【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第80号
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○「知的感動ライブラリー」(53)

徳島大学総合科学部教授 石川 榮作

ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』四部作(3)
第二日『ジークフリート』

前史

前作『ワルキューレ』において胎内に英雄を身ごもったヴェルズング族の双子の妹ジークリンデが落ち延びた先は、ニーベルング族の侏儒(こびと)王アルベリヒの弟である鍛冶屋ミーメが住む森の中である。彼女はジークフリートを産むと、自らは死んでしまったが、幼子は鍛冶屋ミーメに拾われ、砕かれた名剣ノートゥングとともにミーメのもとに残された。子供はやがてたくましく勇敢な若者に成長し、ミーメはこの若者の力を借りて、巨人族ファフナーの手元にある指環を取り戻そうと目論んでいる。このあたりから楽劇『ジークフリート』の物語が始まる。以下では、『ジークフリート』のあらすじを辿りながら、この楽劇の見どころ・聴きどころなどを紹介することにしよう。


第一幕

第一幕で取り扱われているのは、ジークフリートが鍛冶屋ミーメのもとで名剣を鍛え直すエピソードである。5、6世紀以来、さまざまなかたちで語り継がれている有名なエピソードである。ワーグナーはそれを独自の方法で作り変えている。

まず第1場は侏儒ミーメが洞窟の中の鍛冶場でジークフリートのために懸命に名剣を鍛え上げようとしているが、名剣はなかなか出来上がらずに、苦悩している場面である。そこへ森の中からジークフリートが元気よく戻って来る。熊を生け捕りにして楽しんでいることなどからして、ジークフリートは明らかに腕白少年であり、野性児として描かれている。ミーメが今回鍛え上げた剣を手に取って試してみるが、すぐに折れてしまい、ジークフリートは養父ミーメにつらくあたる。ジークフリートは醜いミーメがどうしても好きになれずに、これまで何度も洞窟から森の中に飛び出していたが、いつの間にかまたミーメのもとに戻って来ている。それが何ゆえなのか、これまでは理解できなかったが、今や彼にはその理由も分かってきた。腕白少年ジークフリートは森の中で動物たちと遊んでいるうち、生き物には雄と雌がいて、それぞれ仲睦まじく生活を営んでいることに気づき、それが愛というものであることを悟り始めたのである。そこで彼はミーメから両親のことを聞き出さずにはいられなくなり、すぐにミーメのもとにまた戻って来るのである。自分の両親は誰かと尋ねるジークフリートの唐突な質問に対して、ミーメは「俺がお前の父親で、同時に母親だ」と言い逃れるが、ジークフリートは澄んだ小川で自分の姿を水に映して見たときのことを語り、そのとき自分の顔はミーメの顔立ちとはまったく違っていたと言って、自らの出生についてますます強い関心を示すようになる。このような自我に目覚めていくジークフリート像はかつての伝承には見出されない、ワーグナー独自のものと言ってよいであろう。腕白なジークフリートがますます執拗に問い詰めるので、その乱暴な振る舞いに耐えられないミーメは、ジークフリートが生まれたときのことを語り、母親は難産で死んでいったことを打ち明ける。続いて父親のことを尋ねるジークフリートに対して、ミーメは母親から聞いたことに従って、父親は殺害されたことを伝え、その証拠の品として折れた剣の破片を見せる。するとジークフリートは「その剣を手にして世の中に出て行きたい」ので、今日中にその破片をつなぎ合せるよう、ミーメに言い付けてから、再び森に出かけて行く。

あとに一人残されたミーメはさらに苦しい仕事を負わされたことになる。ミーメの魂胆は、腕白少年ジークフリートの手を借りて、今やニーベルングの指環の所有者となっている竜ファフナーを倒すことにある。そのためには名剣が必要であるが、それを溶接できないでいる。ところが、ジークフリートは今日中にもそれを手にしたら、森から外に出て行くと主張する。名剣をどうしても鍛え上げることができないという苦悩の上に、どうしたら彼をこの森に引き止めておくことができるかという難問が加わったのである。

