【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第40号
メールマガジン「すだち」第40号本文へ戻る


○「知的感動ライブラリー」(13)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作

さだまさしの小説『眉山』解説

1.小説『眉山』のキッカケとテーマ
 さだまさしはこれまで家族や命をテーマに謳ってきたが,その一環として最初は2編の中編小説を書く予定であったという。娘から見た母親像と,息子から見た父親像という2編を並べようと考えていたが,前者の娘から見た母親像というテーマが先走って,今回の『眉山』が出来上がったという。
 小説の冒頭は主人公河野咲子(こうの さきこ)が2004年9月末に大学講堂で行われた献体者慰霊祭に出席している場面である。映画やテレビドラマのストーリーからすれば,最後の場面であるが,小説はこの最終場面から過去に遡って,娘咲子がその母龍子(たつこ)の秘められた深い愛情に辿り着くまでのことを描いている。

2.母龍子と娘咲子
 東京の旅行代理店で働く咲子は,ある休日,母が検査入院している徳島の病院から,母が看護師とトラブルを起こしたとの電話連絡を受けた。咲子は微かな不安を覚えながら,ここ数年間に母の身に起きたことを思い出して,大きな溜め息をついた。
 ちょうど3年前,67歳の母はパーキンソン病と診断された途端,繁盛していた飲み屋をあっさりとたたんだ。驚いた咲子は3日間の休暇を使って里帰りした。神田鍛冶町生まれのちゃきちゃきの江戸っ子というのが母の自慢であるが,徳島生まれの咲子には何の相談もなく,勝手に何事も決めてしまう母には困り果てていた。しかも今回は介護認定を受けて,ケアマネジャーまで頼んでいると言う。
 そのような母の顔を見ていたら,咲子は高校2年のときに初めて母に食らいついて,父のことを問い詰めた日のことを思い出した。そのとき母は父が大好きで,咲子を産んだことを打ち明けたが,父の詳細については語ってくれなかった。おそらく母は親の反対を押し切って,勘当同然に出奔し,咲子の父になる男にも迷惑をかけまいと,たった一人で徳島へ来て咲子を産み,その娘を育てるために飲み屋を経営してきたのであろう。しかし,なぜ徳島なのか。咲子にはそれが分からないままだった。その後,咲子は大学を出ると,すぐに東京の旅行代理店に勤めてもう10年近くになる。
 それにしても母は,咲子には何の相談もなく,店をあっという間にたたんでしまった上,ケアハウス(つまりは,老人ホーム)に入ることに決めたと言う。大声で笑いながら「祖谷渓(いやだに)温泉ケアハウス,大歩危(おおぼけ)・・・よりによってオオボケっていうのよ」という母の説明を受けたときには,咲子は声もなく母をただ見つめているだけであった。そこへ大谷啓子というケアマネジャーが来て,母の世話はすべて彼女に任せてあるので,娘としては何もしなくてよいと聞かされると,咲子はこのあまりにも身勝手な母の態度に泣き出してしまった。しかし,ケアマネジャーの自らの経験から出た「身内では互いに甘えが出る」という言葉に,咲子は温かみを感じて,母を彼女に任せることにした。そのときから3年が経ってしまったが,梅雨に入ってから体調の不安を訴え,ケアハウスの系列病院に検査入院したところ,そこでトラブルらしきことを起こしたとの連絡である。咲子はとりあえず母の様子を伺うために徳島へ帰ることにした。

3.母を見舞う咲子
 咲子が徳島の病院に母を見舞うと,母は急に老いたように見えた。その夜,咲子は秋田町の小料理屋「甚平」(じんべえ)でケアマネジャーの啓子さんから病院でのトラブルの経過を話してもらった。それによると,母は点滴の際に看護師に向かって,「あなたの仕事は患者を見ていない,お医者を向いています!」と説教しながら,「神田のお龍さん」ぶりを披露したのだという。大声で笑いながら説明してくれる啓子さんに申し訳ないと思いながらも,事情が分かって,咲子はホッとしたが,しかし,翌朝,病院で主治医の島田医師から母が末期ガンであることを聞かされた。母の寿命は,この夏はどうにか越せるということであった。咲子は混乱してどうしてよいか分からず,その夜「甚平」で啓子さんにすべてのことを話すと,泣き出してしまった。

