【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第65号
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○「知的感動ライブラリー」(38)

徳島大学総合科学部教授 石川 榮作

NHK土曜ドラマ『遥かなる絆』(城戸久枝原作,2009年)解説(その3)

前々回から2009年に製作・放送されたNHK土曜ドラマ『遥かなる絆』(城戸久枝原作)を紹介しているが,これまでのあらすじについてはもはや繰り返さないので,それについては本メールマガジンNo.63(2010/04/23)およびNo.64(2010/05/18)をご覧いただきたい。

なお,今回も人名・地名などの読み方については,原則としてドラマと同様,日本語読みで表示するが,主なものについては(   )に原作およびドラマを参考にして中国語読みをカタカナで付けておく。

第5回「果てしない旅」

1970年4月8日午後,中国残留孤児孫玉福(スンユイーフー,そんぎょくふく),城戸幹(きどかん)を乗せた飛行機は,東京羽田空港に到着した。タラップを降りると,四国の八幡浜市から父城戸弥三郎が出迎えに来ていた。飛行機もこの父の手配によるものであった。たくさんの報道関係者から取材を受け,その夜,空港に近いホテルでやっと幹は父と2人だけとなった。自分のために父が作ってくれた背広を着用し,ネクタイの締め方も教えてもらった。翌日,愛媛県八幡浜市に向かった。八幡浜駅では多くの報道関係者が待ち構える中で母由紀子との感動的な再会を果たした。宇和海に面した城戸家の実家には親戚が集まって,25年ぶりの幹の帰国を祝ってくれた。その日の幹の日記には「新しい生活がここに始まる」と書かれていた。幹の娘久枝はその父の日記を読んでいる。

1998年,その娘久枝は中国の吉林(きつりん)大学に留学して1年が経ち,教室において「家族」という言葉の広がりに胸を熱くしている自分の経験を発表している。それを劉成(リョウチャン,りゅうせい)さんも入口のところで聞いていた。発表後,聞くところによると,劉成さんは交換留学制度を利用して東京の中央大学に留学することを考えているようで,その学内選考の一次試験にはパスしたという。劉成さんはできれば東京で就職し,東京で自分の力を試してみたいという強い決意を語った。これもすべて久枝のおかげのようである。

話題が日本に移ったところで,また城戸幹の話に戻る。幹は自宅で弟たちから日本語を教えてもらうが,なかなかうまく話せない。またもや言葉の壁が幹の前に大きく立ちはだかった。ここでまた中国での少年時代の苦労と重なる。中国で赤椅子に座ったことを養父からひどく叱られたように,今は実父から「日本人なのになぜ日本語を話せないのか」と責められ,努力が足りないことを指摘される。父弥三郎にしてみれば,分かっていながらも,息子が日本語を話せないことに苛立ちを覚えているのであろう。そのようなとき中国では養母が玉福を励ましてくれたように,ここでも母由紀子がやさしく「あせることはないがよ」と言って励ましてくれる。幹はそのような母に向かって,自分が日本語を話せないことで「くやしい」という気持ちを打ち明ける。帰国は果たしたものの,過酷な現実が幹を待ち受けていたとは,まずはこの言葉の壁のことだったのである。

母由紀子から勧められて,幹はみかん畑で働いてみることになった。家に閉じこもっているよりは,その方が気分転換になるとの父弥三郎の提案によるものである。宇和海に面したみかん畑での一人きりの孤独な仕事が始まった。そのようにしてみかん畑で働いていたある日のこと,弟の博が中国からの手紙を届けてくれた。養母からの手紙であった。養母は字が書けないので,親友の呉立政(ウーリージョン,うーりゅうせい)が代筆したものであった。それによると,養母は玉福が牡丹江(ムータンジャン,ぼたんこう)を去った日から数日間は寝たきりのままで,今でも淋しくてたまらないようである。ときどき親友の鄒徳義(ゾウダーイー,ぞうとくぎ)と呉立政が訪れてくれるが,そのうちの一人が玉福に思えてならない。悲しさのあまり,気がついてみると,養母は白髪が多くなったようである。そのようなことが書かれた手紙を読みながら,幹は中国の養母のことを思い出す。

