【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第58号
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○「知的感動ライブラリー」(31)

徳島大学総合科学部教授 石川 榮作

フリッツ・ラング監督の映画『クリームヒルトの復讐』(1924年ドイツ)の特徴

フリッツ・ラング監督の映画『クリームヒルトの復讐』(1924年ドイツ)は『ニーベルンゲン』二部作の後編にあたるものである。脚本は前編『ジークフリート』の場合と同じく,フリッツ・ラング監督の妻テァ・フォン・ハルボウである。この映画は基本的にはドイツ中世英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に基づいているが,若干改作を施されたところもある。素材の中世英雄叙事詩との違いなどを指摘しながら,この映画の特徴を探り出すことにしよう。

まず冒頭で前編のあらすじが要約されてスクリーンの上で紹介されると,次は愛しい夫ジークフリートを暗殺された妻クリームヒルトが,悲嘆に暮れながらも,ジークフリートの残したニーベルンゲンの財宝を人々に分かち与えている場面である。それを見たハーゲンは,クリームヒルトが財宝でもって味方を集めるのを恐れて,財宝を奪い取ることを決意する。このあたりは原作の中世英雄叙事詩では前編の最終場面にあたるが,この映画では後編の冒頭部分に挿入されている。

そのあとは原作の冒頭部分と同じく,クリームヒルトのもとにフン族のアッチラ王の使者,ベヒェラーレンの辺境伯リュディガーがやって来て,アッチラ王が彼女に求婚していることを伝える。しかし,クリームヒルトは亡夫ジークフリートの復讐への思いにとらわれたままで,アッチラ王の求婚にはまったく関心がない。その間,ハーゲンがニーベルンゲンの財宝をライン河に沈める場面がスクリーンに映し出される。すぐさまリュディガーがクリームヒルトと対面している場面に変わるが,この映画ではクリームヒルトの揺れ動く心の描写は原作ほど詳しく展開されておらず,クリームヒルトは執拗なほど復讐の思いを口にしている。原作では彼女は復讐への強い思いをひたすら心の奥底に隠しているが,それとは正反対である。リュディガーに対面した折りもこの映画では彼女は彼に援助の誓いを催促することになっている。リュディガーは十字架にかけて彼女への忠誠を誓おうとすると,クリームヒルトはリュディガーの「剣にかけて」誓ってほしいと要求する。ここですでにのちの悲劇がほのめかされていると言えよう。

クリームヒルトの要求どおり,リュディガーが自らの剣にかけて彼女に忠誠を誓うと,彼女はただちにアッチラ王に婚約の整ったことを伝えさせる。一方,クリームヒルトはジークフリートが暗殺された場所である森の中の泉のほとりに出かけ,雪をかきのけて,その下の土を採取しながら,ハーゲンに対して復讐することを誓う。雪の下からジークフリートの血の染みついた土を採取する場面は,原作にはないが,その行為によってクリームヒルトの復讐の念がより強く表わされていて,とても印象的である。

旅立ちの日,クリームヒルトが兄弟と母に別れを告げる場面も,この映画の中では印象的な場面である。特に母が嫁いで行く娘に向かって別れを惜しみ,家来たちもまた嘆き悲しむ場面は,この映画を観る者の心を複雑にさせる。ブルグント国から遠く離れたフン族のアッチラ王のもとに嫁いで行くことは,現代と違って,当時は永遠の別れをも意味していたのである。その場面ではすでにのちの惨劇がほのめかされているだけに,切ない思いにさせられる。この映画の前半の見どころの一つであろう。

冬の最中にブルグント国を旅立ったクリームヒルトが,フン族の国に到着したときには,すでに春が訪れていた。フン族の家来が一行の到着をアッチラ王に知らせると,彼はすぐさまクリームヒルトを出迎える準備に取り掛かる。クリームヒルトを目の前に迎えて,アッチラ王はその美しさにうっとりし,仲介の労を取ってくれたリュディガーに礼を述べたうえ,褒美を与える。クリームヒルトはアッチラ王に対しても,先の夫ジークフリートの復讐のために手助けしてくれるよう,誓いを催促する。復讐の念をひた隠しにしていた原作とは著しい違いを見せている場面である。アッチラ王は援助をすることを誓うことによって,初めて彼女の手を握ることができ,彼女を妻にすることができたのである。

