【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第82号
メールマガジン「すだち」第82号本文へ戻る


連載「知的感動ライブラリー」(55)

徳島大学総合科学部教授 石川 榮作

徳島大学長井長義映像評伝実行委員会製作の映画『こころざし――舎密を愛した男――』が本年(平成23年)3月に完成し,このたびそのDVDが本学各部局等をはじめ附属図書館にも寄贈された。そこで本附属図書館「知的感動ライブラリー」でも今回はこの映画を取り扱うことにしよう。映画の副題にある舎密(せいみ)とは,オランダ語で現在の化学を意味する日本語標記である。長井長義(1845-1929)は,もはや申すまでもなく,その化学という概念すら知られていなかった時代に,日本の化学の道を切り開いて,薬学の礎を築いたことから「日本薬学の父」とも称されている徳島ゆかりの偉人である。この映画は,彼の幼少の頃から始まって,長崎遊学を経て,13年間の長きにわたるドイツ留学,そして日本に戻り,日本の近代化に多大な貢献をするまでの半生を描いている。以下,この映画での説明をできるだけ多く盛り込みながらストーリーを紹介し,見どころなどを指摘することにしよう。

1.幼年および少年時代

この映画のストーリーは,嘉永2年(1849年)の徳島城下町,父が御典医である5歳の主人公が植物に強い関心を抱いているエピソードから始まる。250年間続いた江戸時代の平穏な暮らしも大きく変わろうとしていた時期のことである。特に1853年(嘉永6年)相模の国の浦賀沖にアメリカのペリー率いる黒船が来航したのをきっかけとして,激動の時代へと突き進もうとしていたが,そのような折り,まだ化学という概念すらなく,舎密(せいみ)と呼ばれていた時代に,一人の少年が化学の心を抱き,その蕾を膨らませようとしていたのである。その少年こそのちに文明開化の一翼を担うこととなる長井長義であった。

長井長義は弘化2年(1845年),現在の徳島市中常三島町に生まれ,幼名を朝吉といった。父琳章(りんしょう,大杉漣)は阿波の国,徳島藩の御典医であり,朝吉(原内太郎)は幼少の頃から父の跡を継いで医者となるべき宿命を背負って,父からその知識を教え込まれながら幼年時代を送り,成長していった。当時は漢方医が主流を占め,西洋の医学を学んだ医者はわずかであった。そして漢方医の中には西洋の医学を魔術のように感じ,疎んじる者も少なくはなかった。そのような時代,嘉永6年(1853年)朝吉9歳のとき,母は若くして病没してしまう。その病の母を救えなかったということが,彼が医学というものへの情熱を失った最初だったのかもしれない。

その後,父は後妻を娶り,女子を儲ける。これが朝吉の妹で,加加(大塚ちひろ)といい,この映画の語り手でもある。しかし,朝吉は継母(ままはは)とはうまくいかずに,そのことを知った徳島藩の藩主の配慮で朝吉は父と一緒に登城することとなった。その城までの途上,父は息子に道端の草木を手に取って,植物の中には自分たちの知らない不思議な力が眠っているような気がすることを教え諭す。こうして朝吉は父からさまざまなことを教えられながら少年時代を送る。その傍らで,1856年(安政3年)にはアメリカのハリスが日米修好通商条約の締結を要求してきたのをきっかけとして国内は急激に変化していき,攘夷派による外国人襲撃事件が相次ぎ,薩長らの雄藩と幕府の対立が激しさを増していった。

