【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第52号
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○「知的感動ライブラリー」(25)

総合科学部教授 石川 榮作

三島由紀夫の原作『潮騒』とその映画『潮騒』(昭和39年日活)

1. 三島由紀夫の原作『潮騒』

 三島由紀夫の『潮騒』は昭和29年(1954年)6月に書き下ろし作品として刊行されたものである。作者三島由紀夫は,この作品が刊行される前年の3月に,三重県の伊勢湾入口にある神島に旅行しており,また同年の8月にも同じ場所を訪れている。『潮騒』は神島再訪の直後(9月)から書き始められたようである。この2度にわたる神島旅行は,明らかに小説家としての取材旅行であり,作品中の主要な場所の描写はほとんど現実の神島の風景によるものと考えてよいであろう。
 この作品の内容は,この神島をモデルとした歌島で繰り広げられる若い男女2人の恋愛物語であるが,しかし,ありふれた恋愛物語ではない。この作品はギリシア文学のロンゴス『ダフニスとクロエー』(2世紀後半〜3世紀前半)を下敷きにした作品だからである。冒頭部分の「歌島は人口千四百,周囲一里に充たない小島である」という表現は,ロンゴスの「レスボスの島にあるミュティレーネーは,大きく,しかも美しい町である」(松平千秋訳,岩波文庫)をまねたものである。登場人物にしても,新治と初江(ダフニスとクロエー)は言うまでもなく,その二人とは対照的な存在の安夫や千代子のモデルと推定される人物も容易に認められる。エーゲ海に浮かぶレスボス島で繰り広げられる二人の牧歌風の恋物語を,作者三島は三重県の伊勢海に浮かぶ神島(歌島)での新治と初江の恋物語に書き直したのである。舞台を伊勢海に移したとはいえ,『潮騒』を読んでいて感じ取られるのは,古代ギリシアの牧歌風な雰囲気である。私が『潮騒』に魅せられる最大の理由は,この作品が古代ギリシア文学の雰囲気にふさわしく,人間と自然の調和をテーマとした作品であり,少し誇張した表現をすれば,国と時代を超越した人間生活の永遠のテーマを取り扱った作品だからである。
 三島『潮騒』の舞台である小さな歌島は,当時29歳の作者にとって一つのアルカディア(理想郷)であったのであろう。このことを三島は新治が初江に向かって歌島について語る言葉の中で明らかにしている。「どんな時世になっても,あんまり悪い習慣は,この島まで来んうちに消えてしまう。海がなァ,島に要るまっすぐな善(え)えもんだけを送ってよこし,島に残っとるまっすぐな善えもんを護ってくれるんや」。若い二人の恋はこのアルカディアとも言うべき小島で育まれ,海という自然によって護られながら,幾多の困難を経たのちにより高い真実の愛へと辿り着くのである。この作品における海という自然は,言い換えれば,神である。数々の試練を克服して真実の愛に到達した二人は,最後の場面で八代神社に詣でて,自らの願いを叶えてくれたこの海の神に感謝の念を捧げたのち,燈台にも昇って夜の海を遠くまで眺める。八代神社と燈台は,作者によって冒頭部分で明らかにされているように,歌島で眺めの最も美しい二つの場所である。この二つの場所が最終場面の舞台となっているのも,決して意味のないことではない。困難な冒険を乗り切って初江の愛を克服した新治は,八代神社で「神の加護を感じた」ばかりか,燈台の上でも同様に神の恩寵を感じるのであり,その場面は次のように語られている。「今にして新治は思うのであった。あのような辛苦にもかかわらず,結局一つの道徳の中でかれらは自由であり,神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかったことを。つまり闇に包まれているこの小さな島が,かれらの幸福を守り,かれらの恋を成就させてくれたということを」このように神に護られたこの小島を,今や若い二人もまた,力を合わせて護ってゆこうと,決意を新たにするのである。八代神社と燈台は,要するに,自然の神の象徴であり,歌島の「美」とは自然の神に護られた「美」なのである。
 人間生活と自然の神秘的な美との完全な調和を描いた『潮騒』は,読者の私にとっても一つのアルカディアである。情報化社会の中でコンピュータに操られ,必要以上に多忙な日々を強いられている現代にこそ,この作品に描かれている自然と人間が一つに溶け合った調和的世界が必要なのではないか。増え続ける情報の洪水の中で自らを失わず,文学作品に浸る時間もまた大切なのではないか。多忙な毎日だからこそ,文学や音楽を楽しむ喜び,ゆとりを持ちたいものである。

