【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第39号
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○「知的感動ライブラリー」(12)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作

壺井栄の小説『二十四の瞳』解説

1.小説『二十四の瞳』の刊行
 壺井栄の小説『二十四の瞳』は,キリスト教関係の雑誌「ニュー・エイジ」(昭和27年2月号〜11月号)に連載され,昭和27年12月に光文社から単行本として刊行されたものである。連載中はあまり注目されなかったようであるが,単行本となって,さらに昭和29年に木下恵介監督によって映画化されると,これが空前のヒット作となり,原作の小説もさらに多くの読者を獲得した。「教師と生徒の心の触れ合い」をテーマとして,教育の原点を描いている作品でもあり,現在でも多くの読者に支えられて,その新潮文庫版は版を重ねて発行されている。
 
2.岬の分教場に赴任するハイカラ先生
 この作品の舞台は昭和3年から終戦翌年の昭和21年までの小豆島である。昭和3年4月にその岬の分教場に赴任してきた主人公の大石先生は,洋服を着て,自転車にも乗っていたから,当時としてはたいへんモダンな教師であった。そのために最初のうちは村の人々からまぶしがられていた。しかし,大石先生にしてみれば,自転車は自宅から分教場まで片道8キロの道程を通うために5か月月賦で購入したもので,洋服にしても母親のセルの着物を黒く染めて自分で縫ったものであった。それとも知らない村の人々は,お転婆で自転車に乗り,ハイカラぶって洋服を着ていると思ったようである。初めて教壇に立って新1年生の12名の出席を取った際に,それぞれの生徒のあだ名や呼び名,その他もろもろのことを出席簿に記入したことも,たちまちのうちに村中の噂となって広まった。そのような小さな村の分教場へ通う大石先生であったが,生徒たちからはおなご先生,あるいはあだ名の小石先生としてたいへん好かれていた。

3.怪我の大石先生を見舞う二十四の瞳
 そうして月日が経ち,夏休みも終わり,二学期が始まった。その前夜は嵐が吹き荒れて,特に分教場のある岬の村はいつものように相当の被害を受けていた。大石先生は生徒たちと一緒に道路に転がっている石を取り除く作業をしているうちに,一人の生徒がおもしろおかしく話したことで,思わず笑ってしまった。それを目撃したよろず屋のおかみさんが,すごい剣幕を顔に出して走り寄って,「人が災難に遭ったのが,そんなにおかしいんですか」と言って,大石先生を叱り付けた。このことはまた尾ひれがついて村中に噂となって広まるに違いない。大石先生は泣きたい気持ちであったが,生徒たちには快活に「浜で歌でも歌いましょう」と呼びかけて,浜へ出かけた。その浜で大石先生は生徒たちが作った落とし穴に落ちてしまい,足を挫いてしまった。大石先生は動くことができず,やがて知らせを受けて駆けつけた大人たちによって船で町の医者まで運ばれた。
 その後,10日過ぎても,半月経っても,大石先生は分教場に姿を見せなかった。分教場のもう一人の男先生は,音楽の授業がうまくできずに困っていた。生徒たちの方も男先生の音楽の授業はつまらなく,女先生の大石先生に会いたくてたまらない気持ちになった。12名の生徒はついに待ちきれずに,ある日,親たちには内緒で,岬から8キロも離れた大石先生の家を訪れることにした。1年生の足では8キロの道はやはり遠く,途中で泣き出す生徒も出てきた。もはや歩けないほど疲れ,半ばあきらめかかっていたとき,後ろからバスが通りかかり,そのバスの中から病院帰り途中の大石先生が松葉杖をついて降りてきた。生徒たちは救われた気持ちになり,先生の家もすぐそこだと分かると元気が出てきた。生徒たちは先生の家でうどんをご馳走になった。そのあと近所の写真屋に頼んで,皆で一緒に記念写真を撮ってもらった。その日の夕方,生徒たちは船に乗って岬の村に戻った。このことがあってから,大石先生と岬の人々との間にあった垣根は取り除かれて,大石先生のもとには見舞いの米や豆がたくさん届いた。大石先生は生徒たちにも岬の分教場に戻る約束をしていたが,今のままでは自転車にも乗れないので,本村の小学校へ転勤し,生徒たちが5年生になって本校に通うのを待つことにした。
 
