【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第41号
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○「知的感動ライブラリー」(14)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作

竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』と市川崑監督の二つの映画

 竹山道雄の『ビルマの竪琴』は昭和22年から23年にかけて童話雑誌「赤とんぼ」に掲載されたものである。全体は第一話「うたう部隊」,第二話「青いインコ」,そして第三話「僧の手紙」から成り立っているが,第一話の前に1ページ程度の前書きが置かれていて,以下の話はビルマ戦線から戻って来た一人の兵隊が物語るという形式になっている。

1.第一話「うたう部隊」
 その兵隊が属していた部隊は,隊長が音楽学校を出たばかりの若い音楽家であったということもあって,ビルマの町や森,野原を行軍しているとき,よく歌を歌ったものである。その曲は「荒城の月」や「朧月夜」のような昔なつかしいものから,賛美歌の節もあり,くだけたものでは「パリの屋根の下」,それからもっとむずかしいドイツやイタリアの名曲まであるという風であった。なかでもその隊が得意とするのは「埴生の宿」で,この歌を歌いながら目の前の景色を故郷の人たちに見せてあげたい,この歌声を聞かせてあげたいなどと思ったのであった。この歌う部隊の中には水島という上等兵もいて,彼は工夫して作った竪琴を弾いて伴奏するのを常とするばかりか,ときには竪琴で敵兵を反対方向に導いたりして,日本兵を危機から救い出すという役目をも果たし,その隊にとってなくてはならない人物であった。そのうち次第に戦局が悪くなって,隣のタイ国へ入ろうとして,山から山へと逃げ歩いているときも,水島上等兵の竪琴によってその隊は危機を脱したのであった。
 こうしてその日本兵たちはあともう少しでタイ国に入るというある崖の上の村に着いて,そこで3日間ほど休養することになった。その村からは村長をはじめ大勢の人たちが出て来て迎えてくれたので,思いもかけぬ宴会となって,いつの間にか一種の演芸会のようなかたちになった。そのとき日本兵もお礼にさまざまな歌を歌い,水島上等兵も竪琴を弾いて村人たちを驚かせたりしたのであった。
 ところが,日本兵が歌に夢中になっているうちに,ふと気がつくと,いつの間にか村人たちはいなくなっていた。すでに敵兵に囲まれていたようであるが,隊長は歌を歌い続けながら,戦闘の準備をするよう指示した。自分たちが敵兵に気づいたと悟られないように,歌を口ずさみながら戦闘の準備をして,隊長の合図により,いざ突貫のウォーッという声をあげかけたときのことである。不思議なことに森の中から歌声が聞こえてきた。よく耳を澄ませると,イギリス兵が英語で「埴生の宿」を歌っている歌声であった。森の端の方からは別の一団の声が「庭の千草」を英語で歌っている声も聞こえてきた。森の中は歌の声でいっぱいになり,日本兵もそれに合わせて一緒に合唱した。両方から兵隊が広場に出て行って,手を握り合った。その夜,日本兵はもう3日前に停戦となっていることを知り,武器を捨てたのであった。まさに童話を思い起こさせるような第一話の締め括りである。