ミーメが途方に暮れていると、そこへさすらい人に身をやつした神々の長(おさ)ヴォータンが現れて、第2場の展開となる。ここでヴォータンとミーメは三つずつの問答を交わすことになる。この場面は明らかに北欧神話を素材にしたものであるが、ワーグナーは彼独自の方法で作り変えて、この二人の問答から『ニーベルングの指環』の世界の背景が明らかとなってくる。この楽劇を初めて聴く人にとってはこの場面は退屈に思われるかもしれないが、何度も聴いていると、これまでの作品で使われていたメロディがライトモチーフとしてここで再度出てきたりして、たいへんおもしろい場面である。ワーグナーの得意とする手法であり、じっくりと聴く価値のある場面である。二人の間で問答が展開されていくうち、ヴォータンの最後の問い、「誰が一体この堅い破片から名剣ノートゥングを鍛え直すことができるのか」という質問に知恵者ミーメもついに答えることができない。ヴォータンは「恐れを知らぬ者だけが、ノートゥングを新しく鍛えるのだ」と言って、ミーメの首をその「恐れを知らない者」の手に預けてから、そこを去って行く。

ミーメが打ちのめされたかのように沈み込んでいるところに、ジークフリートが元気よく戻って来て、第3場となる。剣は出来たかと尋ねるジークフリートに、ミーメは取り乱した様子でさすらい人の言葉を繰り返すだけである。さすらい人の言うその「恐れを知らない者」とはジークフリートに違いない。知恵を絞って考えるミーメは、少しずつ落ち着きを取り戻して、ジークフリートに「恐れ」というものを教え込むことを思いつく。「恐れとは何か」と無邪気に尋ねるジークフリートをミーメは巧みに騙して、森に棲む竜ファフナーのところへ連れて行こうと言い出したのである。

こうして「恐れ」を知るために竜ファフナーのもとに出かけることにしたジークフリートは、再度ミーメに剣の用意を促すが、ミーメは狼狽(ろうばい)するばかりなので、ジークフリートは自ら父の残した剣の破片を手に取って、それを鍛え上げるべく、鍛冶仕事に取り掛かる。ジークフリートは、折れた剣をそのままつなぎ合せようとしたミーメとは違って、まずは剣の破片をやすりで削って粉々にし、それを溶かして鋳型(いがた)に入れて、剣を鋳造(ちゅうぞう)するという方法を取る。ワーグナーも自らの作品を構想するにあたって常にこの方法を取っているが、この方法は私たちにも教訓を与えてくれる。物を作り上げる際には、ただいくつかのものをつなぎ合せるだけでは駄目である。まずは素材を粉々にしてから、そこから新しいものを創造していくべきであろう。この場面はこのようなことを教えてくれる。

このようなジークフリートの仕事ぶりを見て、ミーメは今度こそ名剣が完成することを悟るが、またもや窮地に陥る。さすらい人の予言どおり、恐れを知らないジークフリートはまもなく名剣ノートゥングを鍛え上げるであろうが、彼に「恐れ」を教えなければ、自分の首は彼の手に落ちる。しかし、彼が「恐れ」を知ったら、彼はどうして竜を退治することができるのか。このような板挟みにミーメは追い込まれたのであるが、さすがに知恵者ミーメはそこで薬草汁を煎じて、それを飲めば深い眠りに落ち込むという毒薬を作り出すことを考え出す。竜を退治したあとで、ジークフリートにそれを飲ませて、彼を片付けようと目論んだのである。ジークフリートが鼻歌まじりに名剣を鍛え上げる仕事をしている傍らで、ミーメはその毒薬を作り出すことに専念する。この場面の音楽が第一幕では一番の聴きどころであろう。オーケストラが劇場いっぱいに鳴り響いて、少し賑やか過ぎるかもしれないが、聴いていてとても楽しくなる音楽である。こうして名剣ノートゥングは完成し、さっそく剣の切れ味を調べるために、鉄床(かなとこ)に剣を打ちおろすと、鉄床は真っ二つに割れる。ミーメは驚きのあまり、尻餅をつき、ジークフリートは歓声を上げ、剣を頭上に高々とかざしたところで、第一幕の幕が下りる。