慶応元年(1865年),朝吉は元服(20歳)を迎えると,直安(ちょくあん,西村和彦)と名乗り,父の代診を務める医師になった。しかし,直安は,妹の目から見ても,このところ医者修行に身が入っていないように思われる。彼が妹に打ち明ける言葉によると,医者が病気を治すのか,薬が病気に効くのか,よく分らずに悩んでいるようである。彼の関心は病に効く草木に向けられていたのである。そのような折り,直安は徳島藩の藩医で,長崎留学の経験があり,化学にも精通していた関寛斉(せきかんさい,渡辺いっけい)の著書をむさぼり読んでいるとき,まさにその本人と出会い,当時の日本で唯一の化学書『舎密(せいみ)開宗』を読むように勧められ,舎密,つまり,化学にますます興味を示していった。しかし,父は「そのようなものを読んでいる暇があったら,鍼(はり)の練習でもしなさい」と忠言するばかりであった。

2.長崎留学

そのような直安に,1年後,長崎留学の話が持ち上がった。関寛斉の推挙によるものであった。しかし,留学の指令書を受け取った父の気持ちには複雑なものがあった。そこには留学の目的が医者修行ではなく,洋学修行と書かれていたからである。父と息子の間の距離は少しずつ広がっていくばかりだったが,まげを切って心機一転を図った直安は,「まげなど気にせず,心を開いて学びなさい」と関寛斉に励まされながら長崎へ旅立って行った。21歳のときであった。

時は慶応2年(1866年),第二次長州征討で幕府軍が長州軍に敗れて,反幕府勢力が台頭する中,徳川慶喜(よしのぶ)が第15代将軍に就いた年である。当時の長崎は,鎖国政策をとっていた日本では数少ない海外との窓口であったことはもはや言うまでもない。また坂本龍馬が亀山社中を設立し,反幕府の道筋となる薩長同盟を画策した地でもあった。この地には蘭学を学ぶために各地から大勢の若者が集まり,また軍艦や武器を調達するために各藩が暗躍するという,まさに幕末の情報の中心地でもあった。

長井直安にとってはまるで異国同然の長崎であったが,彼は関寛斉の紹介状を持って,舎密の技術を活かした日本で最初の職業写真家であった上野彦馬(川野太郎)を訪ね,そこに下宿することとなる。午前中は幕府の医学所と病院を兼ねた精得舘で医学者マンスフェルトの診察に立ち会い,午後は英語を学ぶ毎日を送り始めたのであったが,しかし,そのうち精得舘の方はそっちのけで,上野彦馬の写真館での舎密(化学)の実験の方に傾いていった。また上野彦馬の紹介で長井は,幕府の御抱え医者松本良順の息子松本銈太郎(けいたろう,川野直輝)と知り合いになる。松本銈太郎はこれからドイツへ舎密を学びに行くとのことで,仲間たちと一緒に壮行会を催してもらっていたのである。松本銈太郎も医師の父を持ちながら,舎密に熱中している若者ということなどで,長井はたちまち松本とよき友人となり,ますます舎密に関心を強くしていった。父にあてた手紙でも,直安は医者修行のことを何も書いていないので,父は舎密に心を奪われていないだろうかと心配するばかりである。そのような日々を送るうち,さらに長井は松本とともに上野彦馬の写真館で土佐の坂本龍馬(三浦浩一)と出会い,龍馬の広い心に大きな刺激を受ける。「これからの日本は夜明けを迎える。夜が明けたら,景色は一変に変わるがぜよ。これからは西洋の文化が日本の文化にとって代わることが起きるがぜよ。そんときにびっくりせんように,若い者(もん)は広い世界に目を向けちょかないかんがぜよ」現在ではなんともない言葉であるが,当時からすれば,ものすごく大きな言葉だったのであろう。土佐出身の私は,どんな映画・ドラマであれ,このような土佐弁丸出しの坂本龍馬の言葉にはいつも大きな感動を覚える。この映画の最初の見どころであることは,言うまでもあるまい。長井もこの坂本龍馬の言葉に感動し,父に反対されて悩んでいた自分が小さい存在に思えてくるのであった。ここで長井は自分の信じた道を行かなくてはならないと,「こころざし」を強くしたのである。大いに感動したのは,松本も同様であり,ここで二人は坂本龍馬とは違った方法で,舎密の面で西欧に負けない日本にしようと誓い合ったのである。