2.第二話「青いインコ」
 こうして日本兵は武器を捨て,イギリス兵の捕虜ということになって,ビルマの南のムドンの町の捕虜収容所に送られることとなった。ただそのとき水島上等兵は,はるか遠くに見える三角山へ出かけて,そこでまだ立て籠もって戦っている日本兵をなだめて来るようにとの命令を受けた。水島上等兵はその任務を終えてから,ムドンの収容所に向かうことにして,一人のイギリス兵と案内人とともに三角山へ出かけて行った。
 ところが,日本兵がムドンの捕虜収容所に収容されてから数日経っても,水島上等兵は戻って来なかった。仲間たちがいろいろと心配しているうちに,1ヶ月,2ヶ月が過ぎても一向に姿を現さなかった。3ヶ月経った頃,仲間たちがムドンの町の郊外の橋を修繕するために出かけて行った折りのこと,その橋の上で肩の上に青いインコをとまらせている若い僧と行き合ったが,その僧は水島上等兵にびっくりするほどよく似ていた。その僧はその後もムドンの町にときどき姿を見せ,そのたびに仲間たちは水島をなつかしく思ったりした。しかし,そのうちその僧もさっぱり姿を見せなくなると,仲間たちは水島はもう死んでしまったのではないかと,日が経つにつれて,そう思うようになった。
 そのようなとき,そこの収容所に出入りしていた一人の物売り婆さんが水島についてのかすかな情報を伝えてくれた。その日,婆さんが持ってきた青いインコはあの水島に似たビルマ僧のインコの兄弟だと知ると,隊長はそれを手に入れたのであったが,婆さんはさらに一つの情報を話してくれたのである。その婆さんの話すところによると,もうかなり前のことになるが,奥地の岩山に立て籠もって最後まで抵抗していた日本兵がこの町の病院に運ばれてきたことがあり,それらの日本兵は手当てを受けているものの,いまだ治らないで死ぬ者もあるという。これを聞くと,隊長はその部隊によそから使いに来た日本兵はなかったか,調べてほしいと婆さんに頼んだのであった。
 それから10日ほどしてその婆さんはまた物売りにやって来たが,そのときの報告によると,岩山に立て籠もっていた日本兵が途中で戦いを止めて全滅しないで済んだのも,そのよそから来た兵士のおかげであるが,その兵士はそのあとどうなったのか分からない,おそらくあの山の中で死んだものと思われるということであった。水島が使命を果たしたことは分かったが,彼が生きているかもしれないという見込みはなくなり,隊長をはじめ仲間たちはもはやあきらめるほかはなく,気持ちもひき立つことのないまま,捕虜生活を続けていった。
 こんなふうにして捕虜生活もいつか早や半年以上も過ぎて,日本兵捕虜たちはイギリス兵の遺骨が納められることになっている建物を修繕していた折りのこと,休憩時間にその近くの寺の門のところで一人の少年が竪琴を弾いているのを聞いた。その節は「埴生の宿」であったが,隊長によると,その少年の弾き方はまさに水島のものだということであった。隊長は大急ぎでその少年のいるところへ行き,もう一度竪琴を弾くように催促したが,そのとき作業開始の笛が鳴って,作業場に戻らねばならなかった。隊長はその少年が竪琴の弾き方を水島に習ったに違いないなどと思いながら,少しでもそこに希望を見出していこうとしたが,残念ながらその後ずっと少年に会うことはできなかった。
 ようやく納骨堂の工事も終わり,そこにイギリス兵の遺骨が納められることになった日のこと,また不思議なことが起こった。納骨をするための僧の行列の中にあの水島に似たビルマ僧もいたのである。しかもその僧は一人だけ四角の箱を白い布に包んで首から吊していた。その姿は日本人が遺骨を運ぶときの習慣とまったく同じだったのである。このようなことがあって,その夜,仲間たちの間ではまた水島をめぐって議論が交わされたが,ただ隊長は黙って聞いているだけであった。しかし,その翌日から隊長は以前に婆さんから手に入れていたインコに言葉を教え始めた。「おーい,水島,一緒に日本へ帰ろう」という言葉であった。またその後,婆さんがやって来たとき,隊長はインコを肩に止まらせている僧がどういう人なのかについて調べてほしいと頼んだ。数日後,また婆さんがやって来て,報告するところによると,腕にはめている腕輪からして偉い坊様で,首に吊していた箱の中にはビルマの国の名産のルビーを入れていたということであった。その改葬式が幾日も続いたあと,隊長はその納骨堂の後片付けをしている折りにその箱を見つけ,その中に一粒の大きな紅いルビーが入れられているのを目にしたとき,初めて水島の心を悟ったのであった。そのときから隊長の態度は変わり,合唱を始めようとも言い出したのであった。こうしてその隊はまた休み時間に合唱を始めたのであったが,そのうち近くの臥仏像の中からまた水島独特な弾き方の竪琴の響きが聞こえてきたとき,仲間たちはその臥仏像の中にいる人物を確かめようとしたものの,またもや作業開始の合図でそれを確認することはできなかった。
 そうしているうちについにムドンの日本兵捕虜全員に帰還命令が出たことが知らされた。出発は5日後となった。翌朝早くに例の婆さんがやって来ると,仲間たちはインコを婆さんに託して,これをあのビルマ僧に渡してほしいと頼んだ。と同時に,仲間たちはそのビルマ僧が姿を現すのを期待して,声を張り上げて合唱を続けた。しかし,3日経ってもその僧は現れなかった。出発前日の4日目,仲間たちが合唱しているところに,とうとうその僧が姿を見せ,そばにいた少年から竪琴を手に取って,「埴生の宿」の合唱の伴奏をした。その僧はやはり水島上等兵だったのである。ところが,そのあとその僧は「あおげば尊し」を竪琴で弾いてから,一言も言わずにその場を去って行った。一体,なぜなのか。水島にはあの三角山訪問以来,何があったというのであろうか。第二話はこのように終始一貫して仲間たちの立場から書かれていて,水島の心理については何も記されていない。一つの推理小説のような形式で書かれているところにこの第二話の特徴があると言えよう。ようやく水島の内面が明らかにされるのが,次の第三話に収録されている「僧の手紙」によってである。

