【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第63号
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○「知的感動ライブラリー」(36)

徳島大学総合科学部教授 石川 榮作

NHK土曜ドラマ『遥かなる絆』(城戸久枝原作,2009年)解説(その1)

本年4月から6月までの「知的感動ライブラリー」では,3回にわたって,2009年にNHK土曜ドラマとして放送された『遥かなる絆』(全6回,全6時間)を紹介することにしよう。このドラマは,本学総合科学部卒業生で,第39回大宅壮一ノンフィクション賞の受賞に続いて,第30回講談社ノンフィクション賞と2008年黒田清JCJ新人賞を最年少で受賞された城戸久枝さんの著書『あの戦争から遠く離れて――私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局,2007年9月10日第1刷)を原作として製作されたものである。日中国交回復前の1970年に自力で帰国を果たした中国残留孤児の父城戸幹さんと,その後中国の吉林大学に留学した娘城戸久枝さんの体験を基にしている。原作は大きく分けると,第一部「家族への道」(父の時代)と第二部「戦後の果て」(私の時代)という二部構成になっているが,このNHKドラマでは父の時代と娘の時代が常に二重に重なって展開され,感動的で,すばらしい作品に出来上がっている。涙なしでは鑑賞できないドラマである。今回はその全6回から成るドラマのうち,最初の2回分を紹介し,真ん中部分の2回分は次回,最後の2回分は次々回に紹介することにしよう。

なお,人名・地名などの読み方は,原則としてドラマと同様に,日本語読みで表示することにしたい。その際,主なものに関しては,( )内に原作やドラマを参考にして中国語読みをカタカナで付けておくこととする。

第1回「はじまりの河」

このドラマは,まず1945年8月,今の中国東北部(旧満州の荒野)を,ソ連軍に追われた日本人の集団が祖国をめざして,ただ歩くしかない逃避行を続けていたシーンから始まる。その日本人の集団は,満州事変のあと,日本から満州に渡った開拓移民の家族であるが,家族と言っても,戦況の悪化で男は根こそぎ召集され,老人・女性・子供たちばかりである。その逃避行を続ける日本人の集団は,今もまたソ連軍の飛行機によって攻撃を受け,必死に逃げ延びようとする。その中にこのドラマの主人公で,当時4歳の城戸幹(きどかん)もいた。この主人公は,もう一人の主人公で,ドラマの語り手でもある城戸久枝(きどひさえ)の父にあたる人である。

その娘城戸久枝は,1997年9月には国費留学として中国吉林省長春市にある吉林(きつりん)大学に留学していた。両親は愛媛県松山市に近い伊予市に住んでいる。このドラマは,もう一方では吉林大学に留学中の久枝が10月の国慶節の休みを利用して,牡丹江(ムータンジャン,ぼたんこう)市に住む春華(しゅんか)姉さんの家を訪問するため,列車に乗り込んだところから展開されていく。長春市から牡丹江市までは列車で15時間もかかるが,その列車の中で久枝は中国に留学するまでの経緯を回想する。中国へ留学することを父に願い出たとき,久枝は最初は父から猛反対を受けたが,国費留学生の選考試験に合格すると,父はそれまで反対していたことが嘘のように喜んでくれた。そのうえ留学を1週間後に控えて,その準備をしていたある日のこと,父から「読んでみんさいや」と言って,押入れの奥にしまい込んでいた段ボール箱を渡された。その段ボールの中には父が中国残留孤児として1970年に帰国した折りの新聞記事や日記・手紙などがいっぱい入っていた。その手紙から父には城戸幹という名前のほかに,もう一つ「孫玉福」(スンユイーフー,そんぎょくふく)という名前があることを知った。父については,母から「父は中国で苦労したのよ」ということは聞いていたが,父から中国の「植樹歌」をよく歌って聞かせてもらった記憶があるほかには,父の詳しい事情は何も知らなかった。留学を前にして初めて,久枝の胸の中では父がこれまで語ってくれなかった父の半生を知りたいという思いが募ってきた。そのときの久枝の気持ちを原作から引用すると,「父への,そして父が育った中国という国への,名状しがたい感情がはっきりとした形をとった瞬間だった。それは,私自身が中国残留孤児二世であるということを,初めて強く意識した瞬間でもある。」こうして父の過去と向き合う娘久枝の旅が始まったのである。