その坂本龍馬は亀山社中を改変して海援隊を作っていたが,彼の画策でその後,慶応3年(1867年)に大政奉還が行われ,江戸幕府およそ260年の幕が下ろされたのである。翌年,鳥羽・伏見の戦いが起こり,各藩は倒幕派につくか,幕府側につくかで,混乱を極めていた。風雲告げるそのような状況の中,長井は藩の命により,長崎での留学を終えて徳島に戻って来る。徳島に戻っても,長井は漢方医として父の後を継いで生きていかなければならないのかと悩む一方,舎密への熱意は静まらないどころか,ますます強くなっていく。薬があれば,母の命も救えたのではないかと,薬を作ることのへの情熱は,強くなるばかりなのである。舎密が勉強できれば,薬が作れるのではないかと,あきらめることはできないのである。

3.大学東校時代

そうしているうちに明治元年(1868年)となり,江戸は東京と改められ,長井にも転機が訪れた。藩から派遣されて,長井は大学東校(現在の東京大学医学部)に入学したのである。長井24歳である。長井は2年後には大学少寮長に任命された。少寮長とは教務委員のようなものであるが,太政官の中で大学に属する官職であり,長井は学生の監督にあたった。学生寮で夜遅くまで騒いでいて注意された学生たちが,その少寮長に仕返しをしてやろうとして,数日後,長井が紋付き袴で刀を差して出かける後をつけて行く場面が滑稽に展開されているが,それも結局は長井の植物への情熱を伝えるエピソードである。この場面は息抜きのつもりで大いに楽しんでよいであろう。それにしても植物を見るために,紋付き袴で出かけるとは,彼の植物への情熱がよく伝わってくるエピソードである。

そのように植物にいっそうの興味を示しながら過ごしているうち,明治政府は新しい日本の指導者を育成するために海外への留学生派遣を決め,その人選を始めていたが,長井はその第1回の海外留学生に選ばれ,ドイツへ留学することとなった。その頃,父はもはや藩医ではなく,一介の町医師となっていたが,長井が挨拶のために徳島の実家に戻ると,父は息子に西洋の医学を身につけて,代々続いてきたこの医師としての長井家の後を継いでほしいと,その願いを託してから,息子をドイツへ旅立たせたのである。

4.ドイツ留学

こうして明治4年(1871年),長井はアメリカ号で日本を出発してサンフランシスコに渡り,そこから鉄道でニューヨーク,そして船でリバプールへ行き,ロンドン経由で,ドイツはベルリンのアルハルター駅に到着した。長井26歳の年である。ベルリンに着いた長井は,ホルツェルドルフ夫人の家に下宿して,夫人から食事のマナーをはじめとする生活の基本,文化,芸術,宗教を教わった。その頃,日本では廃藩置県が断行され,鉄道が通り,郵便の制度ができるなど,近代化が一気に進もうとしていた。

ドイツに来てから1年後(1872年),長井はベルリン大学に入学し,ブラウン教授の植物学の講義を聞いたり,当時化学の第一人者であったホフマン教授の化学の実験に参加したりしていた。その頃はまだドイツ語が十分でなく,戸惑いを感じる毎日であったが,ホフマン教授の化学実験室で松本銈太郎と再会し,心強くなって,実験第一主義のホフマン教授のもとで化学の実験に励んだ。