2. 日活映画『潮騒』のあらすじと見どころ

 昭和29年に刊行されたこの三島由紀夫の『潮騒』を原作として,これまでに5度映画化されている。最初の映画化は刊行された年の昭和29年(1954年)で,監督は谷口千吉,主演は久保明と青山京子の映画(東宝)である。2度目に映画化されたのが,今回紹介の昭和39年(1964年)の森永健次郎監督による日活映画(浜田光夫と吉永小百合主演)であり,このときからカラー作品となっている。3度目の映画化は,昭和46年(1971年)の森谷司郎監督による東宝映画(朝比奈逸人と小野里みどり主演),4度目が最も完成度が高いと思われる西河克己監督による昭和50年(1975年)の東宝映画(三浦友和と山口百恵主演)であり,そして5度目が昭和60年(1985年)の小谷承靖監督による東宝映画(鶴見辰吾と堀ちえみ主演)である。これらの5作品はすべて私のコレクションの中にあるので,原作を読むたびに,繰り返し鑑賞している。すばらしい作品は,いつ見ても新しい発見があるものである。
 今回紹介の日活映画『潮騒』も,前半はほぼ原作と同じ展開である。最初の映画化のときは白黒映画であったが,この2度目のときからカラーで撮影されているので,歌島のモデルとなっている神島の美しい自然が見どころでもある。
 この小さな歌島で漁師として母と弟の暮らしを支えている健気な若者新治(浜田光夫)は,ある日,漁から戻って組合で給料を受け取って家に帰る途中,浜で船を陸へ引き上げる作業を手伝っている少女(吉永小百合)の姿を目にとめる。若者はこの少女の顔に見覚えがない。新治はその作業を手伝ってから,その場を立ち去るが,あとで給料袋を落したことに気づき,その場に再び戻って来る。そこでその少女と再会し,初めて言葉を交わす。彼女は拾った給料袋を新治の家にすでに届けてくれたようである。彼女は初江という名前で,この島で最も裕福な宮田照吉(石山健二郎)の末っ娘であり,これまで志摩の老崎(おいざき)の海女のところに養女に出されていたが,男やもめの照爺は昨年一人息子を病気で失ったので,初江を呼び戻して,婿取りを考えるようになったのである。新治はこの少女に初めて会ったときから魅せられ,少女の方も好青年の彼に好意を抱いたようである。
 ところが,この初江の婿にはこの村の名門の生まれで,青年会の支部長を務める川本安夫(平田大三郎)が最有力候補であるという噂が流れる。貧しい家の出である新治は,その噂を聞いて落胆するものの,漁の仕事に精を出す毎日である。そのような日々を暮らすうち,新治は母が山で集めた薪を取りに元陸軍の観的哨(かんてきしょう)跡に出かけたとき,そこで初江と再会する。そこで初江は川本安夫との噂は嘘であることを明らかにする。この映画ではここで初江が蛇に噛まれて,新治が毒を取り除いてやることになっているが,このエピソードは原作にはない。この場面は,新治が機転のよく利く,頼もしい若者であり,この少女のためなら何でも勇敢にやってのける健気な若者であることを強調しているのであろうか。新治は初江を背負って山を下りて行くのであり,このことによって二人は内面的にも今や強く結ばれたと言ってもよいであろう。
 しかし,この島の燈台長(清水将夫)には東京の大学に通っている千代子(松尾嘉代)という名前の娘がおり,春休みになってこの島に戻って来ていた。千代子が新治に好意を感じていることを察知して,初江は嫉妬を覚えるが,新治は初江に「なんともあらへん」と答え,二人は次の嵐の日に観的哨跡で会うことを約束する。晴天の日だと,新治には漁の仕事があるから,嵐の日となったのである。ところが,数日はまことにすばらしい天気の日が続く。そのあたりがユーモアを持って描かれていて,おもしろい。