4.献体登録の母
 翌日,点滴が終わったあと,また母が啖呵をきって,今度は若い医師に説教するということが起こった。若い寺澤医師が,数日前母から説教を受けた看護師を慰めようとして,廊下を歩きながら「すぐベットが空くんだから,ほんのちょっとの辛抱だ」と言った言葉が,母の病室にまで聞こえてしまった。例の調子で龍子は寺澤医師に向かって長々と説教したのである。
 数日後,咲子は徳島駅ビルのホテルのティールームで寺澤医師と会った。寺澤医師は先日の失言を詫びるとともに,理事長から厳しく咎められたことを話した。理事長は学生の頃にはよくお龍さんの店で只酒を飲ましてもらったとのことで,徳島のお偉方のほとんどがお世話になった店だともいう。また理事長の話によると,お龍さんの希望で6人部屋にしてあり,さらにお龍さんは「夢草会」に登録しているともいう。「夢草会」は医学生の解剖実習のために献体をしてくれる人を募ったりする大学の後援組織の一つだ,と寺澤医師は説明してくれたが,咲子はまた母が娘に相談することもなく,一人で勝手に献体の決意をしたことに戸惑いを感じるのであった。しかし,その後も咲子はときどき寺澤(そののち母にも詫びを入れていた)と食事をするようにもなり,「献体」についていろいろと教えてもらった。

5.居酒屋のマスターから聞き知る母の姿
 8月に入って,咲子は「甚平」のマスターまっちゃん(松山賢一)から母(龍子ママ)のことをいろいろと聞き知った。まっちゃんはかつて,奥さんを亡くして落ち込んでいる幼なじみの友だちを連れて評判の龍子ママの店へ行ったことがあるという。その晩は当時売れっ子の有名歌手も来ていて,龍子ママはその接待をしていたが,そのうちまっちゃんらにも話しかけてきて,どんな客にも気遣ってくれるママにひどく感激したという。そのあと幼なじみが自分の不幸を話しているうちに泣き出したが,売れっ子歌手が,うるさいと怒鳴ったときだった。龍子ママが売れっ子歌手に向かって,「人の痛みが分からないような歌手の歌は偽物だ」というような調子で説教して,代金を払わなくてもよいからとっとと帰るがよいと言って,そのグループ客たちを追い出してしまったという。このときの龍子ママの一言で幼なじみはすっかり立ち直り,今では複数の寿司店を経営して繁盛しているという。そればかりかまっちゃんもそれ以来,龍子ママの店で働かせてもらい,借金の肩代わりまでしてくれたうえ,今の「甚平」も,以前の店を閉じる前,退職金代わりに龍子ママがその費用を出してくれたものだという話であった。

6.咲子34歳の誕生日
 阿波踊りが近づいてきたある夜,咲子は突然寺澤医師から電話があり,まもなく彼の訪問を受けた。彼はきれいなバラの花を持って来て,「誕生日おめでとう!」と言いながら,咲子に差し出した。翌日の8月4日が咲子の誕生日であることを龍子から聞いたとのことで,しかも翌日は病室で娘の誕生日を祝いたいので,寺澤医師にも顔を出してもらいたいとのことであった。母には咲子と寺澤の距離がだんだんと近づいていることや,咲子の正直な想いまで気づいているのであろう。その夜,咲子は寺澤の求愛を受け入れた。
 翌朝,母の病室に顔を出すなり,咲子は母から祝いの言葉を受けた。咲子が「私はもう34やで」と言うと,母は「そうかい?とうとうダルタニヤンだねえ」と奇妙なことを口にした。わけの分からないような顔をしている咲子に,啓子が笑いながら「『三銃士』の話や。ほら,あの『三銃士』に出てくるダルタニアン・・・」と,母の洒落を説明してくれた。その日,理事長から立派なバラが届けられたのみならず,その階の看護師が全員現れて誕生日を祝ってくれた。これもすべて,母の人徳であり,母はこれまでも誰彼なく親切に誕生日を祝い,記念日を祝ってあげながら生きてきたのだろうと咲子は思った。その日,咲子は母から「これは私の一番好きな人にもらったんだよ」と,一つの指輪を薬指にはめてもらった。母はそのあと横になって大粒の涙を流していた。母の頬の涙を拭ってやりながら,咲子も一緒に泣いた。

7.母の箱と一枚の写真
 その夜,咲子は一人で「甚平」に出かけ,まっちゃんから一つの箱を受け取った。それは龍子ママから頼まれていた箱であった。まっちゃんは龍子ママが生きている間は絶対に渡さないことを誓っていたが,その病状を見るにつけ,ママに叱られてもいいから,一生でただの一度,ママとの約束を破って,咲子に渡す決意をしたようであった。それを受け取って咲子は帰ると,少し迷ったが,包みを開けた。包みは二重になっていて,「まっちゃんの嘘つき!」と書いてあった。母はまっちゃんの気持ちをすでに読んでいたようであった。その二重の包みの間から一枚の写真が出てきた。滝を背景にして,若い男女が写っていた。明らかに一人は母で,もう一人は父で,裏に書かれていた日付からすると,このとき咲子は母のお腹の中にいたことになる。二つ目の包みは開けなかった。
 翌日の晩,咲子は「甚平」で啓子とまっちゃんから,背景の滝は眉山の不動の滝だと教えてもらった。と同時に,母がこの徳島に移り住むことにした気持ちも分かってきた。母は父との思い出の徳島に住み,辛いときや挫けたときには,愛する人に会いに行くような思いでときどきその滝に行っては自分を支えていたのであろう。