明治9年(1976年),長井も31歳となり,ホフマン教授からバニラの合成に関する課題も与えられて,その合成にも成功して,化学の研究にはだいぶ進歩が見られるようになり,漢方の薬草からも薬が作れるのではないかとの確信を得たが,しかし,徳島で自分の帰りを待っている父のことを思い出しては,思い悩むことも多かった。その悩みを長井は松本に打ち明ける。「父は私が医学修行をしていると信じている。藩医を追われ,貧乏しながらも私の帰りを待っている。父が医者にこだわるのは,代々医者の家だったこともあるが,母の病を治せなかった,その後悔が今も父を苦しめている。父は私に母を治せるような立派な医者になってほしいと思っておられる。だからバニラの合成に成功し,私は化学で薬が作れることを確信した。人の命を救いたいという気持ちは,私も父も同じなんだ。しかし,今はまだ私がなぜ舎密にこだわるのか,分かっていただけぬ」このように悩む長井を松本は励まし,日本を西欧に負けない国にしよう,化学で日本に変革を起こそうと,かつて長崎で誓い合った誓いのことを思い出させる。この心の友に勇気づけられて,長井は直安ではなく,長義(ながよし)と名乗って,父に手紙で,自分は医学ではなく,化学の道に進むことを伝える。父から何の咎めもないだけに心細い毎日を送る中でも,心の支えは同じ道を志す松本だった。しかし,その松本はホフマン教授の化学実験室で実験している最中に脳卒中で倒れてしまい,バーデン・バーデンの温泉で療養するが,最後には日本に帰国してしまう。

明治12年(1879年),長井長義はその松本銈太郎の訃報を受け取り,落ち込んでしまう。大学にも出かけず,意気消沈の毎日を送っているうち,ホフマン教授から呼び出しがあったことを,ホルツェンドルフ夫人から聞いてようやく大学に出かける。そのときホフマン教授から聞いたのは,ドイツで結婚して身を固めてはどうか,彼の助手にならないかという話であった。長井はすぐにそれを断ると,ホフマン教授は,「立派な化学者になるのが,松本への一番の供養である。私たちは学者である前に,人間として成長しなくてはいけない。私は常々そう考えている」と言って,長井を立ち直らせようと,教え諭す。ホフマン教授は化学者としてばかりではなく,人間としても長井長義の恩師であったとも言うべきであろう。

明治16年(1883年),長井38歳の年,二軒目の下宿のラーガーシュトレーム夫人と旅に出かけた折り,ホテルで母親と一緒に旅行中の一人の女性と知り合いとなる。それはアンダーナッハーで石材工場を営んでいるシューマッハ夫人の娘テレーゼ(キーラ・ソフィア・カーレ)で,のちに長井のよき伴侶となる女性であった。実はこのたびの旅行はラーガーシュトレーム夫人とホフマン教授が企てたお見合い旅行だったようである。美しいテレーゼに長井は一目ぼれしてしまい,二人はすぐに親密な仲となった。二人がオペラ劇場から出てきたとき,長井がテレーゼに愛を告白する言葉が印象的である。「これほど興味深いのは,バニラの結晶を作って以来です」「バニラの結晶?」「とても美しく,あなたと同じくらい美しくて,興味深い」「私はバニラの結晶と同じなの?」「はい,実験が成功して,発明をした時は,天にも昇る気持ちなのですが,あなたを見ていると,同じ気持ちになるのです」このような二人の美しい会話も見逃してはなるまい。そのあとドイツの美しい風景もスクリーンに映し出されて,見どころのうちの一つであることは言うまでもない。

そのような折り,日本から2人の客人が長井長義を訪ねて来て,日本で製薬会社を作るのに力を貸してほしいと依頼される。しかし,長井長義はこれまでのホフマン教授の恩やテレーゼのことなどを考えると,その話に迷いが生じてしまう。テレーゼと一緒に美しい風景の中を散歩しているときも,彼はうかない顔をしている。そのときのテレーゼの言葉もまた美しくてすばらしい。「素敵なところね,ヨシ。心を開いていないと,美しさが感じられないわよ」これは私が常日頃思っていることだけに,私は特にこの場面に感動してしまった。どんなに美しい山も,それを見る人が心を開いていなければ,美しくは映らないものである。これは何事においても当て嵌まることではあるいまいか。残るべきか,帰国すべきか,「ホフマン教授への恩返しはこれからなのに」と迷う長義を励まして,テレーゼが励ます言葉がまたすばらしい。「ホフマン教授はもっと大きな方ですわ。あなたの信念なら,理解してくださると思うわ」ホフマン教授は,亡くなった松本と日本の近代化に貢献する約束をしたことを話せば,きっと分かってくれることを確信した長井長義は,今度はテレーゼに向かって,「君は一緒についてきてくれるか」と尋ねる。「私の心は決まっています。私が生きていくのは,ヨシとだけです。ヨシの行くところなら,どこへだってついて行くわ」のちに日本薬学の父と呼ばれるようになるのも,このテレーゼの存在があればこそのことであろう。この場面の脚本はすばらしいの一言に尽きると評してもよいであろう。