4.本校での大石先生と生徒たち
  4年の歳月が流れ,二十四の瞳たちが5年生となって本校に通い始めることになった。その頃,世の中は満州事変・上海事変が起こり,激しく動いていた。そういう中でも子供たちは生き生きと育っていった。その間,大石先生も船乗りの夫を迎えていた。大石先生は岬組の生徒たちを本校で迎えたが,仁太という男子生徒は落第して分教場から本校に進級することができず,また松江という女生徒も始業式の日に1日だけ顔を見せただけであった。松江の母はその日,4人目の子供を出産したまま亡き人となり,その赤子の世話を松江がしなければならなかったのである。大石先生は1か月ほどしてから,松江の欲しがっていたユリの花の絵のついた弁当箱をみやげに松江の家を訪ねたが,家庭の事情は厳しかった。その後,早産で生まれたその赤子は亡くなってしまい,松江も親戚の人に連れられて大阪へ行ってしまったということであった。
 やがて生徒たちが6年生になると,秋には修学旅行が行われた。時節柄,いつもの伊勢参りを止めて,金比羅参りということになり,しかも3回分の弁当持参で日帰りの旅行であった。最初はさまざまな事情で参加しないつもりの者が多かったが,最終的には早苗という女生徒以外は皆参加した。ただそのとき大石先生は子供を身ごもっていて,体調が優れなかった。なんとか旅行の日程を終えて高松の町で船着き場に向かう頃には,大石先生はかなり疲れていて,青い顔をしていた。熱いうどんでも食べると元気になるかもしれないと思って,生徒たちを船着き場まで引率したのち,同僚の田村先生とうどん屋を探しているうちに,ある店の中から聞き慣れた女の声が聞こえてきた。松江であった。彼女は大阪へ行ったと聞いていたが,親戚のこの店で働いていたようである。そのときには時間がなくて,十分話をすることができず,その後,大石先生はその店あてに手紙を書いたが,何の連絡もなかった。手紙が松江の手に届いたのかも分からなかった。
 大石先生はその修学旅行で体調をくずしてしまい,20日あまりも学校を休んでしまった。休養しているところへ早苗という生徒から手紙が届き,大石先生は一人一人と今後の進路のことを話し合ったりしたことを回想するのであった。女の子たちの進路はさまざまであったが,男の子は半分以上が軍人を志望しているようであった。それを生徒の口から聞いたとき,大石先生は,時代が時代で迂闊に物も言えない窮屈さを感じて,生徒たちの顔を見つめていただけであった。このようなことを回想して,大石先生は教師の職から退くことを考え始めていた。
 やがて体調もよくなり,再び学校へ通うことになったが,新学期の蓋を開けると,大石先生は送り出される人であった。全校生徒の前で退任の挨拶を済ませたあと,岬組の生徒たちのうちの数人と出会い,以前一緒に撮った写真を皆に渡してくれるよう託して,学校を去って行った。翌日,大事なものを抜き取られた寂しさにがっかりしているところに,前日会えずじまいだった竹一と磯吉が挨拶に来た。竹一は中学に進むことになり,磯吉は質屋の番頭になるために大阪へ奉公に行くことになったという。大石先生は再会を期待して,二人をバス停まで見送った。大石先生にとっては二十四の瞳は最初の生徒であり,また最後の生徒でもあったのである。
 
5.出征の教え子たち
  時は流れ,8年の歳月が過ぎ去った。その間,日華事変も起こり,世の中はいっそう激しく変わっていた。大石先生はその後,船乗りの妻として過ごし,3人の子供の母となっていた。その長男のランドセルを買うためにK町に出かけた際,大石先生は父の友人だという年寄りとバス停で知り合った。その年寄りと話しているうちに反対方面行きのバスが近づいて来て,バス停で止まり,その満員のバスの中から多くの若者が降りて来た。この公会堂で徴兵検査が行われることになっていたのである。その中には,仁太,磯吉,竹一,正,吉次などの岬の教え子もいて再会を果たした。急に昔の先生ぶりに戻り,うれしく思ったが,帰りのバスの中では裸で検査官の前に立つ教え子たちを思い浮かべて,複雑な思いであった。そのうち女の教え子たちのその後のことも一つ一つ思い出されてきた。皆,それぞれに苦労しているようであった。もろもろの思い出が胸にあふれ,大石先生は一本松を知らせる車掌の声に思わず,座席を立ち上がって,バスを降りて,長男の出迎えを受けた。その後,男の教え子たちは大石先生から例の写真の複製を餞別にもらって出征した。