長春市から乗った列車は,翌朝早く牡丹江駅に着いた。春華姉さんが駅まで出迎えてくれた。この春華姉さんというのは,久枝の父が養母付淑琴(フースーチン)のもとを離れて日本に帰国したのち,付淑琴と一緒に暮らしていた人であるが,その養母は10か月前に突然亡くなった。久枝はこの春華姉さんとは,10年ほど前に父と一緒に養母を訪問した際に会っている。そのため春華姉さんは牡丹江駅ですぐに久枝だと分かり,再会を喜んでくれた。タクシーに乗ってその家に着くと,養母が息を引き取った部屋に案内され,そこで額に入れられて壁に掛けられていた父の少年時代の写真を見て,父の少年時代の物語が語られていくのである。

1945年8月,逃避行を続ける日本人の集団は,ソ連軍の襲撃から逃れるためには泣き叫ぶ赤ん坊を犠牲にせざるを得ないような状況にまで追い詰められていた。当時4歳の城戸幹はハルピン行きの列車に乗っているときにソ連軍の飛行機に襲撃されて,そのまま皆とはぐれてしまい,牡丹江を渡る舟の中では日本人だからということで川に突き落とされるところであったが,占い師の寧(ねい)さんに辛うじて助けられ(原作では杜恩江ドゥエンジャンという人に助けられたあとで寧さんに預けられることになっている),頭道河子村(トゥダオフーズ,とうどうかしむら)に住む付淑琴に引き取られた。付淑琴には子供がいなかったので,この子供を自分の子供として育てることにしたのである。名前は「福に遇う」という意味をこめて,「孫玉福」と名付けられ,さらに「小柱」(シャオジュー)という愛称も付けられた。しかし,子供はなかなか中国の生活には慣れなかった。まずは中国語が話せないうえに,トウモロコシのお粥にも慣れなかったのである。

そうしているうち,翌1946年6月には,国民党と共産党による内戦が再開され,その戦火もついに頭道河子村にまで押し寄せてくるが,養母は必死でその子供を連れてトウモロコシ畑の中に逃げ込む。砲弾が次から次へと落とされる中を,養母は子供を必死に守りながら逃げて行く。激しい砲撃を受けたあと,養母が泣き叫ぶ子供を抱き締める場面は,養母の深い愛情がひしひしと感じられて,熱い涙が出てくる感動的なシーンである。このとき養母と孫玉福の「親子の絆」は,切っても切れない強固なものになったと思われる。原作ではこのときのことを「血のつながらない親子が本当の親子になった瞬間だった」と表現している。

ここでドラマはまた1997年10月に牡丹江市を訪れた久枝の歓迎会の場面に戻る。その歓迎会には父の養母付淑琴の親戚ばかりではなく,父の一生の親友となった鄒徳義(ゾウダーイー,ぞうとくぎ)さんと呉立政(ウーリージョン,うーりゅうせい)さんも駆け付けてくれた。この二人の親友は,父が高校を出たあと,愛民託運公司というところで働いていたときに知り合った人たちである。久枝はここで初めて父の友人に会い,感激もひとしおである。そのうち親戚の者が,玉福は優秀だったけれども,最初は赤椅子に座っていたと話し出して,ここでまた父の少年時代の物語が展開されるのである。

孫玉福は中国語が話せないために,小学校では赤椅子に座っていた。「赤椅子に座る」とは成績で最後の3人であることを意味している。養父孫舜昌(スンスゥンチャン)はそれを知って,玉福をひどく叱りつけるが,そのときにも慰めてくれたのが養母淑琴である。「お前は頑張ればできる子なのだから,一生懸命頑張りなさい」という養母の励ましで,玉福は勉強に大いに励んだ。その努力の結果,1か月後(原作では2か月後)には赤椅子から抜け出すどころか,2位の成績を取った。養父はそれをたいへん喜んで,そのときから養父による習字の特訓も始まった。養父の特訓は玉福のさまざまな才能を引き出して,玉福も勉強することの楽しさを覚えた。原作ではその場面を「努力すれば結果は必ずついてくる。それは玉福の大きな自信につながった」という言葉で締め括っている。孫玉福はそのときから生涯にわたって何事にも努力を惜しまない,真の意味での「努力家」になったと言ってもよいであろう。

