【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第87号
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連載「知的感動ライブラリー」(60)

ウィリアム・ワイラー監督の映画『ベン・ハー』(1959年アメリカ)
総合科学部教授 石川榮作

1.映画『ベン・ハー』の製作

この映画の原作は,1880年に出版されて世界的なベストセラーとなったルー・ウォーレスの小説『ベン・ハー』である。この小説を原作として1907年には15分間の短編映画が作られ,また1925年にはフレッド・ニブロ監督によってサイレントの長編劇映画が作られており,1959年に製作されたウィリアム・ワイラー監督の映画は3度目の映画化である。

ワイラー監督のこの映画『ベン・ハー』は構想10年で,製作にはなんと6年半もかかり,また総製作費は当時としては破格の1500万ドル,日本円にして54億円という巨額の費用を費やしての,3時間42分にも及ぶ,文字どおりの超大作である。1959年の第32回アカデミー賞では作品賞や監督賞,主演男優賞,助演男優賞,美術賞などをはじめとして11部門で受賞を獲得している。映画史上,輝かしい記録に残る作品であり,またいつまでも人々の記憶に残ることであろう。そこで以下においては,この映画のあらすじを最初から順に辿りながら,見どころなどを紹介していこう。


2.映画『ベン・ハー』のあらすじと見どころ

映画の前半

映画『ベン・ハー』には「キリストの物語」という副題が付けられており,物語はイエス・キリストがイスラエル・ベツレヘムの馬小屋で生まれたところから始まる。その当時,ローマ帝国の圧政に苦しめられていたユダヤは,独自の伝統と誇りを守ってくれる救世主が現れ出ることを固く信じていた。そのようなことが時代背景にあって,物語は展開していく。

イエス・キリストと同じ頃に生まれたと思われるユダヤの豪族の息子ジュダ・ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)は,エルサレムで母ミリアム(マーサ・スコット)と妹ティルザ(キャシー・オドネル)とともに暮らしている。紀元26年のこと,そのエルサレムにローマ軍司令官として旧友のメッサラ(スティーブン・ボイド)が着任する。メッサラは14歳のときまでその町に住み,ジュダ・ベン・ハーとは幼な友達であった。ジュダは久し振りの旧友との再会を喜ぶが,メッサラはローマ帝国の栄光に目が眩み,若くして司令官に出世して,ひどく傲慢になっていた。ジュダ・ベン・ハーはメッサラからローマ帝国の繁栄のために協力を依頼され,エルサレムにおける反ローマ勢力の者たちを召し出すように言われるが,ユダヤの誇りを捨てずに暮らしてきた彼は,仲間たちを裏切ることはできずに,メッサラとローマ帝国への反発を強めていく。このあたりからジュダ・ベン・ハーとメッサラとの対立がだんだんと深まっていく。

ジュダ・ベン・ハーにとって旧友メッサラとの再会は,のちに過酷な運命を背負わされるきっかけとなるが,その頃,彼はその苛酷な運命ののちに救いのきっかけとなる女性にも出会う。ハー家の奴隷で,その家の財産を管理していたサイモニデス(サム・ジャッフェ)が,娘エスター(ハイヤ・ハラリート)を連れて,久し振りにジュダ・ベン・ハーのもとを訪ねて来たのである。サイモニデスは娘エスターの結婚の許しを得るためにやって来たのであったが,エスターは密かにジュダに心を寄せていた。ジュダの方も今や美しい女性に成長したエスターに心を惹かれて,彼女を抱きしめてしまう。のちに救いをもたらしてくれるこの謙虚なエスターとの再会は,これからの物語の中で真っ向から対立していく傲慢なメッサラとの再会とコントラストを成しているとも捉えることができよう。

そのジュダ・ベン・ハーとメッサラとの対立が決定的となるのが,数日後に新総督グラトゥスがローマ軍を率いてエルサレムの町に入って来たときである。ジュダは妹ティルザとともにそのローマ軍の行進を屋敷の屋上から眺めていたが,妹ティルザが身を乗り出して,行列を覗きこんだ瞬間,もろくなっていた瓦が転がり落ちてしまった。しかもそれがちょうど新総督にあたってしまう。新総督の行列につき従っていたメッサラは,ただちに屋上にやって来て,瓦がもろくなっていたことを確認しながらも,偶然の事故だと言うジュダの主張を聞き入れずに,ジュダを奴隷としてガレー船の漕ぎ手に送るだけではなく,ジュダの母ミリアムと妹ティルザを地下牢に閉じ込めてしまうのである。この場面でジュダは妹ティルザをかばって,自分の落ち度にしているところなどは,家族を思う彼の性格がよく表れていると思う。このあたりが最初の見どころであろう。

