【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第77号
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○「保元物語の世界-諸本と崇徳院-」展示に際して

原水 民樹      

この度,館員の方々のご協力を得て,「保元物語の世界-諸本と崇徳院」の展示を開くことができました。展示は,『保元物語』の伝本並びに主要人物である崇徳院に焦点を絞りました。また,5月12日の説明会でもそのことに重点をおきましたので,本欄では,同じく主要人物の一人である鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)について書きたいと思います。

ご存じの方も多いと思いますが,『保元物語』は,保元元年(1156)に起こった保元の乱を素材にした軍記物語です。保元の乱についてごく荒いとらえ方をするなら,それは現天皇である後白河帝と先々代の天皇で後白河の同母兄である崇徳院との間で引き起こされた国争いの合戦といえます。

さて,『保元物語』を初めて読んで強い印象を受けるのはやはり鎮西八郎為朝の姿ではないでしょうか。私も,大学生になって原文で『保元物語』を読んだ時,子供の頃に『宝島』や『三銃士』を読んだのと同じわくわく感を覚えました。

『保元物語』の諸本中,最も古い形を残しているとされる半井本(なからいほん)をもとに述べてみますと,背丈は2.1メートル,風貌は毘沙門天のようであったといいます。いざ合戦となると,あたるところ敵なし,射芸は百発百中。しかもその矢は完全武装の敵武者を貫通し,勢い余って後続の武者の鎧の袖をも突き抜きます。為朝に追撃された鎌田正清は頭上に雷が落ちかかるような恐怖に襲われ,命からがら逃げ帰りますが,その後も震えが止まらず,同僚にからかわれます。敵将である兄義朝も威嚇の矢を甲すれすれに射込まれて,目がくらみ落馬しそうになります。はては,義朝の突撃命令に武士達は「大将義朝は自分たちをだまして戦死させようとしているのだ。」とささやき合う始末。

これほどの為朝の活躍にも拘わらず,為朝が与する崇徳院方は敗北します。そこにこそ『保元物語』がまさに物語である所以があります。ただ,強いだけではヒーローにはなれません。有り余る能力を持ちながら,その力を発揮出来ず悲劇的な結末を迎えることが日本のヒーローの条件です。

敗走した味方は次々に捕らえられ処刑されていきますが,為朝は1箇月も潜伏を続けます。しかし,重病を受けて湯治中のところを踏み込まれて捕らえられ,伊豆大島に流罪となります。それでも,為朝は挫折感にうちひしがれることなく,これは自分の領土だと言って伊豆諸島を横領,ついでに新しい島まで発見し,鬼の子孫達をも服従させます。やがてその狼藉ぶりは都に伝わり,追討の船団が島に迫りますが,為朝は一箭で軍船一艘を沈没させてしまいます。恐れを成した追討軍は中々上陸できず,その間に為朝は自害して果てます。

このように,物語は超人的な為朝の姿を描きあげていますが,現在,その真偽を検証できる史料はほとんどありません。合戦の経緯を記す貴重な史料としては平信範(たいらのぶのり)が書いた日記『兵範記』(ひょうはんき)が残っていますが,そこには,崇徳院方の武士中に為朝の名は見られるものの,その戦いぶりについて記すところは一切ありません。また,合戦に係わった人々の体験談を書き記した慈円(じえん)の『愚管抄』(ぐかんしょう)には,四男頼賢と八男為朝をひきつれて崇徳院方に参じた源為義(みなもとためよし)が,「ワヅカニ小男二人(頼賢と為朝)候フ。ナニゴトヲカハシ候フベキ。」と言ったことや,物語では為朝に追撃されて震えが止まらなくなったと書かれる鎌田正清が,頼賢・為朝に「タビタビカケカヘサレ」ながらも善戦し,最後には焼き討ちに成功したことが書かれています。結局のところ,『保元物語』のみがただ一人壮大な為朝像を作り上げているわけです。しかし,為朝の勇武がまったくの作り話かと言えば,そうでもなさそうです。というのも,鎌倉幕府が編纂した史書『吾妻鏡』(あずまかがみ)(建久2年8月1日条)には,この合戦で為朝と渡り合って負傷した大庭平太景能(おおばへいだかげよし)が,老境に至って,その体験談を若者達の前で話した記事が載せられています。もちろん,これは景能の立場からの言い分で自讃の傾向があり,そこでは,為朝は完全無欠の英雄としては述懐されず,騎射をやや不得意としたこと,身に余る弓を少々扱いかねていたことなど,その弱点が述べられていますが,その中で,景能は為朝を「吾朝無双弓矢達者」と認めてはいるからです。景能は,為朝との対決で片足の機能を失いますが,自分は騎馬に長けていたので命を失わなくて済んだ,と彼は言います。裏返せば,為朝の矢に当たって死ななかったことが自慢話になる程に為朝の射芸の腕はすごかったということになります。今ならさしずめK-1の日本チャンピオンぐらいの実力は軽くあったのでしょう。私も為朝のようになりたいと空手道部に入って四年間頑張りましたが,才能のない悲しさに加え,今は前期高齢者となり,瓦はおろか瓦せんべいを割ることさえできなくなりました。