中国で履歴書に「日本民族」と書き込んだがゆえに大学進学を阻まれた城戸幹は,日本では是非大学へ行きたいと言って,ある日,父弥三郎にその気持ちを伝えた。すると父の返事は「まだ早い」「日本語を勉強しなさい」というものだった。このような言葉を聞いているうち,幹は自分がこの家では「多余的人」(余計な者)なのではないかと思い始め,一人苦悩する。

一方,久枝の方では相部屋で一緒に生活していたブルガリア出身の友人は北京大学に移ることとなった。もっと都会の大学へ出て,可能性に挑戦したいとのことである。そのようなことを教室で話しているところへ劉成さんが大喜びで駆け込んで来て,とうとう交換留学生の試験に合格したという。そこでその日は,劉成さんの留学試験合格を祝って,皆でカレーパーティを開くこととなった。そのパーティの日,劉成さんは久枝と二人きりになったとき,一緒に東京へ行く気はないかと誘う。返事は今でなくてもよいと付け加える。久枝には劉成さんの気持ちがひしひしと伝わってきた。

ここでまた幹の話に戻る。一人苦悩の毎日を送る幹は,みかん畑で働きながら,自立して生きていくことを考え始める。みかん畑にやって来た母由紀子に,幹がそのことを打ち明けると,母は「あせらないで,ここで仕事をしていればよい」と答えるものの,幹はやはり自分が「余計な者」なのではないかと悩む。息子の「自立したい」という気持ちを知った母は,弟が所長をしている松山の建設会社の営業所を訪れ,幹の就職のお願いをする。幹が立派な字を書くことができることを知った所長は,幹を雇うことにしたのみならず,定時制高校に通う手配までしてくれた。父弥三郎はせっかく中国から帰国した息子を追い出すことができるかと,妻由紀子に問いかけるが,母は「追い出すのではなく,自立させるのです」と答える。息子のことを考えて,息子に新しい生活を始めさせて,自立させてあげたいという母の気持ちがよく伝わってくる場面である。

2週間後,幹は一人で松山へ出かけて行った。中国から帰国してまだ3か月のことであった。こうして幹は昼間は建設会社で宛名書きの仕事をして,夜は松山南高校定時制1年生となって,そこに通うという新しい生活が始まった。仕事と高校生活の二重の生活であったが,毎日が充実していた。翌年,幹は飛び級で3年編入となった。そのクラスで幹は自分の生涯にとって大切な女性と知り合うことになった。笹岡綾子という女性で,彼女は昼間は准看護婦として藤井病院で働き,夜は定時制高校に通っていて,雑誌「公孫樹」の題字を幹に頼んだのが,付き合いの始まりであった。

その年の1971年には,中国は国連安全保障理事会の常任理事国となった。翌1972年には田中角栄首相が中国を訪問して,9月29日には日中国交が正常化された。このニュースを聞いた幹は,また中国のお母さんに会えると希望に燃えて,さっそく養母あてに手紙を書く。そこには10歳年下の女性と交際していることを書き添えた。このようなうれしいことをまず養母に伝えたかったのであろう。1973年定時制高校を卒業し,綾子の誕生日の日にプレゼントとして誕生日ケーキを持って,彼女を訪れた際に,結婚を申し込む。綾子は幹に大学に進学したかったのではないかと確認すると,幹はちょうど会社でシンガポールへの転勤の話があり,これまでたいへんお世話になった会社なので,それを断われないし,また今は「大学よりも頑張って働いて,家族を作りたい,綾子さんと一緒に家族を作りたい」と,新たな決意を打ち明けるのである。さっそく幹は綾子の両親を訪れ,綾子さんとの結婚を認めてほしいと必死に頼む。年齢が10歳も離れているし,また海外での生活ということで,最初はためらっていた綾子の両親も,必死になってこれまでの自分を語る姿から彼の誠実さを感じ取って,二人の結婚を認めた。その時に綾子の父が「そうか満州に住んでいたのか,あそこは寒いけんのう」と語る言葉には,取り立てて言うほどの場面ではないものの,苦労した人の苦労した人に対する温かい思いやりが感ぜられて,静かな感動を覚えずにはいられない。こうして幹と綾子は八幡浜市の両親の承諾も得て結婚した。新婚生活は伊予市で始まり,予定されていたシンガポールへの転勤はそのうち立ち消えとなった。幹と綾子との間に,翌年長女芳枝が生まれ,翌々年次女久枝が生まれた。ドラマのナレーションを務める久枝の言葉によると,「父は私の父となった」のである。「父は結婚の翌年から毎年2回,中国の養母に生活のためにお金を送り続けた」ようである。