それ以来,アッチラ王はクリームヒルトに深く惚れ込み,これまでとは違って宿営地においても,戦いに出かけようとせず,ただ眠ってばかりの毎日である。家来たちもアッチラ王の変わりようにあきれ果てている。そこへクリームヒルト王妃が息子を産んだ知らせが届き,アッチラ王は喜び勇んで妻のもとに急ぐ。クリームヒルトはクリームヒルトで生まれた息子に復讐の夢を託す。原作のように復讐のために息子を犠牲にすることは目論んでいない。その点,原作と異なり,クリームヒルトの残虐さが軽減されているとも言えるが,復讐の念をさらに一層強くしていく。この彼女の強い復讐心が執拗に表現されているところにこの映画の特徴がある。

世継ぎを産んでくれたクリームヒルトに向かって,アッチラ王が褒美として何か望みはないかと尋ねたときも,クリームヒルトは復讐を遂げるためにブルグント国の兄弟たちをこの国に呼び寄せてほしいと答える。こうしてブルグント族はフン国に向かうことになるが,原作で感動的な古代ゲルマンの英雄精神が溌剌と描かれているドーナウ河渡河の場面はカットされている。この映画のクライマックスは,明らかにそのあとフン国で繰り広げられる壮絶な戦いにあるようである。

ブルグント族がフン国に向かっている場面で,ディートリヒが彼らにクリームヒルトの復讐を警戒するよう,警告するのは原作と同じである。ブルグント族がフン国に到着し,案内されて宿舎に入るや否や,クリームヒルトはアッチラ王に向かって,誓いを思い出させて,ハーゲンを殺すようにと要求する。クリームヒルトはさらに家来たちに対しても,財宝をばら撒きながら,ハーゲンを殺すようにと命令を下す。

これに対してブルグント族側のハーゲンはヴァイオリン弾きのヴォルカーとともに寝ずの番をする。クリームヒルトの命令を受けたフン族の家来たちは攻撃を仕掛けようとするが,その二人の英雄の警護に対しては手も足も出ない。しり込みするばかりで,とうとう攻撃することはできなかった。

翌日,アッチラ王はブルグント族の主だった者たちを宴の席に招待する。その席でクリームヒルトが盃を逆さまにしたのを戦いの合図と見て取ったアッチラの弟ブローデルは,戦いの準備を始める。今にも戦いが始まる気配である。宴の席ではクリームヒルトの要求によって,王子オルトリープがそこへ連れて来られるが,この映画ではクリームヒルトは,上でも述べたように,王子を犠牲にしようとは思っていない。やがて戸外で戦いが始まったのを聞き知ったハーゲンが,王子オルトリープを一刀のもとに刎ねようとしたとき,クリームヒルトが叫んで阻止しようとするところからも,それは明らかである。王子オルトリープを殺されたアッチラ王は,怒り狂って,ブルグント族を皆殺しにするよう,部下に命じる。戦いが始まろうとしたそのとき,イタリア・ベルネ出身のディートリヒが割って入り,戦いのその場をしずめ,クリームヒルトはアッチラ王やリュディガーらとともに一旦広間の外に出ることができた。『ニーベルンゲンの歌』にも見出されるいわゆる「ディートリヒのとりなし」の有名な場面である。ディートリヒは客人としてこのフン国に滞在しているが,人々から一目置かれている人物であり,彼の一言でどんな戦いをも収めるような威厳を持っているのである。この彼の一言でフン族の主だった者たちは広間の外に出て,広間の中にはブルグント族が陣取るかたちとなった。

広間の中に残されたフン族がすべてブルグント族に殺されたことを聞き知ると,クリームヒルトは再度復讐するよう命じて,戦いはさらに激しく展開される。広間の窓辺から弟ギーゼルヘアが姉の残酷な仕打ちを訴えると,クリームヒルトは「ハーゲン一人を渡せば,そのほかの者たちの命は助けよう」と言う。しかし,ブルグント族は家来一人を犠牲にしてまでも,自分たちの命を守ろうとは思わない。このあたりは古代ゲルマンの共同体精神が描かれていると言えよう。結局のところ,意地と意地のぶつかり合いで,戦いはさらに続けられるばかりである。

