちろん大喜びである。こうして東チロルでの合宿は終わった。

最終場面はウィーン少年合唱団がアメリカ公演に向けて出発する場面である。フリッツがトーニに謝って、二人は仲直りをした。これが「青春」の素晴らしさというものであろう。一行を見送りに来た校長先生もまたトーニに向かって、「君は身をもって皆に愛の心を教えた。アメリカでも合唱団の名を高めてくれ」と言って、彼の健闘を讃えた。校長先生はさらにシュミット先生とマリアに向かって、「君たちは戻ってきたら、婚約するんだろうね」と尋ねると、シュミット先生は「いいえ」と言ったあと、「結婚します」と答える。この映画は終始一貫してこのようなユーモアに満ちた「健全な精神」に貫かれている。映画を観ていてすがすがしい気分にさせられる。さらに校長先生が「トーニも喜ぶぞ」と言えば、シュミット先生は「彼は私たちの息子です」と答える。挨拶が終わって、少年たちがバスに乗っているところに、養父ブリュメルも愛犬フロッキとともに駆けつけて来て、トーニを見送る。バスが出発したところでエンディングとなる。


以上述べてきたように、この映画は至るところにユーモアが織り込まれていて、全体が「健全な精神」に貫かれている。それは善良な養父ブリュメル、優しい校長先生、そして誰よりもマリアとトーニの心の中にも見出される。一見、ケプラー教授と生徒のフリッツは邪な心の持ち主のように見られるかもしれないが、実際はこの二人も善人である。この映画の登場人物は全員、東チロルの美しい山々から伝わってくるような「すがすがしい精神」に満ち溢れている。それはウィーン少年合唱団の美しい歌声から響き出てくる「美しい心」と同じであると言ってもよいであろう。さらにはまた東チロルの野外ミサでの『アヴェ・マリア』の合唱そのものであると言っても差し支えあるまい。登場人物とスクリーンに映し出される景色と合唱団の歌声が一つとなって、素晴らしい作品になっていると評しても決して過言ではあるまい。

この映画の原題はすでに述べたように、「私の人生で最も素晴らしい日」である。「日」は単数形となっているが、最も素晴らしい日とは、一体、どの日のことを意味しているのだろうか。トーニがハンガリーからオーストリアに亡命して来て、養父ブリュメルに出会った日のことか、あるいはトーニがウィーン少年合唱団に入団できた日のことか、それともトーニが寮母マリアを「母」と呼ぶことのできた日のことか、あるいはまたアメリカ公演に出かけることになった日のことを指しているのか。考えてみるに、すべてが解答であり、解答を一言でいえば、「青春」である。東チロルの美しい山々のように汚れのない「青春」、ウィーン少年合唱団の美しい歌声のようなすがすがしい「青春」、ふざけたりもするし、喧嘩もするけれども、すぐに仲直りするような柔軟な心のままの「青春」である。この「青春」は年金生活をしている養父ブリュメル、年配の校長先生とケプラー教授の中にもある。「心の青春」である。また希望に満ち溢れた若いシュミット先生と寮母マリアの中にも青春は当然のことながらある。さらにまた文字どおり、ウィーン少年合唱団の活動そのものが「青春」である。「私の人生で最も素晴らしい日」とは「青春」である。このようにこの映画は登場人物たちそれぞれの「青春」という人生を褒め称えたものであり、その中でもとりわけ孤児トーニと寮母マリアの「誠実な心の触れ合い」を褒め称えたものであると言ってよいであろう。社会がますます複雑化していき、人と人との心の触れ合いが薄れがちになっていく傾向の強い現代、このような映画を見て、心を洗い直してみるのも必要なのではあるまいか。是非、この機会に鑑賞してほしいものである。


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