そうして小学校生活を送っていたある日のこと,学校からのいつもの帰り道で,豚飼いの孫じいさんから,「この小鬼子(シャオグイズ)め。邪魔をしないでさっさと失せろ」と怒鳴られた。「小鬼子」とは日本人のことを指す罵りの言葉であり,この言葉を浴びせられたことに我慢のできなかった玉福は,仕返しに蛇を豚小屋に投げ込んだ。そのために豚は小屋から逃げて,一匹が狼に食べられてしまった。豚飼いの主人は玉福の悪戯を訴え,養父に弁償をさせるが,あとで事情を知った養父は玉福を叱ることはしなかった。そのようなやさしい養父も突然死んでしまった。ちょうどその日,玉福は目の不自由な占い師の寧さんを案内して村を回りながら,さまざまなことを学んだのであった。

その寧さんから「君はいつかこの村から出て行くだろう。君はいつか成功する」と占われていた玉福は,1951年には5年生となった。その翌年,校長先生が養母のもとを訪れ,玉福の中学受験を勧めた。ただその中学校はこの村から列車を乗り継いで2, 3時間もかかる町にあり,そのためにはお金が要る。養母にしてみれば是非とも玉福を中学に進学させてやりたいところだが,主人が亡くなったこともあって,今の生活が精いっぱいだと答える。しかし,校長先生はすでに受験の手続きを済ませてあるので,まずは受験してみて,あとのことはそれから考えることにしようと提案した。校長先生はあの子に自分の力を試させてあげたいというのである。この校長先生の温かい心遣いに感謝して,養母は近所の人たちに中学受験のお金を貸してほしいと頼んで回った。こうして玉福は中学を受験し,2週間後に合格通知を受け取った。周囲の者たちは喜んだが,養母は心で喜びながらも今度は学費のことを考えて,金策に走り回った。しかし,中学進学のためのお金を貸してくれる者は誰もいない。そのことを知った玉福は,中学へは行かずに,養母の手伝いをすると言い出した。二人が涙ながらに抱き合う場面は感動せずにはいられない。なんとしても進学させてあげたい養母は,村政府の書記を務める人に相談したところ,国から奨学金をもらうための紹介状を書いてくれることになった。玉福も周囲の者たちもたいへん喜んだ。しかし,中学へ行くということは,養母と別れて暮らすことを意味していた。玉福は家を出て,寮生活をすることになるからである。これまで大切に育ててくれた養母のそばの布団の中で玉福は,これからしっかり勉強して,養母を幸せにするのだと誓った。玉福が「親孝行」の決意をするこの場面もまた感動的である。一方,養母の方も,服が買えないから,自らの手で玉福のために服を縫ってやる。この服を着たら,立派な中学生に見えるだろうと,母親として精一杯の愛情をこめて縫うのである。玉福はこの服を着て,小学校の卒業式を迎えたあと,中学生となって寮生活を始めた。その服を着て卒業式の日に撮った写真が,今春華姉さんのアパートの部屋の中に飾ってあるのである。

その父の写真が飾ってある部屋のベッドの上で横になりながら,久枝はその父の養母が亡くなった日のことを思い出す。愛媛県伊予市で養母の訃報を受け取ると,父はかなりのショックを受けたようである。久枝にとっても中国へ行けばその祖母に会えると思っていた矢先の出来事であった。父のことを心配して,娘の久枝は父の部屋の前まで行って,ふすま越しに自分も一緒に行こうかと言う。父はお前が行っても仕方ないだろうと言って,自分の部屋の中で養母の写真を見ながら,泣き崩れている。

国慶節の休暇も終わって,久枝は大学のある長春市に帰ることになった。牡丹江駅まで見送ってくれた春華姉さんに,今度この町に来たときには,父の養母の墓参りに連れて行ってほしいと頼んだ。春華姉さんはそれを約束し,別れを告げて帰った。久枝は列車に乗り込むとき,10年前にこの同じホームで列車に乗り込む前に父と養母が抱き合って泣いている場面を思い出した。このようにこのドラマでは至るところで,父のエピソードと娘の現在の話とが二重重ねになったかたちで展開されている。ドラマの構成の面でも興味ある作品である。久枝は帰りの列車の中で,父はいったいこの国でどのような暮らしをしていたのだろうかと思いをめぐらす。久枝の留学生活,そして自分につながる父の人生をたどる旅は,これから始まろうとしていたのである。

第2回「日本孤児」

1997年10月,中国の吉林省長春市にある吉林大学に留学した城戸久枝が最初にぶつかったのは,留学生なら誰もがぶつかる言葉の壁であった。大学で中国語をひととおり学んだとはいえ,自由に自分の気持ちが表現できるようになるためにはかなりの努力がいる。久枝の父孫玉福もまた最初にぶつかったのは,やはり言葉の壁であった。このドラマはこのように父と娘の時代とが二重になって展開していることが分かる。またその二つの時代の違いに注意しながら鑑賞するのも,たいへん意義深いことであろう。