ジュダ・ベン・ハーはほかの奴隷たちとともにガレー船の着く港まで連行される途中,メッサラの命令によって一人だけ水を与えられずに,喉の渇きに苦しんで地面に倒れていたとき,傍らから水を差し出してくれた人がいた。この人がイエス・キリストであるが,もちろんスクリーンでは後ろ姿しか映し出されず,誰であるかも明らかにはされない。しかし,ジュダ・ベン・ハーはこの人の差し出してくれた水で生きる力を与えられた。この映画の中でもとりわけ印象的な重要な場面である。

それから3年の間,ジュダ・ベン・ハーはガレー船で奴隷の漕ぎ手として,ただ41という番号で呼ばれながら,働けば働くほど,メッサラに対して憎しみをいっそう募らせていった。やがて彼が乗っているガレー船にローマ艦隊の司令官クイントゥス・アリウス(ジャック・ホーキンス)が乗り合わせてくる。アリウス司令官は目に憎しみを湛(たた)えている奴隷41のジュダ・ベン・ハーに目をつけ,彼を呼びつけて,ローマ最強の闘技士の一人にならないかと誘うが,ベン・ハーはそれに興味を示すこともなく,自分たちの無実の罪を訴えるだけである。

そうしているうちに数隻のマケドニア船団が姿を現し,海戦が展開されることとなる。ローマのガレー船の奴隷たちはことごとく足を鎖に繋がれて船を漕ぐことを強要されるが,ただジュダ・ベン・ハーだけはアリウス司令官の指示に従って鎖をはずされて船を漕いでいる。やがて激しい海戦となって,奴隷たちは懸命に船を漕ぎ続ける。最後に敵船がジュダ・ベン・ハーらのガレー船に真横から突撃して来る。ガレー船の漕ぎ手のいる窓からそのさまがはっきりと見て取れる。このあたりの場面がドキドキハラハラさせられて,見どころである。敵船がぶつかると,ローマのガレー船は大きく揺れ,船の側面が壊れて,水が勢いよく浸水してくる。足を鎖につながれた奴隷たちは,もちろん逃れることはできない。このあたりではスクリーンに残酷な奴隷たちの苦しむさまが映し出されて,つい目をそむけたくなる。それでもジュダ・ベン・ハーはローマの軍人から鍵を奪い取って,懸命に奴隷たちを解放しようとする。彼はこれまでメッサラに対する憎しみを抱きながら生きてきたものの,このあたりでは彼が本来持ち合わせている正義感と弱者に対する思いやりがよく見て取れる。この映画の前半の最大の見どころであることは言うまでもあるまい。

さらにベン・ハーは敵に攻め寄せられてアリウス司令官が甲板の上から海に突き落とされるのを見ると,自ら海の中に飛び込んで司令官を助ける。憎いローマ軍の司令官であるが,自分の鎖をはずしてくれたことに恩義を感じていたのか,あるいは敵であれ,窮地に追い込まれた人間を見れば,助けずにはおられない生来思いやり深い人物なのか。船の残骸に乗って,自分たちの船が炎上して沈んでしまうのを見ると,アリウス司令官は剣でもって自害しようとするが,ベン・ハーはそれを必死に止める。こうして二人は船の残骸に乗って広い海の上を漂流していると,やがてローマの船団がやって来て,助けられる。この海戦ではローマ軍が勝利を収めたという。アリウス司令官はベン・ハーを伴って,ローマに凱旋する。そこで皇帝ティベリウス(ジョージ・ラルフ)から勝利のバトンを受け取って,ベン・ハーの身を自分に委ねられた。その後,ベン・ハーはローマ随一の騎手となって,5度も優勝を果たすが,その騎手としての腕を磨く場面はほとんど描かれておらず,カットされたかちとなっている。やがてアリウス司令官は命の恩人ジュダ・ベン・ハーを養子に迎え,名前と財産を受け継ぐ者として,先祖代々の指輪をも贈る。

こうしてジュダ・ベン・ハーはアリウス司令官の養子となるものの,母と妹を救い出したくて,故郷エルサレムに帰ることを願い出る。アリウス司令官は彼を引き留めることはしないで,また戻って来ることを期待して,彼に帰郷を許す。エルサレムにはアリウスの親友のポンティウス・ピラトゥス(フランク・スリング)がグラトゥス総督に代わって新しい総督として着任することになっていたこともあり,アリウスはジュダに故郷へ帰ることを許したのである。