第二幕

続く第二幕で取り扱われているのは、有名なエピソードであるジークフリートの竜退治と財宝獲得である。ここでも伝統的な素材を使いながらも、ワーグナー独自の展開となっている。

第1場は夜、奥深い森の中で、背景には洞穴の入口が見える。その洞穴の中では巨人ファフナーが竜に身を変えて、ニーベルングの財宝を護っている。地下の国ニーベルハイムの王アルベリヒはその財宝の一つである例の指環を奪い返す機会をねらって、その洞穴の近くに潜んでいる。そこへさすらい人の姿でヴォータンが現れ、指環の奪還をめぐって激しい言葉の応酬が始まるが、ヴォータンはジークフリートがここに竜ファフナーを討ち取りにやって来ることを告げると、アルベリヒはそれを洞穴の奥に潜むファフナーに知らせて取り引きしようと計る。しかし、ファフナーはとりあわず、洞穴の奥で眠りこけるばかりである。

夜が明けて、そこへジークフリートとミーメが到着して第2場となる。ジークフリートはしつこくつきまとうミーメを追い払うと、菩提樹の下に横たわる。ワーグナーではジークフリートは「恐れ」を知るためにこの森の中にやって来たのであり、竜退治を前にした彼は無邪気な少年として描かれている。ワーグナーはこの竜退治の前後のジークフリートの内面に最大の関心を抱いて、少年の心のうちを事細かに描写している。ジークフリートは菩提樹の下に腰を下ろして、しばらくの間父母への思慕を募らせるのである。とりわけ母への思慕を募らせて、母への想いに浸るジークフリート像は、従来のニーベルンゲン伝承には見られない、ワーグナー独自のものである。しかも母への思慕を募らせながらすわっている菩提樹(Lindeリンデ)の下の空間は、母ジークリンデ(Sieglinde)の胎内のような役割を果たしている。母ジークリンデの胎内のように優しく保護してくれる菩提樹の下で、野性児ジークフリートは今やジークリンデの息子として新たに生まれ変わろうとしているのであり、人間の子供としての自我に目覚めようとしているのである。この場面では「森の囁き」で有名なメロディも奏でられて、見どころと同時に聴きどころでもある。

長い間、母への想いに浸っているうちに、上方でさえずっている小鳥の声に興味を覚えて、葦笛を作って、それで小鳥の声の調子をまねようとしたのも、小鳥のさえずりが母のことを教えてくれるかもしれないと思ったからである。ところが、何度まねても、葦笛はなかなかうまく鳴り響かない。そこで今度はいつも持ち歩いている角笛を吹き始めた。すると竜ファフナーが目を覚まして洞穴から這い出して来た。この場面はどのような竜が登場するのか、見どころの一つである。ここでもワーグナーは北欧の素材を用いて、ジークフリートと竜との間で会話を展開させているが、ただワーグナーではジークフリートは竜に向かって「恐れを教えてほしい」と頼むのであり、「恐れ」のモチーフで貫かれていることが理解できよう。激しい戦いの末、ジークフリートが名剣ノートゥングを竜の心臓に突き刺したあと、竜が息を引き取る前にも両者の会話が交わされている。「この心臓を突き刺したお前は誰だ」と尋ねる竜ファフナーに対して、ジークフリートは「自分が誰なのか、分かっていない」ので、それを教えてくれるように頼んでさえいる。この会話からも分かるように、ジークフリートにとって竜との戦いは「恐れを知る」ため、換言すれば、自らを知るための戦いであり、自らのアイデンティティを求めての戦いだったのである。しかし、竜はジークフリートに「恐れ」も、また彼の素性を教えることもなく、やがて息を引き取ってしまう。そこでジークフリートは「死んだ者は教えてくれない。俺の生きた剣よ、俺を導いてくれ」と叫んで、竜の心臓に突き刺さっていた剣を抜き取ると、その瞬間彼の手はあふれた熱い血でぬれ、それを吸い取るべく、思わず指を口に入れる。すると突然、彼は森の中でさえずる小鳥の言葉が理解できるようになった。小鳥はまず洞穴の中に財宝があることを教え、さらに指環の使い道を知ったら、世界の支配者にもなれることを教える。この言葉に従ってジークフリートは洞穴の中に入って行く。