3.第三話「僧の手紙」
 こうして日本兵捕虜たちが日本に向けて出発する日がやって来た。捕虜たちがこれから先の日本でのことを語り合っているところへ,婆さんがやって来て,インコを彼らに渡した。そのインコは僧が自分の肩にとまらせていたもので,日本兵に渡してほしいと頼まれたものであった。そのときインコは「ああ,やっぱり自分は日本へ帰るわけにはいかない」と叫んだ。さらに婆さんは僧から預かった手紙を渡した。残務を片付けたあと,隊長もそこへやって来たが,隊長はそれを胸にしまって,その場では読まなかった。隊長が皆の前でその手紙を読み聞かせたのは,船がビルマの港を出て,3日経ってのことであった。
 水島上等兵は30枚ほどの紙にこれまでの経過と自分の気持ちを詳しく綴っていた。それによると,三角山には午後4時頃着いて,岩山に立て籠もっている日本兵を説得したものの,彼らはあくまでも戦う姿勢を見せたという。そのうち約束の30分が経過すると,イギリス軍の攻撃が再開された。水島はやがて地面に倒れて,気が遠くなっていったが,まもなく岩山に白旗が立てられて,そこから日本兵が続々と出て来て,イギリス軍の射撃が止んだことまではぼんやりと覚えているという。しかし,水島はその後,這いながら岩山の下にある平らな石の上まで来たとき,その石がぐらりと揺れて,そこから崖に落ちて気を失ってしまったという。
 気がついてみると,水島は手厚い介抱を受けていたが,介抱してくれていたのは野蛮人だったという。作者はここでも童話のような物語を展開させている。すなわち,野蛮人たちは人食い人種であり,水島においしい食べ物をたくさん与えておいて,肉付きがよくなったところで食べてしまおうと考えていたのである。水島はこの危機をどのように切り抜けたのか。水島がこの危機から脱出できたのは,竪琴の曲でビルマの精霊を宥めることができたからであるとされている。すなわち,ビルマではナットという精霊がありとあらゆる自然の中に宿っていると信じられていたが,水島が竪琴を弾くと,その精霊が静まったので,人食い人種たちは水島を縛っていた縄を解いたのである。ところが,今度は野蛮人の酋長が水島に自分の娘の婿になってほしいと言い出した。すると水島は人間の首を一度も切ったことがなかったので,酋長の娘の婿にもならずに済み,釈放されただけではなく,そこの村を出発するときには総出で見送ってくれたという。このあたりはことごとく童話風な展開となっていることが理解できよう。
 その後,水島は皆が待つムドンへ向かおうとしたが,なかなか道は分からず,ただ南へ,南へと向かって進んだ。その途中で水島はいろいろなものに出会うのであるが,ある山峡にさしかかったときには日本兵の死骸が山積みになっている光景にも出くわし,それらを数日がかりで埋葬したあとで,また南へ向かった。小さな森の中の廃屋では病気か負傷で落伍した日本兵の死骸にも出会って,土葬にした。こうして水島は行く先々で日本兵の遺骸を葬りながらムドンへと向かったのであるが,シッタン河のほとりに来て,腐爛した死体の山を目にしたときには,もはや自分の力ではどうにもならないと思った。埋葬することをあきらめてしまった。不運な人たちには気の毒ではあるが,いちいち気にしていてはきりがないと思って,早く本隊に追いつこうと考えたのである。そう考えると,気が楽になり,舟で川を下り,ときには牛車や汽車に乗ったので,まもなくムドンの町に到着し,翌日には仲間たちに会えるというところまでこぎつけた。
 翌朝,水島は僧院の中庭から聞こえてきた竪琴の音で目が覚めた。一人の少年が竪琴の練習をしていて,水島はその少年に竪琴の弾き方を教えることになった。そのときの少年の話によると,ある奥地の岩山に立て籠もって抵抗していた日本兵がこの町の病院に運ばれてきたが,その中の幾人かは死んでしまったので,今日その合葬があり,そこで竪琴を弾くと,お金がもらえるという。まもなくすると,どこか離れたところで賛美歌を合唱している声が聞こえてきたので,水島はそこへ行くと,イギリス人たちが墓のほとりで賛美歌を合唱していた。彼らがそこを立ち去ったあと,水島がその墓に近づくと,その碑面には「日本兵無名戦士の墓」と彫ってあった。水島はしばらく茫然とそこに立ち尽くした。異国人が日本人をこのように温かく葬っているのに,自分はあの河のほとりで日本人を見捨てて来た。なんと恥ずかしいことだろう,と水島は思ったのである。このとき水島はこの国に残って,残骸を葬らねばならないと決意したのである。
 水島はこの町を去る決心をして,足を早めているとき,橋の上で仲間たちに出会ってしまった。身をよけるようにしてすれちがって,そこから立ち去った。さっそくシッタン河のほとりに来て,死骸の埋葬に努めた。そのとき砂の中からルビーが出て来た。それは水島には死んだ人たちの魂のように思われ,イギリス兵の納骨式の際にはそれを白い箱に入れて,自分もその儀式に参加したのだという。その後,そのルビーは臥仏像の中に移して,竪琴を弾いていたところ,仲間たちに聞かれてしまったようである。それから水島はシッタン河の近くの村のお寺に入り,正式の僧侶にもしてもらったという。この国で僧として役目を果たす決意を固めながら,仲間たちをなつかしむ心に耐えないときは竪琴を弾くことにすると述べて,手紙を締め括っている。
 隊長はこの長い水島の手紙を皆に読んで聞かせたが,もはや誰も悲しみはしなかった。水島の本心を聞いて,皆しっかりとした覚悟を決めたようであった。船はゆっくりと日本に向かって進んで行った。皆は前方をじっと見つめていた。