5.帰国

こうして明治17年(1884年),長井長義は39歳の年,13年ぶりに日本に帰国し,公的には大歓迎を受けるが,徳島の父との確執は解けてはいなかった。久しぶりに父との再会を果たすが,父はかなり年老いているように思えた。父に帰国の挨拶をしたものの,ドイツに大切な女性ができたことは口に出せなかった。ひとまず長義は妹の加加とともに外に出たが,さすがに妹は兄の心のうちを知っていた。ドイツと比べるとかなり近代化の遅れた日本にテレーゼを連れて来るのが彼女の幸せになるのかどうか,と心配する兄に向って,妹は言う。「その女性は兄を愛しているのでしょ。だったら大丈夫です。どれほど近代的な国の女性でも,女の気持ちは同じ。好きな男のためになら,どんな苦労をいとわないもの」「でも,父は許してはくれまい。私は父上の医者になってほしいという夢を裏切ったのだから。父上は私を恨んでおられる」と口にする兄を妹が連れて行った先は,兄がいつも大切にしていた庭の植物園であった。妹が嫁いだあとは,父がずっとその庭の世話をしていたのだという。「兄が戻ってきたとき,がっかりしないように。それは兄上の宝だからと」という言葉にも感動させられてしまう。しかし,この映画で最も感動的なのは,そのあと父と長義が二人で縁側にすわって交わす会話であろう。長義はまず父の望んでいた医学の道を捨てて,化学の道に進んだことを詫びる。すると父は「舎密が,化学が自分の進むべき道だという信念があるのだろ」と確認する。それに対して長義は「化学は人々を助ける薬を開発し,必ずや人類に貢献すると信じている」と自信たっぷりに答える。それとともに長義は,心に決めた女性をドイツに残してきたことを持ち出して,「その人は私にとって舎密と同じくらい大切な女性です」と打ち明けると,父はこのように答える。「直安,いや,長義,お前はもう私が想像するよりずっとずっと広い世界にいるのだ。お前が選ぶことを私が何をどうこう言うことができるだろう。私はお前を信頼する。お前が選んだことなら。お前はそれほど私をはるかに越えたのだ。そんなお前のことを心から誇りに思うぞ」何度見ても,感動するセリフである。このとき音楽も添えられて,感動しないではいられない。この場面で父琳章を演ずる大杉蓮の演技が圧巻である。妹が陰で泣いている姿もなおいい。私はこのあたりの場面をクライマックスだと捉えたい。この映画のテーマは長井長義が日本薬学の道を切り開いたことにあるが,その背景にはホフマン教授との師弟関係,松本との友情は言うまでもなく,そのほかに父と息子の確執と固い絆,兄と妹の心の通い合いがあってこそ,いっそうすばらしいドキュメンタリー映画になっていると思う。

明治18年(1885年),長井長義40歳の年,長井は大日本製薬会社において漢方の薬草から新しい薬を作ることに情熱を傾け,やがてエフェドリンの結晶を作ることに成功する。これで多くの人を病気の苦しみから救うことができると,長井は確信する。思えば,彼の化学への情熱の種も,父から教わった草木への興味からであり,父の教えがなければこの発見もなかったのであり,長井は心の中で父に対して感謝の念を捧げる。父のみならず,親友の松本銈太郎の墓地にも出かけて,彼との出会いが自分の歩いて行く先を,あるべき方向に導いてくれたことへの感謝の念を示すとともに,「私たちの変革はこれからだ」と,さらに新しい決意を口にする。