ジークフリートが洞穴の中に入っている間に、第3場の展開となって、アルベリヒとミーメが登場して、洞穴の中の財宝の所有をめぐって口論する。この二人の兄弟の言い争いは、これまでニーベルンゲン伝説で伝承されてきた財宝の分配方法をめぐってのエピソードのヴァリエーションである。アルベリヒとミーメは、まもなくジークフリートが洞穴から出て来る気配を感じると、それぞれ身を隠して、財宝を奪い取る機会を窺うのである。

やがてジークフリートは隠れ頭巾と指環を手にして洞穴から出て来るが、それらの機能については何も知らない。竜を退治した記念でしかない。このような無邪気なジークフリートに知識を与えてくれるのが、またもや小鳥である。小鳥はジークフリートにミーメの企みを教える。この小鳥の言葉に従って、ジークフリートは自分を殺そうと企んで近づいてくるミーメを名剣ノートゥングで成敗し、亡骸を洞穴の入口に置いて、財宝がほしくてたまらなかった彼を巨人ファフナーとともに財宝の番人とする。ワーグナー独自のイロニーが読み取れて、興味深い場面である。

一連の冒険で身体が熱くなったジークフリートは、菩提樹の下に横たわって休息を取りながら、物思いに耽る。森の中で小鳥たちが仲良くさえずりながら飛び交っているのを見て、自分にもそういう仲間がほしいと思って、ジークフリートは「誰かよい仲間を世話してくれないか。いい人を教えてくれないか」と小鳥に呼び掛ける。すると小鳥は高い岩山の上に眠っているブリュンヒルデの存在を教える。彼女の周りには炎が燃え上がっていて、その炎を飛び越えて、彼女を目覚めさせたら、ブリュンヒルデは彼のものになるという。これを聞くや否や、ジークフリートは立ち上がって、自分の胸が熱く燃え、自分の心には火がついたような気持にとらわれる。ジークフリートは今や異性への愛に目覚め、「あこがれを持つ人たちだけに分かる」愛の喜びに駆り立てられたのである。「俺にはその炎が飛び越えられるだろうか。花嫁を目覚めさせることはできるだろうか」と問いかけるジークフリートに向かって、小鳥は「臆病者には決してできない。恐れを知らない者だけにそれができる」と答える。ジークフリートは恐れを知らない者とは自分のことだと、歓声を上げながら、小鳥の誘導に従って、その岩山の方に向かって行くのである。


第三幕

その眠れるブリュンヒルデを目覚めさせて、ジークフリートとブリュンヒルデの二人が愛によって結ばれるエピソードを扱っているのが第三幕である。北欧の伝承ではこのエピソードはごく簡単に数行で済まされていたところを、ワーグナーは彼独自の方法で敷衍(ふえん)している。この二人の愛の結びつきが神々の長ヴォータンの介入によってさらに深くなっているところがワーグナーの特徴であり、二人のすばらしい愛の結びつきを高らかに歌い上げているところにワーグナーの功績があると言えよう。

その第1場はまず岩山のふもとの荒野である。ヴォータンは知恵の女神エルダを地下から呼び覚ますところから始まる。第三幕全体が「目覚め」のモチーフによって展開され、すべてがブリュンヒルデの目覚めに結び付けられていることがここでほのめかされていると言える。すばらしい音楽が奏でられて、冒頭からすでに聴きどころである。地下から姿を現したエルダにヴォータンは、「転がる車輪をどのように止めたらよいか」と尋ねるが、エルダは自分と彼の間に生まれた娘、希望の乙女ブリュンヒルデに尋ねるがよいと勧める。ところが、そのブリュンヒルデは父の罰を受けて、岩山の上で眠っている。そのことをヴォータンから聞かされると、エルダは娘の行為に父が火をつけておいて、その行為を父自らが罰したことに怒りを示しながら、再び地下に下りて行こうとする。知恵の女神エルダにヴォータンは懸命に知識を与えてくれるように頼むが、彼女にはもはやその意思がないと悟ると、ヴォータンは自分の遺産をヴェルズング族の息子、ニーベルングの指環を手に入れた勇敢な若者(ジークフリート)に譲り渡す決意をする。エルダは地下に下りて行く。