 ついに風の強い日がやって来る。この映画の見どころの一つである。新治は観的哨跡に出かけて,たき火をおこしてから,うとうととしている。そこへ初江がやって来て,ずぶ濡れになった衣服を脱いで,裸のまま,たき火で乾かそうとする。そのとき新治が目を覚ます。同様に裸になった新治に対して,初江は「その火を飛び越えて来い」と叫ぶが,この場面はワーグナーのオペラ『ジークフリート』第三幕において英雄ジークフリートが炎を飛び越えて眠れる美女ブリュンヒルデを目覚めさせるエピソードを彷彿とさせる。ワーグナーに魅せられていた三島由紀夫だから,作者三島がこのときワーグナーの作品を思い浮かべていたことは十分考えられるが,今のところ確証はない。ただ炎を飛び越える新治は,英雄の若者であることのあかしであろう。しかし,理性を取り戻した初江の「嫁入り前の娘がそんなことしたらいかんのや」という言葉によって,新治も「道徳的な事柄にたいするやみくもな敬虔さ」から,それ以上の行為を思い止どまる。初江はこのとき新治の嫁になることを決意したのである。
 ところが,この二人が観的哨跡から仲良く下りて来る姿を,燈台長の娘千代子が見つけて,それを川本安夫に知らせたことから,村に悪い噂が広まって,二人の試練の日々が始まる。その噂は宮田照吉の耳にも入り,照爺は初江の行動を厳しく見張るようになった。二人は新治の漁仲間を介して手紙で連絡を取るしか方法はなかった。照爺の家に客があって,照爺が早く床に就くはずの日をねらって,二人は八代神社で会うことを試みるが,そのときも照爺に現場を取り押さえられてしまう。新治の悩みを見るに見かねた母とみ(清川虹子)も,照爺の家に出かけて掛け合うが,若い二人の仲はなかなか認められない。
 そのような折り,嵐の日に照爺の持ち船神島丸のともづなが切れて,このままでは船が海岸にぶつかって壊れてしまうという危険に晒された。照爺は居合わせた若者たちに対して,嵐の海に飛び込んで神島丸まで命綱を持って行く勇気のある者はいないかと叫ぶが,それに挑戦しようとする者は誰もいない。新治も最初はためらっていたが,ついに嵐の海に飛び込んで,命綱を運び,神島丸を再び海岸に繋ぐことができた。原作では新治と安夫が照爺の船に乗り込んで,台風に出会った沖縄の海で新治はこれと同様の手柄を立てることになっているが,この映画ではこの場面は歌島で展開されることになっている。ただいずれにしてもこの映画の最大の見どころであることは確かであろう。新治はこの手柄によって初江との仲を認められ,婚約を交わすのである。「男は気力や。気力があればよいのじゃ」という照爺の言葉が,この島で暮らす若者に必要なものを明らかにしている。勇気によって少女の愛を獲得した若者の物語と要約してもよいであろう。
 全体的に見て,この映画では初江と著しいコントラストをなす千代子の内面があまりよく描かれていないし,また新治と安夫が照爺の船に乗り込むエピソードもカットされ,さらに初江が新治の母とあわび取り競争をする場面もカットされていて,初江が一等賞を獲得し,その賞品のハンドバッグを新治の母に贈る場面も削除されている。原作では初江と新治の母との間には,一時深い溝ができるのであるが,この映画では始終新治の母は初江に好意を抱いていることになっている。映画のストーリーとしては少々物足りなさを感じ,原作に読み取られるような崇高な古代ギリシアの雰囲気はあまり感じられないものの,伊勢海に浮かぶ神島の自然が美しくスクリーンに映し出されて,やはり自然へのあこがれを感じさせる出来栄えの映画となっている。この映画では特に海の風景として潮騒の雰囲気をスクリーンいっぱいに映し出しているが,その潮騒は若者の胸からほとばしり出るエネルギーそのものの象徴である。若々しい力に漲りあふれた自然の生命(宇宙のエネルギー)の鼓動である。激しく岩にぶつかり,大きな波音を立てる潮騒を耳にすると,自分の体内からエネルギーが燃え上がるようにほとばしり出てくる気分になる。潮騒は自然の生命力そのものと言ってよいのではあるまいか。このような生命力に満ちあふれた偉大な自然の美しさをスクリーンいっぱいに映し出してくれる映画を見れば,私はいつもまた三島由紀夫の原作が読みたくなってくる。ますます多忙な毎日を強いられている私たちは,忙しければ忙しいほど,このようなのどかな自然を舞台とした作品に浸り,自分の身の回りを見直すことも必要なのではないか。多忙な毎日だからこそ,文学や音楽を楽しむ喜び,つまりは「心のゆとり」を持ちたいものである。そうした「心のゆとり」こそ情報化の傾向がますます強くなる現代社会における創造の源であると思っている。


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