その故郷エルサレムに帰る途中,ベン・ハーは東方の三博士の一人バルタザール(フィンレイ・キュリー)という老人に出会って,ナザレの人(イエス)ではないかと間違えられたりする。バルタザールはアラブの族長イルデリウム(ヒュー・グリフィス)のもとで客人となっていたのである。ジュダ・ベン・ハーもそのアラブの族長と知り合い,彼から愛馬の世話をしてくれるように依頼されたりする。そして彼から,近くエルサレムで大競馬があることを聞かされ,その二輪戦車の競走で無敵を誇っている高慢なローマ代表のメッサラを倒してくれないかと頼まれる。ベン・ハーはメッサラに対しては別の方法で復讐することを考えているので,そのときはそれを断った。そばにいたバルタザールはメッサラに対して強い殺意を抱いているベン・ハーに向かって,すべてを神の裁きに委ねるがよいと忠告するが,ベン・ハーはそれにも耳を貸さずに,エルサレムの屋敷に帰って行く。

自分の屋敷に久し振りに戻って来たベン・ハーは,荒れ果てていたその屋敷を守っていてくれた奴隷のサイモニデスとその娘エスターと再会する。エスターはローマ人から故郷を奪い取られたこともあり,また父が4年前の当時拷問にかけられたことなどもあって,結局のところ結婚せずに,年老いた父とともにその屋敷で暮らしていたのである。ジュダ・ベン・ハーはエスターと互いに愛を確かめ合うが,エスターはジュダが依然としてメッサラに憎しみを抱いて,復讐を遂げようとしていたので,それを止めさせようとして,愛と赦しを説くナザレの若い人の話をする。「憎しみは毒です。愛は憎しみよりも強い」と言うエスターの説得にもかかわらず,ジュダの復讐心は決して冷めることはなかった。

翌日,ジュダ・ベン・ハーはアリウス二世としてメッサラを訪ねて行くが,メッサラはアリウス二世がジュダであることを知って,大いに驚く。ジュダの眼差しの中には復讐心が燃えたぎっていたので,メッサラは恐怖を感じずにはいられなかったほどである。メッサラはジュダから母と妹の居場所を探し出すように言われる。メッサラはそれまでジュダの母と妹のことは忘れ果てていたが,部下のドルーサス(テンレス・ロングドン)に調査させたところ,地下牢に閉じ込められたまま癩病(らいびょう)にかかっていることを知ると,ジュダには内緒で,たちまち二人を癩病の谷に送ることにした。

ジュダの母ミリアムと妹ティルザは癩病の谷に向かう途中,自分たちの屋敷の中庭でたまたまエスターに出会うことができて,ジュダが今この屋敷に戻って来ていることを知らされる。しかし,母と妹は癩病にかかっていることをジュダには内緒にしてほしいと言い残して,その場を去って行く。そこでエスターはそのあとジュダには嘘をついて,母と妹はすでに死んでしまっていると知らせるのである。母と妹の死を知らされたジュダ・ベン・ハーは,意気消沈してしまい,メッサラに対してさらにいっそう激しい憎しみを抱き,復讐することを誓う。

以上がこの映画の前半であり,ここで数分間の間奏曲付きのインターミッションが入ってから,後半の展開となる。


映画の後半

アラブの族長イルデリウムはメッサラのところに出かけて,これまで二輪戦車競走で4年間無敵を誇ってきた彼に対して,ベン・ハーを自分の愛馬の御者として挑戦することを宣言する。メッサラになんとしても復讐を遂げたいベン・ハーは,それからというものイルデリウムの愛馬を使って二輪戦車競走の練習に励む。

そうしているうちについにその競走がエルサレムで行われる日がやってきた。十分に練習を重ねたベン・ハーは,イルデリウムの愛馬に曳かれた二輪戦車で競技場に乗り込む。強敵メッサラは鋭利な歯車を取り付けた「ギリシア式」の二輪戦車に乗って来た。その車輪に取り付けた細工で他者の車輪を破壊しようと企んでいるのである。新しく着任した総督ポンティウス・ピラトゥスによって出場者(アレキサンドリア,メッシナ,カルタゴ,キプロス,ローマ,コリント,アテネ,フリジア,ユダヤ)の紹介があったのち,9台の二輪戦車による競走が始まった。文句なしにこの二輪戦車の競走がこの映画の最大の見どころであろう。この競走の行われる大きな楕円形の競技場は,古代エルサレムの闘技場をモデルとして,ローマの中心地から13キロほど離れた石切り場に競技場のセットを建設したという。その競技場を9周回るという競走である。そしてこの競技場での二輪戦車の15分間にも及ぶ競走シーンは,特別にほかの3人の監督に演出を委ねたかたちで3か月を費やして撮影したという。見ていても,ドキドキハラハラさせられるどころか,二輪戦車が破壊するなどの残酷なシーンも多くあって,恐ろしいくらいである。それだけに見応えのある大スペクタクルである。他の御者が操る二輪戦車が次から次へと破壊されて棄権していく中にあって,ベン・ハーとメッサラはもちろん最後の5人の御者の集団に残っている。競技場を回るのが8周目となったとき,メッサラは鋭利な歯車でもってベン・ハーの車輪を壊そうとする。最後には二輪馬車を操りながら,鞭を振るってのこの二人の闘いの場面が,実に壮絶である。壮絶な闘いの末,メッサラは二輪戦車から落ちて,後続の戦車に轢かれて重傷を負ってしまう。こうして競走は最後の9周目となり,ベン・ハーが最初にゴールして,彼の勝利に終わり,勝者の「月桂冠」は新総督ピラトゥスの手によってベン・ハーの頭にかぶせられた。