ここでキャストが変わり,父城戸幹の役は加藤健一が演じ,母親は森下愛子が演じている。1998年,久枝が中国での留学生活を終えて帰国するにあたって,伊予市の両親は娘を迎えるために家の掃除をしている。そこへ中国の久枝から電話があり,東京の大学へ留学する劉成さんのために保証人になってほしいと頼む。日本には誰も知り合いがいないので,是非お願いしたいと言う。父は保証人になることを承諾するのみならず,「一人で日本に行くことは,さぞ心細いことだろう。お父さんにできることなら,なんでもしてやろう」とまで約束する。中国で苦労した人だけに,心のこもった言葉である。「ところで,お前はいつ日本に戻って来るのか」との父の問いに,久枝はあと1年中国に残って勉強したいことを伝える。このように久枝が父に話すのを劉成さんはそばで聞いている。この場面がまた先日の劉成さんのプロポーズに対する返事ともなっていて,興味深い映像表現となっている。父への電話のあと,久枝は今度は劉成さんにもはっきりと「一緒に東京へは行かない」ことを伝えるが,それを聞いて劉成さんは,悲しむのではなく,心から喜ぶところがまた感動的である。さわやかな場面になっている。

再び1978年当時の城戸幹の話に戻って,会社に電話連絡があり,無事3人目の子供として,しかも長男が生まれたという。同僚とともに喜んでいるところに,今度は母由紀子から電話があり,父弥三郎が突然倒れて救急車で病院に運ばれたという。もう駄目かもしれないとのことである。病院に駆け付けた幹は,危篤状態の父に向かって,これまでの自分のわがままを涙ながらにあやまる。そこへ戻って来た母は,「幹はお父さんに冷(つめ)とうされていたと思っていたかもしれんが,それは違うよ。お父さんは不器用だから,思っていることをうまく伝えられなかったのです。お前も父親になったから,分かるだろうが,子供のことを心配せん親はいないからね」と言って,幹と一緒に泣き叫ぶ。危篤状態で病院に運ばれた父弥三郎のその後については,このドラマでは描かれていないが,原作によると,2年7か月の入院生活の末,1981年4月にこの世を去ったということになっている。

場面はまた劉成さんが東京へ旅立つ日に変わって,久枝は長春市のバスターミナルまで劉成さんを見送りに来ている。劉成さんは久枝から「お父さんの話を聞いて,日本がとても身近になった」と言って,日本での再会を約束してから,バスに乗り込んだ。久枝はバスに乗り込む劉成さんにラブレターだと言って,手紙を手渡した。バスは出発し,バスの中で劉成さんが開けた手紙の中には,久枝が父から励まされた言葉「車到山前必有路」(進めば必ず道は開ける)が書き込まれていた。未来に向けて旅立つ若者にふさわしい励ましの言葉である。劉成さんは東京へ向けて出発した。