4.市川崑監督の二つの映画『ビルマの竪琴』
 以上のような内容の小説を市川崑監督は2度にわたって映画化した。まず1度目は昭和31年(1956年)の日活映画で,主演は隊長役に三国連太郎,水島役に安井昌二が選ばれている。2度目はそれから約30年後の昭和60年(1985年)の東宝映画で,主演は隊長役を石坂浩二が,水島役を中井貴一が演じている。浜村純(ビルマの村長)と北村谷栄(ビルマのお婆さん)は両方の映画に同じ役で出演している。いずれの作品も脚本は市川崑監督の生涯のパートナーである和田夏十が担当し,原作の童話的な部分はカットされて,物語の展開はほとんど同じであると言ってもよい。ただ1回目は白黒映画であるが,2回目はもちろんカラー作品で,ビルマの赤い土をスクリーンに描き出している。いずれも最後の方で水島が,戦友たちに竪琴で「埴生の宿」に続いて,「あおげば尊し」を弾く場面は圧巻であり,感動せずにはいられない。
 最近のニュースでは人命を軽く見ているとしか思われないような悲惨な出来事がひんぱんに報道されて,悲痛な思いにさせられることが多いが,一人一人の人間が水島上等兵のようなやさしい気持ちを抱けば,世の中はもっと明るくなるのではないだろうか。
 さらにこの二つの映画では,原作と同様,合唱というものが重要な役割を果たしている。音楽には言葉の違いもなく,国境を超えて,国民と国民を結び付ける大きな力がある。音楽には万国共通の「愛の力」があるとでも表現しようか。竪琴(音楽)は世界平和を奏でてくれる大切な楽器であることを,この『ビルマの竪琴』は教えてくれる。是非,この機会に二つの映画を鑑賞するとともに,原作も手に取って読んでみてください。


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