6.再び岬の分教場に戻る大石先生
  やがて戦争が終わり,その翌年の4月から大石先生は再び岬の分教場の教壇に立つこととなった。今回は臨時教師という立場ではあったが,大石先生が再び分教場に戻ることができたのも,今では本村の母校で教師を務めている教え子早苗の尽力によるものであった。終戦直後のことで自転車も手に入らずに,大石先生は長男の大吉が漕ぐ伝馬船に乗って岬の分教場に通うことになった。その初日,岬に向かう船の中で大石先生は悪夢のように過ぎ去った5年間を回想するが,今急に老けて見えるのもまさにその間の苦労のためであった。船乗りの夫は戦死し,母は防空演習で転び,それがもとで寝込んで,栄養のある食べ物もなくて最後には病死してしまった。戦争が終わっても,食べ物がないのは同じで,娘の幼い八津はまだ青いカキの実を食べて,急性腸カタルで死んでしまった。娘も戦争の犠牲者の一人である。このような悲しい過去を思い出しながらも,岬の分教場に向かう大石先生の目は異様に輝いていた。岬への再度の赴任は,大石先生にしてみれば,願ったり,叶ったりのことであった。さっそく始業式が済むと,18年ぶりに同じ教室に入って出席を取った。10人の新入生の中には教え子の子供も何人かいて,18年前のことがなつかしく思い出されて,つい泣き出してしまった。するとまたたちまちのうちにあだ名がついてしまった。今度のあだ名は「なきみそ先生」であった。
 こうして長男の漕ぐ船で岬の分教場に通い始めて3日目には,浜辺で迎えの船を待っていると,教え子のミサ子がやって来て,元教え子たちの近況を聞いて,また涙ぐむのであった。すでに耳にしていたこともあったが,とりわけ大石先生の胸を新たに痛ませたのは,富士子のその後が不明で,肺病にかかって戻って来たコトエは亡くなってしまい,磯吉は戦地から戻って来たものの失明していること,さらには仁太,竹一そして正の3人は戦死したということであった。そのあとミサ子の案内で,亡くなった教え子たちの墓参りをして,さらに彼らの境遇を思って涙を新たにするのであった。しかし,ミサ子が早苗と話し合った結果,近いうちに大石先生の歓迎会を計画しているという。それがその日の唯一のうれしい知らせであった。
 その歓迎会は5月のある晴れた日に行われた。会場は教え子の香川マスノが経営している料理屋で,しかも教え子たちが食べ物を持ち寄るという,質素ながら,心温まる歓迎会であった。そこに集まったのは,香川マスノはもちろんのこと,世話人のミサ子と早苗のほかに,わざわざ大阪から顔を出してくれた川本松江,そして磯吉と吉次の6人であった。18年前の半分しかいなかったが,そこには例の写真があった。失明の磯吉がそれを手に取って,「それでもな,この写真は見えるんじゃ。な,ほら,真ん中のこれが先生じゃろ。その前には竹一と仁太が並んどる。先生の右のこれがマアちゃんで,こっちが富士子じゃ。マッちゃんが左の小指を一本握り残して,手を組んどる。それから−−」と言いながら,級友の一人一人を人差し指で押さえて見せるのだったが,少しずつずれたところを指している。この小説のクライマックスと呼ぶべき場面である。悲惨な戦争に圧し潰されながらも,級友たちとの思い出によってこれからの人生を懸命に生き抜こうとしている姿には感動せずにはいられない。教師と生徒たちの心の触れ合いを描いただけではなく,級友間の心の絆をも見事に謳い上げた感動作である。

7.木下恵介監督の映画
  木下恵介監督はこの小説を昭和29年に映画化したが,映画の展開も,多少の相違はあれ,大筋においてはほぼ原作と同じである。昭和29年当時の小豆島の風景がスクリーンいっぱいに映し出され,また生徒たちの歌う唱歌も原作以上に取り入れられていて,見事な仕上がりとなっている。大石先生が分教場で初めて出席を取る場面や,生徒たちが怪我の大石先生を見舞うために8キロの道を歩く場面,また修学旅行の場面,さらには最後の歓迎会の場面などは詳しく展開されていて,いずれも感動的である。特に失明の磯吉が写真を指で押さえる最終場面では涙を流さずにはいられない。映画を観て感動したあとで,この小説を読むと感動もまた一層増してきます。逆に小説で感動したあと,映画を鑑賞すると,さらに感動が大きくなります。是非,この機会に小説を読むと同時に,映画を併せてご鑑賞ください。


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