競走ののち,ベン・ハーは重傷のメッサラのもとへ出かけて,二人の間ではなおも激しい対立が続く。この場面の瀕死状態にあるメッサラが,片脚のままでジュダに会うわけにはいかないので,命にもかかわる手術でありながらも,片脚の切断手術を拒みながら,最後に男の意地を見せる場面も見どころである。メッサラは最後までベン・ハーに苦しみを与えようとして,ベン・ハーの母と妹がまだ生きているが,癩病の谷に隔離されていることを告げて,「勝負はまだこれからだ」と言いながら,息を引き取る。「勝負はまだつかんぞ」と繰り返しローマ帝国の軍人として強がるところにメッサラの意地が読み取られる。メッサラらしい最期であった。二輪戦車競走と同じくらい迫力のある場面と評してもよいであろう。

母と妹が生きていることを知ったベン・ハーは,癩病の谷へ出かけ,そこで密かに二人に物資を運んでいたエスターに出会い,エスターの助言にもかかわらず母と妹に出会おうとするが,二人にこれ以上苦しみを与えたくはないと思って,やむなくその場を去って行く。この場面もベン・ハーの苦しみがよく描写されていて,見どころの一つである。

絶望に打ちひしがれて屋敷に戻って行く途中,多くの民衆が小高い丘に集まろうとしている場所で,ベン・ハーは東方の三博士の一人バルタザールと再会して,多くの民衆とともにイエス・キリストの導きの言葉を聞くように勧められる。しかし,ベン・ハーにはそのナザレの人の言葉が今の自分を救ってくれるとはとても思えなかった。ベン・ハーは総督に用があるからと言って,そのまま帰って行ってしまう。

そのあとベン・ハーは総督ピラトゥスに呼び出されていたので,彼のところに出かけると,彼からローマ市民となったことを伝えられるが,ジュダは自分の家族をどん底にまで追いやったのみならず,メッサラの人柄をも変えてしまったローマ帝国への憎しみは消えるどころか,ますます強くしていった。ベン・ハーはこれからもユダヤの民として生きる決意をして,義理の父アリウスに返してほしいと言いながら,その指輪を総監に渡して帰って行く。ローマ帝国にとって危険な人物と見なされることは,覚悟の上の決断であった。それほどに彼のローマ帝国への憎しみはますます大きくなっていったのである。

このように憎しみをますます強めていくジュダ・ベン・ハーとは正反対に,エスターの方はイエス・キリストの言葉に心を洗われるような体験をして,ジュダに「敵を愛して,迫害する者のために祈れ」というイエスの言葉を伝える。しかし,ジュダはどうしてもローマ帝国に対する憎しみを取り除くことができないと言う。いつまでもそのようなことにこだわるジュダにエスターは,ついに怒りを覚えて,「憎しみがあなたの顔を醜くしています。まるでメッサラが乗り移ったように」と非難して,「これまでですわね」と彼を見限ってしまう。

ジュダには失望したものの,イエスの言葉に心の安らぎを感じたエスターは,ジュダの母ミリアムと妹ティルザをもイエスに会わせたいと思って,二人を癩病の谷から連れ出そうとする。しかし,そのときティルザは死にかけているという。そこへジュダが姿を現して,妹が死にかけていることを知ると,彼は癩病の谷で寝込んでしまっている妹を探し出して,エスターとともに母と妹を癩病の谷から連れ出して,イエスのもとに向かった。