第6回「ふたたびの河」

1999年5月,相部屋で寮生活を送ったブルガリア出身の友人が北京大学に移り,劉成さんは東京へ行ってしまい,吉林大学での留学生活も2年目を迎えて残り少なくなったある日のこと,ユーゴスラビアの首都ベオグラードでNATO軍が中国大使館を誤爆するという事件が起こった。大使館員3名が死亡し,多くの死傷者が出て,中国国内では激しい議論が巻き起こっていた。吉林大学でも久枝が教室に出かけると,学生たちがその事件について議論を交わしていた。その議論の中で,突然女子学生が「私はNATOを許さない。でも,日本人の方が憎い!」と言う声が耳に入って来た。久枝はNATOと日本人がどうして関係あるのか,理解できなかったが,確かに「日本人が憎い!」という声が聞こえてきた。すると突然議論の矛先は久枝に向けられて,「過去に中国にしたことをどう思うのか」と質問してきた。答えに窮していると,「日本人は歴史を曲げている。日本人に聞いても無駄よ」という反日感情とも取れる言葉が聞こえてきた。その夜,久枝はまた寮の部屋で落ち込んで,いろいろと考えをめぐらせていた。そうしているところに日本の父から電話があり,日本の大学から復学手続きの書類が届いているという。「まさかもう1年中国にとどまると言うのではないだろうね」と言う父に向かって,今度は必ず帰国すると答える。

そこで話は1984年,父が中国の天津に単身赴任している頃に戻って,久枝たちは冬休みを利用して,家族4人で中国に行くことになった。父が家族4人を呼び寄せたのであるが,父からすれば自分の家族を牡丹江の養母に是非見せたかったのである。そこである日,父に連れられて家族5人で,牡丹江の養母の家を訪問した。養母は幹,すなわち,玉福を目の前にするや否や,しっかりと抱きしめた。家族が養母の家に入って行くと,父が養母に送った家族の写真が部屋の壁にたくさん貼られていた。翌日の夜,中国の親戚が大勢集まって,家族5人の歓迎会を開いてくれた。幹の親友である鄒徳義(ゾウダーイー,ぞうとくぎ)も呉立政(ウーリージョン,うーりゅうせい)も駆け付けてくれた。酒を飲み交わしながら,久しぶりの再会を喜び合った。その夜,養母は眠れないで,一人起きているところに,幹もベッドから出て来て,二人はしみじみと話し合う。幹は養母に,自分が単身赴任を終えて日本に帰ったら,一緒に日本で暮らすことを提案するが,養母は住み慣れた中国で死んだ方がいいと答える。翌日,城戸家の5人は父の単身赴任先の天津に帰ることになった。牡丹江駅のホームで父は家族4人の前で,養母としばらく抱き合ったまま涙を流している。10数年前の別れと重なり合って,これまた感動的な場面である。改めてあの初めての帰国の際の牡丹江駅での別れは,このドラマのクライマックスであることを思い出させてくれる。そのときに流れる「植樹歌」がさらにその場面を盛り上げる。これが幹と養母との最後の別れとなったのである。

やがてその運命の日がやって来た。1996年11月5日,愛媛県伊予市の幹のもとに養母と一緒に暮らしている春華(しゅんか)から電話があった。悲しいことに,今朝突然養母付淑琴(フースーチン)が亡くなったという。亨年74歳であった。幹のショックは大きかった。部屋に閉じこもったまま,養母の写真を眺めながら,涙を流している。久枝が中国への留学を決心した矢先のことであった。父は1970年に帰国したときと同じスーツケースとショルダーバッグを持って,中国へ出かけた。