やがてそこにジークフリートが通りかかって、第2場となる。彼はさすらい人のヴォータンを祖父とも知らずに、行く手を阻む曲者とばかり、相手と撃ち合いになる。ヴォータンの威嚇はもちろんジークフリートがブリュンヒルデの眠る岩山に辿り着くための最後の関門である。またこの場面でジークフリートがさすらい人に向かって、「父の敵(かたき)だな。ここでお前に会えようとは!すばらしい仇討の機会ができたぞ!」と言う言葉は、従来の伝承に語り継がれている「父の仇打ち」のモチーフのヴァリエーションでもある。いずれにしてもジークフリートはヴォータンの槍を折ることによって、そこを通過する資格を得たと言えるのであり、ヴォータンの方も今やすべてをこの勇敢な英雄ジークフリートに委ねて、それ以降は舞台からすっかりと姿を消すのである。

こうして「光り輝く道」を切り開いたジークフリートは、ついに炎を乗り越えて岩山の頂上に辿り着くと、最終場面の第3場である。ここではワーグナーの独創的な創作が多分に取り入れられて、ワーグナー特有の表現となっている。とりわけ岩山の上でジークフリートが武装して眠っている人間を見つけ、それが男性ではなく、女性であることを悟り、「これは男ではない!」と驚き叫んで、飛び上がる場面などはワーグナー独自の表現である。すなわち、ジークフリートは生まれて初めて異性の姿を目の前にして、「燃えるような魔力」と「火のような不安」を覚えるが、このときワーグナーのジークフリート像に特有なものとして、ジークフリートは無意識的に助けを母親に叫び求めている。母親に救いを求めながら、ジークフリートは気を失ったかのように、ブリュンヒルデの胸に倒れかかる。彼は一瞬にも、目の前のブリュンヒルデを母親だと錯覚したようである。長い沈黙のあと、彼は手の震えを覚えながら、「臆病にもどうしたことか・・・これが恐れというものなのか」と叫んで、ここに眠っている女性が恐れを教えてくれたことを口にする。竜を目の前にしても学べなかった「恐れ」というものを、ジークフリートはこの女性を目の前にして初めて体験することができたのである。「恐れ」を感じたことは、ジークフリートが人間の性に目覚めかけた証左である。しかし、彼はまだ完全に目覚めたわけではない。彼が真の意味で目覚めるためには、目の前の女性をまず彼が目覚めさせなければならない。彼は彼女に近寄って、目覚めさせようとして叫ぶが、彼女には聞こえないようなので、眠れる女性の上に身をかがめて、唇を重ねる。唇を重ねるこの行為は、グリム童話の『いばら姫』に由来するものである。王子の口づけを受けて百年の眠りから目覚めたいばら姫のように、ブリュンヒルデもまたジークフリートの口づけによってようやく長い眠りから目覚めるのである。このブリュンヒルデの目覚めの場面は、文句なしにこの楽劇の中で最も注目すべき見どころ・聴きどころである。目覚めたブリュンヒルデは、まず最初に太陽と光に祝福を贈り、自分を起こしてくれたのが予期していたジークフリートだと悟ると、神々と世界に続いて光り輝く大地に祝福を贈る。するとジークフリートの方もブリュンヒルデの「瞳を見る」喜びを表しながら、自分を産んでくれた母親と自分を育ててくれた大地に祝福の挨拶を贈る。生命に目覚めたブリュンヒルデと異性に目覚めたジークフリートは、ずっと以前から愛し合っていたかのようである。ブリュンヒルデはジークフリートを産んだ母親と彼を育てた大地への祝福を繰り返したあと、二人の宿命的な契りを称え、ジークフリートが生まれる以前から彼を愛していたことを打ち明ける。その言葉にジークフリートはまたもや一瞬、ブリュンヒルデを母親だと錯覚するが、ブリュンヒルデは彼に向かって、母はもう戻って来ないことを伝えてから、過去のことを語り始める。