ところが,エルサレムの町に入ると,裁判が行われていて,イエスは人々を扇動するよからぬ人物として見なされて,ローマ軍たちによって磔(はりつけ)の刑に処せられることとなった。彼らがそこへ向かうと,イエスはほかの2人の罪人とともに処刑場へ連行されているところであった。十字架の磔台を背負わされて,よろよろと石段を上がりながらゴルゴダの丘に向かう場面は,複雑な気持ちにさせられる。ジュダ・ベン・ハーもそのさまを見ているうち,その処刑場に連行されている人こそ,かつて自分がガレー船のところまで連れて行かれる途中で水を恵んでくれた人であったことを悟った。ジュダはそのあとをついて行き,かつて自分にしてくれたように彼に水を与えようとしていると,ローマ人にそれを邪魔されてしまう。そうしているうちに母と妹の方はエスターとともにその場を立ち去って行った。

ゴルゴダの丘でイエスら3人が磔の刑に処せられようと準備が進められているときにも,ジュダ・ベン・ハーは東洋の三博士のうちの一人バルタザールに出会うが,イエスはすべての人の罪を引き受けるためにこの世に生れてきて,死んでいくのだということを彼から聞き知って,ついにイエス・キリストの教えを理解したのである。

イエス・キリストの処刑のシーンはスクリーンには映し出されないが,処刑が実行されたことは,そのあと突然空の雲行きが怪しくなり,真昼だというのに真っ暗となって,やがて雷鳴が轟き,激しい雨が降り出したことで想像される。ゴルゴダの丘からイエス・キリストの血が雨水に混ざって小川となって流れ落ちていく。

その頃,ジュダの母ミリアムと妹ティルザはエスターとともに帰りの途中の洞窟で雨宿りをしていた。雷鳴が轟き,激しい雨の中で,稲光も走った。この激しい雷雨も見応えのあるシーンである。その激しい雷雨の瞬間,奇蹟が起こり,母ミリアムと妹ティルザの身体はすっかりと元のままの状態に戻っていた。感動的な場面であり,この映画の最後の見どころであろう。激しい雷雨でもって観客のもやもやした気持ちも洗い流された気持ちにさせられる。

やがてジュダ・ベン・ハーも屋敷に戻って,「父よ,彼らを許したまえ」というイエスの息を引き取る前の言葉をエスターに伝えるとともに,イエスの死に直面して「自分の恨みも拭いとられてしまった」ことを告げた。すると自分が憎しみを捨てたとき,母と妹の身に奇蹟が起ったことを知って,神に深く感謝の気持ちを捧げながら,母と妹をしっかりと抱きしめた。最後にはエスターも加わって,一同は抱き合う。この感動的な場面で映画『ベン・ハー』はエンディングとなる。


以上が映画『ベン・ハー』のあらすじであるが,副題に「キリストの物語」ともあるように,主人公ジュダ・ベン・ハーの過酷な運命との格闘と,イエスの愛の物語が並行して展開していく構造を有している。身体的な格闘と精神的な格闘,動的な格闘と静的な格闘の二重構造となっていて,全体は激しい「憎しみ」がやさしい「愛」に代わる物語と言えよう。主人公ジュダ・ベン・ハーがイエス・キリストの死を目の前にして,赦すことの尊さを知り,憎しみを捨て去ることで,彼の魂は救われたのである。波乱万丈の復讐物語から聖なる魂の救済へと展開していく中で,「魂を救うのは復讐ではなく,愛である。赦すことで人は救われる」というテーマが明快にされている。単なるスペクタクル映画ではなく,深く心の問題をテーマにしているところにこの映画の奥行きの深さが見て取れる。この映画を見終わったら,心をきれいに洗われたような気持ちにさせられるではないか。この一本の映画を鑑賞するだけで「自分が変わった」「心が大きく広くなった」と感じる人も多いのではないか。この映画が素晴らしいことの証左である。映画の力は大きい。また音楽担当のミクロス・ローザの勇壮な音楽もすばらしく,場面ごとにそれに相応しい音楽がつけられていて,一段と効果を上げている。音楽の力もこの映画ではまた殊のほか大きい。さらにこの映画には前半の冒頭に序章が添えられ,また後半の冒頭には間奏が添えられていて,いずれもバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井フレスコ画『アダムの創造』(1510年作)の中から,創造主が手を伸ばして最初の人間アダムに生命を注入しようとしている二人の手の部分が大写しでスクリーンいっぱいに映し出されている。そのときの音楽も見事であり,この序章と間奏だけでもこの映画の内容が見て取れる。細かいところにまで温かい愛情が込められており,内容的にも真の人間愛と家族愛にあふれた名画である。是非,この機会にウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』以外のもう一つの傑作映画『ベン・ハー』をご鑑賞いただきたい。


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