このように戦いが果てしなく続けられる中,ベヒェラーレンの辺境伯リュディガーはクリームヒルト王妃に呼び出される。原作ではリュディガーの内面的葛藤が詳細に展開されていて,感動的な場面であるが,この映画では少し物足りなさを感じずにはいられない。リュディガーは最初はためらうものの,すぐさまクリームヒルトの要求に応じて,広間の中のブルグント族のもとに向かう。彼はもちろん討ち死にの覚悟である。リュディガーは止むを得ずに婿ギーゼルヘアを倒してしまうが,彼もそのあとヴォルカーの刃にかかって倒れてしまう。そのリュディガーの死体が広間の外に運ばれ,クリームヒルトはそれを目にすると,もはや我慢することはできずに,広間に火をつけさせて,ブルグント族をすべて焼き殺そうとする。広間の中のブルグント族は,今や焦熱地獄の中で悶え苦しむ。これではブルグント族が全滅してしまうことを恐れたハーゲンは,一人で広間の外に出て,クリームヒルトに自分の命と引き換えに主君たちの命を助けてもらおうとする。それを見たブルグント族は,一同揃ってそれを拒否する。古代ゲルマンの英雄たちの共同体精神が最も如実に展開されている場面である。家臣一人を犠牲にして生き延びるよりも,彼らは一同で滅び去ることを選んだのである。

このままでは広間が焼け落ちて,自らの手でハーゲンに復讐することができなくなることを恐れたクリームヒルトは,焦熱地獄の広間の中に使者を送ろうとする。そこでその役を引き受けたのが,ディートリヒである。ディートリヒが広間の炎の中に入り込むと,そこに生き残っていたのはもはやハーゲンとギュンター王のみであった。ディートリヒは二人を捕えて,広間の炎の中から外に連れ出した。ハーゲンの姿を目の前にしたクリームヒルトは,ハーゲンに財宝はどこに隠したかと問いただす。ハーゲンは「主君が一人でも生きているうちは明かさないと誓った」と言い放つ。原作と同じように,クリームヒルトにギュンター王を殺すように仕向けるためであることは言うまでもない。ハーゲンの策略どおり,クリームヒルトはギュンター王の首を刎ねさせると,ハーゲンは声高らかに笑う。このあたりは原作どおりのしたたかなハーゲン像が描かれている。怒ったクリームヒルトは両手で剣を振り上げて,ハーゲンを切り倒してしまう。しかし,それを見たディートリヒの武術の師匠ヒルデブラントは,その恐ろしい所業を許すことはできずに,クリームヒルトを成敗してしまう。こうしてブルグント族はすべて滅び去り,アッチラ王はただただ嘆き叫ぶばかりである。これぞニーベルンゲンの災いであり,原作と同じ結末である。

以上のように見てくると,物語全体は,多少の相違はあれ,『ニーベルンゲンの歌』とほぼ同じ展開であることが容易に理解できよう。ただクリームヒルトの復讐心がスクリーンの上で執拗なほどに描き出されていて,フン族の国でクリームヒルトが涙さえひた隠しにしていた原作とは著しいコントラストを成す結果となっている。脚本家のハルボウは第一次世界大戦で敗戦して落ち込んでいるドイツ国民に対して,自国民の根源を想起させるゲルマン神話への憧憬を新たに呼び起こすことをこの映画の目的としていたことが理解できよう。その夫のフリッツ・ラング監督も最終場面の広間に火をつけての撮影には渾身の力を注いでいることは,言うまでもない。私はこの広間炎上の場面を見るたびに,わが国の黒澤明監督の映画『乱』における城の炎上シーンを思い出す。ただ『乱』では兄弟の骨肉の争いの虚しさのみならず,すべての戦いの愚かさが描き出されているのに対して,この映画『クリームヒルトの復讐』では明らかに古代ゲルマンの英雄たちの共同体精神が高らかに歌い上げられている。そこに大きな違いがあると言えるが,それは映画が製作された時代状況の相違でもあろう。いずれにしてもこの映画は5,6世紀の古代ゲルマンの時代から絶えることなく語り継がれているニーベルンゲン伝説の貴重な映像化の一つである。


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