【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第76号
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○教員寄贈著書コーナー

石川栄作訳『ニーベルンゲンの歌』(前編・後編)

総合科学部教授 石川 栄作

このたび(平成23年4月)長年の夢でありました『ニーベルンゲンの歌』の翻訳(前編「ジークフリートの暗殺」および後編「クリームヒルトの復讐」)を筑摩書房から「ちくま文庫」として刊行することができました。
『ニーベルンゲンの歌』は古代ゲルマン(5,6世紀)の英雄歌謡を素材として13世紀初頭の詩人(作者不詳)によって作られたドイツ中世英雄叙事詩の傑作です。主人公ジークフリートは,竜と戦ったときにその返り血を浴びて「不死身の英雄」となりますが,菩提樹の葉が落ちていた両肩間の1か所だけは血がつかずに,その唯一の急所をのちに悪漢ハーゲンによって突き刺されて暗殺されてしまうという物語だと言えば,思い出す人も多いことでしょう。この英雄ジークフリートの暗殺を語ったのが前編であり,その妻クリームヒルトが愛しい夫の復讐を実の兄弟たちに実行していって,ブルグント一族が滅亡していく悲劇を語ったのが後編です。
このドイツ中世英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を研究し始めてからもうかれこれ40年になります。それほどまでに長い期間にわたって興味を持たせ続けるとは,いったいどこにその魅力があるのでしょうか。
まず第一の魅力は,この作品が古代ゲルマンの英雄歌謡を素材として成立し,そこには古代ゲルマンの英雄精神が溌剌と発揮されているということです。そのためこの作品の成立をめぐっては,北欧に伝わる『歌謡エッダ』や『ヴォルスンガ・サガ』あるいは『ティードレクス・サガ』との比較研究が必要になってきます。ドイツの伝承と北欧の伝承には類似点が多いものの,異なる点も多くて,研究していくにはたいへん興味深いものがあります。
第二の魅力は,この作品が13世紀初頭に成立した関係上,当然のことながら当時の中世騎士文化の影響も至る所にちりばめられており,古代ゲルマン的な要素と中世騎士的な要素とがあるときには対立しながら,またあるときには融合しながら悲劇の物語が展開していくという点にあります。
またこの作品は前編と後編とがコントラストを成すような構造をしており,作品全体が見事な均整を保ちながら二重の悲劇が展開していくという点に第三の魅力があります。
さらに第四の魅力は,この作品が後世に多大な影響を及ぼして,そこからまたさまざまな作品が生み出されているということにあります。その作品の目録だけでも著書1冊になるほどです。そのように多数ある中でもとりわけ有名なのは,19世紀のワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』四部作でしょう。このワーグナーのオペラとの関連でも『ニーベルンゲンの歌』は限りない魅力を秘めた作品と言えます。
このような魅力にあふれた『ニーベルンゲンの歌』が「ちくま文庫」として刊行されたことは,訳者としては望外の喜びです。この作品のこれまでの主な翻訳としては,現在も入手可能な相良守峯訳(岩波文庫)のほかに,雪山俊夫訳(旧岩波文庫)と服部正己訳(養徳社,のちに東洋出版)がありますが,それらはいずれも写本Bを底本としています。今回私が翻訳したのは写本Cで,写本Cとしてはもちろん本邦初訳です。
では,写本Bと写本Cとでは,どこが違うのでしょうか。『ニーベルンゲンの歌』の写本は現在までに完本・断片を含めて30数種類発見されていますが,その中で最も原典に近いのは写本Bであり,写本Cは原典成立後に入念に改作を施されたものだと現在では一般的に認められています。写本Bと写本Cの違いについては,本翻訳の作品解説で詳細にまとめていますが,最も目立った相違点は,写本Bでは実の兄弟たちに実行したクリームヒルトの復讐についてニーベルンゲンの詩人は中立的な立場を取っているのに対して,写本Cの改作者はその復讐行為を亡き夫への誠実な愛から出たものだとしてほめ称えていることにあります。中世当時の人たちがこの物語をどのように受け入れていたのかを知ることができるという点でも,この写本Cは存在価値があります。さらに写本Cでは写本Bの地理上の矛盾点なども修正された上,補足詩節をところどころに挿入して,前後の叙述について辻褄が合うように修正されています。そして何よりも作品全体にそれらの入念な修正を施すことによって,前編と後編における悲劇の二重構造がより一層明確になっています。文学作品としてより完成度の作品になっていると言えましょう。
本翻訳の特徴は,このようにこれまで研究者にしか知られていなかった写本Cを底本にしているということのほかに,現代の読者に分かりやすい言葉を使い,登場人物や地名等のカタカナ表記についても現代ドイツ語に従っていることです。翻訳されてからすでに50年以上も経過しているこれまでの翻訳では,たとえば,主な登場人物たちはジーフリト,クリエムヒルト,グンテル王,ハゲネなどと中世ドイツ語の表記になっていましたが,本翻訳ではそれぞれジークフリート,クリームヒルト,グンター王,ハーゲンなどと,より親しみのある表記にしています。特に英雄ジークフリートの両親ジゲムントとジゲリントはジークムントとジークリンデと表記することによって,ワーグナーファンにとってはより一層親しみやすいものとなっています。『ニーベルンゲンの歌』とワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』四部作を比較して読んでいくと,それぞれの作品がより一層鮮明になっていくとともに,ニーベルンゲン伝説の奥行きの深さがよりよく理解できることでしょう。『ニーベルンゲンの歌』はこのように他の作品と比較していきますと,そこにまた新しい顔を見せる作品です。真の意味での古典作品とは,過去に定着してしまった作品のことではなく,現代においても生き生きとしていて,他の作品との関係で未来においても常に新しい作品となりうる作品のことです。ドイツ中世英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』はまさにそのような真の意味での古典作品です。末永く読み継がれていくことを期待しています。

前編・後編

石川栄作訳 前編「ジークフリートの暗殺」      石川栄作訳 後編「クリームヒルトの復讐」

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