1999年,久枝の留学生活も終わろうとしていた。久枝は荷物を整理して,部屋の中は2年前と同じく空っぽになった。ただ久枝には帰国前にもう一度行きたい所があった。牡丹江である。帰国前に必ず行くと約束していたように,春華姉さんを訪ねて再度牡丹江へ出かけて行った。二人は久しぶりの再会を喜んだ。春華姉さんの家に帰って,鄒(ぞう)おじさんに電話をかけて,久枝が鄒おじさんと呉(うー)おじさんに会いたがっていることを伝えると,その呉おじさんは昨年の秋に病気が悪化して亡くなってしまったという。日本の幹にはたいへん悲しむだろうと思って知らせなかったという。翌日,久枝は春華姉さんと鄒おじさん夫妻と一緒に呉おばさんを訪ねて行った。呉おばさんは主人を亡くして淋しく暮らしていたが,一緒に買い物をしているうちに笑顔が戻ってきた。鄒おばさんと呉おばさんが久枝のために何かを買ってあげると言って,一緒に買い物をしている間,久枝はこう思った。「この空間に私がいることがとても自然に思えた。この町は私にとっても特別な場所なのかもしれない。ここにはもう父の手助けがなくても,私を私として受け入れてくれる人がいる。」

やがて春華姉さんと別れのときが来た。牡丹江駅のホームで久枝と春華姉さんは,しばらく抱き合いながら,「私たちには強い絆がある。私は久枝のお姉さんだ」と,その強い絆を感じ合った。数日後,久枝は長春空港に向かうバスの中にいた。バスの中で久枝はこう思った。「留学中,私は2種類のまったく違う感情に出会い,そのギャップに戸惑って,立ちすくんでいた。血のつながらない親戚でありながら,やさしく私の気持ちを解きほぐしてくれた春華姉さん,おばさんたちの家族愛,そして父に寄せる愛と深い共感。その一方で,容赦なく日本への憎悪をぶつけてきたクラスメイトたち。けれども中国人たちの中に2種類の人たちがいるわけでもないように思われてきた。彼らにとって日本,日本人とは何なのか。そして私にとって中国とは何なのか。」このように思いながら,久枝は2年間過ごした長春の町をあとにして行った。

愛媛県の伊予市では父が久枝の帰りを待ちわびていた。ついに実家に戻ると,父と母から大歓迎を受けた。その夜は21歳になった弟宏之と,仕事の関係で家を空けることの多い姉芳枝も一緒に家族揃っての夕食で,久枝の無事の帰国を祝ってくれた。夕食後,久枝は鄒おばさんと呉おばさんが記念のためにと言って洋服店で作ってくれたチャイナドレスを着て,父の部屋に入って行って,呉おじさんが1年前に亡くなったことを伝えた。父はなぜそのときに知らせてくれなかったのかと嘆いたが,鄒おじさんは遠い所にいる父がどんなに悲しむことかと思うと,とても知らせることができなかったと話していたことを伝えた。久枝自身もまた電話で知らせようとしたが,このような大切なことは電話では伝えられなかったと言いながら,預かってきた写真を父に渡した。鄒おじさんと呉おじさんと3人の写った写真である。それを眺めながら,父はもう呉立政には会えないのだなと,親友の死を悼んだ。

翌朝,久枝がまだベッドで寝ている頃,劉成さんが伊予市の城戸家を訪問してきた。あわてて起きてきた久枝は,劉成さんとの再会を喜んだ。劉成さんは久枝の帰国を聞いて,東京から飛んで来たのである。母は「愛の力ってすごいね」と冷やかした。久枝は劉成さんを誘って散歩に出た。その散歩の土手の上で,劉成さんは「とてもいい家族だね」と感想をもらす。お父さんはもっと厳しい人と思っていたけど,とてもやさしく思われたようである。久枝によると,父は若い頃は神経がピリピリしていたけど,今は角が取れて軟らかくなったのだと説明を加えた。しかし,久枝自身もおそらく変わったのだろうとも付け加えた。一緒に暮らしていた頃はめったに話さなかったのに,この2年間,電話をしたり,手紙を書いたりして,よく話した。それに中国で父の親戚や友達に会って,その人たちを通じて,父がどのようにして中国で過ごし,どのようにして帰国したのか,父のことを知ることができたのである。それにしても久枝は不思議に思わざるを得ない。もし父が戦争で中国に取り残されなかったら,自分は中国へ留学することもなかったろうし,そうすれば劉成さんと出会うこともなかったからである。不思議な絆を感じないではいられなかった。そのようなことを話したあとで,劉成さんが久枝にこれからどうするのか,尋ねると,久枝はまずは大学を卒業して,その後のことはまだ考えていないと答える。しかし,大学卒業後は,もし劉成さんが東京にいるのなら,東京へ行くかもしれない,ゆっくり考えると答える。それを聞いた劉成さんは,「分かった。待っているよ」と答える場面は,とてもさわやかな場面である。二人の物語は原作にはない,まったくのフィクションであるが,すがすがしい締め括りで,このドラマにもう一つの大きな未来への夢を与えてくれる。二人が散歩に出かけたことで気をもむ父に向かって,母は「あなたは幸せよ。父のことを知ろうとする娘がどこにいるでしょうか」と言う。