閑話休題(それはさておき),恐らくは,保元の乱に参加した武士達の間で生まれた為朝の武勇は増幅しながら語り伝えられ,そうした話を『保元物語』は採り込んだものと思われます。そして,『保元物語』の成立以降,為朝は卓絶した武人英雄として根付いていったのでしよう。後年,室町幕府を開いた足利氏が,自分の祖先の足利義兼(あしかがよしかね)は実は為朝の忘れ形見だったと言いだし(『難太平記』),為朝の末裔を称して自らの血脈を権威づけようとしたのも,為朝の武神化が成熟していたからでしょう。また,英雄は簡単に死んで貰っては困るという願望が,為朝は伊豆では死なず,そこを脱出して琉球に至り,琉球王舜天は為朝の子であるとの伝説を生み出します。これは,為朝の甥に当たる源義経が衣川で戦死せず,大陸に渡りチンギス・ハーンになったという説と同工のものです。こうした為朝伝説をもとにして,江戸時代,曲亭馬琴の『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)が作られます。過去に最も恐れられた病気は,天然痘ですが,江戸時代,為朝の画像を軒先に貼ると天然痘にかからないという俗信が流行し,人々は彼の画像を争って買いました。『椿説弓張月』の中にも,為朝が天然痘の神を叱りつけて追い払う場面があります。また,日本各地に為朝を祭神とする多くの神社が造られましたが,徳島の穴吹川沿いにある白人神社(しらひとじんじゃ)もその一つで,稲田氏によって建立(あるいは再建・修復)されたものです。同社には為朝所持と伝える弓が残されているそうです。

『保元物語』に帰りますが,物語には内容の異なる本が伝えられており,これを異本と呼びます。より古い形を伝えるとされる半井本とその後の本を読み比べると,為朝の人間像が微妙に変化していることが分かります。どうも,原初の為朝像は,野生的でアウトロウの親分的な色彩が強かったようです。余りの粗暴をもてあました父為義により十三歳で九州に追放された為朝はここでも暴れ回り,十八歳で九州を支配下に収めてしまいます。この為朝の九州での狼藉は史実ですが,粗暴の故に追放されたというのは物語の虚構と思われます。為朝の家系である清和源氏頼信流は,地方に下って武威を見せつけることで武門の棟梁としての地位を築いてきた一族であり,為朝の九州での濫行もその轍を踏んだものといえます。そうした生き方は清和源氏に生まれた者の宿命だったのです。しかし,物語はそのことを言いません。粗暴が過ぎて追放された九州でも一向に反省せず相変わらず暴れ回る無法者として描くのです。また,彼のひきつれている家来というのが,敵の矢を上手にさばく特技を持つ「やさきばらひの須藤九郎」,生け捕りのうまい「手取りの余次三郎」,鎧の隙間に矢を射込む「あきまかぞえの悪七別当」,石礫(いしつぶて)を三百メートル以上飛ばす「三町礫の紀平次」といったおよそ正規の武士とは言い難い一癖ある者達です。

為朝はまた独行の人で自ら恃むところ非常に強く,集団行動を好まず,一緒に戦っては自分の手柄がはっきりしないという理由から一人で戦うことを宣言し,味方の勝利よりも自分自身の武名を優先するタイプ,しかも権威に対して反抗的,天皇の輿(こし)に矢を射込もうといって憚らない無頼漢。また,日本文学の主人公的人物には珍しく,きわめて闊達で万事プラス思考,一切弱音を吐きません。後年に作られたとされる異本,すなわち,金刀比羅本(ことひらほん)や流布本も大局的にはこの基本姿勢を受け継いではいますが,野性味を徐々にそぎ落としてゆき,臣下の分をわきまえた良識ある忠義の士に変貌させています。詳しくは説明しませんが,読み比べて頂ければそのことは納得できると思います。為朝を仁義忠孝を兼備した理想的武人の枠にはめ込んでゆく流れは,武士道が確立してゆく時代相を反映していると思われます。

『保元物語』は歴史物語ですので,登場人物はほぼすべて実在の人です。その一人一人に事実と事実離れが認められます。そうしたことを解読してゆくのが,こうした性格の作品を調べる一つの醍醐味ではあるでしょう。

今回の展示を契機として,『保元物語』を始めとする軍記物語に興味を持って頂ければ,企画した者として嬉しいことです。

末尾になりましたが,展示会開催に際し,面倒な準備をお引き受け下さり,また展示に工夫を凝らして下さった徳島大学附属図書館の館員の皆様に深謝申し上げます。