8.阿波踊り
 阿波踊りの初日が来た。主治医に特別頼んで,外出の許可を得て,母は着物姿で車椅子に乗って出かけた。寺澤医師も同伴した。演舞場に着くと,観客席の一番下の踊り手に最も近い場所を譲ってもらった。演舞場には次々と連が踊り込んで来る。そのうち例の歌手の連も踊り込んで来て,龍子の姿を認めると,列を離れて近づいて挨拶した。まるで息子のようであった。このような有様を見て,咲子は,この一番華やかな晩に母は皆に別れを告げに来たのだと悟った。咲子が母と一緒に踊ったことのある阿茶平の連もやって来て,今年85歳の夢幸先生の未だによい声を聞くことができた。21時近くになったとき,母がそろそろ帰ろうかと言い出した。咲子が車椅子を押し始めたとき,反対側からもう一台の車椅子が近づいて来た。80歳くらいの男性がすわっていた。顔がはっきりと見て取れたとき,咲子は身体が震えた。写真の男性なのである。父は母に気づいて,先程からじっと母を見つめている。咲子と目が合った瞬間,父の目から涙が流れた。咲子は寺澤のカメラで踊り手を撮るようなふりをして,何度か父へ向けてシャッターを切った。咲子はもうすぐ父と母がすれ違うとき,二人を同じ写真に収めようと思って,踊りの中へ飛び出して行った。二台の車椅子がすれ違う一瞬,咲子は自らの視界の中で初めて並んだ父と母を見た。父はじっと母の顔を見つめていたが,母はただの一度も父へ視線を送らなかった。母は今まで生きてきたとおり,「大好きな人」に一切迷惑をかけずに死のうというのである。演舞場の係員の声で咲子は我に返ったが,ついにシャッターを押すことができなかった。そして母と同じように,咲子も背筋をのばして,父を振り返らなかった。

9.母の愛した人を訪ねる咲子
 その晩以来,母の容態は急激に悪化して,あと1か月あまりの命ということであった。咲子はやっと決心がついて「母の箱」を開けた。遺書が入っていて,自分の死後のことや,これまで出会った人たちへの連絡先など,事務的なことは詳しく書いてあったが,肝心な献体のことは書いていなかった。しかもその手紙は最初の包みと同様,二重封筒になっていて,その小さな封筒を開けると,3行だけの手紙が入っていて,1行目には「咲子の命が本当に本当に私の全てでした」とあり,次の行には「篠崎孝次郎」という名前が,最後の行には東京都文京区の住所が書いてあった。
 咲子はその住所の場所まで行ってみなければならないと思った。母が今日も病室で痛みと闘っているが,いても立ってもいられず,寺澤と一緒に日帰りで出かけた。やっとのことでその住所に辿り着くと,そこには小さな診療所が建っていて,看板には「篠崎医院」と書いてあった。ありとあらゆる母の想いと願いが,咲子の胸の中で一斉に解けた。何もかもすべて分かった。母の献体のことも,母が「大好きな人」をどれほど大好きだったかも。咲子はようやく母の想いに辿り着いたのであった。

10.さだまさし『眉山』の特徴と魅力
 さだまさしの小説は,以上のとおり,末期ガンの母と娘をめぐって展開されるが,余命いくばくもない母親からはいくつかのユーモアをも読み取ることができて,それが母龍子の人徳をも高める結果となっていて,決して悲観的な内容の小説ではない。母龍子は「愛する人」に対してだけではなく,店の客に対しても誰彼となく,細かな心遣いを示すところに心温かいものが感ぜられ,さわやかな感動を呼び起こしてくれる。そこにこの作品の特徴と魅力がある。現代の社会に欠けつつある,何か大切なものを見事に歌い上げた作品である。


メールマガジン「すだち」第40号本文へ戻る

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第40号
〔発行〕国立大学法人 徳島大学附属図書館
 Copyright(C)国立大学法人 徳島大学附属図書館
 本メールマガジンについて、一切の無断転載を禁止します
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━