その久枝は1年後,大学を卒業して,東京の貿易会社に就職したが,彼女には果たすべきことがあった。それは鄒おじさんが言ったことで,いつか父を連れて中国へ行くことであった。そのことは2004年冬に実現した。久枝は父を連れて中国へ旅行したのである。一番の目的はやはり養母のお墓参りである。春華姉さんと一緒にその墓参りを済ませた翌日,父はどうしても行きたい所があると言って,久枝を誘って出かけた。それは父が養母と一緒に幼い時期を過ごした頭道河子村であった。春華姉さんの用意した車で出かけ,村に近づくと,父はそこから歩いて村に入って行った。春華姉さんは車の中で待つことにして,久枝は父のあとについて頭道河子村に入った。小学校はどこかに移転になったのか,かすかに見覚えのある校門が残っているだけであった。そこから近くに養母と一緒に過ごした家があった。そこで父は養母と暮らした頃の回想にふける。そのあとで凍りついた牡丹江のほとりに出て,昔に思いを馳せると,困ったことに,涙が出てきて,止まらない。それを見て,久枝も一緒に涙を浮かべる。父は子供の頃よく歌った「植樹歌」を歌い始める。やっと父のことを理解することのできた久枝は,最後に「私は孫玉福の娘に生まれたことを誇りに思います」と口にする。父と娘の絆がさらに強固になった瞬間である。この場面で流れる「植樹歌」の歌でもってこのドラマは,最後の盛り上がりを見せながら,牡丹江に降る雪が,日本の春を思わせる桜の花に変わったところでエンディングとなる。「いつか私が自分の子供を持ったとき,この父の物語を,あってはならない戦争とともに,語り継ぎたい」と原作者の言葉で締め括られる。すばらしいエンディングである。


以上,3回にわたってNHK土曜ドラマ『遥かなる絆』(全6回,6時間)を紹介してきたが,最初のうちは父の時代と娘の時代とが二重重ねになって展開していき,最後にはその二つの時代が一つになって終わるところにこのドラマの展開上の特徴がある。テーマはやはり「絆」である。養母と息子の絆,友と友との絆,家族の絆などをはじめ,さまざまな絆が描かれている。たとえ生活は貧しくても,その絆こそ人間の幸せの根源である。物質的には豊かであるけれども,心の面では貧困がちの現代社会へのメッセージである。常にケータイを持って幸せな大学生活を送っている現代の大学生に是非とも一度は見ていただきたいドラマである。現代は幸せな時代のように見えても,未来は不透明な部分が多い。現在の就職難が示しているように,道は開けているようで,大きな壁で遮断されているようにも思われる。そのようなときこのドラマを見れば,「進めば必ず道は開ける」というこのドラマのメッセージどおり,必ず何らかの道が開けるのではないだろうか。車が山の前で行き詰ったとしても,努力を続ける限り,その山を通り越せる道は必ず見つかるものである。是非,努力を続けていって,自らの道を切り拓いていっていただきたいものである。