こうして過去のことを語り始めたブリュンヒルデは、しかし、自分とともに目覚めた愛馬グラーネが樅の木のところで草を食べている光景や、自分を覆っていた楯と兜、そして鎧が近くに落ちているのを目にして、現在の自分が過去の自分ではないことに気づくと、次第に憂いを感じ始める。反対にジークフリートは、岩山で燃えていた炎が自分の胸の中で燃えてくるのを感じるばかりである。ジークフリートが彼女を抱きしめようとすると、彼女は自らを「小川の澄んだ水面」になぞらえて、「永遠に明るく、幸せに笑顔を映すこととができるように」、自分に触らないでほしいと訴える。ワーグナーが妻コジマの誕生日に贈ったという「ジークフリートの牧歌」のメロディが使われているこの場面もまた楽劇『ジークフリート』の中で最もすばらしい聴きどころであろう。このメロディに合わせてブリュンヒルデが抵抗すればするほど、ジークフリートの求愛は逆にますます激しくなって、彼女はついに彼の愛を受け入れる決意をする。「激しく荒れ狂うこの女性を恐れないのですか」というブリュンヒルデの問いに、ジークフリートは「あなたが教えてくれたばかりの恐れを、愚かな私はまた忘れてしまったように思われる」と答える。初めて異性を目の前にして「恐れ」というものを体験したジークフリートは、今やそれをすっかり克服することによって、新しい人間へと脱皮したと言える。一方、恐怖に恐れおののいていたブリユンヒルデもようやく愛の歓喜に火がついて、たけり狂ったような笑い声を上げる。それぞれに「恐れ」を克服した二人は、こうして新しい人間の愛に生きることを決意して、愛の二重唱を歌い始め、ブリュンヒルデが神々のワルハラの世界に別れを告げて、新しい人間の愛の世界に入ることを歌い上げれば、ジークフリートも自らが目覚めさせたブリュンヒルデの愛に生きることを力強く歌い上げるのである。第三幕最終場面のこの二人の愛の二重唱は文句なしに最も注目すべき聴きどころのうちの一つである。

以上のように見てくると、楽劇『ジークフリート』では「恐れを知る」モチーフがとりわけ重要な役割を果たしていることが明らかである。まさにこのモチーフが作品全体に張りめぐらされることによって、楽劇『ジークフリート』は若きジークフリートの目覚めの物語、アイデンティティを求めての物語になっていると言える。目覚めたのはブリュンヒルデだけではなく、彼女の目覚めとともにジークフリートもまた異性への愛に目覚めていくのである。その目覚めの過程で主人公の内面が深く掘り下げられているところにこの作品におけるジークフリート像の特徴がある。

このように個性的なジークフリート像は従来のニーベルンゲン伝承には見られなかったものである。ワーグナーにおけるジークフリートは、もはや伝統的な不死身の英雄ではなく、何よりもまず異性の愛に目覚めた人間であり、人類の未来の愛の象徴である。すなわち、ジークフリートは、愛のみが支配する新しい秩序の世界を築き上げることのできる英雄の象徴であり、ヴォータンの神々の世界に代わる新しい人間の世界の建設は、今やこの新たな英雄ジークフリートの手に委ねられたのである。


以上紹介してきたように、この楽劇『ジークフリート』はニーベルンゲン伝説と北欧神話が二重に重なり合って展開していくという、まことに奥行きの深いすばらしい作品なので、是非、この機会に附属図書館1階視聴覚コーナーに揃えているDVDなどでご鑑賞いただきたい。


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