1年後の明治19年(1886年),長井はドイツへ渡って,テレーゼ・シューマッハと結婚式を挙げて帰国すると,帝国大学教授に就任するとともに,薬学会の会頭として日本の薬学の進むべき道を示す。長井42歳の年である。そして自らも研究の先頭に立って,エフェドリン,ミドリアチン,新局所麻酔薬アロカインなど,数々の医薬品そして化粧品を開発する。また女子教育の必要性を強く感じた彼は,日本女子大学校に香雪(こうせつ)化学館を創設する。長井57歳の年である。また一方では製薬の人材の養成のため,官立の富山薬学専門学校や熊本薬学専門学校の設立に尽力する。故郷徳島では徳島高等工業学校応用化学科に製薬化学部を創設するために奔走する。実験第一主義,上野彦馬,ホフマン教授の理念を受け継いだ長井の理想は,今も人々の中に生き続けている。長井が長崎へ,そしてベルリンへ旅立つときに踏みしめた青石とともに。徳島の生家の玄関にあった青石は,今やスクリーンに映し出される徳島大学薬学部の玄関に敷かれているのである。「未来を生きる若者よ,こころざしを持たれよ。こころざしはどんな時も君たちを夢に導く道しるべになる」との長井長義の言葉で,この映画はエンディングとなる。

この映画は長井長義が日本薬学の礎を築くときまでを描いたもので,晩年までは描かれていないが,年譜を見ると,昭和4年(1929年)2月10日没,享年85歳となっている。ということは,幕末の激動の時代から明治,大正時代を経て,昭和の初めまで誠実に堂々と生き抜いたことになる。私たちが感動するのは,化学という概念すら知られていなかったあの激動の幕末の時代に舎密というものに強い関心を示して,長崎留学を経験したのみならず,岩倉使節団が海外に派遣される9か月前という時代に,大きなこころざしを抱いてドイツへ留学したことである。飛行機で簡単にドイツへ行ける現代とは比べものにならないほどの苦労があったに違いない。しかもその当時ドイツの女性と国際結婚するということも,大変なことだったのではないか。しかし,そのテレーゼの愛,夫を支える愛があってこそ長井長義のその後があったのではないかとも思う。昔の時代の人は本当に偉いと思う。現代に生きる私たちはこの映画を通して「こころざし」を持つことの大切さをかみしめて,輝かしい未来の道を切り開くべく,日々努力を重ねていくべきではないか。否,もっと欲張って言えば,この映画から「こころざし」の大切さをただ単に教わるのではなく,この映画の中から「こころざし」をしっかりと学び取って,それを自らのエネルギーとするべきなのではないか。そしてその学び取った「こころざし」を抱いて,未来の自分を見つめて日々努力を重ねながら,自分の進むべき道を着実に進むことが大切である。さらにそのうえ大きく心を開いて,物事を見ることである。この映画では,2箇所で「心を開いて」という言葉が使われている。心を広く開くことである。小さなものでも,心を広く開いていれば,大きく見えるものである。美しいものも,心を大きく開いていなければ,美しくは映らない。この映画を通して私も以上のようなことをしっかりと学び取ったと確信している。凡人なので,私は必ずしもトップに立って走らなくともよいと思っている。日頃から学生にもよく言う言葉であるが,大切なのは,トップを走ることではなく,自らの新しい道を切り開くことである。就職難の時代であるが,「こころざし」を抱いて,自らの道を切り開き,自分の夢を叶えていただきたいと願っている。夢は見るだけのものではなく,実現させるためのものである。学生の皆さんのご健闘を祈るばかりである。


メールマガジン「すだち」第82号本文へ戻る