久枝は登録の手違いから大学院のゼミ所属になっていて,中国語の授業は受けられない。そこに登場して手助けしてくれたのが,劉成(リョウチャン,りゅうせい)という中国人の大学院生である。この人物は原作には出てこない,NHKドラマの完全なフィクションによる人物である。この人物のアドバイスのおかげで,久枝はなんとか中国語のクラスを見つけてそれに出てみたものの,それは超初心者クラスで久枝には役に立ちそうにない。そこで久枝は劉さんと相互学習をすることとなった。久枝は劉さんに日本語を教え,劉さんは久枝に中国語を教えるという学習方法である。これは現に多くの留学生が経験している学習方法である。久枝がこうして留学生活を始めているうちに,父から10通目の手紙が届く。その中には「車到山前必有路」(くるま さんぜんにいたりて かならず みちあり)という言葉に続いて,「進めば必ず道は開くという意味だ。ここまでやってきた自分に誇りを持ちなさい。そしてこれからも自分の道は自分で切り開きなさい」と書かれていた。この言葉は父が中国で暮らし始めた娘を励ます言葉であると同時に,かつて父が自分自身を励まし続けてきた言葉であり,この言葉にまつわる父の高校生活がこのあと展開されるのである。

孫玉福は養母のもとを離れて中学へ進み,中学を卒業すると,今度は牡丹江にある高校へ進学した。こうして5年の月日が経って,1959年6月になると,高校卒業後のことを考えねばならない時期に来ていた。孫玉福は高校でも成績優秀で,担任の沙(シャ)先生から北京大学の受験を勧められたこともあり,大学へ進学することを決意した。ところが,その頃クラスの宋君から「日本鬼子」(リーベングイズ)だと罵られ,「日本人だと言えない奴が中国に忠誠を誓うのか」と言われたのがきっかけで,履歴書の民族欄には「日本」民族だと書き込んでしまった。担任の沙先生は「この時期に日本人であることなど書く必要はないではないか」とその軽はずみな行為を責めたが,孫玉福にしてみれば無我夢中のことであった。いよいよ受験が始まると,孫玉福は第一希望として北京大学,第二志望に北京師範大学,そして第三志望にハルピン師範大学を受験した。しかし,その結果は3大学とも不合格となった。北京大学はともかく,残りの2大学には完全に合格するほどの手ごたえはあっただけに,孫玉福のショックは大きかった。沙先生の心配したとおり,履歴書の民族欄に「日本」と書いたがための「不合格」であった。落ち込んでいるところへ,担任の沙先生から手紙が届いた。その中には「車到山前必有路」(車が道を見失ったときも,山を通り越せる路は必ずある)という言葉とともに,「どんなに苦しくても,進めば必ず道は開く。元気を出しなさい」との励ましの言葉が書かれていた。しかし,いくら慰められても,これから進む道を阻まれたのであり,孫玉福にとっては初めて味わう挫折であった。

現在,中国の吉林大学に留学しているその娘久枝もまた,時代と状況は異なるものの,父と同じように初めての挫折を味わうことになる。言葉の壁は劉成さんとの相互学習でだんだんと取り除かれていったが,留学生として中国の大学の授業に出ているとき,中国人学生の反日感情が突然久枝に向けられてしまい,精神的についに挫折してしまうのである。牡丹江の春華姉さんから,来月は休みが取れそうなので,おばあちゃんの墓参りに来ないかと誘われるが,久枝は予定が立たないと言って,断わってしまうほどの落ち込みようである。その夜,久枝は父の日記を開くと,そこには「車到山前必有路」の言葉が書かれていた。父にその文字を書かせた当時の父の話にまた戻っていくのである。

大学受験に不合格となった孫玉福は,頭道河子村の養母のもとに戻るが,落ち込んだまま,寝転がってばかりの毎日である。養母の付淑琴も村政府の書記の人から「不合格」になった事情を聞き知ると大きなショックを受けた。玉福は挫折感から酒を飲み,家に閉じこもったままである。そのように落ち込んでいるところに,沙先生から手紙が届き,中学の臨時教員として働きながら,また来年大学を受験してみたらどうかと,誘いがあった。玉福はこの沙先生の好意を大いに喜び,また元気を取り戻すことができた。沙先生の「車到山前必有路」の励ましの言葉どおり,行き詰まっても,道はあるものである。その夜は友人たちと酒を飲みながら楽しく語り合った。

このようなことが書かれた父の日記を久枝は,中国語の勉強のつもりで読んでいたが,そのうち父の日記によりいっそう強く引きつけられていった。

孫玉福はその年の9月,牡丹江市内にある中学の臨時教員として働き始めた。一生懸命働きながら,夜は遅くまで受験勉強に励んだ。しかし,この頃から玉福には一つの思いが芽生え始めていた。履歴書に「日本民族」と書いたことから,本当の両親,日本の両親に会ってみたいということを考え始めたのである。しかし,それは「大海撈針」(海に落とした針を拾う)のようなものであった。それでも玉福はあきらめなかった。日本赤十字社あてに手紙をひんぱんに書き始めたのである。

久枝はここまで父の日記を読んだところで,劉成さんの訪問を受けた。劉さんは久枝が最近姿を見せないので,心配して訪ねて来てくれたのである。久枝は父の日記を読んでいることを伝えた。

孫玉福はこうして二度目の大学受験をしたが,しかし,またもや「不合格」となった。試験での手ごたえは十分であったものの,やはり「日本民族」が影響しているようであった。その頃には20歳になっていた玉福は,公安局から呼び出しがあり,無国籍のままでは困るので,中国国籍にするか,日本国籍にするか,早いうちに決定するように催促された。今までどおりにしてほしいと頼んだが,20歳となったからにはそれも許されないという。 玉福は日本国籍を選んだ際には今の臨時教員も辞めなければならないことを知りながらも,結局のところ日本国籍にした。こうして臨時教員の職も解かれ,玉福は大学進学もあきらめて,材木工場に就職した。仕事の内容は丸太運びで,肉体労働はつらかったが,給料は臨時教員のときよりもよかった。養母にも仕送りをすることができた。昼間のつらい仕事にもかかわらず,玉福は眠る時間を削って,日本への手紙を書き続けた。

この材木工場で玉福は生涯の親友となる2人の友人と出会った。鄒徳義(ゾウダーイー,ぞうとくぎ)と呉立政(ウーリージョン,うーりゅうせい)の二人である。玉福は養母を牡丹江へ呼び寄せて,親孝行をすることを,あるとき呉立政に語って聞かせると,友人はますます玉福に好意を寄せ,「親友」を誓うのであった。三人はますます仲のよい親友となっていった。玉福は養母を牡丹江に呼び寄せるため,必死にあちこちと駆け回って手続きをした。田舎から都会へ移籍することはむずかしいことであったが,玉福の懸命な努力のおかげで,ついに養母と一緒に暮らす許可を得ることができた。さっそく玉福は頭道河子村に養母を迎えに行った。

その日の父の日記は,うれしさのあまり字が乱れていた。そこには「車到山前必有路」の言葉が書き込まれていた。この言葉は父が自分を励まし続けたものであることがよく分かった。久枝はここまで読んで,父とその養母との強い絆を感じ取ったところで,牡丹江の春華姉さんに電話して,先日の詫びを言ったあと,おばあちゃんの墓参りに連れて行ってほしいと願い出た。さっそく牡丹江に出かけ,春華姉さんと墓参りをする。その夜,春華姉さんのアパートから日本の伊予市に住む父に電話をして,おばあちゃんの墓参りの報告をするとともに,「進めば道は開ける」ことも伝えた。父が喜んだのはもちろんのことである。久枝は春華姉さんと餃子を作り,その家族と一緒に楽しくそれを食べた。そのとき春華姉さんは,10歳の時からおばあちゃんのもとに来て,20年間一緒に暮らしたことを語ってくれた。それにしてもこの春華姉さんは10歳のときにおばあちゃんのところにやって来たとの話であるが,そこにはどんな事情があったのだろうか。久枝がそれを知るのは,もっとずっと先のことになる。


以上,第1回と第2回の放送分では,父城戸幹と娘城戸久枝が,もちろん時代状況は違うけれども,それぞれに言葉の壁というものにぶつかり,挫折感を味わいながらも,それを必死になって克服しようとする努力のさまが展開されている。そのとき励ましてくれるのが,「車到山前必有路」という言葉である。この言葉どおり,壁にぶつかったときでも,前に進もうとする努力を続ける限り,道は必ず開けてくるものである。本ドラマはこのような力強い勇気を私たちに与えてくれる。学生の皆さんにも是非見ていただきたいドラマである。


(以下,第3回と第4回の放送分については,来月のメールマガジンにつづく)